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古墳

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足利街道から口明塚へ

 
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(c) Google 2017.9.16
 
 
足利駅から東へ走るバスが有るかと思ったが、無かったので足利街道(県道67号)を東へ向かって歩く。
 
目的地は山川(やまがわ)南公園の口明け塚。日が照って暑い。たどりつけるかどうか。
 
      街道を歩き始めると早速、両毛線の線路側の公園に塚らしきものがあった。

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      日照りの中、足利街道をゆっくりと東へ。袋川の橋を渡り、両毛線の踏切を越える。
      白龍神社の近くで南へ曲がると、白瀧神社という怪しい神社がある。
 
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     後ろの山は古墳のようにも見えるが、形が整っていない。
 
      左手に公園が見えたので、目的地に着いたかと思ったが、これは山川北公園。

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      ここにも塚があったが、いくらなんでもこれは子どもが遊ぶためのお山だろう。
      公園には意外ときれいなトイレがあった。
 
      もう少し南へと進むと、つきあたりの神社の左手に広い公園があり、
      目指す円墳が出現した。口明け塚だ。

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名前の通り、口を開けている。きれいに整備されている。
近頃の公園は子供もいなくガランとしていることが多いのだが、ここには走り回る子供がいた。
 
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横穴の入り口は、安全のため門が閉じられていて、中を照らすライトが設置されている。
丸い塚は近代的にきれいな形に整っている。 横穴は粗削りな大きい岩石で組み立てられていて力強い。

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      口明け塚の隣にもうひとつ、海老塚古墳の石室が移設されてあった。

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目的は達したので、また来た道を西へ、足利駅へと引き返す。
 
足利駅から山川公園までの間、マックやコンビニは目にしなかった。
どうやって昼飯にありつこうか?
袋川の橋を再び越えてしばらく行くと、南側にイタリア料理店があった。
ここへ入って一休み。元気を取り戻した。
 
 
 
 
Ancient burial mound in Ashikaga city, Tochigi prif.; "Kuchia-dzuka".
  
 
宮崎県の西都原古墳群。

昨年は、博物館から第3古墳群〜第2古墳群へと巡ったところで、疲れてしまった。
今年は第1古墳群へと入ってみる。
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西都原第1古墳群 Saitobaru Burial Mounds 1st group (May 2010)


第1古墳群の中に入っていくと、西都原古墳群の南端に13号墳はある。

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西都原13号墳 Saitobaru No.13 Tumulus (May 2010)


13号墳は、西都原古墳群の北端にある100号墳に次いで古く、4世紀後半の築造とされている。西都原に30基ほどある前方後円墳のうちのひとつで柄鏡型。
3層の構造を持つように見えるが、前方部が後円部よりも低いのが、古い前方後円墳の特徴であると、西都原では説明されている。
なるほど、もっとも古い100号墳の葺石の層は前方部では2層しか見えないし、形も平べったい。
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西都原100号墳 Saitobaru No.100 Tumulus (May 2010)

同じく4世紀頃の、前方後方墳とされている、毛野国、藤本観音山古墳も前方部はきわめて低い。
一方13号墳では前方部も3層を成し、古墳の山がポコッと盛り上がった形をしている。
整備されたためかもしれないが、100号墳や藤本観音山古墳と比べて、より前方後円墳の完成形に近づいているように見える。

もっと新しい6世紀の築造とされる、北の船塚と南の姫塚では、前方部の幅・高さとも、ほぼ後円部とほぼ同じくらいに設計されている。これらの2基は、さきたま古墳群の二子山と似た形をしているように見える。

単なる墳墓である円墳に比べて、地域の首長の墓は祭祀を行うため、後方部がお祭り行事の場として築造されたのではないだろうか。

被葬者が天皇ではないとしても、前方後円墳の主は、死後も人が集まって祭祀を執り行うほど、偉い人、その地域の首長が埋葬されたのだろう。


13号墳の高く盛り上がった後円部の、3層目に横穴があり、穴の中を観察することができる。
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300基もある西都原古墳の中で前方後円墳は30基くらいあり、それらの築造年代は4〜6世紀にかけて分散している。
奇妙なことに、天皇稜を思わせるほど立派な女狭穂塚・男狭穂塚が4世紀前半に築造された後は、当地での前方後円墳の築造はプッツリと途絶えてしまう。その後5世紀の中ごろになって、西都原の南北にそれぞれ姫塚と舟塚が築かれている。

