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城郭電脳日記
〜倭城と日本の城郭〜
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釜山子城台倭城縄張図

 前回ブログ記事では釜山倭城(母城)を紹介したが、今回はその続編となる釜山子城台(プサンジャソンデ)倭城である。

 釜山子城台倭城は、大韓民国釜山広域市東区凡一洞(ポミルドン)に所在する。都市鉄道1号線「凡一(ポミル)」駅から徒歩で15分程度の立地で、当城も前回ブログで紹介の釜山倭城と同様に“駅前倭城”である。当城は釜山倭城の一城別郭であるが、韓国側では山城の「母城」に対して出曲輪群を「子城台」と呼び、別個の独立した城郭として扱われている。当城は、釜山広域市記念物第7号に指定されている。

 以前のブログ記事でも記したが、筆者が初めて倭城を訪城したのは1990年5月のことである。当時はまだ関西空港はなく、大阪国際空港(伊丹空港)から韓国へ向かう時代であった。日本を発つ時は初夏の良い天気だったが,現地に着くと小雨がぱらつく生憎の天気で、傘を差しての踏査となった。そして最初の訪城地が、この釜山子城台倭城だったので、一番最初に訪れた倭城と言うことになる。

 今でこそ城郭愛好家も個人旅行で訪れるようになった倭城であるが、当時は城郭研究者でも訪れた人は少なく、「もう一生来ることがないかもしれない」と言った想いであった。そのため参加者も見て回るのに必死で、今や教授を務められるNさんも、短い時間を利用してせっせと縄張り図を描いておられ、「流石だなぁ」と思ったのであった。

 釜山子城台倭城は小規模の割に遺構が良く残っおり、しかも交通の便も良いこともあって、旅の“時間調整”としても度々訪れており、数えてみると実に13回の訪城を果たしている。

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写真1:鎮城期の鎮南台

 釜山子城台倭城は、釜山倭城の東方900mに位置し、標高34m(比高ほぼ同じ)の独立丘に占地する。今では近代以降の埋立で海岸線が後退しているが、朝鮮時代後期の絵画史料や近代の古写真によると、往時は南面が釜山湾に面して、残る三方は丘麓を海水を引き込んだ水堀が巡っていた。

 当城は1970年代まで韓国陸軍の管轄となり、民間人の立ち入りが著しく制限されていたが(倭城址研究会1979『倭城』Ⅰ)、現在は子城台公園として整備され、1974年には朝鮮時代の楼閣や城門などが復元された(現地説明板による)。

 釜山子城台倭城は、1592(文禄2)年に毛利秀元が築城し、1598(慶長3)年には寺沢広高が守備を担当した。日本軍撤退後は朝鮮王朝側の鎮城(水軍基地)として再利用され、韓国側では釜山鎮支城とも呼ばれている。江戸時代(韓国では朝鮮時代後期)に行われた朝鮮通信使は、漢城(現在のソウル)を陸路で出発した通信使が、ここから船に乗り換える海路の出発点でもあった。2011年には、丘麓に朝鮮通信使歴史館が開館した。

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写真2:天守台石垣

 現在遺構は、丘頂に2箇所の曲輪を残る。今は都市開発で消滅したが、1909(明治42)年に陸軍築城本部が作成した『築城史料』や1927〜32(昭和2〜7)年に原田二郎陸軍大佐(後に少将)が作図したと考えられる『九大倭城図』によると(佐賀県教育委委員会1985『文禄・慶長の役城跡図集』)、丘麓にも1郭を配し、さらにその周囲を惣構が巡る、小規模ながら独立した平山城の様相を呈していた。

 Ⅰ郭が主郭である。現在は鎮城時代の楼閣「鎮南台」が建つ。Aは天守台である。現在は公園化に伴い曲輪面と同一レベルに削平されているが、1931年以前に撮影された写真によると、曲輪面より一段高く築かれているのが分かる。北に虎口Bと南にCをそれぞれ開口するが、両方とも石垣は後世の積み直しである。

