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日本書紀

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近江遷都と壬申の乱

 

 百済の滅亡とともに日本へ亡命した民は、どのような扱いを受けていたのだろうか?

 
『(天智五年)この冬に、京(ミヤコ)の鼠が近江に向かって移っていった。また、百済の男女二千余人を東国 (アズマノクニ)に住まわせた。百済の人々に対しては、僧尼と俗人とを問わず、癸亥(ミズノトイ)の年(天智称制二年)以後三年間は、すべて官から食料を賜っていたのである。また、倭漢沙門(ヤマトノアヤノホウシ)智由が、指南車を献上した。』
日本書記 中央公論社1983, p.382

 近江遷都の頃、百済の民は優遇されていた。


『(天智七年)冬十月に、大唐の大将軍英公が高麗をうち滅ぼした。』

 西暦668年、百済滅亡の5年後に高麗の国も滅びた。
 高麗から亡命した民が埼玉へ移民したことは、高麗川の地名などに残っている。
 http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/55964890.html


 そして近江へ移った朝廷と大和に残った勢力との間に、壬申の乱がおこる。

(天武元年六月二十九日)
『この日、大伴連吹負(フケイ)は、ひそかに留守司の坂上直(サカノウエのアタイ)熊毛とはかり、漢値の一、二の氏の人々に、
「おれが高市皇子だといつわって、数十騎を率いて飛鳥寺の北の道から現われて軍営に向かったら、おまえたちは寝返るのだぞ」と言った。やがて吹負は、百済(北葛城郡広陵町)の家で武器を整え、南の門から出発した。まず、秦造(ハダノミヤッコ)熊に犢鼻(タフサギ;ふんどし)をさせると、馬に乗せて寺の西の軍営にかけこませ、・・・』

渡来系の倭漢直の民も、天皇家のお家騒動のどちら方につくべきか、迷ったのではないだろうか。
このあと吹負は韓国(カラクニ)率いる近江朝廷の軍に一旦敗れるが、その後、大和の上道(カミツミチ)、箸墓の近くて近江の軍は破られ大勢は決する。勝てば官軍だ。

このように、朝鮮半島の国家の消長と並行して、日本も激動の時代を経験した。この間の流れは、大和民族対帰化人、崇仏勢力対反仏教勢力のような単純な分け方にはできない。仏教を支持する蘇我氏自身が渡来系の民のようにも見えるが、蘇我入鹿をたおして大化の改新を行った大和朝廷(天智天皇)も、また蘇我氏がかつぐ近江朝廷をたおした大和朝廷(天武天皇)も、やはり大陸由来の政治体制を採用して日本を治める。このあたりの複雑な事情が、つぎの天武天皇の言葉に集約されている。


『この月(天武六年六月)に、東漢直 (ヤマトノアヤノアタイ)らに詔して、「おまえたちの族党は、いままでに七つの悪逆を犯している。小墾田(オハリダ)の御世(推古天皇の時代)から近江の朝(ミカド)(天智天皇の時代)にいたるまで、いつもおまえたちをあやつることによって陰謀が行われてきた。いま、自分の世となったにあたって、おまえたちの悪逆を責め、犯したことのままに罪に処そうと思う。しかし、漢直の氏を絶やしてしまいたくもないので、大恩をくだし、その罪を許すことにする。今後もし罪を犯すことがあれば、その者は赦にあっても罪を許されない者のなかに入れることとする」と言われた。』

                              日本書記 中央公論社1983, p.416


聖徳太子創建の百済寺http://www.pref.shiga.jp/minwa/37/37-03.html
  聖徳太子は百済人だったのだろうか?
  残念ながら何十とあった僧坊は信長によって焼かれてしまった。
  よほど坊主が憎かったのだろう。


2010.4月追記

天武は なぜ蘇我氏3代を隠したままにしたのか?
 http://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/35559634.html


朝鮮半島の国が隋に滅ぼされたことは、日本倭国にも大変な動揺を与えた。
都を近江へ移したのは中国の攻撃から逃れるためであった、と考えることもできる。

そもそも日本書紀の編纂目的は、日本へ渡来した朝鮮系の民が、天皇による統治の正当性や倭国の権威を中国に訴えるために造られた歴史書だと考えられる。


天智天皇と天武天皇は同腹の兄弟ではなかった
http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/temmu.html
 


