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			<title>城郭電脳日記</title>
			<description>　当ブログでは、主に城郭の訪城記録を報告します。但し、必ずしもリアルタイムの“日記”ではなく、過去の訪城記録に遡って報告することもあり、そのため日時が前後することもあります。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/horiguchikenji0726</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>城郭電脳日記</title>
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			<description>　当ブログでは、主に城郭の訪城記録を報告します。但し、必ずしもリアルタイムの“日記”ではなく、過去の訪城記録に遡って報告することもあり、そのため日時が前後することもあります。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/horiguchikenji0726</link>
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		<item>
			<title>№42：2019倭城踏査速報(後編)</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;strong&gt;４月７日&amp;#12848;　曇のち雨&lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　旅の後半戦となる本日からは単独行動となる。天気予報では「曇のち雨」の予報が出ており、時間予報でも昼前からの降り出しとのこと。この予報を信用して山城へは行かずに、国立晋州(チンジュ)博物館(慶尚南道晋州市)で情報収集することにしたが、これが予想以上の成果を得ることができた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/69/16775869/img_4_m?1556469357&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_560_420&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;strong&gt;晋州城発掘現場(道路から撮影)&lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　いつもの沙上(ササン)バスターミナルから、市外バスにて一路晋州市へと向かう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　まずは晋州城を訪れるが、以前は古ぼけた大きな建物が建っていた所が、再開発なのかそれとも史跡整備なのか、大々的に発掘調査中であった。当日は日曜日ということもあって関係者は誰もおらず、発掘現場にはブルーシートが被せられていたが、それでもシートの隙間から遺構を眺めることができた。解説の横断幕によると、朝鮮時代(後期か)の石垣、高麗時代の土塁、それに統一新羅時代の水路などの遺構が出土しているとのことであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/69/16775869/img_5_m?1556469357&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_560_420&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;strong&gt;国立晋州博物館&lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　次に向かったのが晋州城内に建つ国立晋州博物館。博物館としての歴史は古いが、同城は文禄・慶長の役の激戦地であることにちなみ、何年か前に壬辰倭乱(文禄・慶長の役)専門博物館にリニューアルされたが、早くも昨秋に再リニューアルオープンしたばかりであった。韓国の博物館はリニューアルが早いと思っていたら、実はその逆で、日本の博物館の方が世界的に見てリニューアルが遅いのだそうだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　新装なった展示の中で筆者の目を引いたのは、倭城の古写真のパネル展示であった。お馴染みの古写真に加えて、筆者がこれまで目にしたことがなかった蔚山倭城、釜山倭城、林浪浦倭城、竹島倭城、倭城洞倭城などの古写真も展示されていた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　面白いのは、九州大学に戦前から伝わる倭城図面(通称『九大倭城図』)に描かれた倭城は古写真も残るが、同図に描かれていない倭城は古写真も残っていない。例えば巨済(コジェ)島に残る倭城のうち、倭城洞(ウェソンドン)倭城(慶尚南道巨済市)は写真も図面も残っているのに対し、その他の倭城は写真も図面も残っていない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　これは戦前に存在した「要塞地帯法」の影響であろう。この法律は要塞や軍港から一定距離以内では、たとえ自分の土地であっても写真撮影、スケッチ、測量などの行為が固く禁じられており、許可なく行うとスパイ容疑で逮捕され懲役刑が科せられた。おそらく「要塞地帯法」の影響で、倭城の写真撮影も縄張図作成もできなかったのであろう(拙稿2006『倭城の縄張りについて」『愛城研報告』10、愛知中世城郭研究会)。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　博物館ではいずれも電話帳くらいもある図録『固城』(2014年、国立晋州博物館)と、リニューアルなった常設展示図録『丁酉再乱1597』(2018、国立晋州博物館)を購入し、明日の固城邑城踏査にも大いに役立った。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　博物館を出る頃には予報どおりに雨が降り出していて、晋州城の見学もそこそこに市外バスに飛び乗って、釜山への帰路に就いた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;４月８日&amp;#12842;　晴&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/69/16775869/img_6_m?1556469357&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_1024_768&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;strong&gt;固城邑城(右手に甕城の一部が残る)&lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　昨日からの雨も上がり、一昨日に引き続き終日固城(コソン)邑城(慶尚南道固城郡固城邑)の踏査を行った。昨日購入した図録『固城』に固城邑城の概念図と現存遺構の写真などが掲載されていて、これが大変役立った。ただし同書では、固城倭城の石垣を固城邑城の遺構と誤認している所が３か所あり、しかもマッピングする位置も間違っていた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　遺構は下町の路地裏の所々に残る状態である。これまで何度も訪城経験のある固城倭城のすぐ傍らにも、固城邑城の南門跡の甕城(オンソン：丸馬出に似た朝鮮式城郭の虎口)が残ることを初めて知り、自分自身の見識の低さを恥じた。城壁は畑と民家の境界となり、敷地の塀越しでないと目視しづらい状況で、人の家を覗き込む外国人など土地の人に見つかると怪しいことこの上ない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　他の場所でも石垣が民家の基礎になって残っていたりして、長居すると怪しい人と間違えられて警察に通報されかねないので、路地裏で遺構を確認すると素早くレーザー距離計で計測して、直ぐに通りに戻って作図するヒットアンドアウェー戦法の波状攻撃で、何とか遺構の確認と図化を行った。