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城郭電脳日記
〜倭城と日本の城郭〜
 2018年5月9日㈬〜16日㈬にかけて、8日間(実質中6日間)の倭城踏査を行った。自身としては昨年3月以来1年2か月ぶりの訪韓であったが、今回は数字以上に久々に感じられた。当初の計画では、昨秋の10月か遅くても11月前半頃にと考えていたのだが、少々長丁場の発掘調査の仕事が入り、この間は暦どおりにしか休む事ができない。

 しかしその頃にはまだ悲壮感はなく、今季が駄目なら寒さの緩む3月後半頃をと本気で計画していたのだが、年度末に入っても報告書の原稿執筆を2本抱えて思ったほど時間が自由にならない。そんなこんなで年度も変わり休暇日数もリセットされた5月に入り、漸く休みがまとまって取れた経緯があった。

 さて今次踏査の主な目的は2題ある。一点目は、描きかけの縄張り図も含めて文禄・慶長の役の舞台となった、朝鮮王朝側の城郭を踏査して図面を作図すること。もう一点は、倭城をデジカメで再撮影することであった。筆者は総ての倭城をフィルムカメラで撮影しているが、インターネットに投稿することを考えると、フィルムからスキャンするよりもデジカメ画像を使用した方が綺麗なので、改めてレンズに収める必要性があった。

 作図した縄張り図はこれから多急ぎでトレース(清書)することになるが、今回もまずは写真のみで、踏査成果の一端を前・後編の2回に分けて報告したい。

 今回の踏査旅行は、“倭城ナビゲーター”の植本夕里女史と韓国の大学に留学中の学生君とが、入れ替わり立ち代わり同行する恰好での踏査となった。日本を発つ前は、釜山の週間天気予報を見て雨マークが心配であったが、日頃の行いが良かったのか、なんとか最低限の降雨で済んでくれたのは幸いであった。旅の前半は低温傾向で、上着があっても少し肌寒く感じられたが、半ば以降は初夏の強い日差しが容赦なく照りつける陽気となった。

5月9日㈬ 晴

 関西空港を午前11:00発のエアプサンで発ち、金海(キメ)国際空港で入国等の諸々の手続きを終えて、予約していた釜山駅前の釜山イン・モーテルに投宿すると、既に午後3時を少し回っていた。慌ただしく旅の荷物を解いて、夕暮れまでの残り少ない時間を利用し釜山倭城を踏査する。

 同城の最寄駅である都市鉄道1号線「佐川(チャチョン)」駅で、幸先の良いサプライズがあった。構内でミニ写真展「佐川歴史物語」が催されており、その中に倭城が写っている写真を3点見つけることができた。倭城が主題の写真ではなく、解説にも「倭城」の文字はどこにも無いが、いずれも見る人が見れば分かるレベルの写真である。

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1950年代の釜山倭城(ミニ写真展「佐川歴史物語」より)

 まず当時はまだ珍しかったカラーフィルムで撮影された、1950年代の佐川駅界隈の写真が目に留まった。その背景(写真左上方)に、釜山倭城の石垣がはっきりと写りこんでいる。同城には今も遺構が残るが、周囲の木立が成長したうえにアパート群が林立しており、今現在では麓から遺構を望める事ができず、非常に貴重な写真である。撮影者の記名はなかったが、おそらく豪州系韓国人のメ・ヘランとメ・ヘヨン姉妹(ともに故人)ではないかと思われる(※)。

 他にも1900年代初頃に撮影された、釜山倭城(トリミングして部分使用)や釜山子城台倭城(釜山鎮支城)の白黒写真もあった。子城台倭城を写した古写真は何点か存在するが、展示の古写真には朝鮮時代後期の鎮城の建物もはっきりと写っており、これも貴重な写真であった。

 さて釜山倭城の近くはよく通るものの、同城の踏査自体は実に数年ぶりであった。城跡は以前とほとんど変わらない様子であったが、主郭に展望台ができたと言う情報があって、是非ともこれに登ってみたかった。現在は木立が成長したため城跡から眼下を眺めることはできないが、展望台上からは釜山の港街全体が見渡せた。

 入国初日の夜は夕里さんと沙上(ササン)で待ち合わせして、カムジャタン(豚の背骨にこびり付いた肉をこそぎ落としながら食べる鍋料理)を食しながら、明日以降の作戦会議に花を咲かせた。