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写真3:滴水瓦

 なおⅠ郭東南隅のD地点で、滴水瓦(軒平瓦)の破片を見つけた。写真向かって右端部が残存する。但し瓦当文様が、復元された楼閣に葺かれている軒平瓦と同紋である。おそらくこの瓦は倭城段階ではなく、17〜19世紀代の鎮城段階の瓦と思われる。

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写真4:閉塞された虎口E(左手が倭城の石垣)

 Ⅱ郭の虎口Eは、石積で虎口を閉塞した痕跡が認められる。本来の導線が見て取れる。この直ぐ西に丘麓へ向けて伸びる“登り石垣”状の遺構が見られる。これは1909(明治42)年に陸軍築城本部が作成した『築城史料』や1927〜32(昭和2〜7)年に原田二郎陸軍大佐が作成したと見られる『九大倭城図』によれば(佐賀県教育委員会1985『文禄・慶長の役城跡図集)、登り石垣ではなく丘麓とを繋ぐ斜路として描かれている。本来の導線は、この斜路を登って虎口Eを通るルートであったと思われる。

 当城は、朝鮮時代後期に描かれた絵画史料が複数残されている。18世紀代に描かれた『槎路勝区図』(釜山博物館蔵)や、19世紀代に描かれた『東莱譜使節倭施図』(国立晋州博物館蔵)によると、丘頂には鎮南台が建つのみで、鎮城の主要な殿舎は丘麓の総構内を利用しているのが窺える。したがって朝鮮王朝側の倭城再利用は丘頂部分にはおよんでいなかったと考えらえる(太田秀春2011「朝鮮王朝の日本城郭認識論」『倭城 本邦・朝鮮国にとって倭城とは』倭城研究シンポジウム実行委員会、城館史料学会)。

 近時、日韓両国の研究者らが中心となり、朝鮮通信使を世界記憶遺産への登録を目指す動きがある。世界遺産もそろそろ飽和状態になりつつあり、登録への道程は険しいだろうが、将来釜山子城台倭城が世界遺産の一部になる日が訪れるかもしれないと、ちょっとそんなことを密かに期待してしまう。
(文・図・写真:堀口健弐)

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釜山倭城縄張図

  釜山倭城は、大韓民国釜山広域市東区佐川洞に所在する。同城は港町釜山の市街地に位置し、都市鉄道1号線「佐川(チャチョン)」駅から徒歩で訪城可能な“駅前倭城”である。

 釜山倭城を最初に訪城したのは、1996年12月23日である。この時は朝鮮考古学通のKさんと、筆者の大学時代の後輩でもある城友のY君との、3名での訪城であった。当日は午前中に釜山倭城を見学し、午後から一城別郭の釜山子城台倭城を踏査する予定であった。しかし筆者は以前に子城台を踏査しているので、午後からは単独行動となった。

 Y君とは、当日内に帰国の途に就くためにここで分かれて、Kさんと夕刻に釜山駅前で落ち合おうことにし、丸1日かけて同城の縄張り図作成を行った。帰路は単独で徒歩と地下鉄の乗り継いで集合場所へ。地下鉄の切符の買い方や乗り方はKさんから既に教わっており、乗り換えの必要もないので迷うことはないはずなのだが、当時はハングル文字が全く読めず、片言のトラベル会話すらできなかったので、実に冷や汗ものであったが、何とか無事に落ち合うことができた。

 しかし毎度記していることだが、筆者は人よりも縄張り図を描くのが遅く、丸1日かけて漸く半分のできといったところ。そこで1997年10月27日に再度訪城して、縄張り図をほぼ描きあげた。それからは石垣調査や、筆者が幹事を務めた倭城踏査会などを含めて、合計7回は訪城した計算になる。

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写真1:釜山倭城遠望(子城台倭城から)

