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高千穂河原を11時に出たバスは、濃い森林の中の曲がりくねった道を進む。 他の乗客と言えば、2名の外人さん。 えびの高原に11時半に到着しバスを降りると、空気がひんやりしていた。 バス内で登山靴に履きかた西洋人青年は、半そで・半ズボンのままスタスタと韓国岳にむかって歩き出した。 彼のように果敢に山登りできればよいのだが、体力に自信がない。 韓国岳へは登らず、初心者向けの「池めぐり自然研究路」(所要1:40)を選んだ。 ドライブインで昼食を取り12時半に出発。帰りのバスは3時半なので時間はたっぷりある。 歩き始めると、「シカがいるよ」と教えてくれる人がいた。見ると親子の鹿。 明るい林、なだらかなアップダウンが続く。 センチコガネがはっていた。きっとシカの糞でも食べに来ているのだろう。 道端には小さな花が咲いていて退屈しない。 分かれ道で左へ、展望台へと登ると御池が見えた。 2回目の展望台への分かれ道を登って振り返ると、韓国岳。 絶えず雲がわいては消え、林間の道は明暗を繰り返す。 六観音の御池や不動池をめぐり、14時半にえびの高原の駐車場へ戻った。 バスの時間まで土産物を眺めた。もともと購入するつもりが無くても、時間があるとつい何か買ってしまう。 |
山
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「九州で一番美しい姿をした山」といえば、なんといっても、高千穂峰(たかちほのみね)であろう。「美しい」というよりも、「気高い」とか「神々しい」と形容した方が適切かもしれない。その「気品ある姿」は、いつまでたっても見飽きることがない。ただし、山腹上部(高千穂河原寄りの御鉢・写真前方の噴火口あたり)は、溶岩や火山砂等からなる、赤茶けた不毛の地である。富士山と同様に、「登る山」というよりはむしろ、裾野から「眺める山」なのかもしれない。 高千穂を空に望めば心さえ ほのぼのとして明りゆくかな (与謝野鉄幹) ◇高千穂峰(1573.7m)は、『古事記』『日本書紀』にも出て来る「天孫降臨の地」のひとつとされる。二つの寄生火山二ツ石(写真後方のピーク)と御鉢(おはち)を従え、天にそびえ立つ。山頂には迩迩芸命(ニニギノミコト)が降臨に際して逆さに突きたてたという「天の逆鉾(あまのさかほこ)」(長さ138cm、周囲26cmの鉄またはは銅製。霧島東神社の社宝)が突き刺さっている。山頂東斜面一帯にはミヤマキリシマの群落がある。車を使って鹿児島県側(高千穂河原)から「往復登山」(標高差600m)をする人が多いようだが、できれば、宮崎県側からアプローチして山麓で一泊し、御池(おいけ)コース(標高差1100m)の急坂をじっくり登ってみたい。 ◆交通・歩程:「高千穂河原コース」は、高千穂河原まで、JR日豊本線霧島神宮駅からバスがある(林田バス・途中乗換あり)。「御池コース」は、JR吉都線高原(たかはる)駅から2時間ほどかけてのんびり歩くか、または、同じくJR吉都線小林駅(駅前通り)からバス(宮崎交通)を使って終点祓川まで行き、バス停から30分ほど歩くと、御池キャンプ場に着く。御池キャンプ場からは、5〜6時間で山頂に到達。山頂には避難小屋がある。山頂を越えて高千穂河原(キャンプ可)に下り、中岳、新燃岳(しんもいだけ)、韓国岳(からくにだけ)方面に縦走してもよい。山麓には、新湯(民営国民宿舎霧島新燃荘・日帰り入浴可)など、「いかにも」といった感じの温泉が多数ある。少し離れたところではあるが、霧島連山の反対側にある栗野岳温泉(南州館)は、明治9年に西郷隆盛が一カ月滞在し、狩猟と温泉を楽しんだという一軒宿の温泉で、今でものんびりくつろげる、ステキな温泉だ(栗野岳温泉には、自炊棟貸し間一泊1名様1575円也という、信じられない値段の部屋もある。昔ながらの湯治場である)。 http://www.kyushu-bus.net/7_koj/aira/kirishima4.htm http://www.miyakoh.co.jp/ ◇坂本竜馬、お龍の「新婚旅行」:今から140年前の慶応2年(1866)に、坂本龍馬と、その妻、お龍(りょう)が高千穂峰を訪れている。