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5月18日木曜日の夕方に、京都府南部、相楽郡の和束町で白いカラスが見つかった、と報道されている。
むかしから白い動物というのは吉祥と考えられている。
日本書紀に、白い雉についての記載があった。
西暦650年、今から1367年前のこと...
当時はもの知りの学者といえば、大陸から渡来した仏教僧だったので、法師に白い雉についてたずねている。
この節に登場する百済君(豊璋)は、実は天智天皇だったのではないかと私は考える。天智天皇は、実名ではなく中大兄皇子と呼ばれ、皇太子なのにスムーズに天皇に就任できず、実権を握るために旧来の勢力を強引に滅ぼし、近江遷都も含めて飛鳥人には不人気であった。日本の正当な大王家の世継ぎらしくない点が多い。
上の記事の後、660年に故国の百済が滅ぼされ、天智天皇は唐から日本を守るために664年北九州に水城を築き、667年に近江京へ遷都したのち、668年には高句麗が滅ぼされる。671年に病死とあるが、京都の山科で殺害された可能性もあるという(扶桑略記)。
日本の政治を掌握した朝鮮半島の王族が、中国人や日本原住民(多分まだ読み書きできない)に王権の正当性を主張するために、『日本書紀』を編纂する必要があった。大陸から帰化した貴族が日本で権力を持つと同時に仏教が導入され、前方後円墳の築造は行われなくなった。
白いカラスの出現によって、日本の歴史について考えさせられた。
「扶桑略記」 巻第五 天智天皇 http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/kiryaku/fs05.htm#40
一云,天皇駕馬,幸山階鄉,更無還御。永交山林,不知崩所。【只以履沓落處,為其山陵。以往諸皇,不知因果,恒事殺害。】山陵,山城國宇治郡山科鄉北山。【高二丈,方十四町。】
※「恒事」の意味が分からない。「恨事」ではないだろうか?
6月16日に、山城国宇治郡山科郷(現在の京都市山科区)にある天智天皇陵をおとずれました(以下8月17日追記)。
この陵が作られたあと、平城京や平安京が築かれ、藤原家が天皇を利用しながら、貴族による政治が400年くらい続きます。蘇我家(飛鳥の大王家)を滅ぼすのを手伝ったのが藤原鎌足、天皇家の正当性を中国に主張するために日本書紀を編纂したのは藤原不比等でした。
天智天皇が百済を守るために派兵したことから、蘇我氏以後の天皇家のルーツは百済の王族であった可能性が考えられます。
蘇我家全盛の飛鳥時代には、朝鮮半島ではなくて隋へ頻繁に使者が送られていました。それ前の300〜400年間は、文字を持たない前方後円墳と埴輪の時代が続いていました。
西暦540年頃の中国梁の時代の絵巻に、ペルシャ人・タジキスタン人と並んで、百済の国使と倭の国氏が、かなり異なる姿で描かれています(1)。
また天理の石上神社の伝わる七支刀は、西暦370年頃に東晋由来の刀が百済で作り直されて、倭国へ贈られたと考えられており(2)(3)、古墳時代の倭国と百済を含む朝鮮半島は、交渉はあったけれども別の国であったと考えられます。
1世紀に倭国から後漢へ朝貢があったとされており(4)、その後七支刀が下賜されるまでの時代(女王卑弥呼含む)には銅鏡が尊ばれていたことから、朝鮮半島よりも中国との関係が強かったようです。
奈良(韓国語でクニの意味)時代・平安時代の貴族が朝鮮半島の貴族の血を受けついでいたとしても、中国の文化の高さには一目おきながら、日本独自の平仮名文化や武家文化が育っていったのではないでしょうか。
(1) 井沢元彦「逆説の日本史」 2008 小学館, p.28-29
(2) Wikipedia
(3) 「原色日本の美術1 原始美術」 1970 小学館, p.152, 168
(4) 「高句麗壁画古墳報道写真展」 2012 共同通信社, p.80 年表
9月2日追記 羽が白いカラス
額田王は天智を愛した
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日本書紀
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飛鳥の時代、皇族が保養のため紀の国の白浜(牟婁:むろ)の温泉を訪れていた。
上の歌から、帝の一行は陸路ではなく海路で牟婁へむかったことがわかる。
港がある田辺から本宮へ至る山道は、熊野古道のうちの中辺路として平安時代には通じていた。
狂人のふりをしていた有間の皇子は、このあと天皇への謀反の濡れ衣を着せられ蘇我赤兄に殺される(658)。墓石が海南市にある。
有間皇子の歌:
磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む(万葉2-141) 出典(2) Wikipedia 有馬皇子
(3) 千里の浜 岩代の歌碑 http://whitenoel.com/saigyou/wakayamaken/wakayama_renrinohama.html
