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城郭電脳日記
〜倭城と日本の城郭〜
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管理人敬白

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梁山倭城縄張図

 1996年の確か秋頃、梁山(ヤンサン)倭城が土取り工事で消滅するという、ショッキングな情報が飛び込んできた。さっそく筆者が所属するお城の研究会で、破壊前に地表面調査による調査を行い、その記録を残さねばという話しになって、有志で12月20・21の2日間にわたって実地踏査を行った。

 韓国は12月に入ると途端に寒くなり、城跡のすぐそばを流れる小川には分厚い氷が張り、寒さを堪えながら各人、縄張り図、石垣、瓦といった決められた役割分担の調査を黙々とこなしたのであった。その時の成果は、既に紙上で報告済みである(城郭談話会1998『倭城の研究』2、他)。

 結局この“消滅”情報は誤報であったことが分かり、帰国後に一同胸を撫で下ろしたのであった。しかしこれは決して笑い話ではなく、当時はこのような怪情報も信じてしまうような危機的な状況にあった。倭城は植民地時代に日本政府が史跡指定したものを、独立後の韓国政府もそれを引き継いできた。また倭城自体が寒村に所在するものが多く、開発の手がおよびにくい環境にあったことも幸いした。

 ところが1990年代後半頃に入ると、急速に雲行きが怪しくなってきた。その頃から韓国も経済発展を遂げ、特に釜山周辺では新たな高速道路の建設や、釜山新港建設に伴う大規模な埋立と、そのための土取り工事があちこちで行われるようになった。事実この時期には、金海竹島(キメジュクト)倭城(釜山広域市)、加徳(カドク)倭城(同市)、安骨浦(アンゴルポ)倭城(慶尚南道昌原市)、順天(スンチョン)倭城(全羅南道順天市)などが軒並み開発対象となった。

 幸いにも各自治体の文化財担当部局が歴史的重要性を訴えた結果、保存、もしくは最小限の破壊で済むように設計変更して、倭城が開発の手から守られた経緯があったのである。

 その梁山倭城であるが、初訪城当時の交通手段は国鉄「勿禁」駅が最寄駅だったが、普通列車が1日数本しか停まらない超ローカル駅であった。その後2000年代に入って都市鉄道2号線が梁山市内まで開通し、2015年には待望の「甑山」駅が開業した。これにより梁山倭城は、駅から登り口まで徒歩20分ほどで行ける“駅前倭城”の仲間入りを果たしたのであった。

 初訪城時は田園地帯に農家が点在する長閑な農村風景であったが、駅の開業と同時に駅前には商業ビルやタワーマンションが相次いで建設され、いきなり新しい街が一つが突然誕生したような賑わいである。それに伴って道路区画も新たに整備され、今春5月の踏査では昔歩いた農道が見当たらず、城跡の登り口へ辿り着くのも一苦労であった。

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写真1:梁山倭城遠望

 さて梁山倭城は、釜山の北隣に位置する慶尚(キョンサン)南道梁山市勿禁(ムルグム)面甑山(チュンサン)里に所在する。洛東江(ナクトンガン)の左岸支流の梁山川が合流する沖積地に立地し、標高130m(比高120m)の瓢箪形の小山「甑山」に占地する(写真1)。現在は河道が後退しているが、朝鮮時代後期の1750年代初めに描かれた古地図『海東地図』(梁山博物館蔵)によると、甑山のすぐ南側まで川岸が迫り、漢字で港を意味する「津」と記されている。このことから、往時は洛東江に直接望む水城であったと考えられる。

 当城は1597(慶長2)年、黒田長政により築かれた。しかし敵陣に突出しすぎて危険という理由で、僅か1年たらずのうちに廃城となった短命の倭城である。なお現地説明板に「伊達政宗の築城」旨とあるのは、明らかな後世の誤伝である(太田秀春2005『朝鮮の役と日朝城郭史の研究』清文堂)。

