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日本書紀

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§ 倭漢直(やまとのあやのあたい)と土木建築事業


日本国成立の時代に活躍した渡来系の民である、東漢氏(ヤマトノアヤウジ)と西漢氏(カワチノアヤウジ)について見てみよう。


Wikipedia によると、東漢氏(ヤマトのアヤウジ)について下のように記されている。

『東漢(やまとのあや)氏は、「記紀」の応神天皇の条に渡来したと記されている阿智使主(あちのおみ)を氏祖とする帰化系氏族集団である。・・・「書紀」の継体の条の記述によると百済から五経博士「漢高安茂」という人が派遣されており、それ以前に派遣されていた博士「段陽爾」と替えたいと百済は申し出ている。(513年頃)』




日本書紀に戻って、巻第二十三 舒明天皇より、

『(舒明十一年の)秋七月に、天皇は詔して、「今年、大宮と大寺とを造らせる」と言われた。
そこで、百済川(曽我川)のほとりを宮の地とし、西の民は宮(百済宮)を造り、東の民は寺(百済大寺)を造った。また、書直県(フミのアタイアガタ;倭漢書直)をそのための大匠(オオダクミ;建築技師長)とした。』
                              日本書記 中央公論社1983, p.326



巻第二十五 孝徳天皇より、

倭漢直比羅夫(荒田井の直比羅夫)を尾張国に、忌部首(インベのオビト)子麻呂を美濃国に遣わし、神に供える幣を徴発させた。』
                              日本書記 中央公論社1983, p.348

 大和朝廷による統治は東国へと及ぶ。


『(孝徳三年)また、工人(タクミ;土木技師)の大山位(ダイセンイ)倭漢直(ヤマトノアヤノアタイ)荒田井比羅夫(アラタイのヒラブ)は、誤って溝瀆(ウナテ;用水路)を掘って難波に水を引き、工事をやり直して百姓を疲労させた。文書をたてまつってそれをきびしくいさめた者があったので、天皇は詔して、
「軽々しく比羅夫のいつわりを信じて、役に立たぬ瀆(ウナテ)を掘ったのは、自分の過失であった」と言われ、すぐその日に工事を中止させになった。』
                              日本書記 中央公論社1983, p.364

国造りにおいて灌漑用水設備の造成は重要である。
いにしえの中国の聖王伝説に登場する堯・舜・禹の禹王も黄河と長江の間の地域で治水を行った功績で讃えられている。現在の淮河、中国の中心地帯を流れる氾濫したことで有名な河の流域である。
http://blogs.yahoo.co.jp/hopi519/33792049.html


『この歳(白雉元年650)、漢山口直大口(アヤノヤマグチノアタイ オオクチ)が、詔を承って千仏像を彫った。
また、倭漢直県(ヤマトノアヤノアタイ アガタ;書直県)・白髪部連鐙(シラカベのムラジ アブミ)・難波吉士胡床(ナニワのキシ アグラ)を安芸国に遣わし、百済の船二隻をお造らせになった。』
                              日本書記 中央公論社1983, p.372

造船技術も朝鮮半島からもたらされた可能性がある。この頃の造船は、後の朝鮮半島への出兵と関係があるのかもしれない。


(2010.4 追記)
漢使主(あやのおみ)に直(あたい)という姓(かばね)を賜った。とあることから、漢使主 → 漢直(あやのあたい)となったことが分かる。
それでは使主(おみ)とは何か。大王の命により地方へ派遣された豪族ではないだろうか。蘇我氏は蘇我大臣と記されている。「おみ」は臣下の一族、「使主」と記す場合は大王から離れて暮らす者、「臣」と記すときは大王のそばに仕える者の意味か。
あるいは蘇我氏も仏教を奉じていることから大陸から渡ってきた氏族なのかもしれない。