(4) 熊野古道〔中辺路〕ウォーク http://30.pro.tok2.com/~saikoro/12...digital/20070217ayabe.htm 660年、百済は唐と新羅の挟み撃ちにあい滅ぼされる。斉明天皇は百済を救おうとして出兵した九州で亡くなる(661)。御陵は現在では明日香の 牽牛子塚 と考えられており、娘(間人皇女)と一緒に葬られた双穴の石室のそばには愛した孫の建王ではなく孫の大田皇女の小さい石室がある。
民を苦しめた石槨の役は今後行わないと天智天皇は詔した(6)。
明治時代に菌類の研究をした紀州の人、南方熊楠も温泉をこよなく愛した(7)。
※ハヒフヘホで読むところにパピプペポ・バビブベボの漢字が当てられている。
(6) web日本書紀 http://www.j-texts.com/jodai/shoki27.html
(7) 「南方熊楠」別冊太陽 日本のこころ―192,中瀬喜陽監修, 2012, p.67, 安田忠典 2017. 9. 9 追記
のちの世、文武帝の大宝元年 (701) に紀伊国への行幸のときに詠まれた歌
三名部の浦 潮な満ちそね鹿島なる 釣する海人を見て帰り来む (万葉集 1669) 軽皇子(文武)の夫人は紀州日高出身の藤原宮子。ふたりの子は首(おびと=聖武天皇)、首の后は安宿姫(あすかべひめ=光明子)。首皇子は母が平民の出ということでなかなか即位できなかった。その時期に中継ぎで皇位についたのが氷高皇女(ひたか=元正天皇)。軽皇子を即位させるために滅ぼされた長屋王の父は高市皇子、母は御名部皇女(みなべ)。この時代の皇室は紀州にゆかりがあった。
悲劇の皇子:有間皇子 (ありまのみこ)
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『日本書紀』の神功紀には、葛城の襲津彦が出てくる話がもうひとつ、『百済記』から引用されている。
中央公論社『日本書紀』巻第九 気長足姫尊 神功皇后 より (気長足姫の)六十二年(西暦382年)に、新羅が朝貢してこなかった。 その年に、襲津彦を遣わして新羅を討たしめた。 ■沙至比跪と襲津彦: 『百済記』に見える沙至比跪と、『日本書紀』の襲津彦は同一人物と思われる。海外の文献にも記されていることから、この人物がその頃実在した可能性は高い。(注1)
■襲津彦の運命: 沙至比跪は新羅へ派遣されたが、新羅を倒すかわりに加羅を滅ぼしたとある。また後略の一説にはその後日本へ帰還し、石穴に入って死んだと記されている。
■当時の大和朝廷: 神功紀によると、気長足姫は六十九年(西暦389年)に磐余の稚桜宮で亡くなり〔年齢一百歳〕、狭城の盾列陵に葬ったとある。この時点ではおそらくまだ朝廷は河内へは移っておらず、磐余の朝廷から、新羅征討軍が朝鮮半島へ派遣されたのであろう。
なお神功紀四十七年条に『千熊長彦(ちくまなかひこ)を新羅に遣わし』たとあり、四十九年条には『荒田別(あらたわけ)と鹿我別(かがわけ)を将軍とした』とあり、新羅へ派遣されたのは襲津彦に限らない。
■襲津彦の子孫: 襲津彦の娘磐之媛が仁徳(讃?)に嫁ぎ履中(讃?)・反正(珍)・允恭(済)を産んだと伝わるので、襲津彦は倭の五王のうち三人のおじいちゃんということになる。
とすれば襲津彦が宮山古墳ほど立派な古墳に葬られるというのももっともなことだ。(注2)
(注1) 『百済記』など朝鮮の文献
『百済記』は百済三書のうちの一書であるが、他の二書と同様に実在しておらず、『日本書紀』での引用のみから、その存在を知ることができる。引用文中で「倭国」のことを「貴国」と記すなど、日本書紀編集時に改竄された可能性はある。
推古紀の二十八年(西暦620年)に、『この歳、皇太子と嶋大臣(蘇我馬子)とは、協議して、天皇記および国記、臣連伴造国造百八十部ならびに公民などの本記を記録した』 とある。また皇極紀の四年(西暦645年)に、『(四年六月の丁酉(34)の朔)己酉(46)に、蘇我臣蝦夷らは、誅殺されるにあたって、天皇記・国記、および珍宝をことごとく焼いた。船史恵尺(ふねのふびとえさか)は、すばやく焼かれようとする国記を取りだして中大兄にたてまつった。』 とある。これらの国記の中に、『百済記』が含まれていたのではないだろうか。その後西暦663年に百済は滅亡する。『百済記』は、百済から倭国へ帰化した貴族や僧・学者によって、倭国で編纂された書物なのかもしれない。
一方、12世紀に編纂された朝鮮の『三国史記』には、納祇王(ヌルジワン)の時代(417-457)に、堤上が倭軍に捕らわれていた未斯欣(みしきん=みしこちほっかん?)を逃がした結果、処刑された話があり、『日本書紀』神功五年の話と似ている。
また13世紀に記された朝鮮の『三国遺事』には、同じ時代に高句麗の人質となっていた新羅王の弟宝海と倭国に人質となっていた王子美海を、金堤上が自分を犠牲にして逃がしたことが美談として伝えられており、同様の出来事でも新羅と倭国とでは全くとらえ方が違っていておもしろい。
(注2) 関連する人物の古墳の場所と大きさ)
宮山古墳(御所市室):238m、4世紀末〜5世紀前半
神功皇后稜(奈良市、佐紀盾列、五社神古墳):273m、4世紀末〜五世紀初
磐之媛陵(奈良市、佐紀盾列、ヒシアゲ古墳):219m、5世紀中葉〜後半
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奈良県御所市の室(むろ)にあるあの立派な 宮山古墳 に埋葬されたのは誰でしょうか?