百済の民、安房の那古船形に至る  へと続きます。
http://blogs.yahoo.co.jp/hopi519/50844929.html

 
  
 
 

難波の迎賓館

 
ひきつづき、日本書紀巻第二十二 推古天皇より国際交流関連の記述について見てみる。

『(推古十五年)秋七月の戊申(ツチノエさる)の朔(ツイタチ)庚戌(カノエいぬ)に、大礼の小野臣妹子を大唐(モロコシ;隋)に遣わした。鞍作の福利を通事(オサ;通訳)とした。
 この歳の冬に、倭国に、高市池・藤原池・肩岡池・菅原池を作り、山背国では、大きな溝(ウナテ;灌漑用水路)を栗隈(クルクマ)に掘った。河内国には戸刈池・依網(ヨサミの)池を作った。また、国ごとに屯倉(朝廷の直轄支配地)を置いた。

『十六年の夏四月に、小野臣妹子が大唐から帰国した。
唐国(モロコシのクニ)では妹子臣のことを、蘇因高(ソインコウ)とよんだ。大唐の使人裴世清(ハイセイセイ)と、下客(シモベ)十二人とが、妹子臣に従って筑紫に到着した。天皇は難波の吉士 (キシ)雄成(オナリ)を遣わして、大唐の客裴世清らを召し、唐の客のために、新しい館 (ムロツミ;外国使臣のための宿泊施設) を、難波の高麗館(コマのムロツミ)のそばに造った。
六月の壬寅(ミズノエとら)の朔丙辰(ヒノエたつ)に、客人たちは難波の津に船を着けた。・・・』

『九月の辛未(カノトのヒツジ)の朔乙亥(キノトのイ)に、客人たちを難波の大郡 (オオゴオリ;外国使臣接待用の施設)で饗応した。辛巳(カノトのミ)に、唐の客人裴世清は帰途についた。よって再び小野妹子臣を大使とし、吉士(キシ)の雄成(オナリ)を小使(ソツカイ;副使)とし、福利(鞍作福利)を通事として、唐の客に随行させた。
(推古)天皇は唐(隋)の皇帝に挨拶のことばをおくり、
「東の天皇(スメラミコト)が、つつしんで西の皇帝に申し上げます。・・・」と言われた。
このとき唐の国に遣わされたのは、学生の倭漢直(ヤマトのアヤのアタイ)福因・奈羅の訳語(オサ)恵明・高向(タカムク)の漢人(アヤヒト)玄理・新漢人(イマキのアヤヒト)大圀(オオクニ)、および学問僧の新漢人日文(ニチモン;僧旻ミン)・南淵(ミナブチ)の漢人請安(ショウアン)・志賀の漢人慧穏(エオン)・新漢人広済ら、あわせて八人である。』
                              日本書記 中央公論社1983, p.303〜305

『【原注】 彼ら(遣わされた八名)のほとんどは大和・河内・近江などの渡来系氏族の出身者で、推古朝の末年から舒明朝にかけて帰朝し、隋・唐の新しい政治制度や、仏教と国家との関係についての知識をわが国にもたらし、大化の政治改革に貢献した。』



巻第二十三 舒明天皇
『(舒明二年の)秋八月の癸巳(ミズノトみ)の朔(ツイタチ)丁酉(ヒノトとり)に、大仁の薬師(クスシ)恵日(エニチ)を大唐(モロコシ)に遣わした。庚子(カノエね;八日)に、高麗・百済の客人を朝廷で饗応した。九月の癸亥(ミズノトゐ)の朔丙寅(ヒノエとら)に、高麗・百済の客人は帰国した。』
『冬十月の壬辰(ミズノエたつ)の朔癸卯(ミズノトう)に、天皇は飛鳥岡のほとりにお移りになった。これを岡本宮という。この歳、難波の大郡(オオゴオリ;外国使臣接待用の庁舎)と、三韓(ミツカラヒト)の館(ムロツミ;宿泊施設)とを改修した。』
                              日本書記 中央公論社1983, p.324

