かさぶたろぐ

旅行反芻的部落格。貝類很好。

古墳

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 前のページ | 次のページ ]

ここまで古墳を見学し考えてきたこと。

なぜ離れた地方に似た形の古墳があるのだろうか?
古墳の伝播や消長は何によってひきおこされたのだろうか?


4世紀に大和で前方後円墳と前方後方墳が共存した。
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2004_10_30.htm

前方後円墳・前方後方墳以外に円墳や方墳があるが、方墳は主に中国から、円墳は主に朝鮮半島から伝わったと推察する。


関東の上州では4世紀後半に、前方後方墳から前方後円墳への切り替えが鮮やかに行われていた。
http://blogs.yahoo.co.jp/kamitukeno_k/59882117.html

皇族は前方後円、その他の氏族は前方後方、と造り分けられていたのだろうか。
その他の氏族とは中国から海を渡ってきた民族なのか。

『むかし、天神の子が天磐船に乗って、天から降ってこられました。これを櫛玉饒速日命(ニギハヤヒノミコト)と申し上げます。(中略)これが物部氏の遠祖である。』
                  (中央公論社『日本書紀』巻三神武より)

軍事力や刑罰を司ったという物部氏が前方後方墳の主かもしれない。

日向には物部氏も前方後方墳も無い。
http://mononobe.nobody.jp/map/west.htm#saikai


前方後円墳は大和の山辺から地方へと伝わり広がったと考えられる。
ただし双方向の交流は瀬戸内海を通じて盛んに続いていたのではないだろうか。
山辺の古墳からは吉備の土器が出ている。
西都原100号墳(4世紀前半)と神戸の五色塚(4世紀末〜5世紀初頭)は似た形をしている。


前方後円墳の築造は6世紀後半の仏教伝来とともに、プッツリと途絶えている。
古墳の築造は宗教と関係があったにちがいない。仏教伝来に伴う物部氏の弱体化とも関係があるかもしれない。
7世紀の朝鮮半島の国家の消長とともに、大量の移民が日本にやってくるのだが、彼らが仏教を奉じていたため、日本古来の宗教や習慣に多大の影響を及ぼしたと考えられる。

およそ下図のようなイメージになるだろうか。


イメージ 1





高崎市 綿貫観音山

2010. 6.12
群馬県高崎市の綿貫観音山古墳を見に行きました。
 
イメージ 1
 
墳墓の全長が約100mという大変見事な古墳です。
6世紀造とのことで、前方後円墳としては末期の築造です。
 
一帯は実に素晴らしく整備されていました。
前方部(左)と後円部(右)が同じくらいの高さで、整った前方後円形をしています。
さきたま古墳群の二子山と似ているような気がします。
 
最も美しい前方後円墳のひとつだと思います。
墳丘の姿が整っているからだけではありません。
玄室内の石組みが、実に美しいのです。
 
偶然グループの先客の方々がガイドさん付きで見えていて、
お陰さまで玄室の内部を便乗して見せていただきました。
 
イメージ 2
       深い玄室の奥の部分。
       群馬県ではこのような横穴式の玄室は3ヶ所のみとか。
 
       綿貫観音山古墳の天井石:http://blogs.yahoo.co.jp/kamitukeno_k/28597956.html
 
イメージ 3
 
側面の石組です。非常に精緻に組み合わされています。
先月見てきた 口明け塚 の雑さとは異質で、テレビで見たインカの遺跡を思い出しました。
 
これだけ立派な石室に埋葬されるのは、どんな人でしょうか。
天皇(大和の王)に匹敵するほど偉い人
上毛野の王ではないでしょうか。
 
この古墳については、6月29日の朝日新聞の夕刊で報じられるそうです。
 
墳墓は2段築成になっていて、輪郭線上や墳頂に美しい埴輪がていねいに並べられていたそうです。
 
古墳を見たあと、群馬の森、群馬県立歴史博物館に入りました。
群馬県立歴史博物館、素晴らしい博物館です。
綿貫観音山に並んでいた埴輪が展示されています。
 
イメージ 4
 
群馬県や栃木県の埴輪は実に生き生きとしています。
 
kawakatu先生の方で、衣装について考察されています。
三人の女子を横からも撮れば良かったですね。
歴史博物館の「総合案内」の p. 30  図版 36 を見ますと、三人の女の子はミニスカートをはいていてみんなタテの縞模様であることは分かりますが、裾のレース状模様というのは見えません。
 