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ただし『固城』にマッピングされた遺構との位置関係が異なる箇所もあり、同書が間違っている可能性もあるが、筆者自身も単なる古ぼけた石垣を固城邑城の城壁と誤認している可能性もあることを付言しておきたい。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;strong&gt;４月９日&amp;#12843;　晴のち雨&lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　この日は事実上の最終日である。天気予報では「曇のち雨」の予報だが、時間予報によると雨の降り出しは夕方からで、これに賭けて踏査を決行した。結局この賭けが当たり、昼過ぎまでは青空が残り、小雨が降り始めたのは踏査を終えて帰路に就いた日暮れ前になってからであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;strong&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/69/16775869/img_7_m?1556469357&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 4&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_1024_768&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
徳島倭城遠景&lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　まず午前中に、これまで懸案となっていた徳島(トクト)倭城(釜山広域市)を踏査する。同城へは数年前まで沙上バスターミナルから金海(キメ)行のバスが頻繁に出ていたが、近年、ニュートラムのような釜山金海軽鉄道が開通したあおりを受け、バス便は朝夕のみの数本に減便されてしまい、踏査のタイミングが難しかったた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　城跡は小高い丘に占地し現状では要害地形には見えないが、朝鮮時代末期(19世紀)の古地図『東莱釜山古地図』(東亜大学校所蔵)によれば、西洛東江の中に漢字で「徳」とか「竹」とか書かれた小島が描かれている。これが徳島倭城と竹島(チュクト)倭城で、往時は両城とも大河に浮かぶ水城であった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　当城は、城郭研究者仲間の情報網で目ぼしい遺構は存在しないと聞かされていたが、確かに丘頂に平坦面があるだけで現状は墓地や耕作地となり、石垣や堀といった防御遺構は一切確認できなかった。ただし開墾された畑には青磁や陶器の破片の散布が見られたので、朝鮮時代にこの地で何らかの人々の営みがあったことだけは確かのようである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　なお事前情報では、矢穴の残る露岩があると聞いていたのだが、範囲が広大過ぎて探し出すことができなかった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/69/16775869/img_8_m?1556469357&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 5&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_560_420&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
竹島倭城&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　午後からは、徒歩にて川向にある竹島倭城へと向かう。同城も過去に10回超の訪城経験があるが、改めてデジタルカメラで写真撮影を行った。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　同城は遺構が良く残るものの、主郭石垣はツタや雑草が繁茂してなかなか石垣を良い条件で観察することができなかった。ところが数年前に釜山市によって大々的な除草作業が行われて、初めて石垣の全容を目の当たりにすることができた。その結果、今まで気付かなかった築石に不自然な稜線の存在を確認した。おそらく石垣の改修か、施工単位を表しているのだろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　同城の帯曲輪には矢穴の残る露岩が数か所あり、筆者は実測図を発表しているが(拙稿2005「倭城の石垣―採石遺構とその技術を中心に―」『韓国の倭城と大坂城』倭城・大坂城国際シンポジウム実行委員会)、どうやら成長した草木に埋もれてしまったようで、所在を再確認することすらできなかった。現地には重機が入った形勢はなく、一個人が鍬やスコップで撤去できる代物ではないので、探せばどこかに眠っているはすなのだが。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　帰路はバス便が夕刻までないはずなので、最寄りの軽鉄道「金海市庁前駅」まで１時間ほどかけて歩く覚悟を決めていたのだが、麓の停留所から軽鉄道「大渚(テジョ)駅」行きのマウルバス(マイクロバスタイプのコミュニティバス)が出ているのを発見。運行時間は１～２時間に１本間隔だが、運良くあまり待ち時間なし乗車することができた。反対方向に乗っても「金海市庁前駅」まで行けるようだ。　&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;※　&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　中６日間の踏査旅行は短かった。決して楽しい時間は早く過ぎ去ると言うのではない。滞在中は雨天で山城に行けない日もあれば、１城の踏査が数日がかりになる日もある。当然それも見越して計画を立ているつもりであるが、それでも予定どおりには進まないのが世の常である。具体的に言うと、今回予定に含めていた機張(キジャン)邑城(釜山広域市機張郡)は、残念ながら全く踏査することができず今後の踏査に持ち越しとなってしまった。&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;right&quot;&gt;(文・写真：堀口健弐)&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/horiguchikenji0726/16775869.html</link>
			<pubDate>Sun, 28 Apr 2019 22:00:00 +0900</pubDate>
			<category>ブログバトン</category>
		</item>
		<item>
			<title>№41：2019倭城踏査速報(前編)</title>
			<description>&lt;div&gt;　４月３日&amp;#12844;から同月10日&amp;#12844;にかけて、約１年ぶりとなる倭城踏査旅行を行った。本来ならば年度末までに、有給休暇を消化する意味でも、遺構の写真映りを考えても３月中に訪韓したかったところだが、３月前半は発掘調査報告書の作成で忙しく、仕事が楽になると期待していた同月後半には急な遺跡発掘調査の仕事が入ったため、今年度も有給休暇を半分ほど流してしまった。そのため次の発掘現場が始まりそうな日まで時間がある４月上旬になって、漸く踏査旅行を決行することができたのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　韓国釜山界隈では関西よりも一足先に桜が満開で、帰国時には早くも葉桜に変わりつつあった。日差しはめっきりと春めいてきてはいたが、吹く風はまだ少し冷たく感じる日も多かった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　今次踏査の成果は今夏刊行の専門誌に投稿の予定であるが、８日間のうち初日と最終日はほぼ移動日なので、実質中６日の行程を前編・後編の２回に分け、速報として以下に報告する。