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城郭電脳日記
〜倭城と日本の城郭〜
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第1図:加徳倭城縄張図

 加徳(カドク)倭城は大韓民国釜山広域市江西(ガンソ)区訥次(ヌルチャ)洞、本土と加徳島に挟まれた小島「訥次島」に所在する。

 加徳倭城の初訪城は、筆者が所属するお城の研究会の面々らと踏査した、1998年4月28日である。この時は、筆者は石垣の実測図作成に専念した。翌29日には単独で再訪城し、丸1日かけて縄張り図作成に専念した。その後は何度か城友を案内して再度訪城し、2014年11月8日には改めて縄張り図の修正を行った。

 当時訥次島へ渡るには、釜山市との市境に近い昌原(チャンウォン)市龍院(ヨンウォン)から出ている、漁船を改造したような小さな渡船が唯一の交通手段であった(写真1)。この海域は、干潮時は一面干潟となる遠浅の海である。1998年の単独踏査の際には、帰路の渡船が干潟の澪(干潟上にできた川状の地形)を進んでいた時、途中で浅瀬に乗り上げてしまい身動きが取れなくなってしまった。船頭も心得たもので、予め用意していた竹竿で船を押し出そうとするが、船は微動だにせず。結局諦めて港に救援を要請し、別の船にロープで牽引してもらって漸く脱出することに成功したのであった。

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写真1:加徳倭城遠望(1998年撮影)

 ところがこの海域は、2000年代に入ってから風景が一変した。まず釜山新港建設に伴う大規模な埋め立て工事により、本土と加徳島とが地続きになった。これにより現在では、登山口に近い加徳島の船倉(ソンチャン)が路線バスの終点となっている。

 また本土から加徳島を経て巨済(コジェ)島とを繋ぐ、巨加(コガ)大橋が建設された。当初の予定では、訥次島がこの巨加大橋の橋桁になる予定で、加徳倭城も破壊される運命の危機に瀕した。当城は史跡には指定されていないが、釜山市の文化財担当部局が城跡の重要性を訴えた結果、大橋のルートが設計変更されて城跡は守られたのであった。

 巨加大橋は現在、城跡の眼前を海中に張り出すような、変則的なルートを取っているが、これは設計変更された姿なのである。当然設計変更をすれば、時間も費用も余計にかかるところであるが、そうまでして倭城を守って頂きた釜山市の文化財部局には頭が下がる思いである。

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写真2:主郭石垣

 さて加徳倭城は、訥次島南端に位置する標高70.5m(比高ほぼ同じ)の山頂部と、そこから連なる二つの小ピークに跨って占地する(第1図)。

 Ⅰ郭が最高所で主郭である。周囲を石垣で固め、曲輪の内側は低い土塁となる(写真2)。北西隅Aが僅かに張り出して側面に横矢が掛かり、また海側に対しての眺望も良い。天守台ではないと思われるが、主郭の防御を担う重要な場所である。虎口Bは内枡形となる。現在は虎口空間内に島民が祀る祠があり、後世に積まれた石積で閉塞されている(写真3)。

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写真3:主郭枡形虎口

 Ⅰ郭の周囲には、曲輪とも後世の段々畑とも判断しかねる雛壇状地形が延々と続き、どこまでが城の遺構なのか判断に迷う。ただC周辺には、途切れながらも日本式の石垣が見られることから、少なくともこの辺りまでは城域であったことが窺える。

 Ⅱ郭は痩せ尾根上に築かれ、低いながらも石垣を築いて数段の曲輪を配置する。ここからは狭い海峡を挟んで、対岸の加徳支城を眼前に望むことができる。

 Ⅲ郭は尾根鞍部を挟んで、やや独立性が高い位置にある。一見すると土の切岸のようだが、詳細に観察すると所々に石垣が確認できる。周囲を帯曲輪で囲郭するが、曲輪面と帯曲輪との高低差があり、どのようなルートで昇降していたのかは不明である。

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第2図:加徳支城縄張図(参考資料)