この古墳が築造された時代には、関東地方にも仏教の波が押し寄せます。
仏教が伝わると同時に、仏像が重んじられ、埴輪は作られなくなってしまいます。
大きな墳墓を築き王を埋葬するという習慣も同時に廃れました。
このような埋葬方法は、仏教渡来前の一種の宗教的儀式だったのでしょう。
 
墳丘には埴輪が、玄室には百済から伝来したと思われる仏教的な金属器が副葬されていたことから、この古墳は、仏教伝来の渦中の時代に造設されたことがわかります。
 
 
截石切組積が見事な中塚古墳
 
ヨンサンガン流域の前方後円墳
 
 2017.9.16 追記
 (1) 「群馬県立歴史博物館 総合案内」, 1992, p.28-31
  綿貫観音山古墳の副葬品について。
  「水瓶」: 中国山西省の北斉時代 (550-557) の墳墓から同形のものが発見されている。
  「獣帯鏡」: 百済の武寧王 (在位501-522) 陵などから出土したものと同型。
いずれも輸入品と考えられ、これらの物は560年以降に埋葬されたか。 観音山は6世紀末の築造とされていて、宝物が古墳の主の生前ともにあったとすると、年代は合う。

大和では欽明〜敏達〜用明〜崇峻 の時代で、仏教などの大陸の文化がおそらく百済を通して流入し、政権に影響をあたえていた時代。

(2) 「前方後円墳の世界」 広瀬和雄, 2010, 岩波新書, p.51, 埋葬品
p.161-, 東国首長たちの反応
なぜ関東にもこのように立派な古墳が登場し、切石積み横穴式石室が採用されたのか?
「六世紀後半ごろ、東国では前方後円墳が急増」
「政治的結合を深めた東国首長層は、集団的な帰属意識を強化するため既往の墓室を革新したのです。切石積み横穴式石室はほぼ旧国ごとの首長層と、それをふくめた東国首長層という二重の心性、〈われわれ意識〉や自他意識をあらわしたのです。」
 
 
 

開く トラックバック(1)

南海の文化

イメージ 1
西都原考古博物館に展示されている子持ち家型埴輪(170号円墳から出土)
 
 
(1) 変な屋根
この家型埴輪を見たときはショックを受けた。これは宇宙人の家ではないか?
すごくモダンなデザインなのだ。当時の一般庶民の住居とは思えない。
おそらく天皇が住んだ宮殿にちがいない。
 
日本書紀巻第七 大足彦忍代別天皇 景行天皇 より

(景行十二年)十一月に、日向国に至られて、行宮をお建てになり居住された。これを高屋宮という。
(中略)
十三年の夏五月に、ことごとく襲国を平定された。天皇が高屋宮におられたのは、六年である。
さて、その国に御刀媛(ミハカシヒメ)という美人がいたので、お召しになって妃となさった。豊国別皇子をお生みになった。これが日向国造の始祖である。

                出典)中公バックス 日本の名著1 「日本書紀」 (1983中央公論社) 
 
しかしちょっと待って。どこかで見たことはありませんか? 東南アジアのどこかで?
 
東南アジア×建築様式 で検索してみると、似た形の屋根が見つかりました。
インドネシア、スラウェシ島の舟型屋根です。
 
インドネシア スラウェシ島の舟形屋根:http://www.harenet.ne.jp/jyurin/toraja.htm
アジアの建築様式 錣(シコロ)葺き:http://www.sumai.org/asia/refer/rekihaku.htm
 
 
形名さんからの情報によると、なんと、
関東に似たような家形埴輪が8棟も、実物配置のまま?で出土していました!
群馬県 赤堀茶臼山古墳(5世紀前半帆立型)の家形埴輪 
 
西都原170号墳

家屋文鏡 (2011.1.22 付記)
 
 
(2) 金色のトビ
 
日本書紀巻第三 神日本磐余彦天皇 神武天皇 より
 
(戊午の年)十二月の癸巳の朔丙申(四日)に、皇軍はついに長髄彦(ナガスネヒコ)と交戦した。しかし連戦してまだ決定的勝利を得ることができないでいた。すると突然天が暗くなって雹が降ってきた。不思議に思って見ていると、そこに金色の霊鵄が飛んできて、天皇の弓の弭(ハズ)にとまった。その鵄(トビ)の光がかがやいて、稲妻のようであったので、長髄彦の兵は、このためにみな目がくらんで、戦うことができなくなってしまった。
長髄はもともと邑の名で、それが人の名となったものであるが、ここで皇軍が鵄の瑞兆を得たので、時の人はこれを鵄邑(トビノムラ)と名づけた。いま鳥見(トミ)というのはこれを訛ったものである。
                 出典)中公バックス 日本の名著1 「日本書紀」 (1983中央公論社)
 
ここで、金色のトビとは、インドネシアに伝わるガルーダではないだろうか?
 