(2019.3 追記)
西漢氏と東漢氏は蘇我氏をささえていた。蘇我氏が大王家の外戚であったから勢力があったと同時に、大王家も伝統と実力がある蘇我家を外戚にもつことによって権力を維持できた((2),p.144-)。
蘇我氏が中心となって崇峻帝(泊瀬部皇子)・穴穂部皇子・宅部皇子・山背大兄を滅ぼしてきたようだが、日本書紀では、東漢氏がそれらの悪事を行ってきたように大海人(天武帝)が詔したことになっている((1),p.416)。蘇我蝦夷·入鹿親子の屋敷は東漢氏が護衛していた((1),皇極,p.342)。東漢氏と蘇我氏には分かちがたい主従関係があったようだ。なお大海人自身も、壬申の乱の体勢を整えるため吉野に入る前に、滅ぼされた蘇我の邸宅(嶋宮)に泊まっている((1),p.392)。蘇我入鹿を滅ぼしたあと率先して百済を救援に働いた中大兄と比べると、大海人は、従来勢力を代表する蘇我氏寄りの立ち位置のように見える。蘇我氏の墓の形は前方後円でも八角形でもなく四角形(3)。仏教を信奉し漢字をつかう中国系のにおいがする。 


出典
(1) 『日本書記』井上光貞編集, 1983, 中央公論社 日本の名著1
(2) 『蘇我氏 ―古代豪族の興亡』倉本一宏,2015, 中公新書2353
(3) 「前方後円墳分布NO.1は奈良県ではない」民族学ひろいあげ辞典
   https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/58473496.html
 
 






 
  

秦(はだ)の民

ひきつづき大陸からの文化の流入について、日本書紀で見てみよう。


§ 秦の民と漢部


巻第十四 雄略(幼武ワカタケ)天皇より

(雄略天皇の)十五年に、秦(ハダ)の民を臣連らに分散して、それぞれ思うままに駆使させ、秦造(ハダノミヤツコ)に委ねしめなかった。そこで、秦造酒(サケ)は、それをたいへん気に病んで、天皇にお仕えしていた。天皇は、秦造酒を寵愛され、詔して秦の民を集めて、秦酒公に賜った。そこで公は、百八十種勝(モモアマリヤソのスグリ)を率いて、庸調の絹・縑(カトリ;上質の絹)を奉献して、朝廷に充積した。よって姓を賜って禹豆麻佐(ウツマサ)というのである。

 十六年の秋七月に、詔して、桑の栽培に適した国県に桑を植えさせた。また秦の民を割り当て移して、庸調を献じさせた。

 冬十月に、詔して、漢部(アヤベ)を集めて、その伴造(トモノミヤッコ)の者を定めよと、仰せられた。姓を賜って(アタイ)といった〔一説に、賜うとは、漢使主(アヤのオミ)らに姓を賜って(アタイ)といったのである、という〕。

                              日本書紀 中央公論社1983, p.284


 京都市右京区を走る京福電鉄嵐山線の駅には「太秦(ウズマサ)」や「蚕の社」がある。また京都府には綾部市がある。丹波や丹後には、大和に条里制の都が建設される前から、勢力のある部族が住んでいて、日本海側では早くから鋳造の技術が伝わっていたようだ。最近、丹後では「ウルトラマンのお面」が発見された。

 飛鳥や奈良に都が建設され大陸の土建技術や仏教が普及する時代に先立って、まずは養蚕・織物の技術や、鋳造の技術が伝わったのであろう。

 
  


房総船形の「崖の観音」(船形山大福寺)には、険しい崖の岩に観音像が彫られている。
これを彫った(または彫らせた)のは行基という、奈良時代の僧だと伝えられている。

行基が開いたとされる寺院は関西に多数ある。寺院だけでなく、行基が開祖とされる温泉も各地にある。



奈良時代当時、仏教は新しい信仰であり、僧は新たな文化の開拓者であった。

行基の家系は、百済から日本へ流入した西文氏(かわちのふみうじ)とされている。

この機会に、

朝鮮半島や中国から日本への文化の流入はどのように行われたのか?

それら大陸系の文化はいつ、どのように関東へ伝えられたのか?