 ところで当城は、狭い海峡を挟んで加徳島の加徳支城と向かい合っている。地元では加徳島の城跡を「加徳倭城」と呼び、一方の訥次島の城跡を「加徳支城」と呼んでいる。しかし加徳島の城跡は典型的な朝鮮式山城で、日本式城郭に改修された痕跡は見当たらない(第2図)。この件に関しては先学も既に指摘しており(山崎敏昭1998「加徳城と安骨浦城の縄張り」『倭城の研究』2、城郭談話会)、筆者も同感であった。

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写真4:『1872年地方地図』(ソウル大学校博物館蔵:J.S.Kim氏提供)

 その後、この見解を補強する絵画史料の存在を知った(J.S.Kim氏のご教示)。朝鮮時代末期に描かれた『1872年地方地図 慶尚南道熊川県地図』(ソウル大学校博物館蔵)によると、訥次島の城跡のある山に石塁状の描写があり、漢字で「倭古堞」と記されている(写真3:画像下方)。「堞」とは「城壁」や「垣根」の意味なので「倭古堞」が「倭の古い城」すなわち倭城を意味していることは間違いない(※)。

 一方の加徳島の城跡には、特段何の表記もない。このことから19世紀末頃まで、訥次島の城跡を加徳倭城と認識していたもののが、近代以降の比較的新しい時期になって「加徳倭城」と「加徳支城」の位置認識が入れ変わり、後世に誤伝されたものと考えられる。

※画面上方にも同様の描写があり「倭古堞」とあるのは、安骨浦倭城である。
(文・図・写真:堀口健弐)

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第1図:古武之森城縄張図

 古武之森(こぶのもり)城は、1977年に地元の“城好き高校生”グループによって発見された城跡である。同城は紀伊半島の南端に近い、和歌山県西牟婁郡白浜町(当時は日置川町)に所在する。この城跡自体は、地元に伝わる江戸時代の軍記史料『安宅(あたぎ)一乱記』に登場し、また『安宅一乱記巻末絵図』にもはっきりと描かれているのだが、永らくその存在を確かめた者はいなかった。

 この幻の城跡を求めて、当時、和歌山県立熊野高校に通う郷土史研究クラブのメンバー4名が探索し、初めてその実在が確認されたのであった。この快挙を伝える当時の『読売新聞(和歌山版)』、その他の紙面によると、夏休みなどを利用し、道なき道を掻き進んで山中を探索するも中々発見には至らず、実に4度目のアタックで漸く目指す城跡に辿り着いたのだそうだ。

 城跡で新聞記者の記念撮影に応じる彼らの姿は、恥ずかしそうにしつつも、どこか誇らしげのようにも見える。そんな彼らも数えてみると、今や50歳代に突入している計算になる。彼らはその後、立派な考古学者や城郭研究者になったのだろうか?機会があれば、聞いてみたいものである。

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写真1:山麓の露頭に残る矢穴

 さて筆者は今年(2017年)の正月休みを利用し、筆者の同級生で和歌山城郭調査研究会のメンバーでもある城友と一緒に、原稿のネタ作りを兼ねて同城を踏査した。城跡は同郡すさみ町境に近い、標高301m(比高290m)の「古武之森」に位置する。山自体も結構な高所だが、それにも増して城跡まで通じるまともな道がなく、しかも山肌に岩肌が露出して巨石が転がるなど、登頂するにはかなりの難所である。

 登頂を開始して間もなく、思いがけなく矢穴が残る露頭を発見した(写真1)。「矢穴」とは石を割る際にクサビを入れる穴の事であるが、当地に石切丁場があったという伝承も調査記録も一切残っていない、全くのノーマークであった。いつの時代に誰が何の目的で採石を行ったのか、また新たな謎が一つ誕生したのであった。

 当城の縄張は、山頂部から北尾根筋にかけて占地する。この山頂からは麓の集落は直接望めず、また付近には街道も通っていないことから、日常生活とは遊離した性格の城郭であると思われる。山頂に立てば、隣町のすさみ町や陽光きらめく熊野灘を望むことができる。

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写真2:腰曲輪の石積

 城史については不明な点が多いが、『安宅一乱記』によると享禄年間(1528〜31)に勃発した安宅一族の内乱の際に、阿波国から来援した小笠原右近大夫が守備したと伝えられる(長谷克久1976『熊野水軍史料 安宅一乱記』名著出版)。

