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城郭電脳日記
〜倭城と日本の城郭〜

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新宮城縄張図

 新宮城は和歌山県新宮市に所在し、別名を「丹鶴(たんかく)城」または「沖見(おきみ)城」とも呼ぶ。JR紀勢線「新宮」駅からだと、徒歩で15分程度の場所である。現在は「丹鶴城公園」となり、近年、国史跡に指定された。

 前回ブログ(№18:機張倭城)でも紹介のように、筆者は和歌山県の出身で、今も南紀に実家がある。しかし同じ県内とは言っても、新宮市は県の最東端に位置して、熊野川を越えればもう三重県である。実家からだと電車で片道二時間ほどかかるので、初訪城は遅くて、お正月休みを利用した2002(平成14)年1月4・5日のことである。この時は2日がかりで、主に石垣調査を行っている。

 次の訪城はそれから少し空いた3年後の2005(平成17)年で、同じくお正月休みを利用して1月5・7・8日の3日がかりで縄張り調査を行った。それらの成果は、既に紙上で発表済みである(拙稿2010「新宮城の縄張り」『和歌山城郭研究』9、和歌山城郭調査研究会)。

 また当地は、詩人・佐藤春夫の出身地でもある。筆者はこの分野に造詣が無いが、卒業した県立熊野高校の校歌が佐藤の作詞だったこともあって、名前だけは以前から知っていたのであった。

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写真1:松の丸から鐘の丸を望む

 新宮城は熊野川の右岸、標高50m(比高40m)の通称「丹鶴山」に占地する平山城で、全山総石垣造りの近世城郭である。当地は自動車交通が発達する昭和20年代頃まで、熊野川を利用した材木の筏流しなど林業が主な産業で、街も林業関係者を当て込んだ旅館や飲食店などで大層賑わったそうである。

 当城は、1601(慶長6)年に浅野忠吉によって築かれたが、元和の一国一城令により一旦廃城となる。しかし1618(元和4)年になって再築が許可されるが、浅野はその後、広島へと転封になってしまう。その後に入封した水野重仲によって再築は続行され、1633(寛永10)年に漸く完成を見た。以後、1873(明治6)年まで新宮藩2万8千石の居城として栄えることとなった(水島大二1980「新宮城」『日本城郭大系』10、新人物往来社)。

 縄張りは、山頂の山城部分にⅠ(本丸)、Ⅱ(鐘の丸)、Ⅲ(松の丸)、Ⅳ(出丸)を連ねて、さらに山麓のⅤ(二の丸)と、河畔のⅣ(水の手)によって構成される。

 Ⅰが主郭である。南隅に天守台を設けるが、江戸時代のいくつかの絵画史料によると三層の天守が描かれている。しかし明治時代初頭に天守内部に入ったことのある男性が昭和まで生きておられて、内部は5階建てだったと証言している。このことから、外観3層内部5階の層塔式天守に復元する案もある(西ヶ谷恭弘1982『城』日本編、小学館)。

 1980年代前半、地元から模擬天守建設の話しが持ち上がった。この計画は実現寸前までいったものの、結局は“大人の事情”で計画倒れに終わった。しかし今となっては、学術的および遺跡保存の立場から寧ろそれで良かったと思う。

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写真2:本丸に残る浅野期石垣

 Ⅰの東面には、新宮城版“二様の石垣”とも呼ぶべき新旧の石垣が、切り合い関係になって残っている。下部は一般的に「打ち込みハギ」と呼ばれる、粗割り石の隙間に間詰石を入れる積み方で、築石(つきいし)には矢穴列が並ぶ。このような石垣は、筆者の編年案では概ね慶長後半期に相当する(拙稿2002「城郭石垣の様式と編年―近畿地方の寛永期までの事例を中心に―」『新視点 中世城郭研究論集』新人物往来社)。

 この古式の石垣に覆い被せるように、切石の間地(けんち)積石垣が積まれているが、これは寛永期以降に盛行する石積技術である(前掲文献)。すなわちこの箇所が、創築段階の浅野期の石垣である。城内には他にも2・3カ所ほど、同形式の石垣が見られるが、数少ない創築期に遡る浅野期の遺構として非常に重要である。

