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内裏塚古墳

5月21日
東京湾観音の売店で、富津市の観光ガイドマップを配布していて、
近くの青堀(あおほり)駅に 『古墳の里ふれあい館』 があるのを家内が見つけてくれた。
上総湊(かずさみなと)にある 『ソムリエハウス酒匠の館』(小泉酒造)に立ち寄ってから、青堀駅へ向かった。



イメージ 1


青堀駅の周辺には古墳がたくさんあって、地図ではさながら大阪の堺市のような眺め。


館内で無料配布していた内裏塚古墳群のガイドブックやマップをもらい、内裏塚古墳へ。


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過去にあったはずの周溝は、今では埋められていて見ることができない。
地名の 『青堀』 は、現在も近くに残る 飯野陣屋の濠 のことかもしれない。

古墳ふれあい館で入手した 『内裏塚古墳群ガイドブック』 によると

p.13 内裏塚古墳 (だいりづかこふん)

所在地: 千葉県富津市二間塚字東内裏塚1890 ほか
指定: 国指定史跡/平成14年 (2002) 9月20日
    人物埴輪頭部1点・鳴鏑2個・内裏塚古墳付近古墳出土太刀2口
    市指定有形文化財/昭和48年 (1973) 7月6日

内裏塚古墳 は、墳丘全長144mの前方後円墳で、千葉県最大かつ南関東最大の古墳である。
築造時期は5世紀中葉と推定され、内裏塚古墳群の中では最初に築造された古墳である。
墳丘形態は大阪府堺市百舌鳥(もず)古墳群の 履中(りちゅう)陵古墳(陵山みささぎやま古墳) に近似し、その約2/5の大きさである。

石室の発掘は、明治39年(1906)に柴田常恵(しばたじょうけい)・小熊吉蔵(おぐまきちぞう)らによって行われ、その後、大正4年(1915)には石室上部に石碑が建てられている。石碑の台座に使用されている石は石室天井石の一部と見られる。

周溝部については昭和58年(1983)以降、数次にわたって確認調査が行われている。 調査によって明らかとなった墳丘規模は、墳丘長144m・後円径80m・前方部幅90m・後円部高13m・前方部高11.5m・盾形周溝(たてがたしゅうこう)を含めた全長185mである。 

また埴輪については円筒埴輪のほか、人物・家・蓋(きぬがさ)の形象埴輪が確認されている。
平成19年(2007)の墳丘調査で、後円部の約2/3の高さまでは自然砂丘を利用して築造されていることが明らかとなった。また後円部頂の周縁部に円筒埴輪列が存在し、その内側に自然礫による葺石が敷かれていることも判明した。

石室は海岸で採取される凝灰質砂岩の自然石(磯石)を乱石積(らんせきづ)みにして壁面を構築していたと見られるが、発掘時の詳細な記録を欠いているため、不明点が多い。

石室の規模は東側の甲石室が長さ5.7m、西側の乙石室が長さ7.5mで、乙石室の方が規模も大きく、副葬品内容も優れていることから、中心となる埋葬施設であったと見られる。

副葬品は、甲石室から人骨2体分とともに、直刀(ちょくとう) 5・鉄剣(てっけん) 2・小刀1・鎌1・角棒1・斧2・鉄鏃(てつぞく)が、乙石室から鏡1・直刀5・鉄剣1・鉄鎗(てっそう) 1・鉄鏃・金銅製胡籙(ころく)金具一式・斧2・骨製鳴鏑(なりかぶら) 9が出土している。

副葬品は鉄製武器と農工具を主体としており、墳丘規模から見ればその内容は比較的簡素とも言える。副葬品のうち金銅製胡籙(ころく)は朝鮮半島で製作された可能性がある。
当古墳の被葬者は5世紀に小糸川流域一帯を治めていた首長と考えられ、「国造本紀(こくぞうほんぎ)」などの文献に記された須恵国造の系譜に連なる人物を見られる。

墳丘部は昭和40年(1965) 4月27日に千葉県指定史跡、平成14年(2002) 9月20日に国指定史跡となっており、周溝部についても逐次国指定区域として追加されている。