 Ⅰ郭が最高所で主郭である。削平は悪く、しかも曲輪中央部に巨大な岩塊がむき出しになっており、これでは本格的な建物が建てられそうにもない。この点からも、居住には不向きな城郭である。

 Ⅰ郭直下には小さな腰曲輪を設けるが、人頭大の自然石による石積が施されれている(写真2)。Ⅱ郭も削平がやや甘く、東斜面に竪堀を1条落とす。北尾根筋には4条の連続堀切りと2条(不明瞭な物も含めると3条)の畝状竪堀群を落とし、堀切と併せると事実上4条となる。堀切も竪堀も、現状では堀幅は狭くて浅い。さらに西北の尾根続きにも堀切を1条設けて、西方とを完全に遮断する意図が読み取れる。

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写真3:南尾根に残る円礫の集石

 Ⅱ郭よりさらに下った南尾根上Aには、この山中にはない河原石のような拳大ほどの円礫の集石が見られる(写真3)。もしかすると投弾用の飛礫(つぶて)の可能性もある。筆者は未確認であるが、同様の円歴は北尾根の最も外側の堀切土橋付近にも認められるとのことである(白石博則2015「城郭」『日置川町史』1、日置川町)。これはあくまでも一つの推理だが、Aの円礫集石は攻撃のための備蓄用で、堀切周辺に散乱する円礫の散布は、実際の戦闘に際して投下された跡とも考えられる。

 さて当城の縄張りの特徴は、南尾根は非常に緩い傾斜にも関わらず、防御施設は僅かに竪堀が1条しかない。反面、北尾根は急斜面にも関わらず、多重堀切・畝状竪堀群・石積などを用いて、北方面に対しての集中防御を施しており、明らかにこちらが防御正面である。

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第2図:安宅勝山城縄張図(参考資料)

 ところで当城より北西尾根の延長線上には、安宅勝山城が占地する。安宅勝山城は、東尾根筋に対して石積みを伴う5重堀切にって多重防御となっている。あたかも古武之森城と安宅勝山城が、多重堀切を築き合って互いに対峙しているかのようである(第2図) 。しかも古武之森城は、安宅勝山城よりも100mほど標高が高く、眼下に見下ろす位置関係にある。

 室町時代に日置川下流域を支配した安宅氏と、周参見(すさみ)川下流域を支配した周参見氏との間で、幾度となく争いが繰り広げられていたようである。当城は史料上不明ながらも、周参見氏が安宅勝山城攻めのために築いた付城、もしくは安宅氏に睨みを効かせる境目の城などの機能を担っていたのではないか、と推測される。
(文・図・写真:堀口健弐)

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倭城洞倭城縄張図

 かつて筆者は『倭城の研究』創刊号にて、巨済島(コジェド)に残る倭城石垣の報告文を発表したことがある(拙稿1997「巨済島4倭城の石垣」『倭城の研究』1、城郭談話会)。実はこの時点で倭城洞(ウェソンドン)倭城だけは、未だ自身での訪城を果たしていなかった。

 1996年4月28日〜5月2日にかけて、筆者が所属するお城の研究会で巨済市を訪れ、古県(コヒョン)の観光ホテルを基地にして、島内に残る4つの倭城を徹底踏査した。元々激辛料理好きの筆者は、ついつい韓国料理を暴食しすぎたのが祟ったのか、前夜から体調を崩してしまい、当日は踏査に参加できずにホテルで1日休養する破目に。そこで筆者のカメラを使って、同行者のY君に写真撮影をお願いしてもらったのであった。

 そのような事情もあって、倭城洞倭城の初訪城は2004年5月3日のことである。この時は関東の城友と巨済島を訪れ、同じく古県のモーテルに宿を取って、同島内の倭城を踏査した。当日は朝からあいにく雨のため、倭城洞倭城なら傘を差しながら見学できるだろうと訪城した。ところが城跡のすぐ前のバス停を降りた頃から、傘が役に立たないほどの強い風雨となり、下半身もびしょ濡れになって踏査もままならず、逃げ帰るように次のバスでモーテルへ引き返したのであった。

