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中国

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  (写真は河南省から江蘇省へと流れる淮河の支流ですが、下の記事とは関係ありません)


 東京でオリンピックが開催され新幹線が開通したころの日本では、高度経済成長の陰で、大気汚染や水質汚染が進行していた。その頃の日本のように、中国は今まさに経済発展を遂げている。  http://blogs.yahoo.co.jp/sankaku97/31087736.html
 河南省だけでも人口約1億を擁する大国中国。河川の汚染ひとつをとっても、河の上流と下流とでは国が違うし話し言葉も違うくらいなので、環境対策を一斉に進めるのは難しそうだ。 


 中国  環境よりも経済発展
                   (温暖化 バリ会議へ 中)

 著しい経済成長とともに、中国は米国と並ぶ温室効果ガスの大量排出国となった。政府は「環境重視」をうたうが、発展の遅れた地域は「環境保護より経済発展」が本音。貧困層が暮らす地方では工場が次々と建設され、政府の意識との落差がますます広がっている。

 「化学工場は麻薬と同じ。危険だが高利益で、いったん手を染めたらやめられない」
 上海から北西へ約400kmの江蘇省塩城市響水県(注1)。灌河沿いの化学工業団地で住民(39)がこう説明した。「環境よりお金だよ」
 塩城市は江蘇省で最も発展が遅れた地域。だが2004年、灌河沿いに4つも化学工業団地が誕生、染料や薬品を生産する工場が続々操業を始めた。
 「みんな浙江省台州などから移ってきた。向こうは汚染の規制が厳しくなったから」と、この住民が話す。

 台州は1990年代、全国有数の化工基地として発展。だが河川や土壌の汚染が深刻化し、市当局は2004年ごろから劣悪な企業を追い出しはじめた。これが塩城にはチャンスとなった。

 団地内は酸性の臭気が鼻を突く。付近の住民(70)は
 「工場は夜、未処理の汚水をこっそり流している」
と怒る。小川の水は飲めなくなった。

 「化工は投資が大きくても一年で回収でき、三年もやれば大もうけ。また移ればいい」 とタクシー運転手は解説した。

 江蘇省の隣の安徽省は全国でも有数の“貧困省”。昨年から新たな化工団地が次々と造成されている。

 胡錦濤国家主席は10月の党大会で 「生態環境を重視し環境に優しい社会をつくる」 と宣言した。京都議定書で先進国に課している温室効果ガスの排出削減義務は拒むが、排出量の改善には前向きだ。だが国内「途上地域」との落差は大きい。

 塩城市にはラムサール条約に登録され、タンチョヅルが生息する湿原がある。だが自然保護区でさえも製紙工場の建設で分断された。

 住民によると、昨年、保護区近くで製紙工場から汚染水が排出され、大量の動植物が死んだが、市は何の対応もしなかった。その後、汚染地が外から見えないような壁ができたという。「10年もしたら湿原が消失する」 と、環境ボランティア(30)は心配する。 

 塩城市を訪れる直前、市当局に環境対策について取材したいと申し込むと、市幹部が数日後、わざわざ北京まで記者に会いにきた。

 「農業地域で工場はほとんどない。 取材に値しないから来ないで」 と懇願された。

                          2007.11.29 神奈川新聞

(注1) 中国の行政区画では「市」の方が「県」よりも広域で上位。





 たとえば工場で使用した水を浄化してから河へ戻すためには、活性汚泥設備などの普及が必要だ。また中国では燃料として主に石炭を使用するため、排煙浄化のためには脱硫設備などの設置も進めなくてはならない。これら公害防止技術の導入や指導のために、先進国日本の知見が役立つはずだ。

  

上海にて 2


 おろされたホテルのフロントで、バス内で私の隣の窓側に座っていた中国人が、入室のためのルーム・キーと夕食券を私の分まで受け取ってくれた。
 エレベーターに乗り、ホテルの部屋に二人で入った。


 私は状況が理解できなかったので、携帯電話を取り出して、目的地鄭州で私を待つ通訳の王さんに電話をかけ、隣の中国人と話してもらった。
 中国人はしきりに「没問題(メイウェンティ)」を繰り返す。王さんによると、(15時離陸予定だった飛行機が遅れ、19時の便まで待つように。とのことであった。


 ホテルの一室で、見知らぬ中国人と過ごすことになった。彼はタバコを吸う(チョウエン)。おまえもチョウエンしろと、しきりにタバコを勧めてくれる。私は「不要、謝謝。」と答えて、暖かいお茶を入れる。

 「あんた、どっから来た?」
 「日本(リーベン)。」
 「リーベン?」

鸚鵡返しの答え方からして、あまり日本人は好まれていないことを察した。


 
 

上海にて

 
上海の虹橋空港で、雪のため鄭州行きの飛行機が到着せず欠航となった。

中国南方航空CZ3594便。飛行場の放送は、中国語か英語なので何を言っているのか分からない。

予定の搭乗口には誰もいない。係員に航空券を見せても、返答が分からない。

仕方がないので、セキュリティ・チェックの脇から外へ出て、空港の案内所カウンターへ行ってもう一度、航空券を見せた。
 「外にバスが待っているので、乗ってください」 と告げられた。
半信半疑で、けれども空港を出たところにドアを開けて待っているバスがあったので、乗り込んだ。
ほぼ満席だが、一箇所空いていたので座った。
間もなくバスは出発した。


