かさぶたろぐ

旅行反芻的部落格。貝類很好。

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機織りの埴輪

 
しもつけ風土記の丘資料館で特別展として展示されている、甲塚(かぶとづか)の埴輪です。
 
直径約80mのホタテ貝型古墳が発掘されたときに、女性7体・男性7体の立った埴輪が並んでいました。
 
イメージ 1
人物埴輪1(女性)と人物埴輪15(男性)
 
この二人は埴輪列の左右両端の人物です。帽子をかぶって、首飾りをつけて、二人とも微笑んでいます。
 
この古墳の埴輪で特筆すべき点は、左側に女性7体、右側に男性7体が並んでいたのですが、女性の6体目と7体目の間に、機織りをしている埴輪が2組並べられていたことです。
 
イメージ 2
 
機織りをしている女性が、カラフルな水玉模様の服を着ているのは、面白いですね。
実際、埴輪には水玉が描かれています。
 
この機織りは、機台(はただい)を持つタイプで、『地機(じばた)』と呼ばれているタイプです。
これと同様の機織りが、何と現代まで引き継がれているのです。
 
  
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結城紬(ゆうきつむぎ)。現在も伝わる地機(じばた)による機織り。
 
4分20秒から機織りの様子があります。 ぜひご覧ください。
 
 
 
小山市特産の『結城紬』のうち、このような『地機』で紡いだものが、本物の結城紬と認められるようです。この地方では古くから養蚕が行われていたことが知られています。
 
 
 
日本への養蚕や織物の伝来については、『日本書紀』に以下のように記されています。
 
 大泊瀬幼武(おおはつせ わかたける)天皇の時代
『雄略十四年(西暦470年)の春正月の丙寅(ヒノエトラ、3日)の朔戊寅(ツチノエトラ15日)に、身狭村主青(ムサノスクリアオ)らが、呉国の使者とともに、呉(クレ;中国の江南の地)の献上した手末の才伎である漢織(アヤハトリ)・呉織(クレハトリ)および衣縫(キヌヌイ)の兄媛・弟媛らを率いて、住吉津(スミノエのツ)に碇泊した。
 この月に、呉の客の道を作って、磯歯津路(シハツのミチ)に通じた。これを呉坂(クレサカ)と名づけた。
 三月に、臣連に命じて、呉の使者を迎えさせた。そして呉人を檜隈野(ヒノクマノ)に置いた。そこで呉原(明日香村栗原)と名づけた。衣縫の兄媛を、大三輪神に奉り、弟媛を漢衣縫部とした。漢織・呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部・伊勢衣縫らの先祖である。』
                                                                     
                                                                         中央公論社『日本書紀』(1983) p.282
 
 
秦の民と漢部 〜養蚕の始まり〜
『(雄略)十五年に、秦(ハダ)の民を臣連らに分散して、それぞれ思うままに駆使させ、秦造(ハダノミヤツコ)に委ねしめなかった。そこで、秦造酒(サケ)は、それをたいへん気に病んで、天皇にお仕えしていた。天皇は、秦造酒を寵愛され、詔して秦の民を集めて、秦酒公に賜った。そこで公は、百八十種勝(モモアマリヤソのスグリ)を率いて、庸調の絹・縑(カトリ;上質の絹)を奉献して、朝廷に充積した。よって姓を賜って禹豆麻佐(ウツマサ)というのである。
十六年の秋七月に、詔して、桑の栽培に適した国県に桑を植えさせた。また秦の民を割り当て移して、庸調を献じさせた。』
                                                         中央公論社『日本書紀』(1983) p.284
 
 
 
下野に戻りまして、この機織りの埴輪が男女の列のほぼ中央部に2体も置かれていたことから、この古墳の主は機織りと強い結びつきがあったと考えられます。
 
江南の呉国から招聘された機織りは『媛(ひめ)』と呼ばれているように女性であり、下野で機織りをしていたのも女性でした。
絹織物は当時の物々交換品の中では最も高価なものであったはずで、それを売ることによってこの地方は栄え、機織りをする女性も一族から尊敬されていたはずです。
 
 
この日の日高先生による講演では、当時機織りをしていたのが甲塚古墳の主であったと推論されていました。 ということは、並んだ埴輪の中の立っている女性や、機織りをしている女性は、この古墳の主を表したものかもしれないということです。
 
たくさんの埴輪の中に古墳の埋葬者がいる、というのはとても楽しい発見ですね!
 
