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白雉と天智天皇


5月18日木曜日の夕方に、京都府南部、相楽郡の和束町で白いカラスが見つかった、と報道されている。


京都新聞 5/19() 22:40配信

http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20170519000190むかしから白い動物というのは吉祥と考えられている。
日本書紀に、白い雉についての記載があった。
西暦650年、今から1367年前のこと...

白雉の出現

白雉(ハクチ)元年(650年)の春正月の辛丑(カノトノウシ)の朔に、(孝徳)天皇は味経宮(アジフノミヤ:
難波)におでましになり、正月の拝賀の儀に臨まれた。同日、天皇は宮(長柄豊碕宮)にお帰りになった。

二月の庚午(カノエウマ:=7)の朔戊寅(ツチノエトラ=15; 15-7+1=9日)に、穴戸国司(アナトノクニのミコトモチ:穴戸は山口県)の草壁連醜経(クサカベのムラジシコブ)が白い雉を献上し、

「国造首(クニノミヤッコのオビト)の一族の贄(ニエ)が、正月の九日に麻山(オノヤマ)で捕まえました」と申し上げた。
そこでこのことを百済君(クダラノキミ:王子豊璋)に尋ねると、百済君は、
後漢の明帝の永平十一年(68)に、白い雉があちこちに見えたと申します」云々と申し上げた。
また、沙門(ホウシ)らに尋ねると、沙門たちは、
「いままで聞いたことも見たこともございません。天下に罪をゆるし、民の心をよろこばせるのがよろしゅうございます」とお答えした。

道登(ドウトウ)法師は、
「昔、高麗の国で寺院を建てようとし、建てるべき地をくまなくさがしましたところ、白い鹿がゆっくりと歩いているところがございました。そこでその場所に寺院を建て、白鹿園寺(ビャクロクオンジ)と名づけて仏法を護持するところといたしました。また、白い雀がある寺の農園に見えたときに、高麗の人々は『めでたいしるしだ』と申しておりました。このようなささいなものまで、みなめでたいものだと言っております。白い雉ということになればもちろんでございましょう」と申し上げた。

僧旻(ミン)法師は、
「これは休祥(ヨキサガ: 天がお授けになっためでたいしるし)といって、たいへん珍しいものでございます。聞くところによりますと、王者の徳が四方にあまねく施されるときには、白い雉が見える。王者が神々の祭祀をあやまたず、衣食に節度をもつときにはそれがやって来る。また王者の行いが潔白なときは山に白い雉が出て、王者が恵みぶかい聖王であるときにそれがみえる(1)とか申します。また、周の成王のとき、越裳氏(オツジョウシ:インドシナ半島にあった国)が来て白い雉をたてまつり、『わが国の老人が申しますには、久しく風雨洪水の災がなく、もう三年にもなる。おそらく中国に聖人がおられるからだろう。なぜ行って拝朝しないので、とのことでした。それゆえ、異国からはるばるとまいったのでございます』と言った(2)ということでございます。また、晋の武帝の咸寧(カンネイ)元年(275)に、松滋(ショウジ:安徽省の地名)に白い雉が見えた(3)とのことでございます。まさしく休祥(ヨキサガ)でございますので、天下に罪をゆるすのがよろしゅうございます」と申し上げた。そこでその白い雉を庭園に放たせた。

「日本書紀」1983, 中央公論社 日本の名著1 井上光貞責任編集 p.365

 
原注
(1) 王者の徳が四方にあまねく···· この文は、『芸分類聚』祥瑞部、雉条によるもの。
(2) 周の成王のとき、越裳氏が来て···· この文は、『芸分類聚』水部、海水条によるもの。
(3) 晋の武帝の咸寧元年に、···· このことは『宋書』符瑞志に見える。


当時はもの知りの学者といえば、大陸から渡来した仏教僧だったので、法師に白い雉についてたずねている。
この節に登場する百済君(豊璋)は、実は天智天皇だったのではないかと私は考える。天智天皇は、実名ではなく中大兄皇子と呼ばれ、皇太子なのにスムーズに天皇に就任できず、実権を握るために旧来の勢力を強引に滅ぼし、近江遷都も含めて飛鳥人には不人気であった。日本の正当な大王家の世継ぎらしくない点が多い。
上の記事の後、660年に故国の百済が滅ぼされ、天智天皇は唐から日本を守るために664年北九州に水城を築き、667年に近江京へ遷都したのち、668年には高句麗が滅ぼされる。671年に病死とあるが、京都の山科で殺害された可能性もあるという(扶桑略記)。
日本の政治を掌握した朝鮮半島の王族が、中国人や日本原住民(多分まだ読み書きできない)に王権の正当性を主張するために、『日本書紀』を編纂する必要があった。大陸から帰化した貴族が日本で権力を持つと同時に仏教が導入され、前方後円墳の築造は行われなくなった。