5月10日㈭ 晴

 事実上の踏査初日は、まず都市鉄道1号線「老圃(ノポ)」駅から市外バス(急行バス)に乗り、さらに市内バス(路線バス)に乗り換えて蔚山(ウルサン)市の蔚山兵営城へ。「兵営城」とは朝鮮王朝のいわば“陸軍基地”で、同城は文禄の役の開戦当初に加藤清正に攻められて落城している。

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蔚山兵営城の東門

 昨春に一度踏査して縄張り図を作成途中であったが、一部は復元工事中のため立ち入ることができなかった。今現在では既に復元工事も終わって自由に見学でき、現存部分の縄張り図を作成することができた。

 前回踏査できなかった東門付近は、発掘調査を終えて雑にブルーシートを掛けたまま何か月も経過しているような雰囲気であったが、シートの合間からでも石垣遺構を垣間見ることができた。また東門の甕城(オンソン)の残欠を確認することもできた。ここも近い将来に史跡整備されるのであろう。

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蔚山倭城の修築された石垣

 作図作業が早目に終わったので、残りの時間を利用してすぐ近くにある蔚山倭城を踏査する。同城の石垣は、昨年から修築工事に入っているとの情報を得ていたが、既に修築工事が完成し、こちらも自由に見学することができた。元々この箇所の石垣は、残存状態が良くなかったが、日本式の石垣が蘇った格好となった。

 元来たルートで釜山市内まで戻り、夕食はファーストフード「キンパプ天国」にて、韓国を代表するB級グルメの辛ラーメンとキンパプ(韓国式海苔巻き)を食した。

5月11日㈮ 晴

 昨夜のうちに釜山入りして同じモーテルに宿泊している学生君と合流し、この日は終日、南海(ナメ)郡(南海島)の南海倭城を踏査する。同城は釜山を起点にして見ると、最も遠い順天倭城に次いで2番目に遠い場所に位置するが、沙上バスターミナルから市外バスに乗って終点の「南海」で下車し、下車後は徒歩約20分で目的地に着くので、意外と踏査の容易な倭城である。

 同城は既に縄張り図も作成して何度も訪城経験があるが、訪韓直前の口コミやインターネット情報によると、天守台が整備されて非常に観察しやすくなっているとのことで、是非ともレンズに収めておきたかった。

 まず登山口に着くと、さっそく日本人研究者が作図した縄張り図入りの説明板がお出迎え。当城は史跡には指定されていないが、地元民もこれを契機に倭城の存在を知った人が多いようで、踏査中にも明らかに農夫ではない方が天守台に登られていた。中には現地の方なのか日本人観光客なのか、会話を交わさなかったので分からなかったが、一眼レフカメラで熱心に写真を撮っている30〜40代くらいの男性にも出くわした。

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南海倭城天守台

 この天守台は、以前は草木が繁茂してジャングルのような有様で、藪漕ぎすらできない酷い状態であったが、木々が総て伐採され始めて天守台上に登ることができた。上面には三角点点が設置されていて、どうやら史跡整備ではなくこれが本当の目的らしい。しかし三角点が存在する以上、近々に開発工事などで破壊されることもないであろうから、まずは一安心である。

 学生君には縄張り図を描いてもらい、その間に筆者はフィルムとデジタルの両方のカメラで写真撮影に専念した。

 元来たルートで沙上まで戻り、夕食は以前夕里さんに案内された事のある名店にて、テジクッパ(薄口の豚骨スープに豚のばら肉が入った雑炊風の料理)を食した。

5月12日㈯ 曇のち小雨

 朝目覚めるとどんよりと低い雲が垂れ込め、時間天気予報では午後1時より雨の予報が出ている。雨が降り出した時点で雨天コールドにする予定で、梁山(ヤンサン)市の梁山倭城を目指す。同城は、近年都市鉄道2号線「甑山(チュンサン)」駅が開業したおかげで“駅前倭城”の仲間入りを果たし、随分と踏査が便利になった。ただし以前は田園風景しかなかった所に街一つが新しくできたため、訪城するたびに景観が変貌し、道路区画まで変わってしまっていて、登山口まで辿り着くのにちょっとした苦労であった。

 ここでも学生君には縄張り図を描いてもらい、筆者は写真撮影に専念する。そして時計の針が午後1時を回ったところで、正に天気予報どおりの小雨がぱらつき始めたので、この時点で踏査を終了して下山を開始した。

