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キリスト教

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子供

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          知人からいただいた写真です。    Switzerland, 1988

天の国でいちばん偉い者

 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、
「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 
そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。
「はっきり言っておく。 
 心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。 
 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、
 わたしを受け入れるのである。」

      「新約聖書」 共同訳聖書実行委員会,日本聖書教会,1987
       マタイによる福音書 第18章より



  

所有について

 
高校で古文を習い始めたとき、こんな感じの話がありました。

ある婦人が住む家に泥棒が入る。婦人のそばを通る泥棒を見て婦人は言った。
「まだ物が残っている。それも持って行きなさい。」
泥棒は「変な家に入ったもんだ。」と言って、盗んだ物を置いて去って行った。




現代人は「所有」を当然のことと思っているのではないでしょうか?
でも本当は確たる自分の持ち物なんて、何も無いですよね。
自分の物であるとしても、せいぜいそれは自分の目の黒いうち。
自分の体も、家族も、金も、家も、生きているあいだ借りてるだけのこと。
結局全ては神様の持ち物ではないでしょうか?



ペルシャのクセルクセス
 http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/56291781.html



 

幸い

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天草の大江天主堂,The Catholic in Amakusa, 1985



  幸い


  心の貧しい人々は、幸いである、
    天の国はその人たちものである。
  悲しむ人々は、幸いである、
    その人たちは慰められる。
  柔和な人々は、幸いである、
    その人たちは地を受け継ぐ
  義に飢え渇く人々は、幸いである、
    その人たちは、満たされる。
  憐れみ深い人々は、幸いである、
    その人たちは憐れみを受ける。
  心の清い人々は、幸いである、
    その人たちは神を見る。
  平和を実現する人々は、幸いである、
    その人たちは、神の子と呼ばれる。
  義のために迫害される人々は、幸いである、
    天の国はその人たちのものである。


      「新約聖書」 共同訳聖書実行委員会,日本聖書教会,1987
      マタイによる福音書 第5章より



インドネシアの東端に、カトリック教徒が99%を占めるという島国、東チムールがある。
日本にもそのような地はないだろうか?
日本の西のはずれ、九州の天草。
現在でも島民がキリスト教を信仰しているのなら、
産業は栄えていないとしても、
その地は最も神の国に近い土地にちがいない。



人々はなぜ信仰するのか?
我々人間に救いが必要なように、
現代では地球にも救いが必要だろう。
ミャンマーや四川での災害は、
地球のささやかな抵抗なのかもしれない。
 キリスト教では、復活祭の後7週間たった日を「五旬祭」(聖霊降臨祭)として祝われる。49日目を祝うという点では仏教と似ている。ただし復活祭の日を1日に数えると合わせて50日なので、「五旬祭」と呼ばれる。

 この機会に「聖霊」とは何か、かさぶた流に考えてみます。


(前略)
 神様は、人をエデンの園の番人にし、その管理を任せました。
 ただし、一つだけきびしい注意がありました。「園の果物はどれでも食べてかまわない。だが『善悪を判断する力のつく木』の実だけは絶対にいけない。それを食べると、正しいこととまちがったこと、よいことと悪いことの区別について、自分勝手な判断を下すようになるからだ。そんなことになったら、必ず死ぬ。」

(中略)

 さて、神様が造ったものの中で、蛇が一番ずる賢い動物でした。蛇は女に、ことば巧みに話をもちかけました。「ほんとうにそのとおりなんですかねえ? いえね、ほかでもない、園の果物はどれも食べちゃいけないって話ですよ。なんでも神様は、これっぽっちも食べちゃいけないと言ったっていうじゃないかですか。」
「そんなことないわ。食べるのはちっともかまわないのよ。ただね、園の中央にある木の実だけは、食べちゃいけないの。そればかりか、さわってもおいけないんですって。さもないと、死んでしまうって、神様がおっしゃったわ。」
「ヘぇーっ、でも、そいつは嘘っぱちですぜ。死ぬだなんて、でたらめもいいところだ。神様も意地が悪いね。その実を食べたら、善と悪の見わけがつき、神様のようになっちまうもんだから、脅しをかけるなんてさ。」
 言われてみれば、そう思えないこともありません。それに、その実はとてもきれいで、おいしそうなのです。「あれを食べたら、何でもよくわかるようになるんだわ。」そう思いながら見ていると、もう矢も盾もたまらなくなり、とうとう実をもいで、食べてしまいました。ちょうどそばにいたアダムにも分けてやり、いっしょに食べたのです。はっと気がついたら、二人とも裸ではありませんか。急に恥ずかしくてたまらなくなりました。何とかしなければなりません。間に合わせに、いちじくの葉をつなぎ合わせ、腰の周りをおおいました。

   「リビングバイブル【旧新約】」新版 いのちのことば社,1978
   「創世記」2章,3章より


 人間は、楽園の木の実を食べて以来、善悪を知るようになる。

 このことは、人間が言葉を話すようになると同時に「認識」や「概念」が育ち人間らしくなったということだろう。
 このように人間が人間となって以来、心の中に善と悪、すなわち天使と悪魔を飼うようになった。と考えると誰の心の中にも天使は宿っている。従って私たちに宿っている「霊」のうちの「善」なる部分を「聖霊」と呼べはしないか。
 だからこそ聖書で、「聖霊を悲しませてはいけない」「聖霊を侮辱してはいけない」と言われるのではないだろうか。

