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しもつけ風土記の丘資料館で特別展として展示されている、甲塚(かぶとづか)の埴輪です。
直径約80mのホタテ貝型古墳が発掘されたときに、女性7体・男性7体の立った埴輪が並んでいました。
人物埴輪1(女性)と人物埴輪15(男性)
この二人は埴輪列の左右両端の人物です。帽子をかぶって、首飾りをつけて、二人とも微笑んでいます。
この古墳の埴輪で特筆すべき点は、左側に女性7体、右側に男性7体が並んでいたのですが、女性の6体目と7体目の間に、機織りをしている埴輪が2組並べられていたことです。
機織りをしている女性が、カラフルな水玉模様の服を着ているのは、面白いですね。
実際、埴輪には水玉が描かれています。
この機織りは、機台(はただい)を持つタイプで、『地機(じばた)』と呼ばれているタイプです。
これと同様の機織りが、何と現代まで引き継がれているのです。
結城紬(ゆうきつむぎ)。現在も伝わる地機(じばた)による機織り。
4分20秒から機織りの様子があります。 ぜひご覧ください。
小山市特産の『結城紬』のうち、このような『地機』で紡いだものが、本物の結城紬と認められるようです。この地方では古くから養蚕が行われていたことが知られています。
日本への養蚕や織物の伝来については、『日本書紀』に以下のように記されています。
大泊瀬幼武(おおはつせ わかたける)天皇の時代
下野に戻りまして、この機織りの埴輪が男女の列のほぼ中央部に2体も置かれていたことから、この古墳の主は機織りと強い結びつきがあったと考えられます。
江南の呉国から招聘された機織りは『媛(ひめ)』と呼ばれているように女性であり、下野で機織りをしていたのも女性でした。
絹織物は当時の物々交換品の中では最も高価なものであったはずで、それを売ることによってこの地方は栄え、機織りをする女性も一族から尊敬されていたはずです。
この日の日高先生による講演では、当時機織りをしていたのが甲塚古墳の主であったと推論されていました。 ということは、並んだ埴輪の中の立っている女性や、機織りをしている女性は、この古墳の主を表したものかもしれないということです。
たくさんの埴輪の中に古墳の埋葬者がいる、というのはとても楽しい発見ですね!
関西地方に伝わった天皇制や歴史を記すという文化は、中国や朝鮮半島から伝わった男性中心の文化ですが、当時の関東地方では男女平等の生活をしていたようです。
(参考書)
『しもつけの"埴輪群像"』 しもつけ風土記の丘資料館 (2014) p.16~26, 60~61
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2014年10月18日
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しもつけ風土記の丘資料館の埴輪の馬を見てみましょう。
この秋、特別展として栃木県下野市の甲塚(かぶとづか)から出土した多数の埴輪が展示されています。
甲塚の発掘では、人型埴輪の列の後方(左側)に4頭の馬が並んでいたそうです。
4頭は馬具飾りの程度がまちまちで、先頭の馬埴輪1 が、最も豪華な装飾です。
胸・肩・尻にぶらさげられている『馬鐸(ばたく)』というものを、初めて見ました。
装飾が豪華なことから、古墳の主が乗っていた馬と考えられます。
出土した埴輪の表面を詳しく調べると、もともと塗られていた色が分かるそうです。
この馬は白馬だったとのことです。
復元模型では、とても美しい姿が再現されていますね。
この埴輪馬1 のもうひとつの特徴は、左上の写真でお分かりのように、鞍の右側に、横向きに両足をそろえて座れるように足置きの板が取り付けられている点です。またがって座るのではなく、横向きに座るというのは、女性が乗馬するためのものだったのでしょうか。この馬が古墳の主のものだとすると、古墳の主は女性だったのではないかと、当日の講演会で日高先生は推定されていました。
先頭の馬に続いて、下のような馬の埴輪が並んでいました。
馬の列の後ろへ行くに従って飾りがシンプルになります。馬4 には鞍が無く、裸馬に乗馬していたのか、あるいはまだ仔馬で、乗馬用とされていなかったのかもしれません。
これら馬の表情は、前回紹介した飯塚古墳の男女の埴輪もそうですが、楽しげで優しい顔をしています。当時の関東の生活は、なかなか豊かなものだったのでしょう。
馬具については、多くのwebサイトで説明されていますが、ここでは東京国立博物館の記事を紹介させていただきます。
左図の馬は熊谷市上中條日向島から出土したそうです。
馬の飾りの名前が説明されています。
これら埴輪に描かれている飾りの通りに、実際に金属製の実物が出土しているそうで、驚きです。
上右は群馬県大泉町から出土とあります。
甲塚の埴輪馬1 のお尻には、杏葉(ぎょうよう)の代わりに馬鐸が付いていました。
耳も尻尾もピンと立っているのが、この頃の埴輪馬の特徴でしょうか。
左上の熊谷の馬はおっとりした表情ですが、行田市の酒巻14号墳から出た馬は、もっと精悍な感じで、騎馬兵が乗っていた馬かもしれません。
大泊瀬幼武の天皇の時代に、はにわ馬の物語があります。
『月夜の埴輪馬』(注) 史(ふびと)や書首(ふみのおびと)は、書物を書き記す職業で、当時すでに漢字を使えたこと、名前が伯孫や加竜であることから、中国から渡来した人であったと考えられます。 甲塚にもどりますと、この古墳の主が女性だったことをうかがわせる埴輪が他にも出ていますので、それは次回紹介したいと思います。
(参考書)
『しもつけの"埴輪群像"』 栃木県立しもつけ風土記の丘資料館 (2014), p.23, 61
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