 Ⅳは、城郭本体から独立した格好になっているが、詳細に観察するとⅠ側に虎口を閉塞した痕跡があり、往時は廊下橋で連結していたのであろう。

 Ⅴ(二の丸)は、事実上の山麓居館である。現在は幼稚園や民家の敷地となっていて踏査が憚れるが、建物の合間を縫うようにして石垣が現存している。

 Ⅵは、「水の手」と呼ばれているが実際は船着き場で、当城が水運交通を重視していた現れである。踏査時は幸運にも発掘調査中か終了直後のようで、ブルーシートもかけずネットフェンスも巡らしていなかったので、良好な状態で観察することができ、炭納屋群の遺構などが出土していた。

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写真3:出丸から熊野川を望む

 ところで製作年代は不明ながら、浅野期の新宮城を描いた城絵図『紀州熊野新宮浅野右近大夫忠吉居城古図』(三原市立図書館蔵)によれば、ⅢとⅣの先端からⅥにかけて、山頂部と河畔とを連結するように2条の土塀が描かれている。現状では石垣や土塀の痕跡を確認できないが、おそらく往時は、実際にそのような構築物が築かれていたのであろう。

 このように山上と山麓とを一体化しつつ、港を城内に取り込んだ縄張りは、文禄・慶長の役で開花した倭城の技術を、帰還後に日本国内に逆輸入して築かれた城郭の特徴である。

 新宮城は、和歌山県内では和歌山城に次ぐ近世城郭遺構であり、保存状態も概ね良好である。しかも山城・山麓居館・船着き場がセットで良好に残存する、稀有な城郭と評価できる。
(文責:堀口健弐)

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機張倭城縄張図

 機張(キジャン)倭城は、釜山市の郊外に位置して日本海を望む、釜山広域市機張郡機張邑竹城里(チュクソンニ)に所在する。現地では竹城里倭城と呼ばれ、釜山広域市記念物第48号に指定されている。

 同城の初訪城は1990年5月、筆者が所属する城郭談話会での最初の倭城ツアーのことである。筆者は倭城どころか海外旅行自体が初経験であったが、その時の感想は初めて来た異国の地なのに、何故か懐かしさを感じさせる風景であった。

 筆者は紀州で生まれ育った。実家かからは直接海を望めないものの、通っていた小学校も中学校も浜辺に面して建っていたので、ほとんど毎日のように海を見て育った。竹城里の集落は背後に山が迫って眼前に大海が開け、そこに初等学校(日本の小学校に相当)の校舎が建つさまが、郷里の風景とどことなく似通っていて、紀州に帰ってきたような錯覚を覚えたのであった。

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写真1:機張倭城遠景

 さて機張倭城は1592(文禄2)年に、NHK大河ドラマの主人公にもなった“軍師”黒田官兵衛(長政)が普請と在番を担当して、慶長の役では加藤清正が在番を担当した。

 城跡は標高65m(比高ほぼ同じ)と、その北隣の標高40m(比高ほぼ同じ)の低位丘陵にまたがって占地する(写真1)。北側を流れる清江(チョンガン)川が竹城湾に注ぎ、これが天然の外堀の役目を担っている。縄張りの概要は,主郭のある丘の西麓からAの西麓とⅢとを結ぶラインにより、陸側と完全に遮断する意図が見て取れる。

 Ⅰが主郭である。北南隅に付櫓を持つ天守台を設け、東南隅と北西隅にも櫓台を設ける。この北西隅の櫓台下で、朝鮮半島様式の滴水瓦(軒平瓦)が見つかっている(拙稿2010「倭城の縄張りについて(その4)」『愛城研報告』14、愛知中世城郭研究会)。おそらく隅櫓などの重要な建物に葺かれていたのであろう。

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写真2:主郭の増設石垣

 主郭西面には、石垣を積み足した痕跡が認められる(写真2)。これを多門櫓を増設したためとする見解もあるが(中西義昌1999「倭城の石垣遺構から何を読むか」『倭城―城郭遺構が語る朝鮮出兵の実像―』倭城研究シンポジウム実行委員会)、増設石垣の天端が曲輪上面に達していないところを見ると、おそらく石垣の孕みを防止するための抑えとして積まれたのではないだろうか。同様の石垣は、日本国内の黒井城(兵庫県氷上市)や高取城(奈良県高市郡高取町)でも見ることができる。