 そこで一足先に帰国する城友を見送った後、同月6・7日にかけて今度は単独で訪れ、実質1日半をかけて縄張り図を作成した。

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写真1:倭城洞倭城遠望

 倭城洞倭城は大韓民国慶尚南(キョンサンナム)道巨済市沙等(サドゥン)面広里(クヮンニ)、巨済島の西端に所在する。別名を見乃梁(キョンネリャン)倭城と言い、また地元では広里倭城の名で呼ばれている。1597(慶長2)年の築城で、対馬の宗義智の家臣が在番を担当したようである(早川圭2014「見乃梁城」『倭城を歩く』サンライズ出版)。

 西北を本土との間の見乃梁海峡に望む、比高10mの海岸段丘上に占地するが、見た目は平城に近い印象である(写真1)。南を広里川と云う小川が流れ、これが天然の堀の役割を果たしている。おそらく当城は、見乃梁海峡に睨みを効かせる狙いがあったのであろう。

 当城は一部に石垣を用いるものの、全体的に土塁と堀で段丘を区画する、倭城の中ではやや異形の縄張りである。城跡の大半は耕作地となり、一部の土塁上面が削られて低くなってはいるが、遺構は概ね良好に残存する。

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写真2:Ⅱ郭の堀と土塁

 Ⅰ郭が最高所で主郭である。西隅に外枡形虎口Aを開口する。現状では防御施設に乏しいが、これは耕作行為で遺構が破壊されたためであろうか?

 Ⅱ郭は土塁と空堀に囲郭され、三方に開口部B・C・Dを持つ。地元ではこれらを「北門・東門・西門と呼んでいる」のだと、踏査中に出会った耕作中の農夫が教えてくれた。但しDの直下は急斜面で外部に出る構造になっておらず、耕作などに伴う後世の破壊の可能性が高いと思われる。確実に虎口と認定できるのはB・Cである。いずれも平入り虎口で、土橋でⅢ郭と連絡する。堀の一部は滞水して一見水堀状を呈するが、これは地盤自体が保水力の高い赤土の粘土のため、雨水が貯まって水堀状になったように見える(写真2)。

 Ⅲ郭は城内で最も広い空間であるが、起伏があって自然地形をあまり加工していない。そして段丘の地続きを土塁と空堀で区画し、大手相当の外枡形虎口Eを開口する。

 海岸線には一部に折れを伴った石垣Fがあり、石材が1〜2段程度残存する。城域の西斜面は荒波に洗われて大きくオーバーハングしており、状況から察してこの石垣は、防御よりも波消しの役割があったのではないかと思われる(写真3)。なお海岸にも瓦片の散布が認められることから、往時は瓦葺き建物が存在したことを窺わせる。

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写真3:海岸線の石垣F

 ところで当地には「倭城洞」なる地名が存在しないので、「倭城洞倭城」は「実在しなかった」とする意見がある。倭城廃城後に、まず外郭線を意味する「外城(ウェソン)」の地名が生まれ、これに集落を意味する「洞」が付いて「実在しない『倭城洞』の地名が生まれた」とするのである(石橋道秀2005「誤認された倭城2題:その1:実在しなかった『倭城洞』」『東アジアと日本:交流と変容』ニューズレター5、九州大学大学院比較社会文化学府)。

 しかし朝鮮時代後期(17〜19世紀代)に描かれた古地図『巨済府図』(東亜大学校石堂博物館蔵)によると、倭城の堀跡を描いて、その中に漢字で「倭城村」と記されている(植本夕里氏のご教示)。「洞」とは、近代から1990年代まで使用された集落を表す行政単位であるが(※1)、「村」と「洞」は概ね同義語なので、時代とともに「倭城村」から「倭城洞」へと呼び方が変化したものと思われる。やはり倭城洞倭城は“実在”したのであった。

※1「洞」は、移行期間も含めて2000年代まで使用されたが、現在では「道(みち)」を意味する「ギル」に変更された。但し漢字表記ができないためか、日本向けには現在でも「○○洞」と紹介されている。
(文・図・写真:堀口健弐)