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;４月４日&amp;#12845;　晴&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/36/16759236/img_0_m?1556554531&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_1024_768&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;安骨浦倭城&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　事実上の初日は安骨浦(アンゴルポ)倭城(慶尚南道昌原市)へ。釜山駅から都市鉄道(地下鉄)１号線に乗り下端(ハダン)駅で下車し、龍院(ヨンウオン)行の市外バス(急行バス)に乗り換え、下車後徒歩にて現地へ向かう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　同城は10回＋αの訪城経験があるが、どうしてもデジタルカメラで再撮影がしたく改めての訪城となった。事前の情報で草木が刈られて観察しやすくなっているとのことであったが、現地に着いてみると確かにそのとおりで、今や倭城の中では最も見学しやすいと言える。山菜獲りのアジュンマ(おばちゃん)たちの横を失礼しながら、終日写真撮影に興じた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　夕刻、沙上(ササン)バスターミナルで“倭城ナビゲーター”の植本夕里女史と再会し繁華街へ。夕食はテジカルビ(豚の味付け焼肉)と韓国冷麺を食しながら、明日以降の日程や踏査地などに花を咲かせた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;４月５日&amp;#12846;　晴&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/36/16759236/img_3_m?1556554531&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 4&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;560&quot; class=&quot;popup_img_1961_1960&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;固城邑城と踏査中の筆者(植本夕里氏撮影)&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　沙上バスターミナルから固城(コソン)行の市外バスに乗り込み、固城邑へと向かう。この日の目的は、固城倭城の外郭線にも転用された固城邑城(慶尚南道固城郡固城邑)の遺構探索である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　同邑城の遺構は完全に消滅したと思い込んでいたが、偶然にもインターネット上で見つけた『固城邑城址地表調査報告書』(2001年、固城郡、慶南発展研究院歴史文化センター)によると、2001年段階でも何か所に邑城の城壁遺構が残片的に残っていることを知り、俄然興味が湧いてきた。遺構は下町の路地裏などに辛うじて一部が残る状態で、当日はあまり確認することができず、後日への持越しとなかった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　遅い昼食の後、すぐ近くにある松鶴洞(ソンハクドン)古墳群と、併設する国立固城博物館を見学する。同古墳はかつて「韓国の前方後円墳か？」と日韓の考古学界で話題になった。東亜(トンア)大学校が行った発掘調査によると(団長：沈奉謹教授)、同古墳は円墳が重なって築かれたもので、前方後円墳説はひとまず否定された(これに関しては項を変えて私見を述べたい)。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/36/16759236/img_2_m?1556554531&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_1024_768&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;松鶴洞古墳出土の日本産須恵器(撮影可能資料)&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ところで博物館の展示品には、どう見ても日本の須恵器に見える蓋杯とハソウが何点か展示されていた。須恵器は朝鮮半島から渡来人が伝えた土器なので、故地と姿形が似ている物も多い。筆者は須恵器の専門家ではないものの、日頃から須恵器を目にし触れる機会が多く、件の須恵器は陶邑編年のＭＴ１５型式(６世紀前半)にしか見えなかった。が、この問題は明後日に思わず解決した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　国立晋州(チンジュ)博物館で購入した図録『固城』(2014年、国立晋州博物館)によると、件の須恵器は「倭系遺物」と紹介されている。この日は展示替えで見られなかったが、以前の訪館時には須恵器提瓶も展示されていた。「提瓶」とは軍隊や登山家が使うような水筒形の器で、日本で生まれて朝鮮半島には存在しない器種である。このことからも松鶴洞古墳の被葬者は、大和政権と関係の深い豪族であったことが分かる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　その後釜山の沙上に戻り、夕食は韓国焼肉の定番中の定番であるサムギョプサル(味付けしない豚の焼肉)を食した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;４月６日&amp;#12847;　晴&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/36/16759236/img_1_m?1556554531&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_1024_768&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;西生浦倭城&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　４月６日は語呂合わせで「城の日」なので、「西生浦(ソセンポ)倭城へ行きたい」と言う夕里さんのリクエストに答えて、この日は終日西生浦倭城(蔚山広域市蔚州郡)を踏査する。少し前までは釜山市内の海雲台(ヘウンデ)から市外バスが出ていたが、近時、残念ながら路線が廃止となり、西生浦倭城への直通便がなくなってしまった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　この日はコレール(韓国国鉄)の釜田(プジョン)駅からムグンファ号(急行)に乗り、まず南倉(ナムチャン)駅へ向かうが、本数は２時間に１本間隔である。下車後、駅前から鎮下(チナ)方面へ向かう市内バス(路線バス)に乗り換える。本数は１時間に１本間隔だが、急行の到着時間に合わせているのか、ほとんど待ち時間なしに乗ることができ、その名も「西生浦倭城前(ソセンポウェソンアプ)」という名のバス停で下車した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　当日は雲一つない“日本晴れ”で、西生浦倭城名物の登り石垣も青空をバックに撮影することができた。城内に植えられた桜も満開から散り始めで、団体客や家族連れの花見客、さらには新婚さんの記念撮影などで城跡も大層賑わっていた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　帰路は再び南倉駅まで戻ったところで、運良く海雲台行きの市外バスが通りかかったので、急ぎこれに飛び乗り釜山市内まで戻る。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　夕食は西面(ソミョン)のその名も“テジクッパ通り”で、釜山名物のテジクッパを食す。テジクッパとは、白濁したあっさり味の豚骨スープにチャーシューのような豚ばら肉が入った、雑炊のような韓国のソウルフードである。例えるなら豚骨ラーメンの替え飯のような感覚で、日本人の口に向いている味かもしれない。夕里さんは明日以降に一時帰国されるので、一旦ここでのお別れとなった。&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;right&quot;&gt;(文・写真：堀口健弐)&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/horiguchikenji0726/16759236.html</link>