 また北と東南に虎口を開口するが、このうち北の虎口は整った内枡形虎口となる。主郭より下位にも石垣造りの曲輪を段々に配し、その周囲にも素掘りの横堀を巡らしているが、日本国内ではほとんど見られない構造で、これも倭城ならではの手法と言える。

 北隣の丘には一城別郭の曲輪群を置く。石垣が「W」形になったAは、天守に準ずる櫓台である。道路で分断されたⅢと併せて、清江川で区画された空間を、一般兵士の駐屯地や物資の集積場に充てたのであろう。

 Aから東西に延びる石塁ラインを見ると、南側の石塁に並走して横堀が掘られている。つまり北側が内で南側が外の関係となり、主郭のある丘と対峙する位置関係にあることは注目すべきである。現在、Aから東に続く石塁ラインの一部が、近年、韓国で著名な陶芸家ソン・ジュンハン氏の工房が開設により破壊されたが、そのうちの東半分とⅡにかけては、豆毛浦(トゥモポ)鎮城の遺構と重複している(写真3)。

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写真3:豆毛浦鎮城

 「鎮城」とは戦闘員のみが駐留した朝鮮側の城郭で、水軍の基地としての性格が強い。豆毛浦鎮城は高麗時代にまず土城として築かれ、1510(中宗5)年に石築に改修されたとされる(羅東旭・李ユジン2008『機張豆毛浦鎮城・竹城里倭城―シオン〜竹城間道路工事区間内発掘調査報告―』福泉博物館)。この一角の石垣については、早くから日本式の石垣とは異なることが指摘されていた(池田光雄1979「機張城」『倭城』Ⅰ、倭城址研究会)。

 これは朝鮮王朝の鎮城を、倭城の外郭線に取り込んだ結果である。石垣はあご止め石を水平に置き、そこから少し後退させた位置から石材をほぼ垂直に積み上げる、朝鮮半島特有の石垣である(北垣聰一郎1997「平面プランからみた機張倭城とその石積技術」『倭城の研究』1、城郭談話会)。これは倭城築城に当って、敵対する朝鮮水軍に港を使わせない予防攻撃の意図があったのであろう(拙稿2007「海城としての倭城」『海城について』第24回全国城郭研究者セミナー実行委員会)。

 Ⅲは現在、法人経営の農場となっていて立ち入りが出来ないが、自然の細長い丘陵を土塁状に加工し、清江川の畔まで続いていて外郭線を形成している。このうち西側は帯曲輪となり、部分的に横堀状となる。北端の一部には高石垣も築かれるが、ブッシュに覆われて観察が困難となっている。

 機張倭城は、見応えのある縄張りに加えて遺構の保存状態も大変良い。近年、釜山市当局も説明版や遊歩道の設置など、程よい史跡整備を行っている。市街地からは少々離れるが、是非とも一度は訪れる価値のある城跡である。
(文責:堀口健弐)

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山崎城縄張図

 天王山山崎城(以下、山崎城と記す)は、大阪府境に近い京都府乙訓郡大山崎町に所在し、標高270.4m(比高240m)の天王山に占地する。当城は、あくまでも「天王山」として国史跡に指定されているらしい。

 筆者は大学入学以来京都を居としているので、山崎城は何度となく訪城経験がある。初訪城は大学生活の終わり頃だったので、80年代半ば頃だったろうか?また大学卒業後の20代後半は、大阪府での遺跡発掘アルバイトのために阪急京都線で通勤し、30代になって今の職場に拾われてからはJR京都線で通勤しているので、ほぼ毎日のように天王山を車窓から眺めている。

 山崎城への最寄駅は、JR「山崎」駅か阪急「大山崎」駅で、ここからハイキング道をひたすら登る事になる。しかしこんなに人里近い山崎駅近くの竹藪で、今秋クマさんが3頭現れた(『京都新聞』2016年10月5日付朝刊)。クマは集団行動をとる習性がないので、おそらく子育て中の親子クマだろう。クマさんにとっても、最近の山は食べ物が不足して住みづらくなったのだろう。