ガルーダ・インドネシア航空
 
 
 
イメージ 2
                     インドネシア舞踏劇 ラーマヤナ
 
 
 
黒潮に乗った貝の文化
 
 
 
 
 
  
古墳を見学して得られた知見をまとめ考察してみます。
 
(1)古墳は川の近くに築造される
また、入り江の奥にも造られる。
 
このことから、古墳の民は自由に舟を操っていたと考えられる。
 
 
(2)古墳の形は年代によりシンクロする
3世紀末の関東では前方後方墳から前方後円墳へと鮮やかに切り替わっています。
 
 
纏向型(3〜4世紀):前方部が細い。奈良県桜井市・天理市、宮崎県生目・西都原
大仙型(5世紀):最盛期の立派なタイプ。佐紀古墳群、西都原女狭穂塚・男狭穂塚
二子山型(6世紀):前方部が高い。埼玉古墳群二子山、西都原姫塚・船塚
円墳(6世紀後半):西都原鬼の窟、栃木県足利市口明塚
穴だけ(7世紀):西都原酒元ノ上、埼玉県吉見百穴
 
それ以前では御存じの通り、エジプトのピラミッド・秦の始皇帝稜は方形。東アジアに広く分布する一般庶民用の土饅頭は円形です。
 
このことから、古墳時代の人の行き来は盛んで、倭国連合の中でおそらく最強であった大和地方の古墳の形態が地方にも素早く波及している。前方後円墳を築造することにより、地方でもヤマト朝廷に従属していることを表明する必要があった。
 
特記しておきたいことは、「日本書紀」で度々登場する「日向」の地に、古墳時代の初期からある程度の大きさの前方後円墳があったことです。
 
宮崎では3世紀後半から前方後円墳の築造がはじまり、生目古墳群 → 西都原古墳群 → 祇園原古墳群 へと築造場所は移ります。前方後方墳は有りません。
 
生目古墳群の1号墳は3世紀末(または3世紀後半〜4世紀前半)で、箸墓の1/2スケールの相似形だそうです。http://himuka2.miyazaki.daa.jp/?eid=567284
西都原で最古の81号墳は3世紀中ごろ〜3世紀末で、纏向型とのことです。
 
 
日本書紀巻第三 神日本磐余彦天皇 神武天皇
中公バックス 日本の名著1 「日本書紀」 (1983中央公論社)より

神日本磐余彦天皇は諱を彦火火出見(ヒコホホデミ)といい、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)の第四子である。母は玉依姫と申し上げ、海童(海神)の女子のうち妹の方にあたられる。
天皇は生まれつき賢明で、意思も強固な方であった。御年十五のとき、皇太子になられた。
成長されてのち、日向国の吾田邑の吾平津媛を娶られて、手研耳尊(タギシミミノミコト)をお生みになった。
 
 諱(いみな):生きている頃の名前
 
 

足利市 藤本観音山

2010.5.16
イメージ 1
 
午後、麦畑のなかを藤本観音山古墳へむかう。
 
地図では近いが、歩くと遠い。ようやく着いた時には日も傾いている。
イメージ 2
 藤本観音山
全長116m。前方後方墳。4世紀代。
 
この古墳は前方後方墳だという。ちょっとめずらしいタイプ。
でも実物を見ても不完全な形に見えてよく分からない。
築造当時は樹が生えているはずはないし、後世にかなり破壊されたのでは...
前方部(写真左側)が後方部に比べてかなり低く、くびれ部はずいぶんくびれているようだ。
 
イメージ 3
 
説明板には、4世紀の築造と書かれている。
河内の大仙稜よりも古い。
 
イメージ 4
 
後方部は登ることができる。
 
藤本観音山へは、東武伊勢崎線福居駅(足利市の2つ手前)から、歩いて行けるが結構遠い。
日が傾いてすずしくなると歩きやすいが、心細くなってくる。

 
東へ西へ《太田市/足利市》 :http://blogs.yahoo.co.jp/kamitukeno_k/60037128.html
 
 
 
 

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
hop*519
hop*519
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

ブログバナー

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
検索 検索

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事