白いカラスの出現によって、日本の歴史について考えさせられた。



6月16日に、山城国宇治郡山科郷(現在の京都市山科区)にある天智天皇陵をおとずれました(以下8月17日追記)。

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この陵が作られたあと、平城京や平安京が築かれ、藤原家が天皇を利用しながら、貴族による政治が400年くらい続きます。蘇我家(飛鳥の大王家)を滅ぼすのを手伝ったのが藤原鎌足、天皇家の正当性を中国に主張するために日本書紀を編纂したのは藤原不比等でした。

天智天皇が百済を守るために派兵したことから、蘇我氏以後の天皇家のルーツは百済の王族であった可能性が考えられます。
蘇我家全盛の飛鳥時代には、朝鮮半島ではなくて隋へ頻繁に使者が送られていました。それ前の300〜400年間は、文字を持たない前方後円墳と埴輪の時代が続いていました。

西暦540年頃の中国梁の時代の絵巻に、ペルシャ人・タジキスタン人と並んで、百済の国使と倭の国氏が、かなり異なる姿で描かれています(1)。
また天理の石上神社の伝わる七支刀は、西暦370年頃に東晋由来の刀が百済で作り直されて、倭国へ贈られたと考えられており(2)(3)、古墳時代の倭国と百済を含む朝鮮半島は、交渉はあったけれども別の国であったと考えられます。
1世紀に倭国から後漢へ朝貢があったとされており(4)、その後七支刀が下賜されるまでの時代(女王卑弥呼含む)には銅鏡が尊ばれていたことから、朝鮮半島よりも中国との関係が強かったようです。
奈良(韓国語でクニの意味)時代・平安時代の貴族が朝鮮半島の貴族の血を受けついでいたとしても、中国の文化の高さには一目おきながら、日本独自の平仮名文化や武家文化が育っていったのではないでしょうか。


(1) 井沢元彦「逆説の日本史」 2008 小学館, p.28-29
(2) Wikipedia
(3) 「原色日本の美術1 原始美術」 1970 小学館, p.152, 168
(4) 「高句麗壁画古墳報道写真展」 2012 共同通信社, p.80 年表

9月2日追記  羽が白いカラス

額田王は天智を愛した




有間皇子と白浜温泉♨



飛鳥の時代、皇族が保養のため紀の国の白浜(牟婁:むろ)の温泉を訪れていた。


イメージ 2


乙巳(いっし)の変 の後、百済と高麗が唐と新羅の連合軍によってたてつづけに滅ぼされる前の激動の時代のお話。


(斉明)三年(657)九月に、有間皇子(孝徳天皇の子)は悪がしこい性格で、狂人をよそおった、云々。

牟婁温湯(むろのゆ 和歌山県西牟婁郡白浜町の湯崎温泉)に行って病気療養のまねをし、帰って来て、その国の状態を賛美して、「わずかにかの地を見ただけで、病は自然に治ってしまいました」云々と言った。天皇(斉明)はこれを聞いてお喜びになり、行ってみたいとお思いになられた。

 四年(658)五月に、皇孫建王(たけるのみこ 天皇の孫で、中大兄皇子には数少ない男子の一人)が八歳で薨じられた。今城谷(奈良県の曾我川上流の地か)の辺りに殯宮を造って納めた。天皇は、皇孫が生まれつき従順で節操があることから、大切になさっていた。群臣に詔して、「私の死後、必ず我が陵に合葬せよ」と仰せられた。そうして歌を詠まれて、

 今城なる 小丘の上に 雲だにも 著しく(しるしく)立たば 何か嘆かむ
 ―今城の小丘の上に、せめて雲だけでもはっきりと立ったなら、どうしてこれほど嘆こうか

 射ゆ鹿猪(しし)を 認ぐ川上(つなぐかわへ)の 若草の 若くありきと 吾が思はなくに
 ―射られた鹿猪を追って、足跡をたどる、その川辺にはえる若草のように、若く幼かったとは私は思わないのに