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梁山倭城

 帰路は本来の大手道を下って山麓居館を案内しながら帰ろうかと考えていたが、これが思わぬ事態になることに。本来の山道は地元の人ですら近年は利用しなくなったのか、想像以上の荒れ放題である。竹篠ブッシュに加えて倒木がいたる所にあり、それでも藪漕ぎしながらの下山を試みたが、行けども行けども一向に道が開ける気配がない。これ以上無理に下山すると、藪漕ぎに慣れた者ですら前に進む事も戻る事もできなくなって危険と判断し、意を決してブッシュを直登して城跡まで戻り、新しく開通した遊歩道を見つけて何とか無事に下山することができた。

 日暮れまでの残り少ない時間を利用して、都市鉄道2号線「大淵(テヨン)」駅近くにある釜山博物館を見学に予定を変更する。同博物館な何度となく訪れているが、リニューアルオープン後は初めてとなる。釜山と言う土地柄、日本の古代史とも関わり合いの深い遺物が数多く展示されており、中には日本の九州の縄文土器や中国地方と思われる古墳時代の土師器なども展示されていて、改めて日韓交流の歴史を体感したのであった。

 館内のお土産売り場では、もう一つの目当てである『釜山城郭』という“電話帳”くらい分厚い図録を購入する。同書には釜山市内の古代から倭城を含む近世にまで至る城郭を紹介しており、巻末には日本の城郭研究界でもお馴染の羅東旭(ナ・ドンウク)氏や北垣聰一郎氏の特論も収録されていて、これからの倭城研究にも大いに役立ちそうである。

 夕食は博物館近くにある焼肉屋にて、韓国料理の定番であるサムギョプサル(豚の三枚肉の焼肉)を食した。考えてみれば、韓国に入国以来、初めての焼肉料理にありついたのであった。

※メ・ヘランとメ・ヘヨン姉妹は、豪州人の医師で宣教師の父と看護師の母を持つ。両親は朝鮮戦争で荒廃した釜山に孤児院やハンセン病病院を設立し、姉妹も両親の志を受け継ぎ復興に尽力した。姉妹は晩年を故国の豪州に戻り、余生を送った。
 姉妹は写真が趣味で、当時まだ普及段階にあったカラーフィルムを用いて、釜山市内の様々な風景をレンズに収めた。現在、写真の原版は京畿(キョンギ)大学校博物館が所蔵する(WEBサイト「ハフポスト日本語版」)。

(後編へ続く)
(文・写真:堀口健弐)

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熊川邑城縄張図

 熊川(ウンチョン)邑城の初訪城は1990年5月25日、筆者が所属するお城の研究会で初めて倭城を訪れた時の事である。この日は午前中に熊川倭城を踏査する予定で、チャーターしたマイクロバスに乗り込んで同城を目指したが、目的地に近づいた時、車窓から何やら城郭石垣らしき物が目に飛び込んできた。同行者の誰かが「停めて」と言うと、通訳の女性は「あれは倭城ではありません」と言ったが、「それでも良いからちょっとだけ見たい」と無理をお願いして、急遽予定には無かった同城の見学となった。バスを降りてほんの5分か10分くらいの短い時間であったが、皆大急ぎでカメラのシャッターを切ったのであった。

 その後、お城の研究会の踏査旅行や単独あるいは筆者が城友を案内するなどして、合計7度ほど訪城している計算になる。同城は、バス停を降りてから熊川倭城に徒歩で向かう途中にあるので、いやがうえにも目に入るし、熊川倭城と抱き合わせで見学するにも丁度良い。

 初訪城時は蔦の絡まる古びた石垣のみで、堀も完全に埋まった状態であったし、何より当時は筆者自身に邑城に対する知識も乏しかったため、石垣の周囲に堀が存在することすら知らなかった。2001年から順次史跡整備のための事前の発掘調査が開始され、2009年5月5日に筆者主催の倭城ツアーで訪城した時は、ちょうど城門A付近を発掘調査中で、それを目の当たりにして漸く堀が存在することを把握したのであった。

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写真1:復元された甕城と門楼

 2011年4月29日の訪城時には、日本の櫓門に相当する「門楼(ムンル)」が復元されていた(写真1)。日本でも地方自治体では模擬天守などを建てたくなるものであるが、韓国でもご多分に漏れず、近年では邑城の門楼や楼閣を復元する機運が高まっている。そしてそれらが地方都市のシンボル的存在となっているようである。