 天を仰いで、羽根がついた人が舞い降りるのをいくら待っても、そんな人は降りてこない。聖霊はわたしたちの中に宿っていて、イエス様の指導によって発現するものでは。

 人間は一人一人別の肉体を持って生きていて、そのそれぞれに霊が宿っているが、その霊は、神様の目から見れば、ひとつの物である。霊が元々ひとつのもので、たまたま「言葉」を知った人間の肉体に神様から分け与えられたと考えると、自分と他人の別は無くなる。そうすれば、他人のことも自分と同じように愛せるようになる。自分の肉体が滅びても、他の肉体が生きているのだから、「霊」は永遠に生き続けることができる。それが「永遠の命」ではないか。

 仏教で四十九日後に成仏するというのは、四十九日後に元々宇宙に満ちている「霊」と一体化して、自他の別が無くなることによって浄化する、ということだろう。

 このように、自他の別を無くすということが、キリスト教と仏教の共通した目的だ。従って、私財を所有してはならないし、自分のために貪ってはならない。





 

 
〈ヨハネによる福音書20・19−23〉
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」



 教会の典礼暦には様々な祝日があります。その中で教会にとって、特に意義がある祝日が聖霊降臨の日です。聖霊降臨がなければ「教会」は誕生しませんでした。それだけに教会にとっては重要な記念日です。しかし、聖霊降臨によって、どんな教会が誕生したのでしょうか。そのことについて、今日のヨハネ福音は語っています。

 弟子たちは、ローマ帝国の反逆者として殺されたイエスと同じように、自分たちもユダヤ人によって、ローマに売られて殺されてしまうのではないかと恐れ、その不安から家の戸に鍵をかけて身を潜めていました。弟子たちは同じ場所にいるとはいえ、その心はイエスに対する自責の念を持ちながらも、どうしたら自分だけは助かるか、彼らは個々別々のことを思いながら、家に鍵をかけるだけでなく心にも鍵をかけ、そこには閉ざされた弟子たちの心があらわされています。

 その閉ざされた家と彼らのその心の中に復活のイエスは入ってこられます。そこで、ご自分が確かに復活のいのちに生きていること、そして、自分を見捨てて逃げた弱い弟子たちを咎めもせず、「あなたがたに平和があるように」と二度にわたって語りかけられます。その語りかけは、今までとまったく変らぬ仕方で弟子たちを思い、受けとめておられることをはじめに示されます。さらに、今はまだ弱い弟子たちでありながらもイエスは、これからの弟子たちの歩みに期待して「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」といわれます。その具体的なイエスの期待こそが、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」という言葉としるしです。

 私達は物心がつく子供から高齢者まで、人の数だけ異なった考え方がり、そこから生まれてくる行動様式があります。異なった考え方と行動様式が違いながらも、お互いが認め合い、譲り合っていれば、さほど問題は起きません。しかし、ひとたび違いをお互いが認め合うことができなくなったとき、そこに問題の火種が生じてきます。子供ならば、それが一気に喧嘩という形で現れてきます。大人の場合は、一気に燃え上がるよりも人影でくすぶり続け、互いの溝が深まり、やがては違うから仕方がないという理由をつけ、無理矢理にも終わらせてしまいます。そこには本当の意味での赦し合いはありません。かえって幼い子供たちの方が、激しく違いをぶつけあったとしても、10分も経てば、再び仲良く遊んでいる姿を目にします。子供の赦し方は、相手に対してつたない言葉でありながらもどこかで赦しの言葉があり、再び遊ぶという行動が伴っているからこそ、互いに安心感を持って過ごせるのだと思います。しかし、大人になるにつれて、赦しは言葉だけで終わりがちです。お互いが共にする行動がないからこそ安心感が持てないのが実情ではないでしょうか。赦しには、赦す言葉と共にする行動があってこそ、本当の赦しと和解を体験できるんだということです。弟子たちは、復活のイエスによる赦しと期待の言葉、鍵をかけた家に来て共にいてくださるという行動があったからこそ本当の赦しを体験し、聖霊によってこの体験の喜びに気付かされ、弟子たちを変容させられていったということです。

 赦しは、相手を赦すということだけではなく、それ以上に、自分の殻に閉じこもっている人を解放し、喜びと希望で満たし、神の愛に生きる者へと変容させてくださるということです。

 今日のヨハネ福音書を通じて語られる聖霊降臨は、復活のイエスが一人ひとりの罪を赦しくださったように、互いの罪を赦し合う教会共同体が誕生した日です。わたしたちも復活されたイエスの息吹に満たされて、自分自身の解放と周りの人にゆるしと和解の恵みをもたらす者へと変容することができるよう、聖霊の助けを願っていきたいと思います。
押切教会 主任司祭 石脇 秀俊 神父

転載元転載元: Medjugorje アヴェ・マリア

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