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宮崎の西都原古墳群めぐり。 北の第3古墳群から出発して、東の第2古墳群を南下し、西都原古墳群の玄関にあたる南端の第1古墳群へ進んだところで、上の古墳に出会った。 この古墳、埋葬されていたのが女性だから姫塚というのか、あるいは形が愛らしいからそう言うのか? 西都原では一番立派な古墳が「女狭穂塚」とよばれているし、西都原の台地のふもとには都萬ツマ(妻)神社がある。 日向の国では、女性が大切にされてきたようだ。 日向出身の姫について、いつものように「日本書記」でさがしてみると、 巻第三 神大和磐余彦天皇カムヤマトイワレビコノスメラミコト 神武天皇 神大和磐余彦天皇は、諱タダノミナを彦火火出見といい、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトの第四子である。母は玉依姫タマヨリヒメと申し上げ、海童ワダツミの女子ムスメのうち妹の方にあたられる。 天皇は生まれつき賢明で、意志も強固な方であった。御年十五のとき、皇太子になられた。成長されてのち、日向国ヒムカノクニの吾田邑アタノムラの吾平津媛アヒラツヒメを娶られて、手研耳命タギシミミノミコトをお生みになった。 四十五歳になられたとき、兄命たちと御子たちに、つぎのような相談をされた。 「むかし、わが天神アマツカミの高皇産霊尊タカミムスビノミコトと大日孁尊オオヒルメノミコトは、この豊葦原瑞穂国トヨアシハラノミズホノクニをすべてわが天祖の彦火瓊瓊杵尊ヒコホノニニギノミコトに授けられた。そこで彦火瓊瓊杵尊は天のいわくらを開き、雲路をおしわけて、先ばらいをたてて地上に降臨された。このとき、この世はまだ野蕃で草昧であった。そこで、その蒙昧の中にありながら、みずから正しい道を養って、この西のはずれの日向を治めておられた。・・・」 日本書紀 中央公論社1983, p.121 日向ヒムカを「西のはずれ」といっている。スメラミコトはすでに畿内におられたのだろうか。 畿内のスメラミコトが日向から奥さんをもらう、ということは繰り返し行われていた可能性がある。 |
古墳
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2009.5.6 昨日ご紹介した100号墳を始めとして、第2古墳群を巡ってみた。 第2古墳群は、西都市街の北東に位置する台地の上にある西都原古墳群の東端、南北に切れる崖の上に沿って築かれている。 台地の上なので風通しがよく、居心地が良い。 上の写真で左折すると、崖を降りる石段になっており、国道219号線米良街道へ至る。 ここにも多数の小さい円墳はあるのだが、その他に前方部が細くて低い柄鏡型古墳が多数見られるのが特徴だろう。 大仙稜に代表される畿内の典型的な前方後円墳に比べると、柄鏡型古墳は貧弱に見えてあまり人気は無いかもしれない。しかしこの前方部の細い形が、前方後円墳のオリジナルの型なのだ。 関東のさきたま古墳群中で古い稲荷山古墳も、大和で最古の箸墓古墳も、くびれ部が細くて後円部が頭でっかちに見える独特の形をしている。ただし前方部の広がりぐあいは、ここ西都原よりも大きいようだ。 南端の81号墳・北端の100号墳が西都原で最も古い古墳なので、この第2古墳群全体が、西都原では早い時期から築かれた場所なのだろう。 第2古墳群を巡ってみて、大和の箸墓やさきたま古墳群の稲荷山のような、ここと同様に古い形態の前方後円墳を有する本州の地域との関連について考えさせられた。 広範囲の地域で、何百年ものあいだ古墳の文化が並存していたのだ。 現代とくらべて、ゆったりとした時間が流れていたのだろう。 |
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西都原、第2古墳群の北の端に、黒い地肌がむき出しになった古墳があった。 この古墳の形を見てハッとした。 大和で最古の形とされている箸墓ハシハカ古墳と似ているではないか? もちろんこの100号墳は全長57mで、全長272mの箸墓とはその規模において比ぶべくもないが、前方部がほっそりして徐々にひろがる形は、女狭穂塚や、第3古墳群の船塚のような典型的な前方後円墳の形とは異なっている。 古墳の前の説明盤を見ると、 『前方部と後円部の接続部分(くびれ部)付近で、壺型の土器が出土しており、この形から、100号墳が4世紀前半の古墳であることがわかり、現在、西都原古墳群で時期が確認されているものの内で最も古い古墳となっています。』 とある。