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若桜鬼ヶ城縄張図

 若桜鬼ヶ(わかさおにが)城の初踏査は、正確なメモを残していないが、確か1990年3月の、春分の日の連休を利用した頃だっと記憶している。その時は筆者の所属するお城の研究会で、1泊2日の日程で鳥取市周辺の鬼ヶ城や富浦台場、御屋敷遺跡、鳥取城などの城跡を訪ね歩き、鬼ヶ城では曲輪の一部を発掘調査中であった。さらに地元で精力的に研究をされていた城郭研究家の吉田浅雄氏(故人)の自宅を訪問し、鳥取城攻めの陣城群についてお話しを伺うなど、大変有意義な踏査旅行であった。

 その後同会で、若桜鬼ヶ城に関わる総合調査の書籍刊行の話が持ち上がり、1999年3月20〜22日の2泊3日の日程で、麓の旅館に宿をとって出版活動に伴う事前の調査旅行を行った。筆者は少しでも現地調査を先に進めたい想いから、個人的に前日の同月19日から一足早く現地入りして、3泊4日の日程で挑んだのであった。

 ところが信じられないことに、3泊4日の日程のうち、3日間は全く止み間のない本降りの雨天。さらに最終日は季節外れの、まさかの一面雪景色。筆者は石垣遺構を担当していたが、4日間の滞在期間のうち、現地調査が何一つ行えない最悪の結果となった。そのため行程も、城下の古い町並みの散策や、若桜町歴史民俗資料館の特別の計らいで、鬼ヶ城の出土遺物を拝見させて頂いたりと、大幅に予定を変更せざるをえなかった。

 そこで原稿の提出期限に間に合わせるべく、真夏の最も暑い盛りの7月31日〜8月1日と、8月20〜22日の2度に分けて、今度は鳥取市内のビジネスホテルに宿をとり、毎日、第三セクター「若桜鉄道」を乗り継いで鬼ヶ城に通い詰め、石垣の実測調査に精を出した。その調査成果は、翌年に『因幡若桜鬼ヶ城』(2000年、城郭談話会)として刊行された。

 それから12年の歳月が流れ、石垣の実測図を作成し終えると、今度は自身で鬼ヶ城の縄張り図を作成したい想いにかられ始め、2011年4月1〜3日の2泊3日の日程で、再々度鬼ヶ城を徹底踏査した。山陰地方の春は遅く、当日は桜も開花前で、まだ山のあちらこちらには残雪が見られたほどで、少々肌寒く感じた踏査であった。

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写真1:天守台

 さて若桜鬼ヶ城は鳥取県八頭郡若桜町に所在する。同町は鳥取県でも東端に位置し、山を一つ越えると兵庫県但馬地域で、地理的・文化的にも近畿との繋がりが強い地域である。

 城跡は標高445m(比高230m)の山頂を中心に占地し、かつて城下町も存在した若桜の街並みを見下ろすことができる。山頂部は総石垣造りで、城内には瓦片の散布も認められた(写真2)。現在残る鬼ヶ城の遺構は、1580(天正8)年の木下重堅から1601(慶長6)年の山崎家盛の頃に築かれ、1617(元和3)年に山崎氏が備中成羽に転封となり廃城となった(西尾孝昌2000「若桜鬼ヶ城の縄張り調査」『因幡若桜鬼ヶ城』城郭談話会)。

 Ⅰ(本丸)が最高所で主郭である。西端に天守台Aを設けるが、東南隅に付け櫓台状の張り出しのある複合式天守である(写真1)。下位の曲輪へ通ずる虎口Bは、外枡形と内枡形の中間的な虎口となる。この主郭を起点に前方にⅡ郭(二ノ丸)、Ⅲ郭(若桜丸)、北側にⅣ郭(三ノ丸)、背後にⅤ郭(ホウズキ段)を階段状に連ねる。

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写真2:瓦片の散布状況

 Ⅱ郭北側には横矢枡形Dが凸状に突出して横矢による側面防御の要としているが、この種の構造物は文禄・慶長の役に築かれた倭城で多く見られるパーツである。Ⅲ郭の大手に相当する虎口Cは内枡形となる。Ⅳ郭から少し下った地点に擂鉢状の大きな窪みEがあり、井戸跡と見られる。

 Ⅴ郭には、現在は埋め戻されて実見できないが、発掘調査でⅠ郭とを繋ぐ虎口が出土した。この虎口はⅠ郭へ直接登れないことから、概報では「行き止まりの虎口」として話題を呼んだが(若桜町教育委員会1990『鬼ヶ城遺跡』)、おそらく往時は木製の階段状施設を用いて昇降していたのであろう。