 さて釜山倭城は、1592(文禄元)年に毛利輝元・秀元によって築かれた。韓国側では小西行長の城として誤伝され、そのため別名を「小西城」とも呼ばれている。文禄・慶長の役(壬辰倭乱)では、朝鮮半島側の日本軍の本営として司令塔的な役割を果たした。

 なお前述のとおり、当城より当方900mの独立丘陵に、一城別郭となる釜山子城台倭城を築いており、これと区別する意味で韓国側では「釜山母城」とも呼ばれている。

 当城は、標高315mの水晶山から派生した標高125m(比高ほぼ同じ)の小ピーク上に占地し、尾根上から東斜面にかけて遺構が存在する(写真1)。城跡は数奇な運命を辿り、朝鮮戦争時は高射砲陣地が置かれ、戦後は動物園となり(司馬遼太郎2008『街道をゆく〜韓のくに紀行』2、朝日新聞出版)、現在は市民公園「甑山(チュンサン)公園」として整備された。

 現在、城跡内の一部には、幼稚園のほか古アパートが建ち並ぶ。石垣遺構は概ね良く残されているが、公園化に伴う改変などで城跡感には乏しいものとなっている。また石垣の直間近まで民家が押し寄せている。当城は史跡には指定されていないが、近年、城跡を示す説明版が立てられた。

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写真2:主郭の枡形虎口跡(左手が現存石垣)

 Ⅰ郭が主郭である。Aは天守台跡で、現在は公園化に伴い曲輪面と同じ高さに削平されているが、倭城址研究会が1976年に撮影した写真によると、その当時まで天守台が一段高く築かれていたことが分かる(倭城址研究会1979『倭城』Ⅰ)。

 天守台は、城外側(山側)に向くように築かれている。もし天守が城下側への眺望を意識したのであれば、ここには築かないはずである。これに示唆的なのが、近年、Ⅰ郭の東南隅に展望台が建設された。もし天守が城下側へ“見せる”ことを意識したのであれば、当然ここに築くべきであるが、実際はそうなっていない点に倭城における天守の機能がが見て取れる。

 Bも公園化によって改変を受けているが、ここも同様に1976年当時まで内枡形虎口になっていた(前掲倭城址研究会1979)。現在でも開口部を現在の石積で閉塞した痕跡を確認できる(写真2)。

 Ⅰ郭の西面石垣には、矢穴が5個穿たれた築石(つきいし)が残る。倭城は順天倭城(全羅南道順天市)を除くと、矢穴の使用例が極めて少ないが、同城では部分的ながら矢穴の使用が認められる(拙稿2005「倭城の石垣―採石遺構とその技術を中心に―」『韓国の倭城と大坂城』倭城・大坂城国際シンポジウム実行委員会)。

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写真3:Ⅱ郭の虎口跡と櫓台(左手が現存石垣)

 Ⅱ郭のCもまた公園化に伴い閉塞されているが、落とし積みの石積で閉塞さた虎口跡が道められ、その方脇、進入方向向かって左手に櫓台が突出して横矢が掛かる(写真3)。

 Ⅲ郭は、初訪城時は駐車場に利用され、曲輪の先端部の石垣を確認できたが、現在は東区図書館が建設され、少々見学しづらくなった。

 Ⅴ郭は城内で最も広い曲輪で、おそらく生活空間の場と思われ、東端に外枡形虎口Dを開口する。

 さて釜山倭城には、現在では他の倭城に見られる登り石垣は認められない。しかし当城は釜山の市街地に位置していたこともあり、植民地時代から独立後にかけて何枚かの測量図が残されている。それらによれば現在は一切確認できないが、倭城特有の登り石垣がⅢ郭東端とⅣ郭南端から山麓に向けて伸びていたようである。