 熊川邑城は、釜山市の西隣に位置する慶尚(キョンサン)南道昌原(チャンウォン)市鎮海(チネ)区城内(ソンネ)洞に位置する、もっとも初訪城当時は鎮海市であったが、その後昌原市に合併して現在に至っている。数年前には高速道路が開通してインター出口が設けられたため、釜山市のベッドタウンとして急速に開発が進んでいる最中である。

 その熊川邑城は、慶尚南道記念物第15号に指定されている。「邑城(ウプソン)」とは、中国の影響を受けた集落の周囲に城壁を巡らした城塞都市で、いわば都城のミニチュア版である。倭寇の襲来に備えて1434(世宗16)年に築かれ、1452(端宗1)年に増築された。1510(仲宗6)年には、在朝和人が起こした「三浦の乱」で一度落城している(羅東旭2005「韓国慶尚南道地域の城郭遺跡の発掘調査成果―最近調査された鎮城を中心として―」『韓国の倭城と大坂城』倭城・大坂城国際シンポジウム実行委員会)。

 また文禄・慶長の役では日本軍が占拠しており、日本とも関わりの深い城郭である。このように朝鮮王朝側の城郭をそのまま使用したり、多少日本式に改修したものを「広義の倭城」とも呼ぶ。

 当城は、臥城(ワソン)湾から少し奥に入った海岸沿いに築かれており、小西行長が守備を務めた熊川倭城とは目と鼻の先である。城域は、東西220m×南北350mの南北にやや長い長方形を呈する。城壁内には初頭学校・中学校・高校や教会などがあり、今なお集落の中心となっている。

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写真2:現存石垣

 石垣は、史跡整備により東面と南面の一部が修築され、堀も往時の姿が蘇ったが、西面の一部は当時のまま残されている(写真2)。高さは目測で約3mだが、天端が崩落しているので本来はもう少し高さがあったのであろう。石垣は根石を水平に据えて石材をほぼ垂直に積み上げ、内外両側を石積みとした「挟築」となる。

 往時は東西南北にそれぞれ城門を開いていたが、現在では東門Aと西門Bの遺構が残る。東門Aは前述のとおり門楼が復元されており、上に登ることもできる。城門は、日本の丸馬出しに似た半円形の石塁を突出させる「甕城(オンソン)」である。発掘調査では堀底から木橋が出土しているが、城門と橋とを少しずらして作られており、敵兵が直進できない構造になっている。

 城壁には、横矢掛かりのための突出部「雉城(チソン)」Cを設けている。さらに城壁の隅部には、斜め対角線状に突出する「角楼(カクル)」DとEを設けて、射撃の死角をなくす工夫が施されている。このように邑城は、横矢掛かりの意識が発達している。また城壁と堀との間には幅10m前後の犬走りを設けているが、これも邑城の特徴である(写真3)。

 なお文禄・慶長の役時に日本軍によって改修された痕跡は、地表面観察では窺えず、発掘調査でも出土していないようである。

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写真3:史跡整備された城壁

 ところで日本で出版された邑城関連の書籍や論文は極めてに少なく、どちらかと言えば文献史料や歴史地理的な考察が主流である。縄張りや遺構に則した論考は「広義の倭城」に関する論考が数点あるが、それとて決して多いとは言えないのが実状である。

 朝鮮半島の城郭と言えば、古代山城(朝鮮式山城、神籠石系山城)に関する研究は古くからあり、研究者や愛好家も一定数存在する。一方、邑城の研究の蓄積が我が国でほとんどないのは、日本の歴史とさほど関わっていないことが理由と考えられる。

 しかし文禄・慶長の役では、邑城が日朝の攻防戦の舞台となったり、また占拠した邑城を日本側が使用した歴史がある。一方の韓国では、日本のように縄張り図を描いて城郭を研究する文化が存在しない。今後は日韓が協力しあって、邑城を研究していくことを切に願うものである。
(文・図・写真:堀口健弐)

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丹波岩尾城縄張図(※一部、多田暢久氏原図を基に作図)

 丹波岩尾城(兵庫県丹波市)の埋蔵文化財としての正式名称は「岩尾城跡」であるが、他地域の岩尾城と区別して「丹波岩尾城」または「蛇山岩尾城」と呼ばれることが多い。「蛇山」という山名から察して、さどかし蛇が多く生息しているのかと身構えてしまうが、これは一説に「じょうやま(城山)」が「じゃやま(蛇山)」に変化したためと言われている。

