ロレット・チャペルは、支える柱無しで高い二階まで達する不思議な螺旋階段で有名だが、私にはカトリック教会自体がめずらしくて、祭壇正面の彫刻に見とれていた。
イエスの十字架の下には、最近物議をかもしている最後の晩餐の絵を模したと思われるレリーフが見える。
左の壁のステンドグラスには、誇り高き動物であるワシと獅子が描かれている。
まだ自動車も飛行機もなかった時代のお話。
突然、ケルビムの頭上の大空に、青く輝くサファイヤの王座が現われました。
(中略)
四つのケルビムのそばにそれぞれ一つの輪があり、それが「車輪」と呼ばれているのを、私は聞きました。
第二の輪が交叉して第一の輪の中にはめ込まれており、その輪は黄緑の輝きを放ち、緑柱石のように光って見えました。 このような輪の構造から、ケルビムは四方八方どこへでも、まっすぐ進むことができました。 向きを変えなくても、ケルビムの顔の向く方向に進めるのです。
四つの輪はどれも、縁(ふち)や輻(や)まで全部、目でおおわれていました。
四つのケルビムはそれぞれ四つの顔があり、第一の顔は牛の顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔はライオンの顔、第四の顔はわしの顔でした。
これらの生きものは、かつてケバル川のほとりで見たのと同じものでした。
ケルビムが飛び立つと、輪も同じように飛び立ちます。 ケルビムが飛んでいる間、輪もそばについています。 ケルビムが立ち止まると、輪も立ち止まります。 ケルビムの霊が輪の中にあったからです。
(後略)
「リビングバイブル【旧新約】」新版 いのちのことば社,「エゼキエル書」第十章より
ケルビムとは神様の乗り物のようである。エゼキエルが見た幻について記しているのであろうが、描写が妙にリアルなので、このような乗り物が本当にあったのかと思ってしまう。
旧約聖書では、上記のエゼキエル以前から、アブラハムやモーセらによって、直接神様との対話が行われている。しかるに新約聖書は、12使徒が布教を行い、ヨハネによる終末の日の預言がなされたところで終わっており、神様の出現を待ってはいるが、現われない。イエス・キリストですら神様に見捨てられたような記述が認められる。
その後のキリスト教では神との対話が途絶え、預言者もイエスの後には現われていないようである。これはおそらく、キリスト教がローマ帝国に公式に国教として認められたためであろう。
エゼキエル書の五章以下では、エルサレムに偶像が建てられたことについて神様が叱責している。神と対話する場所に、上の写真のような偶像を設置してもよいのだろうか。 信仰は何のためにあるのだろうか?
キリスト教がローマ帝国に吸収されると同時に神様からは見捨てられた一方で、西暦610年頃のアラビア半島ではムハンマド(マホメット)が神様との対話を始める。
イスラム教では偶像は厳格に禁じられており、今でもそれは守られている。
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