 植民知時代に作成された測量図には、1909(明治42)年に陸軍築城部が作成の『韓国釜山鎮旧城趾之図』(佐賀県教育委員会1985『文禄・慶長の役城跡図集』)、1927〜32(昭和2〜7)年に原田二郎陸軍大佐(後に少将)が作成したとみられる『九大倭城図』(前掲佐賀県教委1985)、1936(昭和11)年に内務局釜山土木出張所が作成の『釜山市街地計画図』(釜山近代歴史館蔵)などがある。いずれも母城の東端と南端から山麓に向かって、登り石垣が描かれている。

 独立後は、1961年に釜山大学校が作成した測量図があるが、それによるとこの時期でなおⅳ南端から数十mにわたって「城壁痕跡」が存在していたようである(釜山大学校韓日文化研究所1961『慶南の倭城址』)。

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写真4:『東莱釜山図屏風』(※撮影可能資料)

 また朝鮮時代末期(20世紀初頭)に描かれた古地図『東莱釜山図屏風』(釜山博物館
蔵)にも、釜山子城台倭城と水晶山の麓とを繋ぐように、河川とは明らかに異なる表記で、空堀状の物体が描かれている(写真4:中央下付近)。

 釜山倭城に登り石垣(惣構え)については、倭城址研究会が復元案を提示している(佐伯正広1979「釜山城」『倭城』Ⅰ、倭城址研究会)。これに対して長正統氏から「関係史料に則して考えるかぎり、その推定はいささか薄弱であるように思える」との反論が出ている(長正統、他1985『文禄・慶長の役城跡図集』佐賀県教育委員会)。

 しかし古地図や近代の測量図などを総合的に判断すると、釜山倭城にも登り石垣が存在していた可能性が極めて高いと思われる。むしろ半島側の本営であったことを考慮すると、他の倭城以上に広域を囲郭する縄張りであった可能性が高いのではないだろうか(高田徹・堀口健弐2000「釜山倭城の縄張りについて」『倭城の研究』4、城郭談話会)。
(文・図・写真:堀口健弐)

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21:吹城(兵庫県篠山市)

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吹城縄張図

 もう昨年のことになるが2016年11月18日に、筆者が所属する城郭談話会と、当会と友好関係にある東京の中世城郭研究会とで、兵庫県篠山市に所在する吹(ふき)城を踏査した。

 この時は集合時間の関係もあり、吹城の山頂に着いた時点で、時計の針は午後1時を指していた。晩秋の夕暮れは早く、午後4時には下山を開始せねばならないので、実質的な滞在時間は3時間程度である。縄張り図を描くのが遅い筆者は、頑張ってもやっと半分のできと言ったところであった。

 そこで図面が完成しなかった城友達の車に便乗させてもらって、早くも1週間後の同月26日に再度訪城を果たした。この日は丸1日を図面作成に充てることができ、なんとか縄張り図を完成させることができたのであった。

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写真1:吹城遠望

 吹城は兵庫県篠山市に所在し、標高289m(比高90m)の独立峰「東城山」に占地する(写真1)。当城の近くには、天下普請で藤堂高虎が築いた篠山城や、戦国期に丹波国を支配した波多野氏の居城の八上城など、有名な城郭もいくつか所在するが、当地域は奥丹波でも城郭分布の密度が濃い地域である。

 吹城は、波多野氏の家臣である井関氏の持ち城とされ、1578(天正6)年の明智光秀の丹波攻めで落城したとされる(藤井善布1981「吹城」『日本城郭大系』12、新人物往来社)。

 縄張りは主郭を頂点にして、大堀切を挟んだ東西の尾根上に曲輪を配置し、要所に堀切や竪堀を掘削している。Ⅰ郭が最高所で主郭である。竪堀Aは城道に対して食い違い状に開口することから、参加者からは高く評価されていた。ただ短い方の竪堀は非常に浅いもので、遺構か否かの判断に迷うほどであった。