 筆者が初めて岩尾城を訪れたのは、1993年10月23日である。その時は専ら写真撮影のみに終始した。自宅から岩尾城のある最寄駅のJR谷川駅までは、一旦JR山陰線を北上してから福知山駅で福知山線に乗り換えて谷川駅まで下り、神姫バスに乗り換えて和田小学校前で降りることになる。初訪城の際には、電車から降り立つと直ぐに走り去っていくバスが目に映り、嫌な予感がして時刻表を見ると、案の定岩尾城方面行のバスが出た直後であった。バスの便数は1・2時間間隔なので、とても次のバスを待っていられない。普段は滅多にタクシーを利用しない筆者だが、この時ばかりは流石に駅前に停まっているタクシーに飛び乗った。

 次の訪城は、翌年の1994年1月6日〜2月6日にかけて計5回、「JR青春18きっぷ」を利用した短期集中決戦で、岩尾城の石垣曲輪群の実測調査を行った。この時に用いた機材は、当ブログ「№13:周山城」で用いたのと同じ、コンパストランシットと巻尺を利用して原図1/500の縮尺で作図した。

 さらにその翌年、山南町(現在は合併して丹波市)教育委員会から「岩尾城の地表面観察の調査を行いたいので協力して欲しい」旨の打診があり、二つ返事で快諾した。光栄にも4名の調査員のうちの一人に任命して頂き、1995年1月6・7日にかけて、麓にある和式旅館に宿を取っての調査となった。この時の調査は、縄張り・石垣・瓦・地籍図・文献史料等の項目からなる総合調査で、その成果は『史跡岩尾城跡』(兵庫県山南町1998)として刊行された。ただ非売品であったため、手に取って読まれた方は少ないかもしれない。

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写真1:天守台

 岩尾城は1516(永正13)年、在地土豪の和田斉頼によって築かれたのが始まりである。明智光秀による丹波平定後の1586(天正14)年には、豊臣家家臣の佐野栄有が入城し、1595(文禄4)年まで在城した。城は1596(慶長元)年には廃城になったようである(中井均1987「岩尾城」『図説中世城郭事典』3、新人物往来社)。

 城跡は播磨国との境に近い丹波国の西端に位置し、標高358(比高260)mの蛇山に占地する。当城の縄張りの特徴は、城域を南北に分断するように築かれた大土塁を境にして、土塁以南の石垣曲輪群と以北の土の曲輪群とに二分される点である。この大土塁は城内の最高所で、測ってみると天守台上面よりも1.5mほど高い。

 Ⅰ郭が主郭であるが、前述のとおりここが最高所ではない。曲輪群の中央部に天守台Aを設けるが、3間✕4間半の天守に2間✕3間の付け櫓台からなる複合天守で、日本国内でも最少級の天守である(写真1)。天守台を最高所ではなく、あえて一段下がった位置に設けたのは、おそらく城下側からの見栄えを意識してのことであろう。

 Ⅱ郭には、Ⅰ郭と天守付け櫓へそれぞれ通じる、平面「T」字形の枡形虎口Bを開口する。このⅠ郭とⅡ郭を含めた区域は、山自体が峻嶮にも関わらずほぼ80尺四方の方形に近い形状を呈する。原地形に左右されない矩形の平面形を指向しており、机上プランをそのまま現地に当てはめた縄張りでと言える。

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写真2:大手道の石垣

 石垣は、城下に面した方を高く積んでいる。石材は、加工しない花崗岩の粗割り石を使用し半切して、割れ口を表面に見せて積む「割り肌仕上げ」で、間隙に間詰石を充填している。隅角部は算木積の意識は多少感じられるものの、角石の長短の引きが揃わない箇所もあり、不完全に終わっている。稜線は直線的で反りは視られない。

 登城ルートは南尾根を遮断する堀切と兼用の堀底道を通って、石垣で固めたジグザグの大手道を進んで城内に入り、Ⅳ郭→Ⅲ郭→Ⅱ郭の順に進んで、先に見た虎口Bを通って主郭へと至る(写真2)。狭い曲輪の中にも、巧妙に導線を設定しているのが分かる。

 Cは一見すると、天井部が崩落した炭焼窯のようにも思えるが、炭焼窯にしては規模が多き過ぎる気もする。これも好意的に解釈すれば、城道を登て攻め上がってくる敵兵に奇襲をかけるための、武者隠しの可能性がある。