なお、内裏塚古墳の墳丘上東側には「珠名冢碑(たまなちょうひ)」がある。
この碑は江戸時代後期の嘉永4年(1851)に山田重春という人物によって建立されたもので、奈良時代の『万葉集』に詠まれた「末珠名(すえのたまな)」と内裏塚の由来が記されている。『万葉集』巻九に「胸が豊満で腰が細く、男心を惑わす美しい乙女」として描かれた末珠名の歌は高橋虫麻呂の作と伝えられている。江戸時代にはこのような文学上の女性と古墳が結びつけられ、碑が建てられたほか、珠名姫神社という社もあったが、史実とは異なり、明治の発掘後に神社も合祀された。

出典: 『千葉県富津市 内裏塚古墳群 富津市文化財ガイドブック』 富津市教育委員会 2011


古墳の上へは自由に登ることができ、石室はみられなかったが、後世の神社があった。


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521日にここへ登ったときにはすでに蚊が飛んでいたので、ゆっくり見るには虫よけスプレーを持参した方がよい。

午前中に貝ひろいをした磯根崎の近くには弁天山古墳があって、石室も見られるようなので、次回訪れてみたい。

副葬品保管場所: 国立歴史民俗博物館・富津市教育委員会・飯野神社
 
木更津市郷土博物館 金の鈴
 
須恵国(すえのくに)の古墳
 
万葉集 上総末の珠名娘子の歌
(注) 末 = 須恵 = 周淮(すゑ)

しもつけ 家形埴輪

 
 栃木県立しもつけ風土記の丘資料館に、家形埴輪が展示されていましたので紹介します。
 
(1) 富士山古墳の2つの家形埴輪
 
 富士山古墳から2種類の家形埴輪が出ています
 
イメージ 1
 
展示パネルを見ますと
 富士山古墳は壬生町羽生田(はにゅうだ)に位置する6世紀後半の古墳で、墳丘直径85m、高さ12mの栃木県最大の円墳であることが判明しています。 墳丘は二段築成で、1段目が広く、「基壇(きだん)」になります。 埋葬施設は横穴式石室と推測されます。 墳頂部には大型の円筒埴輪や盾(たて)形埴輪が一周し、その内側に家や翳(さしば)などの埴輪が立てられていました。 家形埴輪には「入母屋造り(いりもやづくり)の家」と「円柱を持つ家」があり、いずれも高さ150cmを越える全国屈指の大型埴輪です。 墳丘1段目テラスにも大型の円筒埴輪列がめぐり、南西側では円筒埴輪列の外側で、人物や馬などの形象埴輪列の一部が確認されました。 その地点では8体分の埴輪が出土しています。
 
 「しもつけの埴輪群像−そのすがたをさぐる−」 (資料1 p.34)を見ますと 
 「入母屋造りの家」は「上屋根」の部分が取り外せる、組み立て式になっています。 棟の部分には屋根をおさえるための板格子が表現され、棟の部分を串刺しにして留めた杭の頭が並んでいます。 棟の両側には板の先端が飛び出していますが、千木・堅魚木はありません。 屋根の表面に連続三角文が刻まれ、一つおきに赤彩が残っています。 壁の長い辺には長方形の小窓が、短い辺には円形の穴があります。

一方、「円柱を持つ家」は2階建てあるいは高床の建物と考えられ、12本の柱が屋根裏まで延びています。 一階、二階の下の方には外側にひさしのような出っ張りがめぐっています。 屋根は入母屋造りで、「上屋根」の部分が取り外せる、組み立て式になっています。 上屋根の表面には連続三角文が刻まれ、規則的に赤彩・黒彩で色分けされています。 棟には13本の堅魚木が隙間無く置かれ、屋根の縁の板は上に延びて千木になっています。  堅魚木は赤彩されています。
 
古墳から出土する埴輪は、実際にあったものの姿を反映した模型と考えますと、古代の建物にはいくつかの形態があったと推察できます。
入母屋造りの家」は異常に窓が少ないですね。 これに関連して、奈良県佐味田古墳から出土した家屋文鏡に描かれた4種の建物とそれらの機能について、下のサイトで興味深く考察されています。
忘れられた機能/(2010) 建築絵日記
 