少なくとも3世紀にわたってこの地が栄え続けていたとして、その3百年間は平たんではなかったのだろう。
古墳の築造様式が畿内のみならず関東ともある程度連動している。また古墳の形態の変動や、前方後円墳築造の開始・中断・終息は、民族の移動や政権の消長と連動していたにちがいない。
さらに、それらの変化は大陸とくに朝鮮半島の国々の消長とも関係していたのではないだろうか。

 

(注)4世紀後半は、神功記に見える百済由来の七枝の刀に泰和四年?(369年)と記されている他、神功記には4世紀後半の百済の王名が記されていて、神功皇后当時の倭国は百済と同盟関係または従属していた可能性もある。

 
 
  
2010.5.3
昨年につづいて、ふたたび宮崎県の西都原を訪れました。

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鬼の窟へとつづく道

西都原古墳群:http://miyazaki.daa.jp/saitobaru/

西都原古墳群は畑の中にある。
とてもよく整備され公園のようになっているのだが、入場料は無料。

鬼の窟は第一古墳群の北のはずれ、古墳群全体の比較的中央部にあり
西都原古墳群のビジターセンターである「このはな館」に近い。

周りを大きな円形の堤防に囲まれた円墳で、横穴に入ることができる。ちょっと探検の気分。

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鬼の窟古墳 Saitobaru Burial Mound “Oni-no-Iwaya” (May, 2010)

円墳は前方後円墳ができる前の原始的な墓だと思っていたのだが、実は
前方後円墳が流行した後の6世紀後半に、この円墳は築造されたそうだ。

さきたま古墳群でも、円墳の丸墓山は、前方後円墳の稲荷山や二子山よりも後で築造されたとされている。



2010.5.16 栃木県足利市の古墳を見てきました。

毛野国の足利市東方にある円墳、口明け塚も、6世紀末頃の築造とされている。
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口明塚 “Kuchiake-zuka” in Ashikaga city (May 2010)

横穴の中をのぞいてみると、大きな岩石が荒く大胆に組まれていて、粗削りな造り方をされていた。

鬼の窟も口明け塚も石を組んだ立派な横穴がある。被葬者の生前から築造されていたのではないだろうか。どちらの古墳も良く整備されていました。






 
   

吉見百穴

2009.5.3 (日)
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                            吉見百穴 
 
さきたま古墳群をめぐり、博物館で勾玉を作ったあと、東松山市の吉見百穴に向かった。
しかし午後16時30分を過ぎていたので、閉館していた。 
 
親戚の家に一泊した翌朝、再び吉見百穴を訪れた。
 
園内に入ってみると、岩山にポコポコと穴が開いている。 
 
山に登って穴を近くから見てみると、穴は無造作に掘られているのではなく、入口は四角で底面は平になっている。
 
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多くの穴では左右に、棺を(または遺体を直接?)納めるように浅い浴槽のような造り(棺座)になっている。 上の写真は右側の棺座を覗いたところ。
壁には落書きが多い。
 
 
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考古学者が各地で発見された横穴や出土品との比較した結果、これらは古墳時代後期の横穴墓であると考えられている。
 
 
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古代の死生観
 
石室といえば、石舞台や八幡山古墳のように、どこかから大きな石を持ってきて組み立てたものとか、古墳の下部に掘られたトンネルのような穴を思い浮かべるが、ここの石室は造り方が異なり、もともとある岩山に一穴一穴彫り抜かれている。
 