 城外には、高所にもかかわらず井戸Dがあり、現在は転落防止用の網が被せてある。一般的な地下水を汲み上げる方式の井戸ではなく、岩盤をくり抜いて一部には石積みを施し、岩の隙間から滴り落ちてくる湧水を蓄える構造である。築城から400年余りを経た現在でも、今なお水を湛えているのには驚かされる。現在は井戸底に落ち葉が分厚く堆積して浅くなっているが、試しに枯れ枝を指し込んでみたところ、少なく見積もっても1.5m以上の深さはありそうであった。

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写真3:軒平瓦と軒丸瓦

 城内には、主にⅠ・Ⅱ郭周辺で瓦片の散布が多数見られ、瓦屋根を備えた本格的な建物が建っていたことを物語る(写真3)。瓦は丸瓦・平瓦・軒丸瓦・軒平瓦、それに軒の棟に取り付ける輪違い瓦などの道具瓦がある。瓦は総じて焼成は良好で胎土も精良で、丁寧なナデ調整をお施すものが多い。平瓦には、円弧状の水がえしの付く物が見られる。軒瓦の瓦当文様は、軒平瓦は三葉三転唐草紋と五葉?(欠損のため不確実)四転唐草紋の2種類がある。軒丸瓦は、右巻き巴紋・珠紋帯、左巻き巴紋・珠紋帯、珠紋のない左巻き巴紋の3種類が見られる(拙稿1993「蛇山岩尾城」『織豊期城郭の瓦』織豊期城郭研究会)。

 さて、一方の大土塁以北は、土造りの曲輪Ⅴ郭を中心として尾根筋に堀切を設けて遮断する構造であるが、石垣や瓦の使用は一切認められず、縄張り的にも石垣曲輪群とは完全に隔絶している。おそらくこの区域は、戦国期の和田段階の遺構と思われる。佐野期段階の岩尾城は、土造りの曲輪群は機能せずに放棄されていたと考えられる。

 岩尾城は非常に小規模でありながら、高石垣で築かれ天守と枡形虎口を設け、建物の屋根には瓦を使用するなど、織豊系城郭の諸要素を兼ね備えた城郭である。規模はミニサイズでも、当地にとって軍事的あるいは政治的に特別な意味を持った城郭であったと推測される。
(文・図・写真:堀口健弐)

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第1図:加徳倭城縄張図

 加徳(カドク)倭城は大韓民国釜山広域市江西(ガンソ)区訥次(ヌルチャ)洞、本土と加徳島に挟まれた小島「訥次島」に所在する。

 加徳倭城の初訪城は、筆者が所属するお城の研究会の面々らと踏査した、1998年4月28日である。この時は、筆者は石垣の実測図作成に専念した。翌29日には単独で再訪城し、丸1日かけて縄張り図作成に専念した。その後は何度か城友を案内して再度訪城し、2014年11月8日には改めて縄張り図の修正を行った。

 当時訥次島へ渡るには、釜山市との市境に近い昌原(チャンウォン)市龍院(ヨンウォン)から出ている、漁船を改造したような小さな渡船が唯一の交通手段であった(写真1)。この海域は、干潮時は一面干潟となる遠浅の海である。1998年の単独踏査の際には、帰路の渡船が干潟の澪(干潟上にできた川状の地形)を進んでいた時、途中で浅瀬に乗り上げてしまい身動きが取れなくなってしまった。船頭も心得たもので、予め用意していた竹竿で船を押し出そうとするが、船は微動だにせず。結局諦めて港に救援を要請し、別の船にロープで牽引してもらって漸く脱出することに成功したのであった。

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写真1:加徳倭城遠望(1998年撮影)

 ところがこの海域は、2000年代に入ってから風景が一変した。まず釜山新港建設に伴う大規模な埋め立て工事により、本土と加徳島とが地続きになった。これにより現在では、登山口に近い加徳島の船倉(ソンチャン)が路線バスの終点となっている。

 また本土から加徳島を経て巨済(コジェ)島とを繋ぐ、巨加(コガ)大橋が建設された。当初の予定では、訥次島がこの巨加大橋の橋桁になる予定で、加徳倭城も破壊される運命の危機に瀕した。当城は史跡には指定されていないが、釜山市の文化財担当部局が城跡の重要性を訴えた結果、大橋のルートが設計変更されて城跡は守られたのであった。

