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5月 3日 神倉神社
新宮市街の西に千穂ヶ峯という山があって、裏側で熊野川がぶつかってS字型に迂回しています。
この山の中腹に大きい岩があって、古くから神様の居場所として祀られてきました。
神社がある岩山を仰ぎ見て、あそこに登るのかな...
下から見ると、赤い神社の上の岩が、落っこちてきそうです。
急な石段を見て、これを登ろうか、しばらく迷いましたが、とりあえず登りはじめました。 ここでは年に1回、旧暦新年の2月6日に 『お燈まつり』 という火祭りが行われます。
途中で休みながら、10分ほどで上の神社にたどりつきました。
新宮市 です。 熊野川の河口が見えます。
上の岩は 『ゴトビキ岩』 と呼ばれます。
ゴールデンウィークで、世界遺産の一部ということもあって、訪れる人がとぎれませんので
下からすみません...
神武紀より引用しますと
狭野(4)(さぬ): 新宮と那智の間に、佐野がある。
神邑(5)(みわのむら): 佐野と新宮の間に三輪崎という岬がある。
天磐盾(6)(あまのいわたて): 新宮市の千穂ヶ峯の南東中腹にある神倉神社のことと思われる。
神倉神社には高倉下(たかくらじ)が祀られていて、この高倉下は、韴霊(ふつのみたま)という剣を磐余彦(神武)に授けて進軍の手助けをしたと、上に引用した節の後に記されている。
女賊の名草戸部が出てきてやっつけたとある。大昔の地方の首長は女性であることが多い。
日本書紀では、神宮皇后や日葉酢媛など皇后が活躍している。
宮崎の西都原考古学博物館では女性が戦に参加していた痕跡が指摘されていた。
神話の時代には、山や火や水や蛇が神様であった。
高句麗や百済が滅亡して朝鮮半島の貴族が日本に流入すると同時に仏教や儒教が伝わり、神道は仏教と融合した。
平安時代、伊勢神宮の斎王や賀茂神社の斎院のように、神社を祀る巫女は女性であったが
やがて男尊女卑の武家社会へ移っていった。
時代は移り人の心も変わるが、信仰が失われることはない。
千穂ヶ峯の大岩は、ずっと新宮を見下ろしてきた。
塚田敬章: 神武(崇神)の東征
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和歌山 三重
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5月 3日 波田須から新宮市へ戻って、観光しました。
(1) 徐福公園
紀元前、秦始皇帝の時代に日本へ渡り、農耕や捕鯨、機織り、鍛冶などの技術を伝えたとされる 徐福 を記念して、平成6年に整備された公園。
徐福の像
天保五年(1834)紀州藩主水野忠央の命により儒臣新井田好古が記した文章を後代に彫った石碑がある。 売店で徐福に関する本を売っていた。
海東諸国紀:
(2) 阿須賀神社
阿須賀神社
『蓬莱山』と呼ばれる熊野川に隣接した小さい山をご神体として祀っている。
国土地理院地図:
(3) 新宮市立歴史民俗資料館
なぜ新宮に 『アスカ』 があるのか不思議に思った。
『アスカ』 は 『清浄な地』 の意味と推定されている。
『アスカ』 という地名がいつから使われていたか分からないが、訓読みを漢字にした当て字が複数あることから、古い言葉にちがいない。
ここ新宮には弥生時代から住居があったのは事実で、紀元前3世紀に当地へ中国から船団が来た徐福伝説を信じると、この地は奈良の明日香よりも歴史が古いことになる。
明日香(奈良)と阿須賀(新宮)の共通点といえば、小さい山がポコポコといくつもあること。
むかし小さい山や大きい岩が神様の居場所とされていた。
小さい山や大きい岩があるところには神様がいて、神聖なところだから 『アスカ』 とよばれる。
小山は神様がいるところで、神様がいるところは小山でなくてはならない。
というわけで、その後えらい人が亡くなったあと祀るために古墳が造り始められたのだろう。
一方、『新宮』(シングウ)という地名は漢字の音読みなので、平安時代以後の命名と思われる。
それ以前の時代、この地は 『アスカ』 とか 『クマヌ』 と呼ばれていたのではないだろうか。
徐福の祠と天台烏薬の樹
上述のように 『アスカ』 を 『清浄な地』 と捉えるのも良いが、奈良のアスカは百済や高句麗の文化が伝わったところ、紀州のアスカは徐福が中国の技術を伝えたところと考えると、外国人が住んだ地を 『アスカ』 と呼んだ可能性もありそうだ。
ここのほか、熊野市の北西の山中にも、飛鳥町があった。
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5月3日
波田須(はだす)駅に着くと、周辺の案内図がありました。
『徐福の里』 の散策地図。
ということで、熊野古道にそって地図右側にある徐福の宮② を見に行くことにします。
地図上の茶色のギザギザは猪垣(イノシシ除けの石垣)です。
上り坂になります。 波田須の里です。
♪ミカンの花が〜咲いている
坂を登ると海岸が見えました。 真下は紀勢本線の波田須駅です。
海岸までのびた、一つ目の小さい峰を越えます。
ここは紀勢本線の列車撮影の好適地です。
2つ目の峰を越えると、海を見下ろせる棚田の斜面の上に、こんもりとした杜がありました!