ただしその後の調査により、第2古墳群南端にある81号墳が3世紀中頃〜後半の、西都原で最も古い古墳となった。 いずれにしても、ここ西都原には、最古の形と最盛期の形の両方の前方後円墳が、大和の地と同じように存在したのだ。 この点について、考古博物館に分かりやすく図示されていた。 左半分の黒地に赤で記された古墳は、畿内のもので、左から和泉・河内・大和の古墳について、大きさや形がほぼつかめるように記されている。 右半分の青地に赤で記された古墳は、南九州のもので、左から大隅・日向のものが並べられている。日向の古墳の中でも4列に分けて示されていて、一番幅が広い列には一ツ瀬川と記されていて、ここ西都原の古墳が示されている。 図の横線は上から下へ西暦200年から900年頃までの時代をカバーしている。 九州か畿内かどちらが先か、あるいは神武天皇が日向を出発して東征した結果大和朝廷が成立した、というような単純な一本道ではなくて、九州と畿内の両方に、約600年もの長きにわたって首長を墳墓に埋葬するという文化が並存していたことがわかる。 さらに、古墳があるのは畿内や南九州に限らない。全国あちこちで見つかっている。 最近になって、熊本の江田船山古墳やさいたま古墳群の稲荷山古墳から、「ワカタケル大王」(雄略天皇、5世紀)に仕えたことが漢字で記された剣が発見された。ワカタケル大王は中国の「宋書」に「倭王武」として記載されていることから、5世紀には九州から関東までの広域にわたって、畿内の大王による日本国の統治が行われていたことがわかってきた。 7世紀に入って仏教が日本の国に伝わる頃になると、「墳墓に埋葬することはやめよ」 というお触れが出され古墳はすたれる。その頃まで、延々と日本各地で古墳の築造が続けられたのだ。 箸墓って、だれの墓? http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub24.html 2009.5.30付け 朝日小学生新聞によると下記の通り。 箸墓を、畿内にたくさんある古墳のひとつ、とは考えない方がよいと思う。 箸墓が築かれたときには、他のほとんどの古墳は存在せず、 まっ平らな大和平野に突然、巨大な墳墓が築造されたのだから。 この墳墓の主は、当時にとってよほど重大な人物であったにちがいない。 奈良キックオフの古墳。 (ところで、「ナラ」って何だろう? まさかハンナラ党の나라ではあるまいが、古代の韓国語かも。) 2010.5.3 100号墳を再度訪れて見た横姿。 全体的に平たくて葺石や盛土が露出している。 箸墓も樹を剥いでみると、こんな姿をしているのだろうか?
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南九州での火山活動が収まったのちに、朝鮮半島から渡来した文化の一例として、百済の扶餘フヨの松菊里型住居を基本として、それを発展させた形態の「花弁状間仕切り住居」(花弁状竪穴住居)が宮崎で見つかっている。 地面の床の掘り込みが、単純な円形や楕円形ではなくて、部屋の間仕切りのためか、数枚の花びら状に掘り込まれた住居が、この地方には分布している。地面の中央に2本の柱を立てるための穴がある。北は一ツ瀬川流域(西都原がある)から、南は大隅半島まで分布していたらしい。 西都原の墳墓に埋葬された人は、この花弁状間仕切り住居に住んでいたのだろう。住居の建て方や土器と一緒に、墳墓に人を埋葬するという文化も伝わったのではないだろうか。 南九州の弥生文化:http://inoues.net/study/seminer3.html 国立扶余博物館:http://inoues.net/korea/fuyo_museum.html (注意:両サイトとも音♪が出ます) ふたたび日本書紀で九州に関する記述をさがしてみよう。 巻第七 景行天皇 より 大足彦オオタラシヒコ忍代別オシロワケノ天皇(景行天皇)は、活目入彦イクメイリビコ五十狭茅イサチの天皇(垂仁)の第三子で、母の皇后を日葉洲媛命ヒバスヒメノミコトと申し上げた。・・・ ・・・ (十二年の)八月の乙未の朔己酉(十五日)に、筑紫に行幸された。 九月の甲子の朔戊辰に、周芳の娑麽サバに至られたとき、天皇は、南の方を望まれて、群卿に詔して、 「南の方に煙が多くのぼっている。かならず賊がいるにちがいない」と仰せられた。 ・・・ 冬十月に、天皇は碩田国オオキタノクニ(大分)に至られた。その地形は、広大であり、かつ美しかった。そこで碩田となづけたのである〔碩田、これを於保岐陀オホキダという〕。 ついで天皇は、速見邑ハヤミノムラに至られた。そこに速津媛という女性がおり、一所の長であった(注1)。