寺田屋事件(1866年1月23日未明)で幕士に襲われ、九死に一生を得た(傷は動脈にまで至っていたが、助かった)龍馬は、同年3月、お龍とともに霧島の山深く入り、温泉で傷を治しながら、その足で「天の逆鉾」を見ようと高千穂登山をした。「十日計(ばかり)も止(とどま)りあそび、谷川の流にて魚ゝつり、短筒(ピストル)をもちて鳥をうちなど」は「まことにおもしろかりし」。姉乙女への手紙には、「天の逆鉾」を見て天狗の面に似ていると二人で微笑んだ話も記されている。 「是(これ)はたしかに天狗の面ナリ、両方共ニ其(その)顔がつくり付けてある、からかね也(なり)」。「はるばるのぼりしニ、かよふなる、おもいもよらぬげにおかしきかをつきにて天狗の面があり、大(おおい)に二人り(ふたり)が笑たり」。「此(この)サカホコハ、少シうごかして見たれバよくうごくものから、又あまりニも両方へはなが高く候まゝ、両人が両方より、はなおさへて、エイヤと引きぬき候得バ、わづか四五尺計のものニて候間、又々本(もと)の通りおさめたり。からかねにてこしらへたものなり」。 神物である「天の逆鉾」をエイヤと引き抜き、「わずか四五尺の唐金でつくった拵え物にすぎない」ことを確かめたあとで、元のとおりに差し込んでおいた、というのである。坂本龍馬という人物の、迷信や因習にとらわれない、「近代性」がよくわかる文章である。 ちなみに、福沢諭吉も『福翁自伝』のなかで、子供の頃、神社にいたずらをして「たたり」など存在しないことを確かめたという話をしている。 ・・・年寄などの話にする神罰冥罰(みょうばつ)なんということは大嘘(だいうそ)だとひとりみずから信じきって、今度はひとつ、いなり様を見てやろうという野心を起こして、私の養子になっていた叔父(おじ)様(さま)のうちのいなりの社(やしろ)の中には何がはいっているかしらぬとあけてみたら、石がはいっているから、その石をうっちゃってしまって代わりの石を拾うて入れておき、また隣家の下村(しもむら)という屋敷のいなり様をあけてみれば、神体は何か木の札で、これを取って捨ててしまい平気な顔をしていると、まもなく初午(はつうま)になって、幟(のぼり)をたてたり太鼓をたたいたりお神酒(みき)を上げてワイワイしているから、私はおかしい。「ばかめ、おれの入れておいた石にお神酒を上げて拝んでるとはおもしろい」と、ひとりうれしがっていたというようなわけで、幼少のときから神様がこわいだの仏様がありがたいだのということはちょいともない。うらない、まじない、いっさい不信仰で、狐狸(きつねたぬき)がつくというようなことは初めからばかにして少しも信じない。こどもながらも精神はまことにカラリとしたものでした。 ――話を坂本龍馬に戻す。 今から百四十年前の1866年3月、高千穂峰からの下山途中は、一面にミヤマキリシマが咲きほころび美しい情景であった(旧暦である点に注意。ミヤマキリシマの見頃は、現在の暦では、5月末から6月はじめにかけてである)。その足で霧島神宮にお参りし、「大きな杉の木もあるが御神殿の建物にも奥深いものがある」などと感じながら霧島神宮に一泊、そこから霧島の温泉に戻り、4月12日に鹿児島へ帰ったという。龍馬が暗殺されるのは、その翌年、1967年11月15日のことであった。 ◇天孫降臨(てんそんこうりん):天照大御神(アマテラスオオミカミ)の命令で孫の迩迩芸命(ニニギノミコト)を地上の国へとつわかし、天孫による支配を確立するきっかけとなった、という伝説。「天孫降臨の地」としては、「高原町説」と、宮崎県内でも北部に位置する西臼杵郡「高千穂町説」の2説がある。 日向國風土記逸文での「天孫降臨」 日向の國の風土記に曰はく、臼杵の郡の内、知鋪(=高千穂)の郷。天津彦々瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に、天暗冥く、夜昼別かず、人物道を失ひ、物の色別き難たかりき。ここに、土蜘蛛、名を大くわ・小くわと曰ふもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」とまをしき。