 巨加大橋は現在、城跡の眼前を海中に張り出すような、変則的なルートを取っているが、これは設計変更された姿なのである。当然設計変更をすれば、時間も費用も余計にかかるところであるが、そうまでして倭城を守って頂きた釜山市の文化財部局には頭が下がる思いである。

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写真2:主郭石垣

 さて加徳倭城は、訥次島南端に位置する標高70.5m(比高ほぼ同じ)の山頂部と、そこから連なる二つの小ピークに跨って占地する(第1図)。

 Ⅰ郭が最高所で主郭である。周囲を石垣で固め、曲輪の内側は低い土塁となる(写真2)。北西隅Aが僅かに張り出して側面に横矢が掛かり、また海側に対しての眺望も良い。天守台ではないと思われるが、主郭の防御を担う重要な場所である。虎口Bは内枡形となる。現在は虎口空間内に島民が祀る祠があり、後世に積まれた石積で閉塞されている(写真3)。

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写真3:主郭枡形虎口

 Ⅰ郭の周囲には、曲輪とも後世の段々畑とも判断しかねる雛壇状地形が延々と続き、どこまでが城の遺構なのか判断に迷う。ただC周辺には、途切れながらも日本式の石垣が見られることから、少なくともこの辺りまでは城域であったことが窺える。

 Ⅱ郭は痩せ尾根上に築かれ、低いながらも石垣を築いて数段の曲輪を配置する。ここからは狭い海峡を挟んで、対岸の加徳支城を眼前に望むことができる。

 Ⅲ郭は尾根鞍部を挟んで、やや独立性が高い位置にある。一見すると土の切岸のようだが、詳細に観察すると所々に石垣が確認できる。周囲を帯曲輪で囲郭するが、曲輪面と帯曲輪との高低差があり、どのようなルートで昇降していたのかは不明である。

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第2図:加徳支城縄張図(参考資料)

 ところで当城は、狭い海峡を挟んで加徳島の加徳支城と向かい合っている。地元では加徳島の城跡を「加徳倭城」と呼び、一方の訥次島の城跡を「加徳支城」と呼んでいる。しかし加徳島の城跡は典型的な朝鮮式山城で、日本式城郭に改修された痕跡は見当たらない(第2図)。この件に関しては先学も既に指摘しており(山崎敏昭1998「加徳城と安骨浦城の縄張り」『倭城の研究』2、城郭談話会)、筆者も同感であった。

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写真4:『1872年地方地図』(ソウル大学校博物館蔵:J.S.Kim氏提供)

 その後、この見解を補強する絵画史料の存在を知った(J.S.Kim氏のご教示)。朝鮮時代末期に描かれた『1872年地方地図 慶尚南道熊川県地図』(ソウル大学校博物館蔵)によると、訥次島の城跡のある山に石塁状の描写があり、漢字で「倭古堞」と記されている(写真3:画像下方)。「堞」とは「城壁」や「垣根」の意味なので「倭古堞」が「倭の古い城」すなわち倭城を意味していることは間違いない(※)。

 一方の加徳島の城跡には、特段何の表記もない。このことから19世紀末頃まで、訥次島の城跡を加徳倭城と認識していたもののが、近代以降の比較的新しい時期になって「加徳倭城」と「加徳支城」の位置認識が入れ変わり、後世に誤伝されたものと考えられる。

※画面上方にも同様の描写があり「倭古堞」とあるのは、安骨浦倭城である。
(文・図・写真:堀口健弐)

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第1図:古武之森城縄張図

 古武之森(こぶのもり)城は、1977年に地元の“城好き高校生”グループによって発見された城跡である。同城は紀伊半島の南端に近い、和歌山県西牟婁郡白浜町(当時は日置川町)に所在する。この城跡自体は、地元に伝わる江戸時代の軍記史料『安宅(あたぎ)一乱記』に登場し、また『安宅一乱記巻末絵図』にもはっきりと描かれているのだが、永らくその存在を確かめた者はいなかった。

 この幻の城跡を求めて、当時、和歌山県立熊野高校に通う郷土史研究クラブのメンバー4名が探索し、初めてその実在が確認されたのであった。この快挙を伝える当時の『読売新聞(和歌山版)』、その他の紙面によると、夏休みなどを利用し、道なき道を掻き進んで山中を探索するも中々発見には至らず、実に4度目のアタックで漸く目指す城跡に辿り着いたのだそうだ。