富士山古墳の窓の少ない家は、産小屋(サンヤ)であった可能性もあるのではないでしょうか。
参考情報)
出産の情景 −産小屋をたづねて−(1996) 森田せつ子
 
一方、「円柱を持つ家」は、神殿のような立派な建物で、大阪府高槻市にある今城塚古墳の家形埴輪と似ています。 開放的な造りなので外界から中を窺うことができて、窓の少ない「入母屋造りの家」とは対照的です。 上記サイトの建築家さんが紹介されている家屋文鏡の4つの建物のうち、①「祭司の小屋」とよく似ていますね。 神殿として祭祀に使われたのではないでしょうか。
 
イメージ 2

 この家屋文鏡の説明図は、「忘れられた機能」/(2010) 建築絵日記
からコピーさせていただきました。
 
2015.2.14 追記 
円形の掘立小屋住居は世界のあちこちに存在した普遍的な形態であったようなので、②のタイプの住居はヒマヤ・サンヤと限定されるものではなくて、一般市民の家だったのではないでしょうか。

『人類の共通的志向 住居』
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56733590.html
 
 
 
「入母屋造り」の家は、家屋文鏡の4つの建物とは違っています。 屋根の下半分以下の様子は、ちょっと飛びますが、昔の南国フィジーの家と似ています。
 
イメージ 3
  上図) Plate 21a.  Navatanitawake Council House, Bau, c. 1880.
下図)Plate 21b.  View of Bau, looking over the long visitors’ house to Navatanitawake, c. early 1870s (Fiji Museum photo).
出典は「ヒューゲル男爵のフィジー旅行記」(資料2, p.112)です。 "Council House" とありますので、国会議事堂のようなものだったのかもしれません。下の写真では周囲の建物に比べて高くそびえ立っていることがわかります。
 
 
(2) 菅田44号墳の家形埴輪
 
さて、しもつけ風土記の丘資料館に戻って見ますと、細長い家形埴輪が展示されていました。 
イメージ 4
 
これは足利市の菅田44号墳から出たもので、上の富士山古墳の「入母屋造りの家」を縦に半分に割ったような形をしていますね。 似ているのですが、棟の上に四角い板ではなく、堅魚木が4本載せられています。 左のパネルに「堅魚木(かつおぎ)」と「千木(ちぎ)」について説明されていますので読んでみましょう。
 
「千木」と「堅魚木」
 家形埴輪にみられる「千木」と「堅魚木」は、もともとは古代の建築部材の一部でした。 千木は屋根の骨組みの材木が天に向かって突き出たもの、堅魚木は棟に並べて屋根を押さえるための木でした。 これらは、しだいに高貴な人の住まい、神聖な建物を表すためのシンボルになってゆきます。 千木と堅魚木は現在でも神社の本殿の棟にかかげられ、そこが神聖な場所であることを物語っています。 江戸時代の初めに建立された日光東照宮の本殿にも、この伝統がしっかりと受け継がれています。
 
不鮮明な写真ばかりで申し訳ないですが、この家も富士山古墳の入母屋造りの家と同様に窓(入口?)が小さく、左の側面には丸い窓が開いています(資料1, p.45)。
 
 
(3) 神保下條2号墳
 
 資料館の入り口には、高崎市の神保下條2号墳の復元模型が飾られていました。
 
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  ポチで拡大↑
山のてっぺんの真ん中に、家形埴輪が飾られています。 前のブログで見た奈良県御所市室の宮山古墳では、前方後円墳の後円頂上にある石室のすぐ横に家形埴輪が並んでいた様子が橿原考古学博物館に復元されていました(参考情報3)。 家形埴輪は、たくさんある埴輪の中でも特に大切なものだったのではないでしょうか。
 
 
 
(参考資料)
(1) 28回秋季特別展の図録 「しもつけの埴輪群像−そのすがたをさぐる−」, 平成26, 栃木県立しもつけ風土記の丘資料館
(2) “The Fiji Journals of Baron Anatole Von Hügel 1875~1877”, edited by Jane Roth and Steven Hooper, 1990 Fiji Museum Suva, p.112
 
 
(参考情報)
1) 佐味田宝塚古墳
 
2) 天理参考館で企画展「東国の古墳文化」を見る
 
3) 家形埴輪(日本各地の比較)
 室宮山古墳石室の復元(橿原考古学博物館)
 
 
 