 飛鳥川 漲らひつつ 行く水の 間も無くも 思ほゆるかも
 ―飛鳥川が溢れるように盛り上がって流れて行くその水のように、絶え間なく思われてならないことだ

と仰せられた。天皇は折々にこれらを口ずさんでお泣きになった。

 冬十月の十五日に、天皇は紀温湯に行幸された。天皇は皇孫建王を思い出し、傷心悲泣して口ずさまれて、
 山越えて 海渡るとも おもしろき 今城の内は 忘らゆましじ
 ―山を越えて海を渡っても、楽しい今城のことは、決して忘れられないであろう

 水門の(みなとの) 潮のくだり 海くだり 後ろも暗に 置きてか行かむ
 ―川口から潮流に乗って海路を下って行く、後のことが気がかりで暗い気持ちのまま、残し置いて下って行くのであろうか

 愛(うつく)しき 吾が若き子を 置きてか行かむ
 ―いとしい私の幼子を、後に残して行くのであろうか

と仰せられた。そして秦大蔵造万里(はだのおおくらのみやつこまろ)に詔して、「この歌を後世に伝えて、決して忘れさせてはならない」と仰せられた


(1) 「日本書紀 下 風土記小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守, 2007, 日本の古典をよむ3, 小学館


 上の歌から、帝の一行は陸路ではなく海路で牟婁へむかったことがわかる。



イメージ 1

 港がある田辺から本宮へ至る山道は、熊野古道のうちの中辺路として平安時代には通じていた。
 
 狂人のふりをしていた有間の皇子は、このあと天皇への謀反の濡れ衣を着せられ蘇我赤兄に殺される(658)。墓石が海南市にある。
 有間皇子の歌:
磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む(万葉2-141)

家にあれば 笥(け)に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る(万葉2-142)
出典(2) Wikipedia 有馬皇子


     660年、百済は唐と新羅の挟み撃ちにあい滅ぼされる。斉明天皇は百済を救おうとして出兵した九州で亡くなる(661)。御陵は現在では明日香の 牽牛子塚 と考えられており、娘(間人皇女)と一緒に葬られた双穴の石室のそばには愛した孫の建王ではなく孫の大田皇女の小さい石室がある。


     民を苦しめた石槨の役は今後行わないと天智天皇は詔した(6)



     明治時代に菌類の研究をした紀州の人、南方熊楠も温泉をこよなく愛した(7)


     


     

    《斉明天皇三年(六五七)九月》
    ◆九月。有間皇子性黠。陽狂、云々。徃牟婁温湯、偽療病。来、讃国体勢曰。纔観彼地。病自觸消、云云。天皇聞悦、思欲徃観。
    《斉明天皇四年(六五八)五月》
    ◆五月。皇孫建王年八歳薨。今城谷上起殯而収。天皇本以皇孫有順、而器重之。故不忍哀傷慟極甚。詔群臣曰。万歳千秋之後、要合葬於朕陵。輙作歌曰。
    @伊磨紀那屡。乎武例我禹杯爾。倶謨娜尼母。旨屡倶之多多婆。那爾柯那皚柯武。 
    いまきなる をむれがうへに くもだにも しるくしたたば なにかなげかむ (K116)〈其一。〉
    @伊喩之々乎。都那遇舸播杯能。倭柯矩娑能。倭柯倶阿利岐騰。阿我謨婆儺倶爾。 
    いゆししを つなぐかはへの わかくさの わかくありきと あがもはなくに (K117)〈其二。〉
    @阿須箇我播。濔儺蟻羅毘都都。喩矩瀰都能。阿比娜謨儺倶母。於母保喩屡柯母。 
    あすかがは みなぎらひつつ ゆくみづの あひだもなくも おもほゆるかも (K118)〈其三。〉
    天皇時々唱而悲哭。

    ※ハヒフヘホで読むところにパピプペポ・バビブベボの漢字が当てられている。
     
    《斉明天皇四年(六五八)十月甲子【十五】》
    ◆冬十月庚戌朔甲子。幸紀温湯。天皇憶皇孫建王。愴爾悲泣。乃口号曰。
    @耶麻古曳底。于瀰倭施留騰母。於母之楼枳。伊麻紀能禹知播。倭須羅庾麻旨珥 
    やまこえて うみわたるとも おもしろき いまきのうちは わすらゆましじ (K119)〈其一。〉
    @瀰儺度能。于之褒能矩娜利。于那倶娜梨。于之廬母倶例尼。飫岐底舸庾舸武 
    みなとの うしほのくだり うなくだり うしろもくれに おきてかゆかむ (K120)〈其二。〉
    @于都倶之枳。阿餓倭柯枳古弘。飯岐底舸庾舸武。 
    うつくしき あがわかきこを おきてかゆかむ (K121)〈其三。〉
    詔秦大蔵造万里曰。傅斯歌、勿令忘於世。