			<pubDate>Sun, 14 Apr 2019 22:00:00 +0900</pubDate>
			<category>ブログバトン</category>
		</item>
		<item>
			<title>№40：安土城(滋賀県近江八幡市)</title>
			<description>&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;&lt;strong&gt;
&lt;div align=&quot;left&quot;&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/96/16647996/img_0_m?1556366627&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;396&quot; class=&quot;popup_img_3510_2482&quot;/&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;安土城縄張図：中心部(一部、滋賀県教育委員会原図を参照)&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;left&quot;&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　安土城(滋賀県近江八幡市)は、言わずとしれた織田信長が天下統一を目指して築いた居城であり、1576(天正４)年から築城を開始して1579(天正７)年に完成を見た。1582(天正10)年の本能寺の変で一度焼失し、その後再興されるが、1585(天正13)年に廃城となった(秋田裕毅1980「安土城」『日本城郭大系』11、新人物往来社)。高石垣、瓦建物、天主(天守)を備えた様は“近世城郭の嚆矢”と評されている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　筆者は学生時代だった1980年代から90年代にかけて、何度か同城の訪城経験があった。が、当時としては、その後に立ち入り禁止区域が設定される日がやって来るなどとは、夢にも思っていなかった。やがて平成の史跡整備後に、地権者の見寺が入山料を徴収するようになってからは、何となく嫌気がさして永らく訪れなかった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　昨年の2018年５月４日に、原稿のネタ作りも兼ねて実に約20年ぶりに安土城を訪れたが、噂に聞いていたとおり残念な結果であった。入山料を徴収するのはまだ良いとしても、大手の入山口から天主台までの順路以外の箇所が悉く立ち入り禁止区域で自由な踏査ができない状態になっており、これでは真の安土城の魅力も伝わらないと思わずにはいられなかった。しかし「立ち入り禁止」と言われると逆に創作意欲が湧いてくるもので、何とか中心部だけでも縄張り図を描いてやろうと奮い立たったのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　そこで日を改めて同年11月18日と20日の両日にわたって、山頂の曲輪群を中心に縄張り図の作成を行った。城郭研究者の間では「有名な城ほど縄張り図がない」と言われるが、同城も例外に洩れず滋賀県教育委員会作成の実測図を除くと、村田修三大阪大学名誉教授の縄張り図しか未だ世に出た図がないのである(村田修三1987「安土城」『図説 中世城郭事典』２、新人物往来社)。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/96/16647996/img_1_m?1556366627&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_1024_768&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;写真１：天主台穴蔵&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　なお作図に際して、立ち入り禁止区域については目視可能な範囲はレーザー距離計を用いて測距し、目視不可能な箇所については過去に踏査した際の写真や記憶に基づいた。ただし&amp;#8547;郭(八角平)については踏査経験はあるものの、滋賀県教育委員会の実測図をそのまま参照した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　さて安土城は、琵琶湖の東岸標高199ｍ(比高110ｍ)の安土山に占地する。周囲は昭和時代の干拓事業により陸地化が進んだが、往時は三方を琵琶湖に突き出して湖水に囲まれた岬状の地形であった。安土山は大別して黒金門より内側の狭義の山城部分、大手道の左右に展開する家臣団屋敷群、見寺の３区画で構成される。安土山に上級家臣団や寺院を集住させることで、山全体が一種の城下町を形成している。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　縄張りは全山が総石垣造りによる。いわゆる「穴太積み」と呼ばれる積み方で、全く加工しない自然石や、自然石を真っ二つに割っただけの粗割り石を使用し、石材の間隙には間詰石を入れる。隅角部は算木積を意識しつつも、角石の左右の引きが揃わない箇所や、角石の控えに極端な長短が見られる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ただし山頂部を中心に石垣の多くは、1960(昭和35)年から1975(同50)年にかけて、穴太積み石工で人間国宝の故・粟田万喜三氏によって修築工事が行われた。しかし当時は石垣自体が文化財だという認識に乏しく、修築前の状態を写真や図面などの記録を残していないため、どこまでが現存で修築なのかの区別が分かりづらくなり、研究にも支障をきたしている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/96/16647996/img_2_m?1556366627&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_1024_768&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;写真２：信長廟&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&amp;#8544;郭は最高所で現在は「二の丸」と呼ばれているが、ここが本来の主郭であろう。現在は天主台からの崩落土で通行不可能だが、往時は&amp;#8544;´郭(天主取付台)と帯曲輪で連絡していたと思われる。中央部には、穴蔵を有する平面形が不等辺八角形の天主台Ａを設ける(写真１)。この上に『信長公記』などの史料によると、地上６階地下１階の天主が建てられていたことが分かるが、上屋構造については決定的な史料がなく未だ不明のままである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　その&amp;#8544;郭には、1583(天正11)年に豊臣秀吉が信長の一周忌に建立したと伝えられる「信長公本廟」が祀られている(写真２)。ただし今見る信長廟は、切石を用いた「亀甲積み」に近い積み方であり、「豆矢」と呼ばれる小型の矢穴を穿っている。石垣の稜線には反りが見られ、天端石は幕末台場に見られるようなオーバーハングして張り出す「はね出し」状となっている。いずれの要素も現存する他の石垣とは様相が大きく異なっており、間違いなく江戸時代中期かそれ以降に信長顕彰のために整備されたものであろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&amp;#8545;郭は現在「本丸」と呼ばれている。ここは1941(昭和16)年と1999(平成11)年の２度にわたって発掘調査が行われ、本丸御殿の礎石の一部が今も露出した状態となっている。発掘調査の結果、異説もあるが平面構造が御所の清涼殿に似ることから、信長が天皇を迎えるための行幸施設であったと見られている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&amp;#8546;郭は「三の丸」と呼ばれており、&amp;#8544;郭同様に&amp;#8545;郭よりも高い位置にある。立ち入り禁止になる以前の踏査時には、この曲輪に多数の瓦片が散布していたのを記憶している。