 縄張りは、山頂とそこから派生する尾根続きの小ピーク上に曲輪を設け、その間を2条の登り石垣で連結し、さらに両翼から山麓に向かって竪堀を落とし、城外側には石垣の周囲に長大な横堀を巡らしている。この横堀は一部で二重になっている。さながら城域自体が1枚の城壁のような印象を受け、その“城壁”に守られるように山麓居館(Ⅳ郭)を設けている。

 Ⅰ郭が最高所で主郭である。東西両方向に枡形虎口A・Bを開口し、北東隅に天守台Cを設けるが、この天守台自体が枡形虎口の一翼を担っている。天守台上には2000年代まで、山火事監視用の小さなコンテナハウスが建てられて、監視員が昼間常駐していたが、現在は撤去されている。

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写真2:Ⅱ郭の矢穴石垣

 Ⅰ郭とⅡ郭とを結ぶ登り石垣の暗部には、南北両方向に虎口D・Eを開口する。

 Ⅱ郭は独立性の高い、一種の堡塁的な曲輪である。ここの石垣には矢穴が2か所残る。このうち写真左手の矢穴は、まず輪郭を点彫りして掘る位置を下書きしているが、何らかの理由で断念している(写真2)。これ以外にも矢穴の残る、本来の石垣石と思われる転石が見られる。

 ただし当城は、植民地時代に国鉄京釜線の建設用資材として石垣を持ち去ったとされており(太田秀春2008『近代の古蹟空間と日朝関係』清文堂)、これが当時の矢穴か、それとも近代のものかの見極めが難しい。

 なお縄張り図上ではあえて図示していないが、今はもう使われなくなった韓国陸軍の演習用陣地が残されており、Ⅱ郭を取り巻くように二重の同心円状の塹壕と、前後の塹壕を連結する交通壕が張り巡らされている。またⅡ郭のすぐ東下にはヘリポートまで設けられている。戦国の世と現在の軍事施設とが同居していて、実に面白い風景である。

 Ⅲ郭も小規模ながら、独立性の高い堡塁状の小曲輪となっている。

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写真3:山麓居館(Ⅳ郭)

 Ⅳ郭は山麓居館である。山城の石垣が高さ3m程度に対して、当曲輪は目測で高さ6mほどもありそうな高石垣を築いている(写真3)。現在は畑に利用されおり、地表には朝鮮時代の白磁椀・皿などの陶片の散布が見られる。おそらくこちらが生活空間の場であったのだろう。

 なお山城と山麓居館とは山道で繋がっており、これが本来の城道と思われる。数年前までこの山道は通行可能であったが、今年5月の踏査時には完全に笹竹のブッシュに埋もれてしまって、山道そのものが完全に消滅した。

 梁山倭城“消滅”の情報は誤報であったが、同城周辺は開発の速度が速く、急激に環境が変化しつつある。史跡に指定されていることもあり破壊に及ぶ可能性は低そうであるが、何とかこのまま良好な状態で、後世に受け継がれていくことを願うばかりである。
(文・図・写真:堀口健弐)

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安宅八幡山城縄張図

 筆者が生まれて始めて訪れたお城は、小学校4年生の遠足での和歌山城で、2番目は小学校の修学旅行での大坂城である。この時はそれなりに楽しんで帰った記憶があるが、現在の城郭研究には直接繋がっていない。人生3番目に訪れ、そして初の中世城郭の訪城となったばかりでなく、その後の中世城郭研究にのめり込む切っ掛けとなったのが、今回紹介する安宅八幡山(あたぎはちまんやま)城である。

 筆者は幼少期から、歴史や科学などのノンフィクション系の本を読むのが好きであった。中学校では必ずクラブ活動に参加しなければならず、奇しくも入学時に誕生したばかりの歴史クラブに入部した。入部してすぐに顧問の橋本観吉先生から「あの山は中世の城跡だよ」と教えて頂いた。その山とは筆者の自宅の真ん前で、川向であるが直線距離にして僅か600mほどであった。