 Ⅰ郭から相当な落差をもって西尾根に曲輪を連ね、Ⅱ郭が尾根上の小ピーク上に位置する。周囲に低い土塁を巡らすが、曲輪の削平は甘くて尾根鞍部に向かって緩く傾斜する。尾根先端部は堀切で遮断し、さらにその外側にも3条の竪堀を放射状に掘削する。

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写真2:大堀切

 城域を東西に二分する大堀切は、クランク気味に折れる格好で掘削されていいる(写真2)。Ⅲ郭の南端には、堀切に突出する恰好で武者隠し(塹壕)を設け、堀底を攻め登ってくる敵兵に対して、弓や鉄砲などの投射兵器で迎撃できる位置にある。

 そのⅢ郭は、現在曲輪面いっぱいに上水道施設が建ち、法面もコンクリート製の擁壁に変わっている。おそらく当曲輪は、地中深くまで攪乱を受けているものと思われる。

 総じて当城は、土塁は低くて、大堀切を除くと堀幅も狭く、また曲輪内の削平も甘い。それでいて切岸はしっかりと造り、縄張り的にも何か技巧的なことをやろうとする意図が見て取れる。しかし曲輪の削平が甘いと、現実問題として建物も建てづらいだろうから、果たして地域支配拠点の城なのか、それとも陣城のような純軍事的な城なのか、いかに評価すれば良いのか判断に迷うところである。
(文責:堀口健弐)

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 2017年3月16日㈭から同月21日㈫にかけて、6日間(実質中4日間)の倭城踏査を行った。今回の主たる目的は、昨秋に縄張り図が未完成となっていた子馬(チャマ)倭城に残る日本式遺構の図化と、それに加えて文禄・慶長の役の舞台となった、朝鮮王朝側の城郭の縄張り図を作成することであった。

 この季節の訪韓は初めてのことで、寒さに人一倍弱い筆者は時期を間違えたかと後悔にも近い念があったが、滞在中は早春の柔かい日差しに包まれた穏やかな日和が続いてくれた。帰国後に知った話しでは、この時期日本では肌寒かったと聞いたので、これも日頃の行いの良さだろうか。

 今次踏査旅行は、筆者が所属する城郭談話会の学生会員と行動を共にし、宿も釜山駅前の釜山iイン・モーテルに投宿した。永らく定宿にしていた釜山駅前の太陽荘は、別資本の小洒落たホテルに代わってしまったが、釜山イン・モーテルは、安宿としては珍しく日本からネット予約が可能で、それまでの目的地に到着後飛び込みで宿を探す煩わしさから解放された。しかもこのご時世に、1泊3万ウォン(約3000円)なのがお財布に優しい。

 また航空運賃にしても、LCCのエアプサンで平日利用の場合、なんと関西―釜山間の往復券が13,000円と、「JR青春18きっぷ」なみの価格で行けてしまうのである。

 なお縄張り図のトレース(清書)には相当な時間を要するため、以下では踏査成果を写真中心の速報で報告する。いずれトレースした縄張り図を、紙上や当ブログで発表することを約束したい。

3月16日㈭ 曇

 投宿後、ファーストフード「キンパプ天国」で遅めの昼食(石焼ビビンバ)を食した後、都市鉄道1号線「釜山」駅から「凡一(ポミル)」駅まで移動し、そこから徒歩で釜山子城台倭城(釜山広域市)へ向かう。

 筆者は既に当城の縄張り図を作成しているため、学生君を案内して縄張り図作成に専念してもらった。一方の筆者は、総ての倭城をフィルムカメラで撮影済みであるが、デジカメでは未だ僅かしか撮影していないため、自身は写真撮影に専念した。

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釜山鎮支城期の敵水瓦

 踏査中に、石垣の直下で滴水瓦(軒平瓦)の破片を見つけた。瓦当文様から判断して倭城当時と言うよりは、日本軍撤退後の朝鮮時代後期に再築された、釜山鎮支城時代の瓦の可能性が高いと思われる。その理由は、現在復元されている楼閣や城門に葺かれている軒平瓦と、全く同じデザインであるためである。