 Ⅰ〜Ⅴ郭の石垣は、粗割り石を使用して割れ口を小口面とする割肌仕上げで、隙間には間詰石を用いる。特に隅角部の角石は、不揃いながらも直方体に近い形状となり、控えの長さも1:2の比率に近く、左右の引きも意識されており、算木積に近づいている。

 Ⅵ郭(六角石垣)は尾根端に位置する曲輪である。平面形が多角形のシノギ角積みに築かれ、石垣の積み方も自然石を使用し、山頂部の曲輪群に比べて古式な印象を与える(写真3)。また城下側から見える面だけを石垣とし、見えない背後は土塁となっている。筆者は当石垣を、木下段階の遺構ではにかと推測している(拙稿2000「若桜鬼ヶ城の石垣―編年上の位置付けと歴史的評価について―」『因幡若桜鬼ヶ城』城郭談話会)。

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写真3:六角石垣

 主郭群から観て背後の西尾根上には、Ⅶ郭(馬場)が存在する。この曲輪群は石垣を一切使用しない土造りで、一部に削平の甘い箇所も見られる。

 このように鬼ヶ城は、小規模ながら総石垣造りで、瓦葺き建物が建ち天守も上がっており、典型的な織豊系城郭であると言える。しかも1617(元和3)年には廃城となっており、織豊期の築城様式を今に残す貴重な遺構と言える。

 若桜鬼ヶ城は2008年、国史跡に指定された。鬼ヶ城は訪城のたびに草木が刈られて見学しやすくなったのは良いのだが、立木が少なくなったことが災いして、雨水が直接地面を叩き、表土の流出が激しくなった。事実、石垣下のロープを張った杭列が傾いたり、一部は根こそぎずれ落ちている物も見受けられた。

 どうも近年は、どこの自治体も“天空の城”竹田城に憧れてか、樹木を伐採して石垣を見せたがる傾向にある。しかし前述の如く、樹木の伐採のし過ぎは山の崩落を誘発し、ひいては遺構の破壊にも繋がる行為である。是非とも文化財保護と自然保全のバランス感覚をもって、保存に努めて頂きたいと切に願うものである。
(文・図・写真:堀口健弐)

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釜山子城台倭城縄張図

 前回ブログ記事では釜山倭城(母城)を紹介したが、今回はその続編となる釜山子城台(プサンジャソンデ)倭城である。

 釜山子城台倭城は、大韓民国釜山広域市東区凡一洞(ポミルドン)に所在する。都市鉄道1号線「凡一(ポミル)」駅から徒歩で15分程度の立地で、当城も前回ブログで紹介の釜山倭城と同様に“駅前倭城”である。当城は釜山倭城の一城別郭であるが、韓国側では山城の「母城」に対して出曲輪群を「子城台」と呼び、別個の独立した城郭として扱われている。当城は、釜山広域市記念物第7号に指定されている。

 以前のブログ記事でも記したが、筆者が初めて倭城を訪城したのは1990年5月のことである。当時はまだ関西空港はなく、大阪国際空港(伊丹空港)から韓国へ向かう時代であった。日本を発つ時は初夏の良い天気だったが,現地に着くと小雨がぱらつく生憎の天気で、傘を差しての踏査となった。そして最初の訪城地が、この釜山子城台倭城だったので、一番最初に訪れた倭城と言うことになる。

 今でこそ城郭愛好家も個人旅行で訪れるようになった倭城であるが、当時は城郭研究者でも訪れた人は少なく、「もう一生来ることがないかもしれない」と言った想いであった。そのため参加者も見て回るのに必死で、今や教授を務められるNさんも、短い時間を利用してせっせと縄張り図を描いておられ、「流石だなぁ」と思ったのであった。

 釜山子城台倭城は小規模の割に遺構が良く残っおり、しかも交通の便も良いこともあって、旅の“時間調整”としても度々訪れており、数えてみると実に13回の訪城を果たしている。

