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『日本書紀』の神功紀には、葛城の襲津彦が出てくる話がもうひとつ、『百済記』から引用されている。
中央公論社『日本書紀』巻第九 気長足姫尊 神功皇后 より (気長足姫の)六十二年(西暦382年)に、新羅が朝貢してこなかった。 その年に、襲津彦を遣わして新羅を討たしめた。 ■沙至比跪と襲津彦: 『百済記』に見える沙至比跪と、『日本書紀』の襲津彦は同一人物と思われる。海外の文献にも記されていることから、この人物がその頃実在した可能性は高い。(注1)
■襲津彦の運命: 沙至比跪は新羅へ派遣されたが、新羅を倒すかわりに加羅を滅ぼしたとある。また後略の一説にはその後日本へ帰還し、石穴に入って死んだと記されている。
■当時の大和朝廷: 神功紀によると、気長足姫は六十九年(西暦389年)に磐余の稚桜宮で亡くなり〔年齢一百歳〕、狭城の盾列陵に葬ったとある。この時点ではおそらくまだ朝廷は河内へは移っておらず、磐余の朝廷から、新羅征討軍が朝鮮半島へ派遣されたのであろう。
なお神功紀四十七年条に『千熊長彦(ちくまなかひこ)を新羅に遣わし』たとあり、四十九年条には『荒田別(あらたわけ)と鹿我別(かがわけ)を将軍とした』とあり、新羅へ派遣されたのは襲津彦に限らない。
■襲津彦の子孫: 襲津彦の娘磐之媛が仁徳(讃?)に嫁ぎ履中(讃?)・反正(珍)・允恭(済)を産んだと伝わるので、襲津彦は倭の五王のうち三人のおじいちゃんということになる。
とすれば襲津彦が宮山古墳ほど立派な古墳に葬られるというのももっともなことだ。(注2)
(注1) 『百済記』など朝鮮の文献
『百済記』は百済三書のうちの一書であるが、他の二書と同様に実在しておらず、『日本書紀』での引用のみから、その存在を知ることができる。引用文中で「倭国」のことを「貴国」と記すなど、日本書紀編集時に改竄された可能性はある。
推古紀の二十八年(西暦620年)に、『この歳、皇太子と嶋大臣(蘇我馬子)とは、協議して、天皇記および国記、臣連伴造国造百八十部ならびに公民などの本記を記録した』 とある。また皇極紀の四年(西暦645年)に、『(四年六月の丁酉(34)の朔)己酉(46)に、蘇我臣蝦夷らは、誅殺されるにあたって、天皇記・国記、および珍宝をことごとく焼いた。船史恵尺(ふねのふびとえさか)は、すばやく焼かれようとする国記を取りだして中大兄にたてまつった。』 とある。これらの国記の中に、『百済記』が含まれていたのではないだろうか。その後西暦663年に百済は滅亡する。『百済記』は、百済から倭国へ帰化した貴族や僧・学者によって、倭国で編纂された書物なのかもしれない。
一方、12世紀に編纂された朝鮮の『三国史記』には、納祇王(ヌルジワン)の時代(417-457)に、堤上が倭軍に捕らわれていた未斯欣(みしきん=みしこちほっかん?)を逃がした結果、処刑された話があり、『日本書紀』神功五年の話と似ている。
また13世紀に記された朝鮮の『三国遺事』には、同じ時代に高句麗の人質となっていた新羅王の弟宝海と倭国に人質となっていた王子美海を、金堤上が自分を犠牲にして逃がしたことが美談として伝えられており、同様の出来事でも新羅と倭国とでは全くとらえ方が違っていておもしろい。
(注2) 関連する人物の古墳の場所と大きさ)
宮山古墳(御所市室):238m、4世紀末〜5世紀前半
神功皇后稜(奈良市、佐紀盾列、五社神古墳):273m、4世紀末〜五世紀初
磐之媛陵(奈良市、佐紀盾列、ヒシアゲ古墳):219m、5世紀中葉〜後半
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2012年06月09日
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