 俄然興味が湧いてきて、同じ部員の友人たちと早速休日を利用して探索に出かけた。確か1977年の6月頃だったと思う。初訪城時は山頂部が擂鉢状に窪んでいることしか分からなかったが、踏査を繰り返すうちに、窪んでいるように見えたのは曲輪の周囲を土塁が取り巻いているのだと分かった。

 また山道を外れて雑木林に分け入ると、それまで気付かなかった新たな曲輪・堀・石積みなどの存在を見つけ、さらには友人が青磁や常滑焼の破片まで見つけ出してしまった。このように山中の探索を繰り返すうちに、探せば探すほど遺構・遺物が見つかる中世城郭の魅力に、完全に取りつかれてしまったのであった。

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写真1:安宅八幡山城遠景(手前の小山)

 さて安宅八幡山城は、紀伊半島南端の和歌山県西牟婁(にしむろ)郡白浜町に所在する。城跡は日置川の左岸に面した、標高83m(比高70m)の半島状丘陵に占地する(写真1)。現在は丘の東麓が深田池となるが、江戸時代の古地図『安宅一乱記巻末絵図』によると、東麓と西麓がにそれぞれ沼に描かれており、往時は両脇の沼が天然の水堀の役割を果たしていたようである。

 当城は熊野水軍の一派で、南北朝期から室町時代末期にかけて日置(ひき)川下流域を支配した、安宅氏(安宅水軍)の持城である。日置川と安宅川の合流地点に安宅本城を構え、これを守備すべく輪形陣に支城群を築いている。現在同町では、この一帯を「安宅の里」と呼び、城跡の学術調査やシンポジウムを開催するなどして、地域振興に力を注いでいる。

 軍記史料『安宅一乱記』によると、当城は安宅定俊の居城で、安宅一族の跡目相続から発展した戦いにより、1530(享禄3)年に落城したとされる。現在も落城したとされる日には、麓の矢田地区民により、戦火に散った城主の魂を弔うささやかな祭礼が行われている。

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写真2:発掘されたⅡ郭の雁木(2004年1月撮影)

 縄張りは、急崖の東斜面を除く三方を堀切と横堀で曲輪群を取り巻き、急崖側にも竪堀を設けている。特に尾根続きの背後は、二重の堀切で遮断する防御意識が見られる。城域は決して広くはないが、切岸は高くて堀は深く、とにかく土木量の多い城跡である。

 Ⅰ郭が最高所で主郭である。周囲に土塁を巡らし、東北隅が土饅頭上に一段高くなっている。地元では城主を供養した塚と伝えられるが、位置的に考えて櫓台の可能性もある。土塁に虎口A・Bを開口する。虎口BとⅣ郭間は、石段で繋がっていたことが2003(平成15)年度に行われた発掘調査により判明した。

 Ⅱ郭は三方が土塁囲みで、土塁内面に石積みを施す。また発掘調査では、土塁上面に登る雁木が出土している(写真2)。主郭ではなくⅡ郭が発掘調査の対象に選ばれたのは、主郭の地面には地山の岩盤が一部露出しており、ここを発掘しても成果が少ないであろうと判断してのことだそうだ。

 Ⅲ郭は堀切をはさんでⅡ郭と土橋で繋がり、三方が土塁囲みとなるが、曲輪内の削平は極めて悪い。おそらく純戦闘的な機能を担った空間であろう。塁線には張り出しCがあり、堀底を攻め上がってくる敵兵に弓矢などで掃射可能である。

 堀切はいずれも岩盤を掘りぬいた、いわゆる「岩盤堀切」である(写真3)。尾根背後の大堀切からは、常滑焼もしくは備前焼の甕片が多量に見つかっている。東斜面は、目測で傾斜角度が70〜80°くらいもありそうな岩肌が露出した崖で、とても敵兵がよじ登ってこれそうに思えないが、こんな所まで竪堀を2条設けており防御の厳重さが窺える。