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/96/16647996/img_3_m?1556366627&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 4&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_1024_768&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;写真３：黒金門&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&amp;#8547;郭は「八角平」と呼ばれており、文字通り平面形が多角形をした独立性の強い曲輪である。織豊系の山城には、主郭背後に大堀切や尾根鞍部を挟んで独立性の高い１郭を設ける事例があるが、その機能についてはこれからの検討課題であろう。史跡整備が始まった平成時代初め頃まではここまで散策できて、東屋やベンチなどの休憩施設が置かれていたように記憶しているが、現在ではここも立ち入り禁止となっている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　城外に対してＢ・Ｃ・Ｄ・Ｅの各虎口を開口する。このうち虎口Ｂ(黒金門)と&amp;#8547;郭へ向かう途中にある虎口Ｃ(現在は立ち入り禁止)は、初期の織豊系城郭に特徴的な嘴状虎口となる(写真３)。両虎口ともに昭和の修築の手が入っているが、1687(貞享４)年の『近江国蒲生郡安土古城図』(見寺蔵)によると、虎口Ｂは形状自体に大きな差異は見られない。一方、虎口Ｃは同図には描かれていないところを見ると、『古城図』は天主台までの道程は正確に描くものの、それより奥はやや不正確な傾向が見て取れる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　安土城では残念ながら、昭和と平成の修築がおよんでいないオリジナルの穴太積み石垣や、縄張りの見所でもある虎口Ｃは立ち入り禁止となっている。これでは穴太積み石垣の魅力も縄張りの魅力も存分に伝えることができず、大変残念な結果と言わざるをえない。“蛇の道は蛇”で、安土城を管轄する滋賀県教育委員会と管理する見寺との間で、様々な軋轢のあることが漏れ聞こえてくるが、この素晴らしい城跡を存分に活用しきれてい状況を憂いずにはいられない。&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;right&quot;&gt;(文・図・写真：堀口健弐)&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/horiguchikenji0726/16647996.html</link>
			<pubDate>Sun, 03 Feb 2019 22:00:00 +0900</pubDate>
			<category>ブログバトン</category>
		</item>
		<item>
			<title>№39：蔚山倭城(大韓民国蔚山広域市)</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/94/16617394/img_0_m?1556438134&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;396&quot; class=&quot;popup_img_3507_2480&quot;/&gt;&lt;strong&gt;蔚山倭城縄張図&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　蔚山(ウルサン)倭城は、倭城踏査のみならず人生の中でも忘れえない思い出の多いお城である。1999年には初の一人旅で倭城を巡り、その前年の98年には「蔚山の置いてけぼり事件」が起こった。韓国語もろくに喋れない異国の地で本隊に置いてぼりにされ、自力で高速バスに乗って釜山まで移動し、飛び込みでその日の宿を探すという、人生で何度もない貴重な経験をした。これは大変な思い出でもあるが、長くなりそうなので下記の文献を見つけられたら、是非とも一読されたいと思う(拙稿2004「楽しい？倭城踏査」『城郭研究の軌跡と展望』&amp;#8545;、城郭談話会)。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　蔚山倭城は、大韓民国蔚山広域市中区鶴城(ハクソン)洞に所在し、倭城群の中では最北端に位置する。同市は釜山広域市の北隣に位置し、1980年代以降に現代(ヒョンデ)財閥の企業城下町として急速に発展した。倭城址研究会が1970年代末頃に撮影した写真によると、城跡周囲に田園風景が広がっており今日とは隔世の感がある(倭城址研究会1989「蔚山倭城」『作戦研究 戦国の籠城戦』新人物往来社)。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　同城は、蔚山広域市文化財資料第７号に指定されている。太和江(テファガン)の河口に近い左岸で、支流の東川(トンチョン)とがＹ字形に合流する辺りの、標高50ｍ(比高ほぼ同じ)の「鶴城山」を中心に占地する。戦前から日本人の手により顕彰されてきて、現在は鶴城公園となり市民の憩いの場となっている。近時、新たな解説板(日本語あり)が設置された。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　慶長の役の1597(慶長２)年に、毛利輝元が普請を担当して浅野幸長が在番を担当し、翌98(慶長３)年にかけて勃発した「蔚山の籠城戦」では、加藤清正も加勢して守備した。この戦闘では、明・朝鮮連合軍６万人に対し守備軍2300人で応戦し撃退したが(兵力数については諸説あり)、守備兵も冬の寒さと兵糧不足から多くの戦死者を出すに至った(峰岸純夫・片桐昭彦2005『戦国武将合戦事典』吉川弘文館)。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/94/16617394/img_2_m?1556438134&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_2048_1536&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;写真１：&amp;#8544;郭の修築石垣&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　慶長の役では蔚山の籠城戦をはじめ、泗川(サチョン)の戦い、順天(スンチョン)の戦いで実際に倭城を巡る攻防戦が行われた。これらの戦闘を総称して別名「三路の戦い」とも呼ぶが、いずれも兵力数で上回る攻城軍の猛攻を耐え抜いており、落城した倭城は一つもなかった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　蔚山倭城の築城には、当城から北へ約２ｋｍ地点に位置する、朝鮮王朝側の蔚山兵営城(同市)の石垣を転用したと伝えられる。&amp;#8544;郭(本丸)が最高所で主郭である。北と東に枡型虎口ＡとＢを開口するが、特に虎口Ａの片脇には横矢枡形Ｃがあり、攻め手にたいして強烈な横矢が掛かる。石垣の一部は元々残存状態が良くなかったが、近時、石垣の修築工事が行われた(写真１)。なお「天守台」が存在すると紹介する書籍もあるが(加藤理文2014「蔚山城」『倭城を歩く』サンライズ出版)、これは誤認であろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　同城を描いた絵画史料に『朝鮮軍陣図屏風』(尊経閣文庫蔵)がある。同図は現状の縄張りと比較すると、曲輪配置を模式的に描いている点など絵画史料としての信憑性が低い可能性もあるが、そこには隅櫓は描かれていても天守は描かれていない。もし天守のような象徴的な建物が存在したのであれば、間違いなくそこに描かれるはずであり、やはり同城に天守は存在しなかったと見るのが妥当であろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　Ｄは相当石垣が崩れて分かりにくいが、よく見ると根石部分が残り横矢枡形となるが、城郭本体部との繋がりが分かりにくい。&amp;#8546;郭(三の丸)は東に虎口を開口し、片脇に横矢枡形Ｅが張り出す。北辺には土塁の残欠が低い高まりとなって残る。