天皇が行幸されたと聞いて、みずからお出迎えして、 「この山には大きな石窟イワヤがございます。鼠の石窟と申します。二人の土蜘蛛 (注2)がおりまして、その石窟に住んでおります。ひとりを青といい、もうひとりを白といっております(注3)。 ・・・」 十一月に、日向国に至られて、行宮をお建てになり居住された。これを高屋宮タカヤノミヤという。 日本書紀 中央公論社1983, p.166~170 (注1) 古代の日本では、部族の長は女性、ということは普通であった。「卑弥呼」という言葉も、特定の人物を指すのではなく、女性の首長を示す一般名称であった可能性もある。 西都原考古博物館にも、女性のそばに武器が置かれた形で埋葬されているさまが展示されている。武器は必ずしも女性も戦ったという証拠とは限らず、権力の象徴であったのかもしれない。 (注2) 洞窟に住む土着の民のことを「土蜘蛛」と呼んでいたようである。西国平定(熊襲征伐)の話は、上の景行天皇紀の他、先に紹介した神宮皇后紀にも出ており、いずれも天皇(の軍)が「土蜘蛛を誅した」と伝えている。おそらく「土蜘蛛」とは、大陸から移住した民とは生活様式が異なる、土着の民を指した言葉ではないだろうか。 埼玉の吉見百穴にはたくさんの石窟がある。横穴式の墓と考えられるが、中がかなり広いものもあり、人が住めないこともないかもしれない。 蛇足だが、北米のホピ族では、洪水の時代に部族をアメリカ大陸へと導いたのは「クモ女」であると言い伝えられている。 Cf.http://blogs.yahoo.co.jp/hopi519/24554341.html (注3) ホピ族には青笛族、白笛族の言い伝えがある。 Cf.http://blogs.yahoo.co.jp/hopi519/25101935.html ドングリの食べ方: アクが強いので、何度も煮てはアク抜きを繰り返した後、すりつぶして粉を乾かし、クッキーのように焼く。 https://otokonakamura.com/donguri2013-3/ 宮崎市発掘調査速報 2015.2 (12/8 追記) いちばん下に中須の周溝状遺跡 http://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/culture/history/2195.html 阿波岐原町中須の場所: https://map.yahoo.co.jp/maps?lat=31.94769375&lon=131.43279437&ac=45201&az=110&z=16&id=&fa=pa&ei=utf8&p=%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E7%9C%8C%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E5%B8%82%E8%8A%B1%E3%82%B1%E5%B3%B6%E7%94%BA# なお「中須遺跡」は益田市にもあるようです。 宮崎市 桜町遺跡 発掘調査報告書 https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/3158 桜町の場所 https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%97%A5%E6%9C%AC/@31.9507268,131.4227444,14z/data=!4m5!3m4!1s0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244!8m2!3d36.204824!4d138.252924?hl=ja なお「桜町遺跡」は富山県小矢部市にもあるようです。 『日本書紀』からの引用 中公バックス p.67 神代 上 黄泉国(よもつくに)と檍原(あはぎはら)のみそぎ 『(前略)伊弉諾尊(いざなぎのみこと)はほうほうのていで帰りつかれたが、あらためて後悔して仰せられるには、 「さても余はおろかしくも不吉できたない所に行ってきたものだ。どれ、わが身のけがれをすすぎ流すことにしょう」ということで、お出かけになり、やがて筑紫の日向の小門(おど)の橘の檍原(あはぎはら)に着かれてみそぎ祓(はらえ)をされた。そして身体についたけがれをすすぎ流そうとして、声をはりあげて、 「瀬の上流の方は流れがはやすぎる。また下流は弱すぎる」と仰せられて、流れの具合がちょうどよい中瀬におり立ってすすがれた(後略)』宮崎市の沿岸には今も阿波岐原があって、川が流れている。 