 陽も傾き始め、都市鉄道「西面(ソミョン)」駅に移動して、“倭城ナビゲーター”の植本夕里氏と合流する。滞在初日の夕食は、西面の「若者通り」でサムギョプサル(サンチュの葉で巻いて食べる豚の焼肉)を食し、ビールを酌み交わしながら、明日以降の作戦会議に花を咲かせた。

3月17日㈮ 晴

 事実上の踏査初日は、懸案となっていた子馬倭城(慶尚南道昌原市)へ。都市鉄道1号線「釜山」駅から「下端(ハダン)」駅まで移動し、そこから「鎮海(チネ)」行市外バスに乗り換え「熊東(ウンドン)マチョン」で下車。その後は、ハイキング道をひたすら登ることになる。

 学生君は山頂部に残る朝鮮式遺構の縄張り図を作成し、筆者は東尾根に続く、作図途中となっていた日本式遺構の縄張り図作成に専念する。

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子馬倭城に残る朝鮮時代の遺物

 前回のブログでも触れたが、ここには多くの遺物片の散布が見られる。同所は熊川(ウンチョン)貝塚として慶尚南道史跡に指定されており、確かに三国時代(4・5世紀)に遡る、日本で言うところの韓式系土器や陶質土器に似た土器片が多く見られた。しかしその一方で、白磁、施釉陶器、瓦など確実に朝鮮時代に下る遺物も少なからず見受けられた。

3月18日㈯ 曇のち晴

 2日目の踏査地は蔚山(ウルサン)兵営城(蔚山広域市)。都市鉄道1号線北の終着駅「老圃(ノポ)」駅で夕里さんと待ち合わせて、座席バスで蔚山広域市へ向かい、蔚山市外バスターミナル前の停留所から市内バスに乗り換えて、目的地の蔚山兵営城へ。

 同城は慶尚左道兵馬節度使の営城で、平たく言えば朝鮮王朝・慶尚道方面軍の陸軍司令部のような城である。1417(太宗17)年に築城し、朝鮮時代末期に廃城となった(羅東旭2005「韓国慶尚南道地域の城郭遺跡の発掘調査報告―最近調査された邑城と鎮城を中心として―」『韓国の倭城と大坂城』倭城・大坂城国際シンポジウム実行委員会)。

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蔚山兵営城・西門の甕城

 蔚山倭城のすぐ北側に位置しながらも初訪城であったが、それもそのはずで当城は遺構の残存状態が悪かったが、近年発掘調査成果を基にした城壁の復元作業が進んでいる。但し西門の甕城(オンソン:丸馬出しに似た半円形の城壁を持つ虎口)は遺構が良く残り、また北門も一部が残ることから、史跡第320号に指定されている。

 この蔚山兵営城は、文禄の役で加藤清正に攻められて一度落城している。高正龍(コ・ジョンヨン)・立命館大学教授の研究によれば、出土した軒丸瓦が清正の支城である佐敷城(熊本県芦北町)出土の軒丸瓦と同笵関係であることが確認された(高正龍2015「蔚山慶尚左兵営城と熊本佐敷城の同笵瓦―豊臣秀吉の朝鮮侵略と朝鮮瓦の伝播⑵―」『東アジア瓦研究』4、東アジア瓦研究会)。

 ここから導き出されるストーリーは,清正が蔚山兵営城を攻め落とした際に、戦利品として軒瓦を本国肥後に持ち帰り,それを自身の支城の屋根に葺いた展開が想定される。

 現地では、復元整備された北半部の縄張り図作成を行ったが、東門周辺は未だ復元工事中で4月30日まで通行止めのため、残念ながらあと一歩で完成に至らず、継続調査となった。