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しもつけ 馬の埴輪

 
  しもつけ風土記の丘資料館の埴輪の馬を見てみましょう。
 
この秋、特別展として栃木県下野市の甲塚(かぶとづか)から出土した多数の埴輪が展示されています。
 
イメージ 1
 
 
甲塚の発掘では、人型埴輪の列の後方(左側)に4頭の馬が並んでいたそうです。
4頭は馬具飾りの程度がまちまちで、先頭の馬埴輪1 が、最も豪華な装飾です。
胸・肩・尻にぶらさげられている『馬鐸(ばたく)』というものを、初めて見ました。
装飾が豪華なことから、古墳の主が乗っていた馬と考えられます。
 
出土した埴輪の表面を詳しく調べると、もともと塗られていた色が分かるそうです。
この馬は白馬だったとのことです。
復元模型では、とても美しい姿が再現されていますね。
 
この埴輪馬1 のもうひとつの特徴は、左上の写真でお分かりのように、鞍の右側に、横向きに両足をそろえて座れるように足置きの板が取り付けられている点です。またがって座るのではなく、横向きに座るというのは、女性が乗馬するためのものだったのでしょうか。この馬が古墳の主のものだとすると、古墳の主は女性だったのではないかと、当日の講演会で日高先生は推定されていました。
 
 
先頭の馬に続いて、下のような馬の埴輪が並んでいました。
 
イメージ 2
 
 
馬の列の後ろへ行くに従って飾りがシンプルになります。馬4 には鞍が無く、裸馬に乗馬していたのか、あるいはまだ仔馬で、乗馬用とされていなかったのかもしれません。
 
これら馬の表情は、前回紹介した飯塚古墳の男女の埴輪もそうですが、楽しげで優しい顔をしています。当時の関東の生活は、なかなか豊かなものだったのでしょう。
 
 
馬具については、多くのwebサイトで説明されていますが、ここでは東京国立博物館の記事を紹介させていただきます。
 
イメージ 3
 
 
左図の馬は熊谷市上中條日向島から出土したそうです。
馬の飾りの名前が説明されています。 
これら埴輪に描かれている飾りの通りに、実際に金属製の実物が出土しているそうで、驚きです。
上右は群馬県大泉町から出土とあります。
甲塚の埴輪馬1 のお尻には、杏葉(ぎょうよう)の代わりに馬鐸が付いていました。
耳も尻尾もピンと立っているのが、この頃の埴輪馬の特徴でしょうか。
 
左上の熊谷の馬はおっとりした表情ですが、行田市の酒巻14号墳から出た馬は、もっと精悍な感じで、騎馬兵が乗っていた馬かもしれません。
 
 
大泊瀬幼武の天皇の時代に、はにわ馬の物語があります。
 
月夜の埴輪馬

雄略九年、秋七月の壬辰(みずのえたつ、29日)の朔に、河内国より言上する者があって、
「飛鳥戸郡(あすかべのこおり)の人である田辺史伯孫(たなべのふびと はくそん)の娘は、古市郡の人である書首加竜(ふみのおびと かりゅう)の妻です。 伯孫は、その娘が子をお産したと聞いて、婿の家に行って祝賀し、月夜に帰途についた。 蓬蔂(いちびこ)の丘の誉田陵(応神天皇稜)のもとで、赤馬に乗った人に出会った。 その馬はそのとき、蛇のようにうねりながら行き、竜のごとくに首をもたげた。 急に高く跳びあがって、雁のように驚いた。 その妖しい体が峰のようになり、あやしい形相がきわだってあらわれた。 伯孫は、近づいて見て、心の中で手に入れたいと思った。 すなわち、乗っていた葦毛の馬に鞭うって、頭をそろえて、轡(くつわ)を並べた。 そうすると、赤馬がおどりあがるさまは、塵埃のようにさっとあがっては消え、走りまわる速さは、滅没するよりももっと速かった。 一方、葦毛の馬は遅れてしまって、遅くて追いつくことができなかった。 その速く走る馬に乗っていた人は、伯孫の願いを知って、とまって馬を交換し、別れの言葉をのべて去って行った。 伯孫は、速く走る馬を得て大変よろこび、走らせて厩にいれた。 鞍(くら)をおろし馬に秣(まぐさ)をあたえて眠った。 その翌朝、赤馬は、土馬(はにま、埴輪の馬)に変わっていた。 伯孫はあやしんで、誉田陵にとってかえして探してみたら、葦毛の馬が、土馬の中にいたのを見つけた。 取りかえて、かわりに土馬を置いた」
と言った。 
                                                                「日本書紀」 中央公論社 (1983) p.279 より
(注) 
史(ふびと)や書首(ふみのおびと)は、書物を書き記す職業で、当時すでに漢字を使えたこと、名前が伯孫や加竜であることから、中国から渡来した人であったと考えられます。
 