かなり内部が広い穴もあるので、明治20年の研究で坪井博士が、「百穴は先住民(土蜘蛛ないし小人族コロボックル)の住居跡である」と推定した。 この説が真実であれば面白い。
斜面に四角い穴が並んでいるさまは、古代のアパートを思わせる。
 
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コロボックル
 
 
〔開館時間〕
入場は1630分まで。閉館は17時と早いが、穴を観察するため小山に登ったり、敷地内にある地下軍需工場跡や、ヒカリゴケ、吉見町埋蔵文化センターを巡ったりしていると、とても30分では足りない。
 
 
 
いにしへの 〜吉見百穴・埼玉古墳群〜
 
 
滝尾百穴 (大分県)
 
石貫ナギノ横穴群 (熊本県)
 
柏原市高井田横穴 (大阪府)
 
模様で装飾された横穴墓が人吉市にあるそうです。 
 
長岡百穴 (栃木県)
 
 
 
  

さきたま古墳群 3

2009.5.3
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将軍山古墳
 
 
丸墓山古墳、稲荷山古墳とまわって将軍山古墳に至る。まだまだ古墳はたくさんありそうなので、うっかりと将軍山古墳の横を通り過ぎてしまう。
しかしこの将軍山古墳の裏側には、横穴式石室の様子を紹介した展示館があった。
ここからも貴重な副葬品が出土しており、それらは朝鮮半島からの輸入品であったと考えられている。
 
 
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二子山古墳遠景
 
二子山古墳は武蔵国で最大の古墳で、畿内で見られるような典型的な前方後円墳の形をしていて、立派な内堀には水が湛えられている。
 
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二子山古墳
 
二子山古墳の脇のお茶屋さんで一休み、昼食。
茶屋のご主人から、古墳時代当地の主は、笠原直臣(かさはらのあたいのおみ)だと教えてもらった。それから、ガイドブック「行田がいいね!」をいただいた。
ここの冷やしうどんは、二種類のタレにつけて食べる。コシがあって美味しい。
 
 
日本書紀 巻第十八 広国押武金日天皇 安閑天皇 より

武蔵国造 笠原直使主と同族小杵と、国造を相争ひて、年経るに決め難し。小杵、性阻くして逆ふこと有り。心高びて順ふこと無し。密に就きて援を上毛野君 小熊に求む。而して使主を殺さむと謀る。使主覚りて走げ出づ。京に詣でて状を言す。朝庭臨断めたまひて、使主を以て国造とす。小杵を誅す。国造使主、悚り憙懐に交ちて、黙已あること能はず。謹みて国家の為に、横渟・橘花・多氷・倉樔、四処の屯倉を置き奉る。是年、太歳甲寅。

                    
日本書紀(三)岩波文庫 (1994),p.222
 
笠原直使主(かさはらのあたいおみ)   小杵(をき)   小熊(をくま)
横渟(よこぬ) 橘花(たちばな) 多氷(おほひ) 倉巢(くらす)
    
〔原注〕甲寅:534年にあたる。
 
 
稲荷山から出土した鉄剣に記された辛亥の年が471年であるとすると63年後の出来事、辛亥が531年だとすると、3年後の出来事となる
 
武蔵国で最大の古墳、二子塚が築かれたのは6世紀初めと推定されており、上の記事とほぼ同時期である。とすると埼玉古墳群の主は、安閑紀にみられる笠原直使主ら武蔵の国造ではないだろうか。
 
笠原直使主と争った上毛野君は、当地と比較的近くて古墳が点在する太田市あるいは藤岡市近辺に住んでいたのだろうか。
上毛野君は崇神天皇の子孫、笠原直使主は百済か高麗の血を引くとすると、巻向を中心とする倭国古来の勢力が朝鮮半島から流入した仏教を奉ずる新たな勢力に屈するという、重大な出来事があった時代なのかもしれない。
 
 
将軍山古墳・綿貫観音山古墳の出土物
 
武寧王陵、綿貫観音山古墳
 
藤岡市の古墳 欽明天皇と屯倉
 
武蔵国造 
 
常陸国霞ヶ浦の富士見塚古墳
 
 
 

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