 城跡で新聞記者の記念撮影に応じる彼らの姿は、恥ずかしそうにしつつも、どこか誇らしげのようにも見える。そんな彼らも数えてみると、今や50歳代に突入している計算になる。彼らはその後、立派な考古学者や城郭研究者になったのだろうか?機会があれば、聞いてみたいものである。

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写真1:山麓の露頭に残る矢穴

 さて筆者は今年(2017年)の正月休みを利用し、筆者の同級生で和歌山城郭調査研究会のメンバーでもある城友と一緒に、原稿のネタ作りを兼ねて同城を踏査した。城跡は同郡すさみ町境に近い、標高301m(比高290m)の「古武之森」に位置する。山自体も結構な高所だが、それにも増して城跡まで通じるまともな道がなく、しかも山肌に岩肌が露出して巨石が転がるなど、登頂するにはかなりの難所である。

 登頂を開始して間もなく、思いがけなく矢穴が残る露頭を発見した(写真1)。「矢穴」とは石を割る際にクサビを入れる穴の事であるが、当地に石切丁場があったという伝承も調査記録も一切残っていない、全くのノーマークであった。いつの時代に誰が何の目的で採石を行ったのか、また新たな謎が一つ誕生したのであった。

 当城の縄張は、山頂部から北尾根筋にかけて占地する。この山頂からは麓の集落は直接望めず、また付近には街道も通っていないことから、日常生活とは遊離した性格の城郭であると思われる。山頂に立てば、隣町のすさみ町や陽光きらめく熊野灘を望むことができる。

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写真2:腰曲輪の石積

 城史については不明な点が多いが、『安宅一乱記』によると享禄年間(1528〜31)に勃発した安宅一族の内乱の際に、阿波国から来援した小笠原右近大夫が守備したと伝えられる(長谷克久1976『熊野水軍史料 安宅一乱記』名著出版)。

 Ⅰ郭が最高所で主郭である。削平は悪く、しかも曲輪中央部に巨大な岩塊がむき出しになっており、これでは本格的な建物が建てられそうにもない。この点からも、居住には不向きな城郭である。

 Ⅰ郭直下には小さな腰曲輪を設けるが、人頭大の自然石による石積が施されれている(写真2)。Ⅱ郭も削平がやや甘く、東斜面に竪堀を1条落とす。北尾根筋には4条の連続堀切りと2条(不明瞭な物も含めると3条)の畝状竪堀群を落とし、堀切と併せると事実上4条となる。堀切も竪堀も、現状では堀幅は狭くて浅い。さらに西北の尾根続きにも堀切を1条設けて、西方とを完全に遮断する意図が読み取れる。

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写真3:南尾根に残る円礫の集石

 Ⅱ郭よりさらに下った南尾根上Aには、この山中にはない河原石のような拳大ほどの円礫の集石が見られる(写真3)。もしかすると投弾用の飛礫(つぶて)の可能性もある。筆者は未確認であるが、同様の円歴は北尾根の最も外側の堀切土橋付近にも認められるとのことである(白石博則2015「城郭」『日置川町史』1、日置川町)。これはあくまでも一つの推理だが、Aの円礫集石は攻撃のための備蓄用で、堀切周辺に散乱する円礫の散布は、実際の戦闘に際して投下された跡とも考えられる。

 さて当城の縄張りの特徴は、南尾根は非常に緩い傾斜にも関わらず、防御施設は僅かに竪堀が1条しかない。反面、北尾根は急斜面にも関わらず、多重堀切・畝状竪堀群・石積などを用いて、北方面に対しての集中防御を施しており、明らかにこちらが防御正面である。

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第2図:安宅勝山城縄張図(参考資料)

 ところで当城より北西尾根の延長線上には、安宅勝山城が占地する。安宅勝山城は、東尾根筋に対して石積みを伴う5重堀切にって多重防御となっている。あたかも古武之森城と安宅勝山城が、多重堀切を築き合って互いに対峙しているかのようである(第2図) 。しかも古武之森城は、安宅勝山城よりも100mほど標高が高く、眼下に見下ろす位置関係にある。

 室町時代に日置川下流域を支配した安宅氏と、周参見(すさみ)川下流域を支配した周参見氏との間で、幾度となく争いが繰り広げられていたようである。当城は史料上不明ながらも、周参見氏が安宅勝山城攻めのために築いた付城、もしくは安宅氏に睨みを効かせる境目の城などの機能を担っていたのではないか、と推測される。
(文・図・写真:堀口健弐)

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