 
甲塚にもどりますと、この古墳の主が女性だったことをうかがわせる埴輪が他にも出ていますので、それは次回紹介したいと思います。
 
 
 (参考書)
『しもつけの"埴輪群像"』 栃木県立しもつけ風土記の丘資料館 (2014), p.23, 61
 
 

家形埴輪


この記事は下記へ移動いたしました。
ご不便おかけして申し訳ありません

 
§ 室宮山 大型家型埴輪    House-shaped haniwa in Kashihara musium
 
5月2日
宮山古墳から出土した埴輪を見に、橿原考古学研究所付属博物館へ行きました。
 
イメージ 1
宮山古墳の石棺の周りから出土した埴輪   Haniwa from Miyayama kofun
 
 
イメージ 2
宮山古墳以外のところからでた埴輪   Haniwa from the other place
Left; "yosemune" roof, right; "kiritsuma" roof, and behind; "irimoya" roof. 
 
寄棟だか切り妻だか、どう言えばいいのか分かりませんが、色んな形の家があります。
奥の家の屋根は面白い形で、どこかで見覚えありますね
 
 
それら展示物の中に板状の柱をもつ大型の家形の埴輪がありました。
 
イメージ 4
『王の居館』   King's house with "chigi"(1) and irimoya style roof
 
屋根の形が特徴的ですね。堅魚木(かつおぎ)まであります。
側面は板状の柱に囲まれているだけで、風が通々ですね。
 
『王』はもちろん葛城の王ですが、暑がりさんだったのでしょうか?
それとも当時は今よりもっと気候が暑かったのでしょうか?
 
 
この板状柱は、何と、あの靫形埴輪と似た直弧文(ちょっこもん)で飾られていたのです!!!
 
イメージ 5
with drawing of "Chokkomon" pattern 

当時本当にこんな建物が建っていて、柱はこんな模様で飾られていたのでしょうか!?
 
詳細ご関心ある方は下記の朝日新聞の記事をご参照ください。
 
 
この家形埴輪は、現物が立っていたと思われる遺構が、宮山古墳から遠くない葛城山麓の極楽寺ヒビキ遺跡で見つかったことから、実際にこのような建物があったにちがいないと、注目されています。
 
イメージ 6
極楽寺ヒビキ遺跡遺構平面図  
Archaeological site of Gokurakuji Hibiki at Katsuragi
(不鮮明な写真が多くて申し訳ありません) 

極楽寺ヒビキ遺跡
 
橿原考古学研究所付属博物館の説明板を見ますと
 
 御所市極楽寺ヒビキ遺跡では、古墳時代中期中頃(5世紀中頃)の大型掘立柱建物が検出された。両岸に石垣を積んだ堀に囲まれた約2000m2の区画内の西側で確認されたもので、建物の東側は広場である。柱はすべて腐朽し、その痕跡だけを残すのみだが、5間×5間の建物本体の面積は、220m2 (67坪) に達し、日本列島屈指の規模を誇る。
東側と南側には、L字形に曲がる合計12間分の塀 (柵) が巡る。 縁部は通有の円柱だが、身舎(もや)部は2間×2間の特異な板状柱で、柱痕跡が赤い土に 置き換わっていた。
近くに、葛城地域最大の前方後円墳である室宮山古墳 (墳丘長 238m) があり、その後円部墳頂から、直弧文を施した板状柱をもつ大型家形埴輪が出土している (写真=第2展示室に展示中)。
柱間や板状柱の特徴などが共通することから、この家形埴輪をもとに建物の復元模型が製作された。
 
イメージ 7
極楽寺ヒビキ遺跡の大型掘立柱建物復元模型
神戸大学工学部建築史研究室製作(S110
A model of the high floored house (2) at archaeological site of Gokurakuji Hibiki

 
素晴らしい模型ですね!!
 