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/94/16617394/img_1_m?1556438134&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_2048_1536&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;写真２：登り石垣&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&amp;#8547;郭は枡形虎口Ｆを開口し、隅部から張り出しＧを設ける。この&amp;#8547;郭は、&amp;#8544;郭とを２条の登り石垣で連結している。この登り石垣は、筆者が最初に踏査した1990年当時は綺麗に見ることができたが、その後、次第にブッシュ化して埋もれてしまっていた。これを蔚山広域市公認解説ボランティアの金青子(キム・チョンジャ)氏と、釜山博物館学芸士の羅東旭(ナ・ドンウク)氏らが中心となって除草作業を行い、今日再び綺麗な姿が見られるようになった(写真２)。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　なおかつては、&amp;#8547;郭から東方へ延びる外郭線が存在していた。倭城址研究会が踏査した当時は外郭線の一部がまだ残存していたようだが、今では都市化のの波に飲み込まれて完全に消え去ってしまった(倭城址研究会1989)。撮影年代は不明ながら、植民地時代に撮影されたとみられる古写真によると、これに相当する外郭線の土塁が写っている(植本夕里氏のご教示)。ただしその時点でも、既に土塁の半分は耕作地化により低く削られてしまっているのが見て取れる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　蔚山倭城は近年史跡整備が進んでいるが、調査担当者も「日本の城郭石垣を勉強したいが情報が少なくて困っている」旨を人伝に聞いたことがある。こういう時こそ、日韓の研究者が情報交換し合って共同研究することが、今まさに必要とされていると言えよう。&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;right&quot;&gt;(文・図・写真：堀口健弐)&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/horiguchikenji0726/16617394.html</link>
			<pubDate>Sun, 06 Jan 2019 22:00:00 +0900</pubDate>
			<category>ブログバトン</category>
		</item>
		<item>
			<title>№38：二条城(京都市)</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/31/16598131/img_0_m?1546103316&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;396&quot; class=&quot;popup_img_3507_2480&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;二条城縄張図&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　二条城は国宝であり世界遺産でもある。同城は昔から京都を代表する観光名所であったが、近年は海外からのお客さんも増えて大層な賑わいである。筆者は京都に住んで長いので、二条城はもはや地元のお城の感覚である。入城料を払って入ったのは10回を超えないと思うが、お堀端を歩いたり自転車で通過したのを含めると数えられないほどである。さらに今の職に就いてからは、電車の車窓からほぼ毎日のように二条城の隅櫓を眺めながら通勤している。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ところで詳しくは後述するが、二条城は将軍徳川家光によって今我々が目にする姿に再築した。しかし城郭研究者はともかく、一般書やマスコミも含めていまだに家康が築いた城として紹介されることが多い。それを改めて実感させる出来事が今年起こった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　2018年９月に近畿地方を襲った台風21号は“戦後最大の風台風”と呼ばれ、各地に甚大な被害をもたらした。貴重な文化財も例外ではなく、二条城も二の丸御殿の破風板が損傷した。その際に皇室を表す菊のご紋の覆い金具が外れて、その下から徳川家の葵のご紋の飾り跡が見つかった。その時の模様を伝える新聞記事の見出しでも「家康築城時の飾り跡か」とあり(『京都新聞』朝刊、2018年９月27日付け)、まるで家康が築いたかのように誤解させる記述である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/31/16598131/img_1_m?1546103316&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_2048_1536&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;写真１：外堀石垣&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　二条城は京都盆地の中央部に占地し、水堀を「回」字形に巡らせた平城である。提示する縄張図は、ちょうど城内の桜が満開の頃の、2013年４月５日を中心に作成したもので、既存の案内板などをなぞったものではない。立ち入り禁止区域については、レーザー距離計を用いて測距した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　当城の創築は、1602(慶長７)年に将軍徳川家康が京都上洛の御座所として築いたのが始まりで、その場所は現在の二の丸御殿付近に比定される。1626(寛永３)年、徳川家光が後水尾天皇の行幸のために、西に城域を拡大して現在見る姿に再築した(今谷明1980「二条城」『日本城郭大系』11、新人物往来社)。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　縄張りは総石垣造により、内堀・外堀ともに切石だけで角石・角脇石・築石を積んだ「間地積」による(写真１)。これは寛永期に入ってから出現する石積技法であり、家康が同城を築いたとされる慶長期前半には未だ存在していなかった技法である(拙稿2002「城郭石垣の様式と編年―近畿地方の寛永期までの事例を中心に―」『新視点・中世城郭研究論集』新人物往来社)。総ての石垣が同じ技法で積まれており、また石垣の繋ぎ目も見られないことから、同時期に積まれたことが分かる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&amp;#8544;郭が主郭(本丸)である。正方形を呈し内堀の外周も含めると約200ｍ四方で、本丸だけでも約２丁四方の規模を誇る。西南隅に天守台Ａを設けるが、この天守台には５層の層塔式天守が建てられていたが、1750(寛延３)年に落雷により焼失した(平井聖1980「二条城の天守」『日本城郭大系』11、新人物往来社)。本丸の四周に石塁を巡らすが、総ての面を雁木坂にすることにより、守備兵の昇降を容易にしている。この北西隅と東南隅には、隅櫓台状の張り出しを設けている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/31/16598131/img_2_m?1546103316&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_2048_1536&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;写真２：天守台から見た虎口Ｂ&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ＢとＣにそれぞれ虎口を開口する。いずれも内枡形と外枡形を組み合わせた形状であるが(写真２)、同型式の虎口は名古屋城(愛知県名古屋市)や篠山城(兵庫県篠山市)など、慶長期以降の徳川系城郭に共通する手法である。虎口Ｂから&amp;#8546;郭(二の丸)へは廊下橋で繋がっていた。「廊下橋」と言うと優雅な響きもあるが、橋を掩体化して守備兵を出撃させる防御的な構造である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　外堀は仕切り石塁によって東西に二分される。