空港を出たバスは高速道路に上がるが、どこへ向っているのか分からない。
渋滞する上海の街中を、長〜い30分間をかけて、バスは大きなビルの前で止まった。 そこで全員下ろされた。


 

泊船瓜洲

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                     淮陽の県境を流れる潁河(インホー)



すっかり春らしくなった。
学校を卒業し就職する人、あるいは人事異動で新たな任地に赴く人も多いことでしょう。



唐突ですが宋の時代、王安石の詩です。



    「泊船瓜洲」    (ふねをかしゅうにはくす)

                                   王安石

    京口瓜洲一水間   けいこう・かしゅう、いっすいのかん。   

    鐘山祇隔数重山   しょうざんただへだつ、すうちょうのやま。

    春風自緑江南岸   しゅんぷうはおのずから、こうなんのきしをみどりにす。

    明月何時照我還   めいげつはいつか、わがかえるをてらさん。




(長江北岸の)瓜洲と(私の故郷へと続く)京口(後の鎮江)との間には河がひとつあるだけ。

(わたしの故郷がある)鐘山までは山をいくつか隔てただけ。

 春風は(私の望郷の念には)おかまいなしに(長江の)南岸を(新芽で)緑色にする。

 月明かりが(故郷に)帰還する私を照らすのは何時のことになるだろうか。


 宋の時代(日本では平安時代後期)に王安石が、新しい任地である開封へ赴く船を、長江北岸の瓜洲(江蘇省の揚州)に停泊させたときに詠んだ詩。
 

開封(kai1feng1)は淮陽から北へ車で約3時間、黄河南岸にある古の宋の都。開封では夜に露店での飲食を楽しむことができる。河南省の歴史を今に伝える、この地方随一の観光地。

開封府(-fu4):開封の古城は、当時の衣装を着たスタッフが来訪者を楽しませるテーマパークとなっている。
http://www.kaifengfu.cn/

 

  

淮陽(ホワヤン)の春

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所用があって早春の季節に中国へ行ったとき、ホワヤン(淮陽)という町をたずねた。
ここは古えの「陳」の都で儒教に従った礼法が教育されていたようだ。


孔子ゆかりの弦歌台が見える角を曲がり、西のバスターミナル(西関站シークワンジャン114)に通じる連絡道路へ向った。
熊猫の石像がある路を、家族連れが楽しそうに歩いて行く。


この機会に、淮陽について少し調べてみた。


伏羲と女媧(ふっきとじょか)
紀元前2〜3千年、神代
中国では伏羲と女媧が人類の祖先だと伝えられている。
http://blogs.yahoo.co.jp/hopi519/24637029.html
淮陽の北西に伏羲太昊稜がある。さらにその西方には女媧城というのがある。
伏羲と女媧については蛇身人首と伝えられているくらいなので、どこまで本当の話かわからない。世界に普く伝えられている「兄妹洪水型伝説」のひとつである。
http://news.livedoor.com/article/detail/3547973/



周代の国名。今の河南省開封府から安徽省毫県にかけての地で、舜の子孫を封じた国。
(旺文社 漢和辞典 1964)


太清宮
「老子故里」。淮陽から汽車で1時間ほど東方に行った鹿邑県にあって、老子が生まれた場所といわれている。老子は周王朝の図書館の記録係を勤めたのち、洛陽の西、函谷関で道徳経を記したとされる。(山口直樹 図説「史記」の世界 河出書房新社)


孔子
紀元前500年、春秋時代
淮陽は「陳」の城市であった。諸国周遊の孔子一門が一時期滞在したのが陳であった。
いざ楚国へ向おうとすると陳・蔡の兵に包囲され兵糧攻めに遭った。
「君子も亦窮すること有るか」の地。


陳勝・呉広
紀元前200年、秦の始皇帝の時代
陳勝は「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」と、農民であった頃から大志をいだいていた。
呉広と組んで農民を率いて反乱を起こし、陳の城市を占領した。


張良
紀元前200年、秦の始皇帝の時代
張良(字は子房)は、すきあらば始皇帝を暗殺できないか、いつも考えていた。刺客を雇って始皇帝の行列を襲ったが失敗した。後に漢の高祖に仕え、劉邦をして「天、籌(ハカリゴト)を惟幄(イアク)の中に運らすは、吾、子房に如かず」と言わしめた名参謀である。
その張良が、礼を学ぶためにこの淮陽を訪ねたという。


曹植cao zhi 22
紀元200年、魏の時代
曹操の三男だが不遇の人生を歩み、心打たれる漢詩を残した。陳思王とも呼ばれるが、晩年は「陳」の城主であった。
http://www.houzenin.jp/takuhon/takuhon_20.html
七歩詩http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/r04.htm

思稜塚http://kankouha.cool.ne.jp/yiji/huabei.html#silingzhong
ページの上から30%くらいのところに「思稜塚」があります。但し「曹植の墓」はいくつもあるそうです。
http://sanliu.spaces.live.com/default.aspx
ページの上から60%くらいの【2日目6/17】に、当地旅遊の記事があります。


〜その後、いつの時代から陳が淮陽(ホワイヤン)と呼ばれるようになったかはわからない。


日本軍
昭和〜現代
河南省に駐留した日本軍は、終戦の際に化学兵器をここ淮陽の龍湖岸に埋めて撤退した。最近になって日本の民間企業が、これらの埋蔵化学兵器を撤去したそうである。



 

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