この建物は、実在したに違いありません。
 
 
 
 
さて、これら室宮山古墳から出た家形埴輪には、他の地方で出たものと共通点がありそうです。
 
 
§ 赤堀茶臼山古墳の家型埴輪
 
イメージ 8
Haniwa from Akabori-chausuyama, collection in the Historical musium of Gunma prifecture at Takasaki city 

高崎市の群馬県立歴史博物館に展示されています。
説明板を見ますと
赤堀茶臼山古墳は、5世紀前半の全長59mの帆立貝形古墳です。その墳頂部から、家型埴輪をはじめ囲形・椅子・高杯などの埴輪が発見されました。家形埴輪は、堅魚木(かつおぎ)を棟にあげた切妻造の主屋を中心に、脇屋や高床倉庫など8棟が左右対称に配置されていたと考えられています。当時の豪族居館の構造を考える上で貴重な資料です。
 
この建物には、下のような人物が出入りしていたのかもしれません。
 
イメージ 10
An ancient dressed-up man
 
 
 
§ 西都原古墳の子持ち家型埴輪
 
私の心のふるさと?宮崎県の西都原(さいとばる)古墳からも、家形埴輪が出土しています。
 
イメージ 9
House-shaped haniwa with small chambers, a collection of Saitobaru musium 
Main house and both side chambers have "Kiritsuma" roofs, front chamber with "irimoya" roof,
magnificent but with no "chigi".

屋根に二通りの形があります。
V字型に高所・外側へと張り出した切り妻屋根(中央と両サイド)と、
一旦寄棟風に絞った上に同様の切り妻屋根を載せたもの(手前の小屋:「入り母屋造り」と言うんですね)で、棟には丸みがあります。
 
 でもそんなことよりも、大きい家の前後左右に小屋がくっついているのが、この家形埴輪の面白い点ですね。
 
によると
子持家型埴輪
子持家形埴輪は全国的にみても出土例がなく西都原特有の中央に原始人母屋造りの母屋、前後に平床式入母屋造の家、両脇に切妻造りの家、5軒の家型埴輪から成り立っている。人が住む家ではなく、信仰儀礼が行われた大室谷としての建物を表している。高さ52cm 横幅94cm (全体の3割程度の破片より復元)

 
西都原考古博物館でこの埴輪を見たときは、これは古代人が空想をめぐらせて遊び心で作った宇宙ステーションではないか? と思いました。 
 
その後、群馬県や葛城の家形埴輪を見たときには、それらは実在した家のミニチュアと確信しました。
西都原の子持ち家型の建物も、実際に存在したのかもしれませんね。
 
ただ、これだけ立派な建物なのですが、堅魚木(かつおぎ)がありません。
堅魚木の有無は、何を意味するのでしょうか?
 
 
 
西都原考古博物館には他に、楕円形に近いような形の家形埴輪も展示されていました。
 
イメージ 3
 Haniwa with "chigi", collection of Saitobaru musium

 こちらの棟には堅魚木がありますね!
 右手の王様の冠のような小屋は、見張り用の砦でしょうか?
 
 
『日本書紀』には神武天皇も応神天皇も九州出身と記されていますから、
これら家のデザインのルーツも九州なのかもしれません。
 
 
 
【家屋文鏡】
橿原考古学博物館
 http://inoues.net/museum2/kashihara2005.html (スクロールバーで上から50%のところ) 
ヒマヤ・サンヤ
家屋文鏡に描かれた4軒の建物には堅魚木は載っていません。
4軒のうち倉庫を除く3軒は、入り母屋造りのようです。これらのうち、①「祭祀の館」は、葛城の「王の居館」と似た造りではないでしょうか。
とすると、この4軒も架空の絵柄ではなくて、実在した可能性が高いのではないでしょうか。

Note:
(1) "Chigi" are the wood bars on the top of the roof, which are usually seen at Japanes shrines.  It is also called "katsuogi". I wonder why were they placed, giving stability on the roof, dignity for the architecture, or a kind of magic for protection from fire?
(2) High-floored houses were built for protecting people and precious goods like crops from flood and rats, originated from south east asia. It might be the house for the noble peaple or the place of devine service in ancient Japan.  

