かさぶたろぐ

旅行反芻的部落格。貝類很好。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

有間皇子と白浜温泉♨



飛鳥の時代、皇族が保養のため紀の国の白浜(牟婁:むろ)の温泉を訪れていた。


イメージ 2


乙巳(いっし)の変 の後、百済と高麗が唐と新羅の連合軍によってたてつづけに滅ぼされる前の激動の時代のお話。


(斉明)三年(657)九月に、有間皇子(孝徳天皇の子)は悪がしこい性格で、狂人をよそおった、云々。

牟婁温湯(むろのゆ 和歌山県西牟婁郡白浜町の湯崎温泉)に行って病気療養のまねをし、帰って来て、その国の状態を賛美して、「わずかにかの地を見ただけで、病は自然に治ってしまいました」云々と言った。天皇(斉明)はこれを聞いてお喜びになり、行ってみたいとお思いになられた。

 四年(658)五月に、皇孫建王(たけるのみこ 天皇の孫で、中大兄皇子には数少ない男子の一人)が八歳で薨じられた。今城谷(奈良県の曾我川上流の地か)の辺りに殯宮を造って納めた。天皇は、皇孫が生まれつき従順で節操があることから、大切になさっていた。群臣に詔して、「私の死後、必ず我が陵に合葬せよ」と仰せられた。そうして歌を詠まれて、

 今城なる 小丘の上に 雲だにも 著しく(しるしく)立たば 何か嘆かむ
 ―今城の小丘の上に、せめて雲だけでもはっきりと立ったなら、どうしてこれほど嘆こうか

 射ゆ鹿猪(しし)を 認ぐ川上(つなぐかわへ)の 若草の 若くありきと 吾が思はなくに
 ―射られた鹿猪を追って、足跡をたどる、その川辺にはえる若草のように、若く幼かったとは私は思わないのに

 飛鳥川 漲らひつつ 行く水の 間も無くも 思ほゆるかも
 ―飛鳥川が溢れるように盛り上がって流れて行くその水のように、絶え間なく思われてならないことだ

と仰せられた。天皇は折々にこれらを口ずさんでお泣きになった。

 冬十月の十五日に、天皇は紀温湯に行幸された。天皇は皇孫建王を思い出し、傷心悲泣して口ずさまれて、
 山越えて 海渡るとも おもしろき 今城の内は 忘らゆましじ
 ―山を越えて海を渡っても、楽しい今城のことは、決して忘れられないであろう

 水門の(みなとの) 潮のくだり 海くだり 後ろも暗に 置きてか行かむ
 ―川口から潮流に乗って海路を下って行く、後のことが気がかりで暗い気持ちのまま、残し置いて下って行くのであろうか

 愛(うつく)しき 吾が若き子を 置きてか行かむ
 ―いとしい私の幼子を、後に残して行くのであろうか

と仰せられた。そして秦大蔵造万里(はだのおおくらのみやつこまろ)に詔して、「この歌を後世に伝えて、決して忘れさせてはならない」と仰せられた


(1) 「日本書紀 下 風土記小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守, 2007, 日本の古典をよむ3, 小学館


 上の歌から、帝の一行は陸路ではなく海路で牟婁へむかったことがわかる。



イメージ 1

 港がある田辺から本宮へ至る山道は、熊野古道のうちの中辺路として平安時代には通じていた。
 
 狂人のふりをしていた有間の皇子は、このあと天皇への謀反の濡れ衣を着せられ蘇我赤兄に殺される(658)。墓石が海南市にある。
 有間皇子の歌:
磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む(万葉2-141)

家にあれば 笥(け)に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る(万葉2-142)
出典(2) Wikipedia 有馬皇子


     660年、百済は唐と新羅の挟み撃ちにあい滅ぼされる。斉明天皇は百済を救おうとして出兵した九州で亡くなる(661)。御陵は現在では明日香の 牽牛子塚 と考えられており、娘(間人皇女)と一緒に葬られた双穴の石室のそばには愛した孫の建王ではなく孫の大田皇女の小さい石室がある。


     民を苦しめた石槨の役は今後行わないと天智天皇は詔した(6)



     明治時代に菌類の研究をした紀州の人、南方熊楠も温泉をこよなく愛した(7)


     


     