について考えてみよう。


飛鳥から奈良時代にかけて、日本でも漢字が使われるようになり、歴史が記されるようになった。
それとほぼ同時に条里制の首都や用水池・灌漑水路が造成され、寺院が建築され、仏像が彫られた。
遣隋使などを通して、大陸の文化が大量に日本へ流入したと考えられる。


当時、大和の地には東漢氏(やまとのあやうじ)、河内の地には西漢氏(かわちのあやうじ)という、いずれも渡来系の民が住み、織物や土木建築などの仕事を担っていたようだ。
これら渡来系の民について、「日本書記」で調べてみよう。

 
巻第二 神代 下 より

さて、天照大神は、天津彦彦火(アマツヒコヒコホの)瓊瓊杵尊(ニニギのミコト)に、
八坂瓊曲玉(ヤサカニのマガタマ)と 八咫鏡(ヤタのカガミ)・草薙剣(クサナギのツルギ) の三種の宝物を下賜された。また、
 中臣氏(ナカトミのウジ)の祖先神である天児屋命(アメコヤネのミコト)、
 忌部氏(イムベのウジ)の祖先神である太玉命(フトダマのミコト)、
 猨女君(サルメのキミ)の祖先神である天鈿女命(アメのウズメのミコト)、
 鏡作(カガミツクリ)氏の祖先神である石凝姥命(イシコリドメのミコト)、
 玉作氏の祖先神である玉屋命(タマヤのミコト)
のあわせて五部(イツトモノオ)の神(1) をお伴として配された。』

                       日本書紀 中央公論社1983, p.95

『補注 (1) 百済や高句麗の政治組織の五部に示唆されて成立した概念であろう。』




(応神の)三十七年(西暦306年)の春二月戊午(ツチノエウマ)の朔に、阿知使主(アチのオミ)・都加使主(ツカのオミ)を呉(クレ;中国の江南の地)に遣わして、縫工女(キヌヌイメ)を求めさせた。そこで阿知使主らは、高麗国に渡って呉に至ろうとした。すなわち高麗に至ったが、呉への道路がわからなかった。道のわかるものを高麗に要請した。
 高麗の王は、久礼波(クレハ)・久礼志(クレシ)の二人を付き添わせて、道案内の者とした。これによって、呉に至ることができた。呉の王は、工女(ヌイメ)の兄媛(エヒメ)・弟媛(オトヒメ)・呉織(クレハトリ)・穴織の四人の婦女を与えた。

                      日本書紀 中央公論社1983


 条理制による都の建設が開始されるまえに、まずは織物の技術が伝わったようだ。

                                         (つづく)




  

適材適所

 つづいて憲法十七条から

 七にいう。 人にはそれぞれの任務がある。 おのおの職掌をまもり、権限を濫用しないようにせよ。 賢明な人が官にあれば、政治をたたえる声がたちまちにおこるが、よこしまな心をもつ者が官にあれば、政治の乱れがたちどころに頻発する。

 世間には、生まれながらよく物事をわきまえている、という人は少ない。 よく思慮を働かせ、努力してこそ聖人となるのだ。 

 物事は、どんな重大なこともささいなことも、適任者を得てこそなしとげられる。 時の流れが速かろうと遅かろうと、賢明な人にあったときにはじめておのずから解決がつく。 その結果、国家は永久で君主の地位も安泰となるのだ。 だから古えの聖王は、官のために適当な人材を求めたのであり、人のために官を設けるようなことはしなかったのだ。


                 「日本書紀」 巻第二十二 推古天皇
                   日本の名著1 中央公論社 (1983) より



イメージ 1
       奈良法華寺の東門


(注)写真は下の古都奈良のホームページからお借りしました。
   http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/hokkejinoohanasi.htm

 

勧善懲悪

イメージ 1
       平城京の春  写真は「世界遺産平城宮跡」ホームページからお借りしました。
            http://www3.ocn.ne.jp/~nsih2001/heijyokyo.html


桜が満開になりました。



 憲法十七条から

 六にいう。 悪しきを懲らし、善きを勧めるということは、古えからのよるべき教えである。 それゆえ、人の善行はかくすことなく知らせ、悪事はかならずあらためさせよ。

 人におもねり、人をあざむく者は、国家をくつがえす利器ともなり、人民(オオミタカラ)を滅ぼす鋭い剣ともなる者だ。 

 また、媚びへつらう者は、上の者にはこのんで下も者の過失をつげ口し、下の者にあえば目上のものの過失を非難する。 このような人々は、みな君に対しては忠誠の心がなく、民に対しては仁愛の心がない。 大きな乱れのおこるもととなるものだ。



                 「日本書紀」 巻第二十二 推古天皇
                   日本の名著1 中央公論社 (1983) より

 

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