 夕食は、西面のその名も「テジクッパ通り」にある夕里さんお奨めの名店にて、テジクッパ(薄口の豚骨スープに豚のばら肉が入った雑炊のような料理)を食した。

3月19日㈰ 晴

 3日目の踏査地は彦陽(オニャン)邑城(蔚山広域市蔚州郡彦陽邑)。都市鉄道2号線「梁山(ヤンサン)」駅で夕里さんと待ち合わせ、梁山市外バスターミナルから彦陽邑へ。下車後、暫く歩くと彦陽邑城の復元された門楼(日本風に言えば櫓門)が見えてくる。

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彦陽邑城の城壁

 彦陽邑城は、1390(高麗恭譲王2)年に土城として創築され、1500(燕山君6)年に石城に改修された(羅2005前掲文献)。韓国でも珍しい平面形が正方形の邑城で、国家史跡第153号に指定されている。遺構は主に北半部が良好に残存し、南門周辺にも一部遺構が残る。城壁は復元された箇所もあるが、概ね残存状態は良い。城壁内部は、一部に彦陽初等学校や民家が立ち並ぶが、大半は田畑となっている。この日は、終日縄張り図作成に専念した。

 踏査後は少し早目の晩御飯とし、城跡のすぐ近くにある焼肉屋にて、彦陽名物の彦陽プルコギ(ミンチ状にした牛肉を網の上で焼く焼肉)に舌鼓を打った。

3月20日㈷ 曇のち雨

 事実上の最終日は、学生君を案内して熊川倭城(昌原市)へ。子馬倭城と同じ「鎮海」行の市外バスに乗車し、「熊川」で下車。同倭城はこれまで何度となく訪城してきたが、近年バイパス道が開通したのに合わせて再開発が行われている最中である。以前は長閑だった水田地帯を、大規模に埋め立てて区画整理してタワーマンションが林立するようになり、そのため登山口も少し分かり難くなった。

 熊川倭城は、以前と変わりなく残されていた(と思っていた)。訪城時、ちょうど城跡の除草作業が行われている最中で、その時は感謝の気持ちで一杯であった。学生君は縄張り図作成に専念してもらい、筆者はデジカメで石垣や散布瓦の写真撮影をして時間を潰した。

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熊川倭城・山麓居館の“軌跡の一本石垣”

 陽が傾く前に早目に下山して、臥城(ワソン)集落に残る山麓居館へ移動。しかし何かが以前と少し違う嫌な予感が…。見ると山腹には、ガードレール付きの農道が開通しているではないか。この農道のために、居館背後にあった堀切の存在が確認できない。おそらく農道建設で削られたか、あるいは埋められたかのどちらかであろう。

 石垣も道路建設の衝撃で崩落ちて、角石だけが熊本城ばりの“軌跡の一本石垣”状態となって、無残な姿をさらけ出していた。当倭城は、慶尚南道史跡に指定されていることから、保存に関して楽観視していたが、見事現実に頭を打ちひしがれる思いであった。

 下山後から小雨が降り出したため、その後は傘を差しながら熊川邑城を見学する。

 夕刻に西面に戻って夕里さんと合流し、マッコリの飲める居酒屋で“最後の晩餐”となった。普段はスイーツ系男子の学生君も、この日ばかりはマッコリがすすんで上機嫌であった。
 今次踏査旅行では、2城の縄張り図を完成させ、1城が作図途中となった。今後も引き続き文禄・慶長の役の舞台となった朝鮮王朝側の城郭を、ただ見学するだけでなく、できるだけ縄張り図を作成したいと考える。

 韓国には縄張り図を描く文化がなく、城郭書籍を開いてみても、発掘調査時の実測図か、地形図に載せて城壁だけを引いた線画の概念図しかない。これらの関連城郭も積極的に資料化していくことで、文化学術面で日韓友好の一助になれればと願うものである。
(文責:堀口健弐)

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