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写真3:尾根筋の大堀切

 さてⅡ郭で行われた発掘調査では、『一乱記』の記述を裏付けるように焼土層が検出され、この焼土より上層には生活痕がなく、遺物は主に焼土より下層から出土した(日置川町教育委員会2004『八幡山城跡』)。このことから火災による消失後は、城は再興されなかった可能性が高い。

 出土遺物の内訳は、白磁皿、青磁椀、染付皿、備前焼甕・壺・擂鉢、瀬戸美濃焼皿、常滑焼甕、土師器皿などで、貯蔵具が多く日常の土師器類が少ない。遺物の年代観は、伝世品の可能性が高い貿易陶磁器を除外しても、14世紀から16世紀初頭までと実に200年近くにおよぶ時間幅がある。

 城郭存続期間の下限を示す備前焼擂鉢は15〜16世紀初頭に位置付けられるが(乗岡実ほか2004「中世陶器の物流―備前焼を中心にして―」『日本考古学協会2004年度大会研究資料』日本考古学協会2004年度広島大会実行委員会)、この年代は『一乱記』で当城が落城したとされる1530(享禄3)年に近い数値である。

 当城は長らく『一乱記』の記述に基づいて、安宅氏の一族内紛により灰塵に帰したと信じられてきた。しかし1980年代に入って縄張り研究が進展すると、紀州の中世城郭は1585(天正13)年に起きた豊臣秀吉の紀州攻めに引き付けて年代を下げて考えられるようになった(村田修三1985「戦国時代の城跡」『歴史公論』115、雄山閣)。

 ところが発掘調査の結果、落城を裏付ける焼土層が見つかり、また遺物の年代観も16世紀初頭止まりであることから、結局は元の鞘に戻った格好となった。それと同時に『一乱記』の記述も全くの創作ではなく、ある程度の史実を基に脚色して書かれた可能性も出てきた。

 現在、白浜町では、安宅の里の城跡群として国史跡にしようと動いている。和歌山県内の国史跡の城跡は、和歌山城1件のみと寂しく、この数字は近畿地方でも最も少ない。筆者も国史跡に関わる調査や啓発イベントがあれば、有償無償に関係なく文化面で故郷に恩返しする意味でも、何らかの形で関われればと考えている。
(文・図・写真:堀口健弐)

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南海(ナメ)倭城縄張図

 南海(ナメ)倭城は、大韓民国慶尚(キョンサン)南道南海(ナメ)郡南海邑船所里(ソンソリ)に所在し、釜山から見ると、順天(スンチョン)倭城に次いで2番目に遠い所に位置する倭城である。しかし釜山市内の西部バスターミナル(別名:沙上バスターミナル)から「南海」行きの長距離バスに乗車して終点で下車し、そこから徒歩約20分で到着するので、倭城の中では遠方にありながらも比較的訪城しやすいと言える。

 同倭城は、これまで計11回の訪城経験がある。1999年11月5・6日には、筆者が所属するお城の研究会で、今はもう無くなったが当時は終点のバスターミナルビルの上階にモーテルがあり、ここを拠点にして2日がかりで同城を徹底調査した。その成果は書籍で既刊である(城郭談話会2000『倭城の研究』4)。

 2013年11月15日には、“倭城ナビゲーター”の植本夕里氏を同城に案内した。南海に向かう途中のバス車内で、隣の席に座っていたアジュンマ(おばちゃん)が「飴ちゃんあげる」とばかりに飴玉を周りの人に配り始めて、私も一つ頂いてご賞味に預かった。釜山の風景はどことなく大阪を彷彿させるものがあるが、人々の気質も似ているということだろうか。

 そして今年5月11日、韓国の大学に留学中の学生君と合流して同城を踏査した。訪韓直前の口コミやインターネット情報によると、近時、天守台上の樹木と雑草が切り払われて、非常に見学しやすくなっているとのことであった。この天守台は、以前はド藪を通り越してまるでジャングルのような有様で、藪漕ぎに慣れた者ですら分け入ることができないほどの酷い状態であった。整備の主目的は三角点の設置のようであったが、地元の人々も当地が倭城跡であることを再認識したようだ。