関西地方に伝わった天皇制や歴史を記すという文化は、中国や朝鮮半島から伝わった男性中心の文化ですが、当時の関東地方では男女平等の生活をしていたようです。
 
 
(参考書)
『しもつけの"埴輪群像"』 しもつけ風土記の丘資料館 (2014) p.16~26, 60~61
 
 
 
 

しもつけ 馬の埴輪

 
  しもつけ風土記の丘資料館の埴輪の馬を見てみましょう。
 
この秋、特別展として栃木県下野市の甲塚(かぶとづか)から出土した多数の埴輪が展示されています。
 
イメージ 1
 
 
甲塚の発掘では、人型埴輪の列の後方(左側)に4頭の馬が並んでいたそうです。
4頭は馬具飾りの程度がまちまちで、先頭の馬埴輪1 が、最も豪華な装飾です。
胸・肩・尻にぶらさげられている『馬鐸(ばたく)』というものを、初めて見ました。
装飾が豪華なことから、古墳の主が乗っていた馬と考えられます。
 
出土した埴輪の表面を詳しく調べると、もともと塗られていた色が分かるそうです。
この馬は白馬だったとのことです。
復元模型では、とても美しい姿が再現されていますね。
 
この埴輪馬1 のもうひとつの特徴は、左上の写真でお分かりのように、鞍の右側に、横向きに両足をそろえて座れるように足置きの板が取り付けられている点です。またがって座るのではなく、横向きに座るというのは、女性が乗馬するためのものだったのでしょうか。この馬が古墳の主のものだとすると、古墳の主は女性だったのではないかと、当日の講演会で日高先生は推定されていました。
 
 
先頭の馬に続いて、下のような馬の埴輪が並んでいました。
 
イメージ 2
 
 
馬の列の後ろへ行くに従って飾りがシンプルになります。馬4 には鞍が無く、裸馬に乗馬していたのか、あるいはまだ仔馬で、乗馬用とされていなかったのかもしれません。
 
これら馬の表情は、前回紹介した飯塚古墳の男女の埴輪もそうですが、楽しげで優しい顔をしています。当時の関東の生活は、なかなか豊かなものだったのでしょう。
 
 
馬具については、多くのwebサイトで説明されていますが、ここでは東京国立博物館の記事を紹介させていただきます。
 
イメージ 3
 
 
左図の馬は熊谷市上中條日向島から出土したそうです。
馬の飾りの名前が説明されています。 
これら埴輪に描かれている飾りの通りに、実際に金属製の実物が出土しているそうで、驚きです。
上右は群馬県大泉町から出土とあります。
甲塚の埴輪馬1 のお尻には、杏葉(ぎょうよう)の代わりに馬鐸が付いていました。
耳も尻尾もピンと立っているのが、この頃の埴輪馬の特徴でしょうか。
 
左上の熊谷の馬はおっとりした表情ですが、行田市の酒巻14号墳から出た馬は、もっと精悍な感じで、騎馬兵が乗っていた馬かもしれません。
 
 
大泊瀬幼武の天皇の時代に、はにわ馬の物語があります。
 
月夜の埴輪馬

雄略九年、秋七月の壬辰(みずのえたつ、29日)の朔に、河内国より言上する者があって、
「飛鳥戸郡(あすかべのこおり)の人である田辺史伯孫(たなべのふびと はくそん)の娘は、古市郡の人である書首加竜(ふみのおびと かりゅう)の妻です。 伯孫は、その娘が子をお産したと聞いて、婿の家に行って祝賀し、月夜に帰途についた。 蓬蔂(いちびこ)の丘の誉田陵(応神天皇稜)のもとで、赤馬に乗った人に出会った。 その馬はそのとき、蛇のようにうねりながら行き、竜のごとくに首をもたげた。 急に高く跳びあがって、雁のように驚いた。 その妖しい体が峰のようになり、あやしい形相がきわだってあらわれた。 伯孫は、近づいて見て、心の中で手に入れたいと思った。 すなわち、乗っていた葦毛の馬に鞭うって、頭をそろえて、轡(くつわ)を並べた。 そうすると、赤馬がおどりあがるさまは、塵埃のようにさっとあがっては消え、走りまわる速さは、滅没するよりももっと速かった。 一方、葦毛の馬は遅れてしまって、遅くて追いつくことができなかった。 その速く走る馬に乗っていた人は、伯孫の願いを知って、とまって馬を交換し、別れの言葉をのべて去って行った。 伯孫は、速く走る馬を得て大変よろこび、走らせて厩にいれた。 鞍(くら)をおろし馬に秣(まぐさ)をあたえて眠った。 その翌朝、赤馬は、土馬(はにま、埴輪の馬)に変わっていた。 伯孫はあやしんで、誉田陵にとってかえして探してみたら、葦毛の馬が、土馬の中にいたのを見つけた。 取りかえて、かわりに土馬を置いた」
と言った。 
                                                                「日本書紀」 中央公論社 (1983) p.279 より
(注) 
史(ふびと)や書首(ふみのおびと)は、書物を書き記す職業で、当時すでに漢字を使えたこと、名前が伯孫や加竜であることから、中国から渡来した人であったと考えられます。
 
 
甲塚にもどりますと、この古墳の主が女性だったことをうかがわせる埴輪が他にも出ていますので、それは次回紹介したいと思います。
 
 
 (参考書)
『しもつけの"埴輪群像"』 栃木県立しもつけ風土記の丘資料館 (2014), p.23, 61
 
 

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