『徐福の宮』 に違いありません。
徐福の宮
徐福之墓とあります。
手入れが行き届いていて、地元の人にとって、とても大切な場所のようです。
徐福が求めたという、天台烏薬の樹が、祠の周りに植えられていました。
クスノキ科ですが、クスノキよりも小さい葉をつける低い灌木です。
根に薬効があるそうですが、天台烏薬は江戸時代の享保年間に中国から伝わった薬草だそうです。
徐福は紀元前3世紀末に中国から日本へ渡った人で、史記は下のように伝えています。
斉の人、徐市(じょふつ)が登場します。
市の字は 『フツ』 の字で、現代中国では fu2 と発音されますから、『福』 と同じ発音です。
当時の中国は、咸陽(注1)に本拠地をもつ始皇帝が中国を統一した頃で、斉(今の山東省あたり)で暮らす徐福は、始皇帝の圧政を恐れていました。ただし徐氏は斉の国の実力者だったので、始皇帝も一目置いていたようです。
仙人と不死の薬草を求めるというのは、秦の始皇帝に多数の船で出帆する費用を出費してもらうための口実で、実は秦の圧政から逃れるために、東海上に安住の地を求めたのです。 9年かけて、若者を多数乗せて、徐州の琅邪から何度も渡海を試みたそうです(資料1 p.27-30)。
(注1) 咸陽(かんよう): 陝西省西安の北西となりにある渭水沿いの街。
西安の北東には兵馬俑で有名な秦(Qin)始皇帝陵がある。
日本の伝承では、まず有明海の佐賀に到着し、その後海上を熊野へ進んだ後、蓬莱山を求めて富士山に向かったといわれています。 渡海が何度も試みられたため、日本のあちこちに徐福の宮があって、熊野にはここ波田須にひとつ、新宮に2つ徐福の墓があります。
熊野の地では特に、農耕や捕鯨、機織りや陶芸・鍛冶のような色々な技術を伝えたということで、 『徐福さん』 として慕われています(資料1 p.88)。 物的証拠はあまり無いのですが、徐福の宮から秦時代の半文銭が出土したとあります。
ここ波田須(はだす)は、むかしは 『秦栖』 とか 『秦住』 と記されていたようで、徐福の子孫が 『秦ハタ』 姓で残っているといわれています。
徐福(徐市)は紀元前200年の人ですが、秦氏が日本書紀に見えるのは、雄略天皇の秦酒公の時代で、西暦500年ころですから、約700年の隔たりがあります。 徐福の氏族が日本渡来後 『秦』 姓を名乗ったというのは史実としての証拠は乏しいです。 ところで秦の読みは波陀(パダ)と書かれることもあり、バダ(바다)は韓国語で 『海』 ですから、秦氏は海から来た民という意味だという説もあります。
一方で 『ジョフク』 あるいは 『シューフー』 のような意味不明の音読みが2千年にわたって伝わるはずはなく、徐福が 『ジョフク』 と呼ばれるようになったのは、中国から学問が伝わった後世のことと思われます。 黒船が浦賀にやって来た頃に西欧文明の理解が急がれた一方で、尊王攘夷を唱える人々もいて、天皇や中国の学問を重視した人によって再び徐福が注目されるようになったのではないでしょうか。
蓬莱山に向かって不老長寿の薬草を求めるような話は、竹取物語にも出てきます。
くらもちの皇子、偽りの苦労談を語る 竹取物語の中では倉持の皇子の作り話として記され、これほど苦労してもかぐや姫をものにしたいという熱意を語ったあと、嘘がバレてしまってかぐや姫に笑い飛ばされてしまいます。 その後かぐや姫は月に帰るときに不死の薬と手紙を残しますが、帝はそれらを富士山で焼かせてしまいます。
上の場面で天女が答えた 『蓬莱の山』 は上述の史記でも、『海中に三つの神山があり、その名を 蓬莱、方丈、瀛洲 という』 とあります。
那智の補陀洛山寺にも、補陀洛(ふだらく)渡海の話が残されていて興味深いです。
浦島太郎が竜宮城に行った話も、琉球にたどりついた実話かもしれません。
すっかり旅行記からそれてしまいました...