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写真1:天王山から山崎の地峡を望む

 1582(天正10)年、山崎の合戦(別称:天王山の戦い)で明智光秀に勝利した羽柴(豊臣)秀吉は、同年に大坂城完成までの仮住いとして、ここ天王山に山崎城を築いた。が、早くも1582(天正12)年には廃城となっている(福島克彦2005「山崎城」『京都 乙訓・西岡の戦国時代と物集女城』文理閣)。

 但し当城は単なる仮住いに留まらずに、眼下に西国街道を抑える要衝地に位置することから、大坂以西と京都以東とを結ぶ地峡を抑える役目があった事は想像に難くない。

 Ⅰが最高所で主郭である。北隅には、平面形が不等辺五角形の天守台Aを設ける。多くの先行図では東南隅に櫓台を付属する複合天守風に描かれているが、実際に寸法を測って作図してみると、なかなか綺麗な櫓台状になってくれないのは、筆者の測り方が悪いためだろうか。史料によるとこの天守台上には、規模や形状は不明ながら実際に天守が建てられていたそうである。

 主郭には、本丸御殿の礎石列が今も露出したままとなっている。その中には、墓石や石塔の一部と見られる転用石も見られる。また主郭周辺には瓦片の散布も見られ、天守や本丸御殿などの本格的な建物が完備していた事を窺わせる。

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写真2:天守台に残る石垣

 Ⅱ郭周縁部には石垣が所々に残存する。おそらく主要曲輪の周囲には、往時は高石垣が築かれていたのであろう。北隅に横矢掛かりの突出部である「横矢枡形」Bがある。この突出部は、石垣が崩れて見つけにいとは言え重要な見所であるが、先行図では僅かに池田誠氏の図に描かれているに過ぎない(池田誠1987「天王山宝寺城」『中世城郭事典』2、新人物往来社)。

 このような横矢枡形は、文禄・慶長の役で朝鮮半島南岸に築かれた倭城に多く見られる。その倭城の横矢枡形については、朝鮮式城郭の「雉城(チソン)」を模倣したのではと見る向きもある(高田徹2004「厳重なる防御機能を保持した『仕置きの城』『戦国の堅城』学研)。しかし確実に倭城に先行する国内城郭に存在する事から、当遺構はその祖形と見なす事ができよう(拙稿2011「倭城の縄張りについて(その5)」『愛城研報告』15、愛知中世城郭研究会)。

 Ⅲ郭周縁部にも石垣が積まれているが、ここでも石塔類などの転用石を見ることができる。全体的に見て、山頂部にⅠ・Ⅱ・Ⅲ郭を中心にした方形の曲輪群を構成しようとする意図が見て取れる。

 この城の最大の特徴は、Ⅰ郭を中心とした山頂の主郭群と東斜面のⅣ郭とを、2条の竪土塁(一部に石垣あり)で連結し、北尾根続きには竪堀も掘削している。これも倭城で開花した、山頂と山麓とを繋ぐ登り石垣などによる外郭線の萌芽と評価できる。

 Ⅳ郭からⅤ郭に至る導線上の、DとEの2カ所は食い違い虎口となる。

 Ⅴ郭と山頂部の間に入る谷間を塞ぐように、竪土塁Fで仕切るが谷底部は開口する。同様の構造物は、明智光秀の周山城(京都市)、秀吉の上月合戦の本陣となった高倉山城(兵庫県佐用郡佐用町)、文禄の役の永登浦倭城(大韓民国慶尚南道巨済市)で類例が見られ、谷間を攻め登ってくる敵兵を遮断する役目があったのだろう。

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写真3:寄せ集められた転用石

 総じて当城は、Ⅱ郭の横矢枡形と言い、Ⅳ郭の竪堀・竪土塁と言い、尾根背後の北側を意識した防御線を敷いているように思える。

 山崎城は天下人の仮住いとは言え、コンパクトながら縄張り的には見所が多い。特に前述の横矢枡形や、外郭線を用いて上下の曲輪を一体化させる手法は、周山城などと並んで後の倭城のプロトタイプ(原型)と評価できる。単なる天下人の居城に留まらず、織豊系城郭の変遷を語る上でも極めて重要な城跡であると言えよう。
(文責:堀口健弐)

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 今春に引き続き、2016年11月2日㈬から同月6日㈰にかけて、5日間(実質中3日)の倭城踏査を行った。今年は秋の深まりが早く、筆者の住む関西では11月の声を聞く前から早や晩秋の佇まいであった。韓国入国の初日は少し肌寒く感じられたほどであったが、翌日からは雲一つない連日の“日本晴れ”が広がった。