当時、難波が大和朝廷の玄関口であったようだ。


2010.4月追記
上記の推古十五年(607)に『また、国ごとに屯倉(朝廷の直轄支配地)を置いた。』とある。
屯倉(みやけ)の設置については安閑天皇(広国押武金日天皇)の二年(535)に、
五月の丙午の朔 甲寅に、筑紫の穂波の屯倉・鎌の屯倉、豊国の勝碕ミサキの屯倉・桑原の屯倉・肝等カトの屯倉・大抜の屯倉・我鹿アカの屯倉、火国の春日部の屯倉、播磨国の越部の屯倉・牛鹿の屯倉、備後国の後城シツキの屯倉・多禰の屯倉・来履の屯倉・葉稚の屯倉・河音の屯倉、婀娜国の胆殖イニエの屯倉・胆年部の屯倉、阿波国の春日部の屯倉、紀国の経瑞フセの屯倉・河辺の屯倉、丹波国の蘇斯岐の屯倉、近江国の葦浦の屯倉、尾張国の間敷の屯倉・入鹿の屯倉、上毛野国の緑野の屯倉、駿河国の稚贄の屯倉を置く。
                岩波文庫「日本書紀(三)」p.224
と記されている。



(五)日本古代史再々考−姓は(高麗と同姓の)扶余、位は杆率−
http://blogs.yahoo.co.jp/eraser1eraser/50767769.html
   

仏教の推進

 

蘇我氏の勢いが増すとともに仏教の布教が進められる。


『(推古元年の)秋九月に、橘豊日(タチバナのトヨヒの)天皇を河内磯長陵(コウチのシナガのミササギ)に改葬した。この歳から、四天王寺を難波の荒陵(アラハカ)で造りはじめた。』

『(推古三年)五月の戊午(ツチノエうま)の朔(ツイタチ)丁卯(ヒノトう)に、高麗の僧慧慈が帰化し、皇太子(聖徳太子)は慧慈を師とされた。この歳にはまた、百済の僧慧聡も来朝した。この二人の僧は、仏の教えをひろめ、いずれも三法の棟梁(仏教界の中心人物)となった。』

『(推古)九年の春二月に、皇太子(聖徳太子)は、はじめて宮殿を斑鳩(イカルガ)にお建てになった。』
『【原注】斑鳩宮:聖徳太子の死後その子山背大兄王らが居住し、皇極二年、その滅亡のおりに焼失した。天平年間、僧行信らにより、その故地に上宮王院(夢殿を中心とするいまの法隆寺東院)が建立された。近年の発掘調査により、宮殿址と思われる掘立柱の建物跡が同東院内から発見された。』

四天王寺・若草伽藍ともに、塔と金堂を前後に並べ、中門から講堂につらなる回廊で囲んだ、大陸式の伽藍配置であった。

『(推古十年の)冬十月に、百済の僧観勒(カンロク)が来朝し、暦の本、天文地理の書、それに遁甲(トンコウ;占星術)方術(うらないの術)の書をたてまつった。そこで書生三、四人を選び、観勒について学習させた。』

『(推古十四年)秋七月に、天皇は皇太子をまねき、勝鬘経を講じさせになった。三日で説き終えた。
 この歳、皇太子はまた、法華経を岡本宮で講じられた。天皇は大いに喜ばれ、播磨国の水田百町を皇太子に施されたので、太子はそれを、斑鳩寺(法隆寺)にお納めになった。』
『【原注】・・・太子講経の話は、魏、世宗の維摩経講説の話など、中国帝王の故事から着想された説話かとみられる・・・』
                              日本書記 中央公論社1983, p.296, 302, 460, 461


最近になって「聖徳太子は実在していなかった。憲法十七条は藤原不比等のでっちあげだ。」との説が唱えられている。聖徳太子は1万円札からも姿を消した。
憲法十七条はたとえ藤原不比等の創作であるにせよ、すばらしい内容だと思う。
http://blogs.yahoo.co.jp/hopi519/30191112.html

聖徳太子が実在したら日本にとって何か不都合な理由でもあるのだろうか?
推古天皇の時代には盛んに大陸との交流が行われ、仏教も国教として認められるようになりつつあった。ところが、聖徳太子の子の代に早くも斑鳩の宮は放火され山背大兄王子は亡ぼされてしまう。

聖徳太子は蘇我稲目の孫である穴穂部間人皇女の子だ。その子山背大兄王子も蘇我氏の子孫であるのに、政争に遭って蘇我の入鹿によって滅ぼされる。あまりにも強引な入鹿や蝦夷のやり方を見かねた中大兄王子は、中臣鎌足とともに蘇我入鹿を殺害する。