5月6日の記事へkawakatu先生からいただいたコメントによると
葛城襲津彦の古墳 だそうです。
それでは、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)はどんな人だったのでしょうか?
襲津彦が出てくる記事を『日本書紀』から捜してみましょう。
中央公論社『日本書紀』巻第九 気長足姫尊 神功皇后 より
神功紀は中国の『魏志』の「卑弥呼」の記載とつじつま合わすために、その時代に女王をでっちあげた、と見られていますが、それはともかくとして当時を推察してみると
■年代: 神功紀の末尾に記載されている百済の王の消息の年代から推定すると、4世紀後半の話と考えられる(120年前倒し説を採用)。
■新羅遠征: 葛城の襲津彦は新羅へ出征し捕虜を連れて帰った。本巻の前半では皇后自らが新羅へ出征したことになっているが、実際に新羅へ出向いたのは葛城襲津彦率いる船軍だったのだろう。 ただし新羅へ渡った目的は征伐のみとは限らず、 貴金属や職人を求めて行ったのかもしれない。
朝鮮半島と畿内の間を舟で行き来できたということは、途中の吉備や播磨の装飾文様や石材を持帰ることもできたと考えられる(大和川河口から瀬戸内海を通った)。
■帰化人: 御所市に佐味・高宮、葛城市に忍海があるので、新羅人が定住したのは、金剛山・葛城山麓である。桑原は今の地図で見つけられなかったが、絹織も始めていたのだろう。日本書紀は多くの部分が作り話と見なされることもあるが、この部分は現在残る地名と合致している。
新羅人のことを漢人(あやひと)と呼んでいます。 帰化した大陸人のうち、百済出身がこのあと大和朝廷の本流を支え、新羅出身も大和朝廷を補佐したり謀反に加担したりしたのでしょう。
同じ個所を記事にされている方がありました
倭国と大陸交流年表
葛城襲津彦と三国史記
襲津彦とソの国
葛城襲津彦
4世紀に大和盆地に存在した東の纏向、西の葛城
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巻第二十九 天武天皇 下より 『(天武五年の夏四月に) 「諸王・諸臣の封戸(ヘヒト)の税(オオチカラ)は、京より西の国に賜るのをやめ、東の国にふりかえて賜うこととする。・・」 「礪杵郡(トキノコオリ:岐阜県土岐郡)にいる紀臣訶佐麻呂(キノオミカサマロ)の子を東国(アズマノクニ)に移し、その国の百姓(オオミタカラ)とせよ」と言われた。』 日本書記 中央公論社1983, p.414 『(天武十四年の秋七月の乙巳の朔)辛未(カノトヒツジ;27日)に、詔して、 「東山道(ヤマノミチ)は美濃以東、東海道(ウミノミチ)は伊勢以東の諸国の優位者には、みな課役を免除せよ」と言われた。』 壬申の乱での功績により東国の民は徴税・課役について優遇される。 『(天武十一年)五月の癸巳の朔甲辰に、倭漢直の人々に、姓(カバネ)を賜って連(ムラジ)といった。』 日本書記 中央公論社1983, p.416, 430 『(天武十三年)五月の辛亥(カノトイ)の朔甲子(キノエネ;十四日)に、帰化してきた百済の僧尼および俗人合わせて二十三人を、みな武蔵国に住まわせた。』 同上, p.436 天武十三年は684年。 東国に定住の地を与えられ、大陸から渡来した民の地位が認められていく。 以上のように概観すると、中国に侵略された朝鮮半島の民が日本へ流入したことに伴って大和朝廷は大いに混乱したが、それを経て奈良王朝が確立し、日本の政治体制が整ったように見られる。 百済の民、安房の那古船方に至る:http://blogs.yahoo.co.jp/hopi519/50844929.html |