 今次踏査の主目的は、子馬(チャマ)倭城の徹底調査であった。筆者は通常10日間程度の日程で倭城踏査を行うのが常だが、少し同城を舐めていたところもあり、今回は異例の短い踏査旅行であった。しかし結果論であるが、これが災いとなって縄張り調査があと一歩で終わらずに、非情に心残りな結末となってしまった。

 ただ韓国は、一昔前と比べると随分と敷居が低くなった。筆者は近時、航空会社はエアプサン(アシアナ航空の別ブランド)を利用しているが、今回の運賃は日曜日帰国の便でも往復1万6千円であった。これが平日帰国の便だと、往復1万3千円である。関西から東京まで新幹線で往復すると3万円近くもかかる時代に、である。

 ちなみに筆者が韓国を訪れだした1990年代は、JALの正規料金の往復航空券がなんと8万円で、これを格安チケットで購入すると6万円になり、「良い買い物ができた」と喜んでいたのも今は昔の話しである。

 そのため、上記の事情により縄張り調査が完了していないため、今号は写真中心の速報を報告するものである。

11月3日㈷ 晴

 事実上の初日は、子馬倭城に残る「日本式遺構」とされる縄張り調査である。子馬倭城は、標高240.7m(比高ほぼ同じ)の通称「子馬山」一帯に占地する。山頂に立てば、明洞(ミョンドン)倭城、熊川(ウンチョン)倭城、安骨浦(アンゴルポ)倭城、それに海峡を挟んで永登浦(ヨンドゥンポ)倭城、加徳(カドク)倭城、加徳支城の7城を同時に一望できるほど眺望の効く要衝の地である。

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子馬倭城遠望

 城主は対馬の宗義智とも実しやかに伝えられるが、史料上は本当に日本軍が駐屯したのかさえも判然としないらしい。しかし同山中に「日本式遺構」が存在することが、高瀬哲郎氏によって文章のみで報告されている。それによれば「大堀切」や「7〜8条の連続する竪堀(いわゆる畝状竪堀)」が存在するとするとされ(高瀬哲郎2000「倭城跡を訪ねて(2)」『研究紀要』6.嵯峨県立名護屋城博物館)、これについては今春の踏査で、既に遺構の存在を確認済みであった(高瀬氏が言うところのB・C地点)。

 この日は、畝状竪堀群のあるC地点の縄張り図作成に没入した。山頂部は自然地形の平坦地のままで、人工的な曲輪にはなっていない。しかしそこから少し下った所に、低い石積が数カ所に存在していた。これは織豊系の高石垣ではなく、日本国内の中世城郭に見る石積のような恰好である。また韓国特有の墓域に伴う結界の石垣の可能性も考えたが、それとも異なっていた。

 なお筆者が確認した「竪堀」は合計6条を数えた。

11月4日㈮ 晴

 本日は、山頂付近の縄張り調査である。同倭城は、山頂から南斜面にかけて堀と石塁を楕円形に巡らす、小規模ながら典型的な朝鮮式山城である。おそらく当城より南西方向の麓に築かれた、熊川邑城の逃げ込み城として築かれたのであろう。

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子馬倭城(山頂部)縄張図

 その内部は、削平が甘いながらも数段の曲輪状に造成されている(拙稿2011「倭城の縄張りについて(その5)」『愛城研報告』15、愛知中世城郭研究)。通常、朝鮮式城郭は空間を城壁で囲郭することに主眼をおき、日本の城郭では当たり前過ぎる「曲輪」と言う概念自体が存在しない。もしかすると前述の曲輪状地形は、日本軍による改修であるかもしれない。

 しかし山頂の曲輪群から続く東尾根上(図中上方)には、削平の甘い3〜4段の曲輪を直線状に連ね、その周囲を1〜2段の帯曲輪が取り巻いている。曲輪は造成の甘い箇所もあり、一部に石塁とも自然の露岩とも判断しかねる物体が存在するが、土塁、高石垣、発達した虎口などは見られない。

 この点だけを取って見ると、本当に城跡かどうかも疑わしく感じられてしまうが、遺物の散布が一定量認められたので、ここが近代以前の何らかの遺跡であることだけは間違いない。