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写真1:天守台

 さて南海倭城は、南海島の東岸に位置し、眼前は昌善(チャンソン)島とに挟まれたカンジン湾に望む。入り組んだ入り江はいつも波穏やかで、確かに天然の良港である。城跡は標高40m(比高同じ)と標高20m(比高同じ)の、二つの低位丘陵に跨って占地する。丘の南側は、干拓事業中により現在は湿地状だが、往時は入り江が入り込んでカンジン湾に突き出た岬状の地形であった。

 同城は1597(慶長2)年、宗義智が築城を担当し、水軍諸将が守備を担当した。

 道路を挟んで北側の高い丘が母城で、南側の低い丘が子城である。総石垣造りだが、天守台を除くと石垣の高さは3〜4m程度とそれほど高くない。Ⅰ郭が最高所で主郭である。現在は畑に利用されおり、地表面には白磁椀などの朝鮮陶磁器片の散布が多く見られる。

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写真2:軒平瓦(左)と軒丸瓦(右)

 西隅に付け櫓台を持つ複合式天守台Aを設ける。天守台周辺には以前から瓦片の散布が認められたが、樹木の伐採により多くの瓦片が存在することが改めて確認できた。おそらく天守などの中心的な建物に、瓦屋根が葺かれていたのであろう。これまでに同城で朝鮮半島様式の軒平瓦(滴水瓦)が発見されていたが(羅2000「南海倭城の滴水瓦」『倭城の研究』4、城郭談話会)、今回新たに軒平瓦と蓮弁紋の軒丸瓦も見られた。

 明国の従軍画家が慶長の役を描いた『征倭紀功図巻』によると、2層大入母屋屋根の上に高欄を巡らした小さな望楼を載せ、壁は下見板張りで、“犬山城”似の3層望楼型天守を描いている。日本文化を知らない明の画家が描いたのにもかかわらず、当時の天守の様子を具体的に写実的に描いており、史料として信憑性が高いと思われる。

 虎口BはⅠ郭へ至る枡形虎口となるが、主郭への導線が分かりにくい。なお北斜面には6条の“畝状竪堀群”状の微地形が見られ、これを竪堀群とする見方もある。ただし筆者の印象では、竪堀群にしては幅が広すぎる気もするので自然の谷地形のような気もするが、この辺は意見の分かれるところかもしれない。

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写真3:Ⅱ郭の石垣

 一方道路を挟んで南側にも出曲輪群が存在する。Ⅱ郭は丘の先端部に位置し、東・南・西の三方に石垣を積み、そのつち南・西は崩れて低くなっているが石塁状になる。この曲輪にも瓦片の散布が見られる。

 Ⅲ周辺は最高所であるが、一部に低い石垣の残欠が認められるものの、現状は畑に利用されており、中には自然地形に近い箇所もあり、どこまでが城の遺構か判断に苦しむ。

 丘麓の北西には、かつての外郭線の土塁の残欠C・Dが2か所に残る。幸か不幸か道路に削られたたmに土層断面が観察できるが、下1/3までが地山とほぼ同じ灰白色砂層で、その上2/3は拳大の礫を混ぜた褐色土層で、これが人工的な土盛りであることが分かる。おそらく往時は丘麓を囲郭していたのであろう。

 南海倭城は史跡には指定されていないが、近時、登り口に日本人研修者作図の縄張り図入り説明板が設置され、今まで存在を知らなかった地元住民にも認知されるようになった。これを機に、少しでも良好な状態で保存されていくことを切に願うものせである。
(文・図・写真:堀口健弐)

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32:周山西城(京都市)

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周山西城縄張図

 2020年のNHK大河ドラマは、明智光秀が主人公の『麒麟がくる』に決定した。筆者は大河ドラマの類はほとんど見ないのだが、それでも密かに期待していることがある。丹波地域には、明智光秀が築いたり改修の可能性が指摘されている城跡が多いが、これまで研究者や愛好家を除くと、あまり注目されてこなかった。しかしこれを契機に歴史本などで紹介されて、一挙に注目が集まりそうな予感がしている。