     

    (6) web日本書紀 http://www.j-texts.com/jodai/shoki27.html

    《天智天皇六年(六六七)二月戊午【二十七】》
    ◆六年春二月壬辰朔戊午。合葬天豊財重日足姫天皇与間人皇女於小市岡上陵。
    是日。以皇孫大田皇女葬於陵前之墓。高麗。百済。新羅皆奉哀於御路。
    皇太子謂群臣曰。我奉皇太后天皇之所勅。憂恤万民之故。不起石槨之役。所冀永代以為鏡誡焉。

     
    (7) 「南方熊楠」別冊太陽 日本のこころ―192,中瀬喜陽監修, 2012, p.67, 安田忠典

    2017. 9. 9 追記
    のちの世、文武帝の大宝元年 (701) に紀伊国への行幸のときに詠まれた歌
    三名部の浦 潮な満ちそね鹿島なる 釣する海人を見て帰り来む (万葉集 1669)

    軽皇子(文武)の夫人は紀州日高出身の藤原宮子。ふたりの子は首(おびと=聖武天皇)、首の后は安宿姫(あすかべひめ=光明子)。首皇子は母が平民の出ということでなかなか即位できなかった。その時期に中継ぎで皇位についたのが氷高皇女(ひたか=元正天皇)。軽皇子を即位させるために滅ぼされた長屋王の父は高市皇子、母は御名部皇女(みなべ)。この時代の皇室は紀州にゆかりがあった。



    悲劇の皇子:有間皇子 (ありまのみこ)


     
    『日本書紀』の神功紀には、葛城の襲津彦が出てくる話がもうひとつ、『百済記』から引用されている。
    中央公論社『日本書紀』巻第九 気長足姫尊 神功皇后 より
    (気長足姫の)六十二年(西暦382年)に、新羅が朝貢してこなかった。 その年に、襲津彦を遣わして新羅を討たしめた。
    〔『百済記』に、
    「壬午(19)の年に、新羅が貴国の言うことをきかなかった。 貴国は、沙至比跪(さちひこ)を遣わして討たしめた。 新羅人は、美女二人を飾って、津に沙至比跪を迎えあざむいた。 沙至比跪は、その美女を受けとって、反対に加羅国を討った。 加羅の国王己本旱岐(こほかんき)と、その子の百久至(はくくち)・阿首至(あしゅち)・国沙利(こくさり)・伊羅麻酒(いらます)・爾汶至(にもんち)らは、その人民を率いて、百済に逃げてきた。 百済は厚遇した。 加羅の国王の妹既殿至(きでんち)は、大倭にやって来て、啓して、
    『天皇は、沙至比跪を遣わして、新羅をお討たせになりました。しかるに沙至比跪は、新羅の美女を納れて、討伐するのをやめてしまい、反対にわが国を滅ぼしました。兄弟や人民は、みな流離してしまいました。憂い思うのに、しのぶことができません。そこで、やってまいりまして申し上げるのでございます』 と申し上げた。 天皇は、大いに怒られて、ただちに木羅斤資(もくらこんし)を遣わして、兵衆を率い加羅に来集して、その社稷を復せしめた」 とある。 一説には...(以下略)〕
     
    ■沙至比跪と襲津彦: 『百済記』に見える沙至比跪と、『日本書紀』の襲津彦は同一人物と思われる。海外の文献にも記されていることから、この人物がその頃実在した可能性は高い。(注1)
     
    ■襲津彦の運命: 沙至比跪は新羅へ派遣されたが、新羅を倒すかわりに加羅を滅ぼしたとある。また後略の一説にはその後日本へ帰還し、石穴に入って死んだと記されている。
     
    ■当時の大和朝廷: 神功紀によると、気長足姫は六十九年(西暦389年)に磐余の稚桜宮で亡くなり〔年齢一百歳〕、狭城の盾列陵に葬ったとある。この時点ではおそらくまだ朝廷は河内へは移っておらず、磐余の朝廷から、新羅征討軍が朝鮮半島へ派遣されたのであろう。
    なお神功紀四十七年条に『千熊長彦(ちくまなかひこ)を新羅に遣わし』たとあり、四十九年条には『荒田別(あらたわけ)と鹿我別(かがわけ)を将軍とした』とあり、新羅へ派遣されたのは襲津彦に限らない。
     