ここで「橘の小戸」がどこのことを指すのか不明だが、阿波の国だという説がある。 http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_218.html この場合「日向」(ひむか)は宮崎とはかぎらず東(ひむがし)の意味ととられる。 宮崎の阿波岐原の場合、原の読みが「バル」ではなく台地でもない点ではやや違和感がある。 同じく『日本書紀』p.197 神代 下 海幸·山幸と豊玉姫の物語 『(前略)ところが天孫(彦火火出見尊:ひこほほでみのみこと)は結局我慢ができなくて、そっとのぞいてしまわれた。すると豊玉姫はお産をされるときに竜に化身しておられた。豊玉姫はその姿をのぞかれたことをたいそう恥て 「もし私をこんどのようにはずかしめたりなさらなかったなら、今後も海と陸の間を通って、永久にお別れすることもなかったでしょうに。いまはずかしめをうけましたので、その道も絶たれました。もはや、どうして睦まじくしていただくことができましょう」といって、生まれた御子を草(かや)でつつんで海辺に棄てて、海の道を閉じてまっすぐに帰ってしまわれた。そこでその御子を彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこ なぎさたけ うがやふきあえず の みこと)と申し上げる。その後久しくたって彦火火出見尊が崩ぜられた。よって尊を日向の高屋の山上の陵に葬りまつった。』 これは海岸の近くの出来事で、宮崎には西都原のように台地の上にたくさん古墳がある。そのどこかに彦火火出見尊は葬られたのだろう。 |
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ここ西都原でみられるような、墳墓に埋葬するという習慣は、おそらく朝鮮半島から伝わった。 また、王の墳墓である古墳からは、埋葬品として馬具が各地見つかっていることから、大陸からの騎馬民族の侵入を経て古墳時代が進行し、大和朝廷が成立したと考えられる。 その際の大陸文化の入口は、北九州であったり、山陰地方であったのだろう。 一方で、それより前の縄文時代から日本に人が住んでいたことも確かである。 また大和朝廷が成立した後も、沖縄や九州では、南方からの交流の機会は畿内よりも多かったはずだ。 たとえば、沖縄のチャンプルや長崎のチャンポンにつながる、ごちゃ混ぜ料理の語源はインドネシア・マレーシアだった。 (注)ウィキペディア:「チャンプルー」の記事の〔語源〕参照。 飫肥天・薩摩揚げはタイのfish cake と似ていて大変おいしい。魚をすりつぶして揚げるという文化も、東南アジアから伝わったのだろう。 植物を醸して酒をつくるという技術は、中国から沖縄、薩摩、日向へと伝わったのではないだろうか? 西都原考古博物館では、黒潮に乗って、南から民や貝の文化が渡来したことが示されていた。 縄文のころ、南方から黒潮に乗った民が到着していた。 フィジーあたりから出発し(注1)、ニューギニア、フィリピン、沖縄、九州へと伝わる海域は、貝細工のブレスレットが共有されていることから、ひとつの文化圏と見なせるかもしれない。 ただし、これら貝の文化は、鹿児島から宮崎ではなくて熊本・長崎を通って、北九州へ伝わっているように図示されている。 日向の国、宮崎で発見された古代の遺物は比較的乏しいようだ。その理由は、火山活動による火山灰の厚い層が堆積して人が住みにくい土地であった時代が長かったためと考えられている。 (注1) フィジーでは貝のことを”kai”と呼んでいたようだ。“The Fiji Journals of Baron Anatole von Hügel 1875-1877”, Fiji Museum with CUMAA, (1990), p.32, 34 http://blogs.yahoo.co.jp/hopi519/20750874.html 南海の文化 http://blogs.yahoo.co.jp/hopi519/60797718.html 2012.5.20追記 木下尚子先生 http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1101330127/subno/1 http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/history/his/koukogaku/contents/kenkyushitsu-shokai/kyoin-syokai/kinoshi.htm |