 過去のブログ「№13:周山城」でも記したが、筆者は1980年代終わりから1990年代前半にかけて、周山城の調査をライフワークにしていた時期があった。周山城は、1580(天正8)年に明智光秀が築城した総石垣で瓦葺きの城郭で、丹波国でも屈指の規模と構造を誇っている。その当時は周山城と言えば、城山一帯の石垣曲輪群のみと考えられてきた。

 ある日、周山城の西尾根付近を測量中に、自分でもよく分からないが何かに呼び寄せられるように、測量機材を置いたまま西尾根を西へ西へと歩き始めた。途中の二重堀切(写真1)を超えると植林されて比較的歩きやすく、さらにどんどん進むとピーク上の平坦地に出た。そこから平坦面が段状に続き、所々に土塁らしき低い高まりもあ見られた。ここには城はないはずなのにと想いつつ、その時はとりあえずカメラのレンズに収めておいた。

 後日、お城の研究会が終わった二次会の席で、城友たちにその写真を見せてみたところ、「城跡で良いのでは」旨のご意見であった。

 そこで日を改めて、周山城の測量手段と同じコンパストランシットを導入し、のべ4日がかりで測量図を作成した。当時この曲輪群に正式名称はなく、拙稿では「周山城(西峰曲輪群)」と仮称したが(拙稿2014「周山城(西峰曲輪群)」『図解 近畿の城郭』Ⅰ、戎光祥出版)、近時、管轄の京都市教育委員会では石垣の城を「東城」、土の城を「西城」と呼び分けており、今後はこの呼称にならいたい。

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写真1:東城と西城を隔てる大堀切

 さて周山西城は、黒尾山に近い標高480m(比高200m)の小ピーク上一帯に存在する。縄張りは比高のほぼ同じ3か所の小ピークと、それを結ぶ痩せ尾根上に跨って削平地を連ねている。

 Ⅰ郭が最高所で主郭と考えられ、上下2段になるが、特に下段の内部は削平がやや甘い。北西に外枡形虎口Aを開口する。この虎口は1990年代に入って開通した林道とニアミス状態で、豪雨にでも見舞われると崩落してしまいそうな危ない状態である。同じく南に、食い違いからカニばさみ状に変化する外枡形虎口Bを開口するが、この土塁は跨いで通れるくらいの低さである。いずれも織豊系城郭の虎口で、千田編年のⅣ期(1576〜82年)に相当する(千田嘉博2000『織豊系城郭の形成』東京大学出版会)。

 Ⅰ郭の西斜面下に帯曲輪が巡るが、縁辺部に一部低い土塁状の高まりが見られることから、もしかすると埋没した横堀の可能性もある。

 Ⅱ郭はⅠ郭に次ぐ独立性の高い曲輪である。削平が十分に行き届き、土塁を挟んでⅠ郭と対峙する格好となる。最高所の曲輪内部を一文字土塁で仕切るが、比高差のない曲輪を仕切る土塁は、丹波地方の中世城郭でしばしば見られる構造である。城域の西側斜面は全体的になだらかで、それをカバーすべく西の各支尾根に小規模な堀切や腰曲輪を設けている。

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写真2:信楽焼擂鉢片

 Ⅲ郭には約2m間隔で平な石が点在しており、建物礎石の可能性もある。曲輪内からは、別個体と思われる信楽焼擂鉢の破片が2点見つかっている(写真2)。これは木戸編年のB5類(16世紀前半〜中頃)に相当する(木戸雅寿1995「信楽」『概説 中世の土器・陶磁器』真陽社)。

 このように石垣の城郭とその背後の土造りの城郭がセットで存在する事例には、但馬八木城(兵庫県養父市)があるが類例は少なく(谷本進2014「八木城」『図解 近畿の城郭』Ⅰ、戎光祥出版)、織豊期の築城様式を考えるうえで貴重な遺構と言える。
(文・図・写真:堀口健弐)

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