    ■襲津彦の子孫: 襲津彦の娘磐之媛が仁徳(讃?)に嫁ぎ履中(讃?)・反正(珍)・允恭(済)を産んだと伝わるので、襲津彦は倭の五王のうち三人のおじいちゃんということになる。
    とすれば襲津彦が宮山古墳ほど立派な古墳に葬られるというのももっともなことだ。(注2)
     
    (注1) 『百済記』など朝鮮の文献
    『百済記』は百済三書のうちの一書であるが、他の二書と同様に実在しておらず、『日本書紀』での引用のみから、その存在を知ることができる。引用文中で「倭国」のことを「貴国」と記すなど、日本書紀編集時に改竄された可能性はある。
    推古紀の二十八年(西暦620年)に、『この歳、皇太子と嶋大臣(蘇我馬子)とは、協議して、天皇記および国記、臣連伴造国造百八十部ならびに公民などの本記を記録した』 とある。また皇極紀の四年(西暦645年)に、『(四年六月の丁酉(34)の朔)己酉(46)に、蘇我臣蝦夷らは、誅殺されるにあたって、天皇記・国記、および珍宝をことごとく焼いた。船史恵尺(ふねのふびとえさか)は、すばやく焼かれようとする国記を取りだして中大兄にたてまつった。』 とある。これらの国記の中に、『百済記』が含まれていたのではないだろうか。その後西暦663年に百済は滅亡する。『百済記』は、百済から倭国へ帰化した貴族や僧・学者によって、倭国で編纂された書物なのかもしれない。
    一方、12世紀に編纂された朝鮮の『三国史記』には、納祇王(ヌルジワン)の時代(417-457)に、堤上が倭軍に捕らわれていた未斯欣(みしきん=みしこちほっかん?)を逃がした結果、処刑された話があり、『日本書紀』神功五年の話と似ている。
    また13世紀に記された朝鮮の『三国遺事』には、同じ時代に高句麗の人質となっていた新羅王の弟宝海と倭国に人質となっていた王子美海を、金堤上が自分を犠牲にして逃がしたことが美談として伝えられており、同様の出来事でも新羅と倭国とでは全くとらえ方が違っていておもしろい。
     
    (注2) 関連する人物の古墳の場所と大きさ)
    宮山古墳(御所市室):238m、4世紀末〜5世紀前半
    神功皇后稜(奈良市、佐紀盾列、五社神古墳):273m、4世紀末〜五世紀初
    磐之媛陵(奈良市、佐紀盾列、ヒシアゲ古墳):219m、5世紀中葉〜後半
     
     

    葛城襲津彦

     
    奈良県御所市の室(むろ)にあるあの立派な 宮山古墳 に埋葬されたのは誰でしょうか?
     
    5月6日の記事へkawakatu先生からいただいたコメントによると
    葛城襲津彦の古墳 だそうです。
     
    それでは、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)はどんな人だったのでしょうか?
    襲津彦が出てくる記事を『日本書紀』から捜してみましょう。
     
     
    中央公論社『日本書紀』巻第九 気長足姫尊 神功皇后 より
    (気長足姫の)三年の春正月の丙戌(23)の朔戊子(25)に、誉田別皇子を立てて、皇太子となさった。 そうして磐余に都をつくった〔これを若桜宮という〕。
     五年の春三月の癸卯(40)の朔己酉(46)に、新羅の王は、于礼斯伐(うれしほつ)・毛麻利叱智(もまりしち)・富羅母智(ほらもち)らを遣わして、朝貢した。 使者たちは、前に人質になっていた微叱許智伐旱(みしこちほっかん)をとり返そうという気持をもっていたので、許智伐旱をとおして、あざむいて、
    「使者の于礼斯伐・毛麻利叱智らは、私に告げて『わが王は、私が久しく帰らないので、ことごとく妻子を没収して、官奴としてしまった』と申しております。どうかしばらく私を本土に帰らせていただき、その虚実を知って御報告したい」 と言わせた。 皇太后は、それをお許しになった。 そうして、葛城襲津彦を付き添わせて遣わした。 ともに対馬に至って、鉏海(さいのうみ;対馬の北端、鰐浦か)の水門(みなと)に泊った。 そのとき、新羅の使者の毛麻利叱智らが、ひそかに船と水手を配して、微叱旱岐を載せて、新羅に逃れさせた。 そうして蒭霊(くさひとかた;人形)を造って、微叱許智の床に置いて、偽って病気をしている人のように見せかけ、襲津彦に告げて言った。
    「微叱許智が、急に病気に罹って死にそうです」 と。 襲津彦は、使を遣わして病人を見にやった。 そこであざむかれたことを知って、新羅の使者三人を捕えて、檻の中にとじこめ、火を放って焚き殺してしまった。
     そうして新羅に行き、蹈鞴津(たたらのつ;釜山の南の多大浦)に宿泊し、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰還した。 このときの俘人(とりこ)らは、いまの桑原・佐糜・高宮・忍海など四つの邑の漢人(あやひと)らの始祖である。
     