(資料1) 『ロマンの人・徐福』 奥野利雄著, 1991年, 学研奥野図書
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5月2日(月)
串本駅に戻ると、新宮行きの青い電車が待機していました。
串本を出ると橋杭岩が見えてきます!
写真の右端には大島へ渡る大島大橋が見えます。
40年前に串本を訪れた時には
♪ここは〜串本〜 向かいは大島 なかをとりもつ巡行船〜
という歌が串本駅前に流れていましたが、本当に昔のことになりました。
紀伊姫を通り、点々とつづく橋杭岩を反対側から眺めるのも素敵です
古座駅に到着。
この先新宮まで海岸線沿いを走ります。
古座〜紀伊田原
遠くに大島が見えます。大きい島です。
古座〜紀伊田原
紀伊浦神の漁港
イルカで有名な太地を通ると、次は湯川。
いつかここを訪れて貝拾いしたいです。
湯川の次は、紀伊勝浦。
紀伊天満からは険阻な山が見えました。
その山のふもとに補陀洛山寺があります。
大昔に補陀洛山を求めて海を渡ってきた人が仏教を伝えたところかもしれません。
日光の二荒山に通ずるものがあります。
三輪崎〜新宮 王子浜 波が無い春の熊野灘です
三輪崎の磯を過ぎると、王子浜の長い浜が見えて来ます。
この王子浜も含めて、本宮〜新宮〜那智大社 を巡る道は、熊野古道のうち中辺路(なかへち)と呼ばれ、世界遺産に指定された箇所が多いです。
平安時代に、わざわざ京都からこの辺りまで、お宮参りに来る人が多かったのでしょうか?
温泉につかるのが目的だったのかもしれません...
この夜は、新宮に泊まりました。
駅から歩いて10分のサンシャインホテルは1泊4900円で朝食付き!
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5月2日(月)
オゴクダ(のとなりの)浜で貝拾いをしたあと、潮岬のバス停から串本へ帰ることにしました。
『中の店』 バス停からバス通りをそれ、潮岬観光タワーに向かって歩いて行きます。
潮岬の海岸段丘上の家は、石垣や垣根に囲まれていて、沖縄のような感じです。
潮岬観光タワーを目指して歩くと、10分ほどで、広い芝生の公園に出ました。
ここで、靴を脱いで休憩します。
180度近く見渡せて、水平線がお盆のように丸く見えます。
灯台に向かって歩き出すと、看板がありました。
串本の海には、サンゴが生きていて、いくつかの種類の生育の北限にあたるようです。
串本海中公園のテーブルサンゴ
潮岬半島北西海岸のシコロサンゴ
そういえば、この日ひろった貝のうちには、サンゴヤドリ貝の一種と思われる貝殻もあった。
上の白い巻貝は サンゴヤドリガイ科のイシカブラ Magilus antiquus と思われる。
(ただし殻口から2次的に成長する管状殻は認められない)
写真左右はイシサンゴ類で、浅い海に生えるサンゴは褐虫藻と一緒に生き、褐虫藻が抜けると白色化して死んでしまう。 サンゴヤドリ貝もサンゴが無いと生きていけない。
串本産造礁性イシサンゴ類図鑑
潮岬灯台前から16時のバスに乗り、海岸樹林のトンネルを通って串本へ戻ります。
潮岬灯台前
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