石垣の向きから、西側(&amp;#8545;郭)が内で東側(&amp;#8546;郭)が外の関係になる(写真３)。この仕切り石塁で区画された&amp;#8545;郭を、馬出曲輪とする見解もある(千田嘉博2000『織豊系城郭の形成』東京大学出版会)。二の丸(&amp;#8545;郭・&amp;#8546;郭)は隅櫓台が載る箇所を除き土塁で囲郭され、城外側の下半部だけに石を積んだ腰巻石垣としている。４隅には隅櫓台を設け、うち２棟の隅櫓が現存する。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　この二の丸には、Ｄ(東大手門)、Ｅ(北大手門)、Ｆ(西大手門)の三方向に虎口を開口する。虎口Ｆのみが内枡形虎口で、残る虎口は平入り虎口となる。現在は入城ゲートのある東大手門が正門的扱いであるが、&amp;#8544;郭虎口Ｂといい&amp;#8545;郭虎口Ｆといい、縄張りだけを見ていると西に防御正面を置いているようにも見える。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/31/16598131/img_3_m?1546103316&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 4&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_2048_1536&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;写真３：二の丸仕切り門&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　このように徳川系の平城には外堀の３方に虎口を開口するものが多いが、４方向はあまりない。４＝「死」に通じるために嫌ったのであろうか。なお虎口Ｇは大正時代になって新たに造られた城門で、築城当時には存在していなかった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&amp;#8546;郭には有名な国宝の二の丸御殿が建つ。2009年度に実施された遺構確認のための発掘調査によると、地表下40～50&amp;#13213;地点から矢穴の残る礎石列が出土しており、これが家康期の建物に相当すると見られる(京都市埋蔵文化財研究所2010『史跡二条離宮(二条城)』)。つまり家康期二条城に厚さ40～50&amp;#13213;の土盛りをし、その上に現在の二の丸御殿が建てられていたことが考古学的にも判明した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　二条城は、二の丸御殿に代表されるようにどうしても御殿的イメージが強いが、細部を詳細に見ると、しっかりと防御面も考慮された縄張りとなっている。また石垣の様式や発掘調査成果から、現在我々が目にする姿は家光期のものであり、家康期二条城は二の丸御殿の下に今も眠り続けているのである。&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;right&quot;&gt;(文・図・写真：堀口健弐)&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/horiguchikenji0726/16598131.html</link>
			<pubDate>Sun, 23 Dec 2018 22:00:00 +0900</pubDate>
			<category>ブログバトン</category>
		</item>
		<item>
			<title>№37：亀浦倭城(大韓民国釜山広域市)</title>
			<description>&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/34/16560034/img_0_m?1543686678&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;396&quot; class=&quot;popup_img_3507_2480&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;亀浦倭城縄張図&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　亀浦(クポ)倭城は、都市鉄道２号線「徳川(トクチョン)」駅から歩いて行ける“駅前倭城”である。ただし昔からそうだったわけではなく、筆者が本格的に倭城踏査を開始しした1990年代後半は、まだ釜山市内には南北に貫く地下鉄１号線１本しかなかった。韓国滞在中は釜山駅前の安宿を拠点とすることが多く、亀浦倭城へは釜山駅前から出ている市内バス(路線バス)を利用していた。便数も多く乗り換えなしで行けるので、城跡の麓まで小一時間ほど揺られるのんびりとした行程であった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ある日の踏査の帰路で、突然バスがバス停でない所で停まった。韓国ではよくあること…と思っていたが、運転手が乗客に向かって何やら告げると他の乗客が一斉にゾロゾロと降りはじめた。韓国語なので何を言っているのかほとんど聞き取れなかったが、皆に合わせて下車すると別のバスが既に待機していた。どうやらバスの不具合か何かで運行できなくなり、代わりのバスを呼んだらしい。そんなほのぼのとした日常の一コマも今となっては懐かしいものである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　それが2000年代前半に入って都市鉄道(当時の呼称は地下鉄)２号線が開通すると、徳川駅から亀浦倭城へのアクセスが俄然便利になった。それどころかこれにより市内へのアクセスの利便性が高まり、「随分と便利になったものだ」と思っていたのも今や昔の話である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/34/16560034/img_1_m?1543686678&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_2048_1536&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;写真１：&amp;#8547;郭から望む主郭石垣&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　亀浦倭城は、大韓民国釜山広域市北区徳川洞に所在する。城跡は洛東江(ナクトンガン)の左岸に位置し、標高100ｍ(比高90ｍ)の小山に占地する。現在は徳川市民公園となり、釜山広域市記念物第６号に指定されている。一時期近隣農民が城跡内に違法に農地を開墾していたが、近時は徐々に撤去されつつある。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　この付近は倭城の密集地帯で、城跡に立つと梁山(ヤンサン)倭城、狐浦(ホポ)倭城(消滅)、金海竹島(キメジュクト)倭城、農所(ノンソ)倭城を見渡すことができる。当城は文禄の役の1593(文禄２)年、小早川隆景が普請し在番も担当した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　当城の縄張りは、東の尾根続きを大堀切で遮断して曲輪を並べる。&amp;#8544;郭が主郭である。天守台は存在せず、北端が僅かに高まり曲輪面は緩く傾斜する。東南方向にＡが突出し枡形虎口を形成すると同時に、強力な横矢掛かりを可能にしてる。主郭へ上がる虎口が見られないが、&amp;#8545;郭から建物と直結した昇降施設で出入りしていたのであろうか。&amp;#8545;郭から続く&amp;#8546;郭は内枡形虎口Ｄを開口するほか、隅櫓台と登石垣側の櫓台が並び櫓門であった可能性がある。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　一方&amp;#8545;郭から虎口Ｂを通って&amp;#8547;郭に至り、ここでも櫓門Ｃを開口する。ここは永らく立木に加えて雑草は繁茂し、人が立ち入れない状態であったが、近年伐採され見事な高石垣が観察できるようになった(写真１)。