    神功紀は中国の『魏志』の「卑弥呼」の記載とつじつま合わすために、その時代に女王をでっちあげた、と見られていますが、それはともかくとして当時を推察してみると
     
    ■年代: 神功紀の末尾に記載されている百済の王の消息の年代から推定すると、4世紀後半の話と考えられる(120年前倒し説を採用)。
     
    ■新羅遠征: 葛城の襲津彦は新羅へ出征し捕虜を連れて帰った。本巻の前半では皇后自らが新羅へ出征したことになっているが、実際に新羅へ出向いたのは葛城襲津彦率いる船軍だったのだろう。 ただし新羅へ渡った目的は征伐のみとは限らず、 貴金属や職人を求めて行ったのかもしれない。
    朝鮮半島と畿内の間を舟で行き来できたということは、途中の吉備や播磨の装飾文様や石材を持帰ることもできたと考えられる(大和川河口から瀬戸内海を通った)。
     
    ■帰化人: 御所市に佐味・高宮、葛城市に忍海があるので、新羅人が定住したのは、金剛山・葛城山麓である。桑原は今の地図で見つけられなかったが、絹織も始めていたのだろう。日本書紀は多くの部分が作り話と見なされることもあるが、この部分は現在残る地名と合致している。
     
    新羅人のことを漢人(あやひと)と呼んでいます。 帰化した大陸人のうち、百済出身がこのあと大和朝廷の本流を支え、新羅出身も大和朝廷を補佐したり謀反に加担したりしたのでしょう。
     
     
     
    同じ個所を記事にされている方がありました
     
    倭国と大陸交流年表 
     
    葛城襲津彦と三国史記
     
    襲津彦とソの国
     
    葛城襲津彦 
     
     4世紀に大和盆地に存在した東の纏向、西の葛城
     
     
      
     
    巻第二十九 天武天皇 下より
    
    『(天武五年の夏四月に) 「諸王・諸臣の封戸(ヘヒト)の税(オオチカラ)は、京より西の国に賜るのをやめ、東の国にふりかえて賜うこととする。・・」
     「礪杵郡(トキノコオリ:岐阜県土岐郡)にいる紀臣訶佐麻呂(キノオミカサマロ)の子を東国(アズマノクニ)に移し、その国の百姓(オオミタカラ)とせよ」と言われた。』
                           日本書記 中央公論社1983, p.414
    
    『(天武十四年の秋七月の乙巳の朔)辛未(カノトヒツジ;27日)に、詔して、
    「東山道(ヤマノミチ)は美濃以東、東海道(ウミノミチ)は伊勢以東の諸国の優位者には、みな課役を免除せよ」と言われた。』
    
    

     壬申の乱での功績により東国の民は徴税・課役について優遇される。


    『(天武十一年)五月の癸巳の朔甲辰に、倭漢直の人々に、姓(カバネ)を賜って連(ムラジ)といった。』
                         日本書記 中央公論社1983, p.416, 430
    
    
    『(天武十三年)五月の辛亥(カノトイ)の朔甲子(キノエネ;十四日)に、帰化してきた百済の僧尼および俗人合わせて二十三人を、みな武蔵国に住まわせた。』
                                 同上, p.436
    
    

    天武十三年は684年。
    東国に定住の地を与えられ、大陸から渡来した民の地位が認められていく。


     以上のように概観すると、中国に侵略された朝鮮半島の民が日本へ流入したことに伴って大和朝廷は大いに混乱したが、それを経て奈良王朝が確立し、日本の政治体制が整ったように見られる。



    武蔵国造の乱と百済人:http://blogs.yahoo.co.jp/irikurahp/60909161.html

    百済の民、安房の那古船方に至る:http://blogs.yahoo.co.jp/hopi519/50844929.html

    馬子の死と親百済派の再台頭:
    http://blogs.yahoo.co.jp/raccoon21jp/32461557.html 

     

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