 曲輪面には獣が掘り起こしたと思われる穴がいたる所にあって、そこから滴水瓦と見られる軒瓦の小片、白磁、陶器、それに韓式系土器のような表面に格子目叩きのある赤茶けた土器片や、須恵器のような叩き目のある陶質土器なども散見された。但し白磁片が見られることから、遺構の時期が朝鮮時代に下るのは確実である。

 そして曲輪群を少し下った地点に、竪堀を2条を掘削して(土橋を掘り残した堀切りと呼ぶべきか)、尾根前方を遮断している。これが高瀬氏が言うところの、B地点の「大堀切り」に相当する。

 当日は縄張り図作成に没頭したものの、秋の早い夕暮れに阻まれて作業を切り上げねばならなず、後ろ髪を引かれる思いで泣く泣く下山したのが心残りであった。

11月5日㈯ 晴

 この日は“倭城ナビゲーター”植本夕里女史と釜山市の沙上(ササン)バスターミナルで待ち合わせて、釜山市の北方に位置する慶尚(キョンサン)南道密陽(ミリャン)市の密陽邑城、その他の史跡などを踏査した。

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嶺南楼

 密陽邑城は1479(ソンジョン10)年に築かれた。「邑城」とは、街全体を城壁で取り囲んだ言わば“都城のミニチュア版”である。城内の衛東山中腹には、平壌城(北朝鮮)、晋州城(慶尚南道晋州市)と並んで“韓国三大楼閣”の一つに数えられる嶺南楼(ヨンナムル)が現存する。韓国では単層建築でも「楼閣」と呼んでいるが、高床式なので靴を脱いで上がってみると結構見晴しが良い。筆者は晋州城も実見しているが、こちらのほうが“古刹”の雰囲気が醸し出されていて好きである。

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密陽邑城

 その足で、近年復元整備された邑城の城壁を見学する。同城は遺構の残存状態が悪くて大半が復元物だが、それでも史跡指定を受けている。雉城には楼閣も復元されているが、別の雉城の隅角部が手抜き工事だったのか、それとも設計ミスだったのか、早くも大きく崩壊していて残念な結果であった。

 その後、夕里さんのご推薦で、古びた商店街の中にある地元で人気のテジクッパ(豚骨スープの雑炊のような韓国のB級グルメ)専門店を訪れ、少し遅めの昼食を摂る。あまり清潔とは言い難い店内であったが、お味の方は評判どおりの美味であった。


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密陽市立博物館

 お腹も脹れて、夕暮れまでの短い時間を利用して密陽市立博物館を見学する。同じ「市立博物館」でも、その規模たるや筆者の勤める職場とは雲泥の差ほどもある。館内は大きく古代の考古遺物、近世の書画資料、近代の独立運動、それに古生物の化石や恐竜の骨格模型などの自然史系の4コーナーで構成されていた。筆者は恐竜などの古生物も嫌いではない方なので、思いがけないサプライズとなった。

 高速バスで元来た沙上に戻って、“最期の晩餐”はテジカルビ(豚の味付け焼肉)を食す。さらに席をビアホールに移して、お城談義に花を咲かせてつつ沙上の夜はふけていったのであった。

 今回の子馬倭城徹底調査は、当初の目論みでは早ければ1日、遅くても2日あれば余裕と楽観視していたのが、見通しが甘くて図面があと一歩のところで完成しなかった。まるで韓国に魂を置き忘れてきたかのような、煮え切らない複雑な心境である。

 本音で言えば明日直ぐにでも再訪韓したいところだが、現実問題として11月は公私ともに行事が多くて、どうしてもこれ以上日程を割くことができない。また韓国は12月に入ると、川も凍りつくほど途端に寒くなるので、寒さに弱い筆者にとっては厳しい季節に突入してしまう。

 そのため次回の倭城踏査は、3月16日㈭〜21日㈫の6日間(中4日間)に早くも決定した。勿論、主たる目的は子馬倭城再々徹底調査で、既に航空券も購入済みである。その踏査成果は来春か遅くても夏前迄には、まだ誰も見たことのない縄張り図を添えて発表することを約束したい(蛇足ながら「約束」は韓国語でも「ヤクソク」)。
(了)

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