 東京国立博物館 
 
 纏向の4軒  Four styles houses at Makimuku, Nara. 
 高床式、入り母屋と切り妻。
 
三重県松坂市の家形埴輪  A roof with fish fine at "Haniwa museum" in Matsusaka city, Mie
 高床の入り母屋の棟の上には堅魚木のかわりに鰭がついている!!
 
摂津の今城塚の埴輪
 
南海の文化 
高床式は東南アジア由来で、高い屋根は宇宙を表していた?
 

2019.2.17 追記
イメージ 11
家屋文鏡(かおくもんきょう)

古墳時代 前期,面径23.0cm,奈良県北葛城郡河合村大字佐味田宝塚古墳 宮内庁

 構造のちがう四種の家を主文にしたうえ、かさをさしかけたベランダ、樹木の植え込み、屋根に小鳥までかき加えたまことに珍しい鏡。

 禽獣文はなくなり、半円と方形区画内には円文と渦文をかざり、かつ地に珠文をうずめて倣製のあとをうかがわせるが、漢式一般の波文をはさんだ鋸歯文(きょしもん)の一段高い外縁から内区へのうつりかわりは、一般漢式鏡の方式にしたがっている。
 ところが内区の主文はかつてみない家屋の意匠である。鈕(ちゅう)をとりまいて四方に、屋根を地面までふきおろした竪穴家、がわ(側)まわりが立ち上がった平三間の入母屋造(いりもやづくり)家と、同じ平三間の高床の入母屋造家および二間の高床切妻造(たかゆかきりづまづくり)家を細部にわたってえがき出す。高床の家には手すりつきのはしごがかけられ、ベランダには長い柄の蓋(かさ)がさしかけられ、さらにおのおのの家屋の間には大きな樹木の植え込み、屋根のうえには小鳥、あるいは高い台にのった神像らしきものまでかきくわえられて、生活のにおいにみたされた珍しい装飾意匠の鏡である。(三木文雄)

                     「原色日本の美術1」 小学館,1970,p.136, 163,  図番127・128

銅鏡の作り方とともに、家屋の建築方法も伝わってきたのだろうか。漢式鏡とのことだが、漢字は記されていないようだ。


近つ飛鳥博物館の建築物模型とジオラマ: horusさん presents


葛城の王の墓

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5月2日
 
奈良県御所市、室(むろ)の宮山古墳から出土した埴輪を見に、近鉄電車に乗って橿原考古学研究所付属博物館へ行きました。
博物館には予想をはるかに超えて、宮山古墳の出土物が詳しく展示されていました。
 
石棺と埴輪の出土状況を見てみましょう。
 
イメージ 2
 
 
石棺の右側に、靫形埴輪や家形埴輪が並んでいます。
 
 
イメージ 3
 
  
家形埴輪はもともと5基あったのでしょう。
3基が昔の姿のまま残っていたようです。
 
イメージ 4
 
家の造りは建築家ではないので、どう説明すればよいのか分かりませんが
左端は、いわゆる寄棟(よせむね)でしょう。
この形は、奈良時代を経て現在にも引き継がれているようですが
棟梁のところが丸いですね。
人が安心して住めそうな家です。
 
右の2棟は、切り妻と呼んで良いのでしょうか?
屋根の妻面が外に向かってせり出す、独特の形です。
どこかで見たような気がします
 
 
説明板を読んでみましょう
 
 
イメージ 5
 
なるほどですが 、もっと詳しい説明が欲しいです...
 
 
の石室は、私がこれまで見てきた洞穴のような石室とは違って
石棺をやっと覆うくらいの小部屋です。
現地では、石棺の蓋の突起部が平たい石積みの壁にめりこむほどでしたので
石室は石棺を安置した後に石棺を覆い隠すように造られたと考えられます。
 
埴輪はその石室の周り、石室のすぐ近くに、きれいに並べて配置されています。
群馬の 綿貫観音山や、埼玉の将軍山 では築造の段の継ぎ目の犬走りのようなところ、兵庫の五色塚 では墳頂に、宮崎の祇園原古墳 では古墳の外周に、いずれも古墳を囲むように多数の埴輪が並べられているようで、この宮山古墳のように石棺を守るような埴輪の配置は初めて見ましたので新鮮に感じました。
 
 
埴輪の役割   
 
 

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