    《斉明天皇三年(六五七)九月》
    ◆九月。有間皇子性黠。陽狂、云々。徃牟婁温湯、偽療病。来、讃国体勢曰。纔観彼地。病自觸消、云云。天皇聞悦、思欲徃観。
    《斉明天皇四年(六五八)五月》
    ◆五月。皇孫建王年八歳薨。今城谷上起殯而収。天皇本以皇孫有順、而器重之。故不忍哀傷慟極甚。詔群臣曰。万歳千秋之後、要合葬於朕陵。輙作歌曰。
    @伊磨紀那屡。乎武例我禹杯爾。倶謨娜尼母。旨屡倶之多多婆。那爾柯那皚柯武。 
    いまきなる をむれがうへに くもだにも しるくしたたば なにかなげかむ (K116)〈其一。〉
    @伊喩之々乎。都那遇舸播杯能。倭柯矩娑能。倭柯倶阿利岐騰。阿我謨婆儺倶爾。 
    いゆししを つなぐかはへの わかくさの わかくありきと あがもはなくに (K117)〈其二。〉
    @阿須箇我播。濔儺蟻羅毘都都。喩矩瀰都能。阿比娜謨儺倶母。於母保喩屡柯母。 
    あすかがは みなぎらひつつ ゆくみづの あひだもなくも おもほゆるかも (K118)〈其三。〉
    天皇時々唱而悲哭。

    ※ハヒフヘホで読むところにパピプペポ・バビブベボの漢字が当てられている。
     
    《斉明天皇四年(六五八)十月甲子【十五】》
    ◆冬十月庚戌朔甲子。幸紀温湯。天皇憶皇孫建王。愴爾悲泣。乃口号曰。
    @耶麻古曳底。于瀰倭施留騰母。於母之楼枳。伊麻紀能禹知播。倭須羅庾麻旨珥 
    やまこえて うみわたるとも おもしろき いまきのうちは わすらゆましじ (K119)〈其一。〉
    @瀰儺度能。于之褒能矩娜利。于那倶娜梨。于之廬母倶例尼。飫岐底舸庾舸武 
    みなとの うしほのくだり うなくだり うしろもくれに おきてかゆかむ (K120)〈其二。〉
    @于都倶之枳。阿餓倭柯枳古弘。飯岐底舸庾舸武。 
    うつくしき あがわかきこを おきてかゆかむ (K121)〈其三。〉
    詔秦大蔵造万里曰。傅斯歌、勿令忘於世。


     

    (6) web日本書紀 http://www.j-texts.com/jodai/shoki27.html

    《天智天皇六年(六六七)二月戊午【二十七】》
    ◆六年春二月壬辰朔戊午。合葬天豊財重日足姫天皇与間人皇女於小市岡上陵。
    是日。以皇孫大田皇女葬於陵前之墓。高麗。百済。新羅皆奉哀於御路。
    皇太子謂群臣曰。我奉皇太后天皇之所勅。憂恤万民之故。不起石槨之役。所冀永代以為鏡誡焉。

     
    (7) 「南方熊楠」別冊太陽 日本のこころ―192,中瀬喜陽監修, 2012, p.67, 安田忠典

    2017. 9. 9 追記
    のちの世、文武帝の大宝元年 (701) に紀伊国への行幸のときに詠まれた歌
    三名部の浦 潮な満ちそね鹿島なる 釣する海人を見て帰り来む (万葉集 1669)

    軽皇子(文武)の夫人は紀州日高出身の藤原宮子。ふたりの子は首(おびと=聖武天皇)、首の后は安宿姫(あすかべひめ=光明子)。首皇子は母が平民の出ということでなかなか即位できなかった。その時期に中継ぎで皇位についたのが氷高皇女(ひたか=元正天皇)。軽皇子を即位させるために滅ぼされた長屋王の父は高市皇子、母は御名部皇女(みなべ)。この時代の皇室は紀州にゆかりがあった。



    悲劇の皇子:有間皇子 (ありまのみこ)


    全1ページ

    [1]


    .
    hop*519
    hop*519
    非公開 / 非公開
    人気度
    Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

    ブログバナー

    1 2 3
    4 5 6 7 8 9 10
    11 12 13 14 15 16 17
    18 19 20 21 22 23 24
    25 26 27 28 29 30
    検索 検索

    Yahoo!からのお知らせ

    よしもとブログランキング

    もっと見る

    [PR]お得情報

    CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
    毎日お礼品ランキング更新中!
    2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

    その他のキャンペーン


    プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

    Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

    みんなの更新記事