この時代の仏教はおそらく「国家仏教」に分類されるのだろう。しかし、高野山や延暦寺、埼玉の慈光寺や、永平寺などは、「国家仏教」にも「庶民仏教」にも分類されないような気がする。
あるいは国家仏教になりたいのだけれどなりきれていない仏教も、あるのではないだろうか。
 
  
2010.4.24追記
蘇我馬子は大王(天皇)であり聖徳太子のモデルであったとする説がある。

 
 

百済の滅亡

  

§ 朝鮮出兵と百済の滅亡


日本と親交のあった百済や高麗の国が唐の軍に侵攻され、まず百済の国が亡ぼされる。


巻第二十七 天智天皇

『(斉明七年の)十二月に、高麗が、
「この十二月、高麗国(コマノクニ)ではことのほか寒さがきびしく、江(原著ではサンズイに貝の字;ピョンヤンの南を流れる大同江をいう)が凍結いたしました。このため、唐軍は、雲車(タカクルマ)や衝輣(ツキクルマ)を連ね、鼓や鉦(カネ)を鳴らして進撃してまいりました。・・・」と報告した。』


『(天智二年)九月の辛亥(カノトイ)の朔丁巳(ヒノトノミ;七日)に、百済の州柔城(ツヌサシ)がついに唐に降伏した。このとき、百済の人々は、
州柔(ツヌ) が降伏してはどうしようもない。百済の名も今日で絶えたのだ。祖先の墳墓の地にはもう二度と行けまい。このうえは弖礼城(テレサシ)におもむいて日本の将軍たちと会い、必要な対策をうちあっわせるだけだ」と語りあい、かねて枕服岐城(シンブクギサシ)に留めてあった妻子たちをさとし、国を去る決心をさせた。』


『(天智三年)三月に、百済王善光王(クダラのコキシ,ゼンコウオウ;義慈王の子)らを難波に住まわせた。』

                              日本書記 中央公論社1983, p.380


 唐は朝鮮半島を襲い、百済を助けようとした日本軍は白村江(ハクスキノエ)で大敗した。




 

(おまけ)
 墳墓に埋葬することについて。
 中国では最近でも墳墓におじいちゃん、おばあちゃんが眠っている。
  http://blogs.yahoo.co.jp/hopi519/folder/1667186.html

 日本のお墓は陰気な感じで、あまり良いデザインとは思えない。
 韓国ではどのようなお墓に埋葬されているのだろうか?




百済人と大阪と豚(猪)
  http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/50082835.html  

  
   
 

推古天皇の巻には大陸との交渉が豊富に記されているが、ここではごく一部を挙げるにとどめる。


巻第二十二 推古天皇 より
『また、百済の人味摩之 (ミマシ)も帰化したが、この人は、
(クレ;中国の南部)で学んで、伎楽(クレガク;古代チベットやインドの仮面劇)の舞をすることができます」ということがあったので、桜井(明日香村)に住まわせ、少年を集めて伎楽の舞を習わせた。このとき、真野首弟子(マノのオビトデシ)・新漢済文(イマキのアヤヒトサイモン)の二人が習ってその舞をうけ伝えた。』
                              日本書記 中央公論社1983, p.308

新漢人(いまきのあやひと)の「いまき」は「最近来た」、「あやひと」は「渡来人」だろうが、特に中国、当時の隋の人を指すことが多いのではないだろうか。
妓楽と一緒に琴や鉦、笙の笛などの楽器も伝わったことだろう。




路子工(みちこのたくみ):http://blogs.yahoo.co.jp/yamituki64/50624507.html

このように、園芸や演芸も百済の民によって日本へ伝えられた。


孝徳天皇の巻に戻って、
『磯城嶋宮御宇天皇(シキシマノミヤにアメノシタシラメシしスメラミコト;欽明天皇)の十三年に、百済の明王(聖明王)が、仏法をわが大倭(ミカド)に伝えたてまつった。このとき群臣(マエツキミタチ)は、みなそれを信奉することを欲しなかったが、ひとり蘇我稲目宿禰(ソガのイナメのスクネ)だけはその法を信じた・・・』
                              日本書記 中央公論社1983, p.349

欽明は推古の四代前の天皇で、欽明13年は西暦538年ころ。
当初仏教は蘇我氏にしか信奉されなかった。
こののち法隆寺や平城京の建設へと至る。



      

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