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写真1:鎮城期の鎮南台

 釜山子城台倭城は、釜山倭城の東方900mに位置し、標高34m(比高ほぼ同じ)の独立丘に占地する。今では近代以降の埋立で海岸線が後退しているが、朝鮮時代後期の絵画史料や近代の古写真によると、往時は南面が釜山湾に面して、残る三方は丘麓を海水を引き込んだ水堀が巡っていた。

 当城は1970年代まで韓国陸軍の管轄となり、民間人の立ち入りが著しく制限されていたが(倭城址研究会1979『倭城』Ⅰ)、現在は子城台公園として整備され、1974年には朝鮮時代の楼閣や城門などが復元された(現地説明板による)。

 釜山子城台倭城は、1592(文禄2)年に毛利秀元が築城し、1598(慶長3)年には寺沢広高が守備を担当した。日本軍撤退後は朝鮮王朝側の鎮城(水軍基地)として再利用され、韓国側では釜山鎮支城とも呼ばれている。江戸時代(韓国では朝鮮時代後期)に行われた朝鮮通信使は、漢城(現在のソウル)を陸路で出発した通信使が、ここから船に乗り換える海路の出発点でもあった。2011年には、丘麓に朝鮮通信使歴史館が開館した。

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写真2:天守台石垣

 現在、遺構は丘頂に2箇所の曲輪が残る。今は都市開発で消滅したが、1909(明治42)年に陸軍築城本部が作成した『築城史料』や1927〜32(昭和2〜7)年に原田二郎陸軍大佐(後に少将)が作図したと考えられる『九大倭城図』によると(佐賀県教育委委員会1985『文禄・慶長の役城跡図集』)、丘麓にも1郭を配し、さらにその周囲を惣構が巡る、小規模ながら独立した平山城の様相を呈していた。

 Ⅰ郭が主郭である。現在は鎮城時代の楼閣「鎮南台」が建つ。Aは天守台である。現在は公園化に伴い曲輪面と同一レベルに削平されているが、1931年以前に撮影された写真によると、曲輪面より一段高く築かれているのが分かる。北に虎口Bと南にCをそれぞれ開口するが、両方とも石垣は後世の積み直しである。

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写真3:滴水瓦

 なおⅠ郭東南隅のD地点で、滴水瓦(軒平瓦)の破片を見つけた。写真向かって右端部が残存する。但し瓦当文様が、復元された楼閣に葺かれている軒平瓦と同紋である。おそらくこの瓦は倭城段階ではなく、17〜19世紀代の鎮城段階の瓦と思われる。

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写真4:閉塞された虎口E(左手が倭城の石垣)

 Ⅱ郭の虎口Eは、石積で虎口を閉塞した痕跡が認められる。本来の導線が見て取れる。この直ぐ西に丘麓へ向けて伸びる“登り石垣”状の遺構が見られる。これは1909(明治42)年に陸軍築城本部が作成した『築城史料』や1927〜32(昭和2〜7)年に原田二郎陸軍大佐が作成したと見られる『九大倭城図』によれば(佐賀県教育委員会1985『文禄・慶長の役城跡図集)、登り石垣ではなく丘麓とを繋ぐ斜路として描かれている。本来の導線は、この斜路を登って虎口Eを通るルートであったと思われる。

 当城は、朝鮮時代後期に描かれた絵画史料が複数残されている。18世紀代に描かれた『槎路勝区図』(釜山博物館蔵)や、19世紀代に描かれた『東莱譜使節倭施図』(国立晋州博物館蔵)によると、丘頂には鎮南台が建つのみで、鎮城の主要な殿舎は丘麓の総構内を利用しているのが窺える。したがって朝鮮王朝側の倭城再利用は丘頂部分にはおよんでいなかったと考えらえる(太田秀春2011「朝鮮王朝の日本城郭認識論」『倭城 本邦・朝鮮国にとって倭城とは』倭城研究シンポジウム実行委員会、城館史料学会)。

 近時、日韓両国の研究者らが中心となり、朝鮮通信使を世界記憶遺産への登録を目指す動きがある。世界遺産もそろそろ飽和状態になりつつあり、登録への道程は険しいだろうが、将来釜山子城台倭城が世界遺産の一部になる日が訪れるかもしれないと、ちょっとそんなことを密かに期待してしまう。
(文・図・写真:堀口健弐)

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