時に、大くわ等の奏ししが如、千穂の稲を搓みて籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。因りて高千穂の二上の峯と曰ひき。後の人、改めて智鋪と號く。 古事記での「天孫降臨」 故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降りまさしめき。故爾に天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、天津久米命是に詔りたまひしく、「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地」と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原の氷椽多迦斯理て坐しき。 日本書紀での「天孫降臨」 時に、高皇産靈尊、眞床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊々杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、くし日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、そ宍の空國を、頓丘から國覓き行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到ります。 ※注:日本書紀では複数ヶ所に「天孫降臨」が記されている。すべて「一書に曰く」という引用によるものであるため、それぞれに表現が異なっており、天孫降臨の地も上記「高千穂峯」の他に「くしふるの峰」「二上峰」「添(そほり)の山の峰」などと記されている。 高千穂移動説 本居宣長(1730-1801)は、高千穂は二説あり、どちらか決めがたいと述べている。「彼此を以て思へば、霧嶋山も、必神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく、高千穂と云て、まがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに、何れを其と、一方には決めがたくなむ、いとまぎらはし」(『古事記伝』十五之巻) また、本居宣長は、二説併記のみならず、移動説も提示している。「つらつら思ふに、神代の御典に、高千穂峯とあるは、二処にて、同名にて、かの臼杵郡なるも、又霧嶋山も、共に其山なるべし、其は皇孫命初て天降坐し時、先二の内の、一方の高千穂峯に、下着賜ひて、それより、今一方の高千穂に、移幸しなるべし、其次序は、何か先、何か後なりけむ、知るべきにあらざれども、終に笠沙御崎に留賜へりし、路次を以て思へば、初に先降着賜ひしは、臼杵郡なる高千穂山にて、其より霧嶋山に遷坐して、さて其山を下りて、空国を行去て、笠沙御崎には、到坐しなるべし」(『古事記伝』十七之巻) 梅原猛は、『天皇家の“ふるさと”日向をゆく』(2000年、新潮社)の中で、本居宣長説を踏まえて、ニニギノミコト(天皇の祖先は朝鮮系の渡来人であろう)が稲作技術を持って笠沙御崎に上陸したが、シラス台地は稲作に適した場所ではないため、弥生時代中期から後期頃に臼杵郡の高千穂に入り、西都から霧島へ移動した、という説を唱えている。 まあ、どっちでもいいか。 それより、もう一方の西臼杵郡高千穂町のほうは、昨年の災害で高千穂鉄道がつぶれてしまったのは、かえすがえすも残念なことである。(ちなみに、川崎と宮崎・日向を結ぶ長距離フェリーも、昨年つぶれてしまった。なつかしの「サンフラワー」号よ、さらば。) 高千穂鉄道株式会社は、宮崎県で旧国鉄特定地方交通線の鉄道路線高千穂線を運営していた宮崎県などが出資する第三セクター方式の鉄道会社である。鉄道路線については2005年9月6日の台風14号による大雨で甚大な被害を受け、全線運転休止となった。宮崎県や沿線自治体が復旧費用の負担に難色を示したため、同年12月20日、高千穂鉄道としての復旧・運行再開を断念し、全線廃止とすることが決定された。高千穂鉄道の社員27名は2006年1月31日をもって全員解雇された。 かつての国鉄「黄金時代」には、宮崎県延岡市から阿蘇山麓(現在細々と生きのびている南阿蘇鉄道・熊本県高森町)を経て、熊本市までつなぐ、遠大な構想があったはずなのだが。――飛行機とクルマに押され、「民営化」の波に洗われ、地方鉄道と船が衰退していく。そして、「旅のロマン」も、どんどん失われていく。。。
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霧島高原の眺めを満喫し、高千穂河原へ戻る。 11時のえびの高原行き周遊バスの発車まで時間があったので、旧霧島神宮の跡を見に行った。 ドイツ人の夫婦が、2歳くらいのかわいいお子さん2人を連れて来ていた。(家族で登山?) どこからきたのかたずねたら、私と同じヨコハマからだった。 高千穂峯のいわれについて、日本書記でみてみよう。 日本書紀巻第二 神代 下 より、 さて、高皇産霊尊タカミムスビノミコトは、真床追衾マトコオウフスマ(神聖なふとん)で皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊アマツヒコヒコホノニニギノミコトを覆いかぶせて地上に降らせられた。皇孫は、そこで天磐座〔天磐座、これを阿麻能以簸矩羅アマノイハクラという〕を離れ、また天八重雲アメノヤエタナグモをおし分けて、その威厳によって道をおし分けおし分け、きりひらいて、やがて日向の襲ソの高千穂峯タカチホノタケに降臨された。 皇孫はここに降られてから、槵日クシヒの二上フタガミの天浮橋から浮渚在平処(なぎさのある平地)に降り立たれ〔浮渚在平処、これを羽企爾磨梨陀毗羅ウキジマリタヒラという〕、膂宍ソシシの空国ムナクニ(荒れてやせた国)を、頓丘ヒタオ(丘つづき)のところを行去トオり国覓クニマギ(国を求めること)のために歩かれて〔頓丘、これを毗陀烏ヒタヲという、覓国、これを矩弐摩儀クニマギという、行去、これを騰褒屢トホルという〕、吾田アタの長屋の笠狭碕カサノミサキ(原注)に到達された。 日本書紀 中央公論社1983, p.91-92 〔原注〕吾田の長屋の笠狭碕:現在の鹿児島県川辺郡笠狭町の野間岬をあてる。 参道の奥に再び鳥居が見えた。 |
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高千穂河原は、高千穂峯登山や韓国岳への縦走コースの出発点で、登山者のためのビジターセンターがあり、駐車場が完備している。 高千穂峯は登ってみたくなるような立派な姿をした山だが、体力も根性も無いので、高千穂河原周辺で花でも見ながら散策することにした。 それで中岳への登山道へ入っていった。 明るい林間に、セミの声が静かに、ジーワ・ジーワと、の〜んびり聞こえてくる。浸みいるような感じ。 登り始めると、すぐに林から抜けて、灌木が生えた開けた高原となる。 中岳が見えてきたあたりで、ミヤマキリシマが咲いていた。 ミヤマキリシマは、ツツジを小さくしたような花で、5月下旬がシーズンだそうだ。 ウグイスがさえずり、桜島がかすかに見えた。 振り返ると御鉢の山が見えた。 御鉢は、ポッカリと大きい火口を開いた山で、樹木も途中までしか生えていない。 こちらからだと垂直に近く見える急斜面を、登っている登山者が点のように見える。 御鉢の左の奥には高千穂峯が少しだけ、その姿を見せていた。 〔交通〕 JR日豊本線 宮崎駅 霧島神宮駅 特急【きりしま3号】 7時半 →→→ 9時 自由席2,350円 林田バス(土日、シーズン) 霧島神宮駅 高千穂河原 10:20 →→→ 11時前 日豊本線の霧島神宮駅から高千穂河原やえびの高原へは、 1日2便の林田バスが出ている(土日、シーズン)。 (発着時刻は大雑把に記しましたが、宮崎の交通は時間が正確でした) タクシー:平日だったのでバスは走っていないと思い、タクシーに乗った。 運転手さんが「5月中は毎日バスが走っているよ」と教えてくれた。 霧島神宮駅〜高千穂河原まで3,550円、所要20分程度。 九重のミヤマキリシマ:http://d.hatena.ne.jp/aito-kazuki/20090608#c |