さらに中腹の&amp;#8548;郭と&amp;#8549;郭とが両翼を広げたような格好で登り石垣で連結し、縄張りの一体化を図っている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/34/16560034/img_3_m?1543686678&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 4&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_2048_1536&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;写真２：&amp;#8551;郭の石垣&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　さて亀浦倭城には、城郭史上において重要な問題点が二つ内在する。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　一つ目は畝状竪堀群の問題である。&amp;#8550;郭から７条と&amp;#8551;郭から４条の計11条の、「畝状竪堀群」に見える微地形が存在する。日本国内の中世城郭でも、横堀や帯曲輪から畝状竪堀群を落とす事例は多いが、倭城となると話が少し複雑になる。なぜなら織豊系城郭は、基本的に畝状竪堀群を使用しないと言われているからである。他の倭城にも「畝状竪堀群」に見える微地形がいくつかあり、城郭研究者でも意見が分かれるところである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　畝状竪堀群でないとするならば、雨水が作り出した自然の造形物や、山の崩壊を防ぐために雨水を流す施設(和歌山県の一部地域では「まかせ」と呼ぶ)などの城郭類似遺構の可能性も考えられる(拙稿2005「“畝状空堀群”を持つ倭城について『愛城研報告』９、愛知中世城郭研究会)。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　否定派の中には「織豊系城郭は畝状竪堀群を使用しない→だから倭城に畝状竪堀群が存在するはずがない」と言う二段論法で否定する方もおられるが、さすがにこの考え方は学問的ではなく良くない。筆者は畝状竪堀群説に固執するわけではないが、否定するのであれば「これこれこういう理由で城郭類似遺構である」と検証すべきであろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/34/16560034/img_2_m?1543686678&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_2048_1536&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;写真３：&amp;#8551;郭の矢穴&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　二つ目は矢穴の問題である。当城の石垣は自然石をそのまま用いるか、粗割りしただけのいわゆる「野面積み」あるいは「打ち込みハギ」と呼ばれる積み方で、基本的に矢穴(石を割るためのクサビを打ち込む穴)は見られない。しかし&amp;#8551;郭のみに矢穴が集中的に認められる箇所がある(写真２)。矢穴は１個の築石(つきいし)に対して１～２個の割合で穿たれ、矢穴のサイズは幅４～５&amp;#13213;、深さは４～５&amp;#13213;と３&amp;#13213;以下の２種類で(写真３)、いずれも小型である(拙稿2005「倭城の石垣―採石遺構とその技術を中心に―『韓国の倭城と大坂城』倭城・大坂城国際シンポジウム実行委員会)。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　矢穴は小さい物から大きな物へと変化し、慶長期後半には幅15&amp;#13213;以上にまで大型化するが、江戸時代中頃になると一転して通称「豆矢」と呼ばれる小型が主流になる。当石垣は天端が崩れて、後世に積まれたり修築されたようには見えない。この評価が正しければ、廃城になった1598(慶長３)年以前には既に小型の矢穴が存在していたことになる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　もっとも近年の肥前名護屋城(佐賀県唐津市)の石切り場でも小型の矢穴が確認されており(市川浩文2014「肥前名護屋城の石切場」『織豊系城郭の石切場』織豊期城郭研究会)、数は少ないながらも技術の雛形は存在していて、それが時間を置いてある時期から主流になったと考えるべきであろうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　亀浦倭城は交通アクセスの良さから、近年訪城する城郭研究者・愛好家も増えている。前述のごとく当城は城郭史の興味深い問題点を内包しており、「百聞は一見にしかず」で、是非ともご自分の目で確認して、賛成、反対意見を述べて頂きたいものである。&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;right&quot;&gt;(文・図・写真：堀口健弐)&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/horiguchikenji0726/16560034.html</link>
			<pubDate>Mon, 26 Nov 2018 22:00:00 +0900</pubDate>
			<category>ブログバトン</category>
		</item>
		<item>
			<title>№36：赤木城(三重県熊野市)</title>
			<description>&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/92/16543092/img_0_m?1543237551&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;396&quot; class=&quot;popup_img_3507_2480&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;赤木城縄張図&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　赤木(あかぎ)城は、旧国名を冠して「紀伊赤木城」とも呼ばれることから和歌山県にある城跡と誤解されることもあるが、実際には三重県の城跡である。もっとも同城は、三重・和歌山・奈良の３県境が複雑に交差する非常に山深い地点に位置している。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　筆者は南紀の出身で今も実家があるが、赤木城は永らく“近くて遠い城跡”であった。織豊系城郭の縄張りや石垣を研究テーマとしている者としては、是非とも訪城して資料化したいところだが、交通の便が悪そうでそれまで二の足を踏んでいた。しかしどうしても訪城したい想いが募り、意を決して熊野市役所紀和庁舎に電子メールでアクセス手段を問い合わせてみたところ、後日、大変丁寧な返事が返ってきた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　それによるとバスの便はあるにはあり、ＪＲ新宮駅前から出ていて終点は目指す赤木城のすぐ近くらしいが、便数は１日僅かに１便で、しかも終点からの折り返し時間が30分ほどしかないとのこと。またタクシー利用の場合、新宮駅から往復２万円近くかかるとのことであった(情報は2012年当時のもの)。今日ＬＣＣ利用だと、関西空港から韓国・釜山までの往復航空券が２万円でお釣りがくる時代に、である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　そのような状況で訪城も夢のまた夢かと思われていたが、“持つべきは何とか”で田舎の旧友で和歌山城郭調査研究会の会員でもある城友に、2013年のお正月休みを利用して自家用車で一緒に踏査して頂けることとなった。現地に到着するやいなや、もう一生訪れる機会がないかもしれないと思うと、冬場の早い日没に間に合わせるべく、持参した昼食を摂る時間も惜しんで縄張り図作成に取り掛かったのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/92/16543092/img_1_m?1543237551&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;336&quot; class=&quot;popup_img_800_480&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;写真１：&amp;#8546;郭から主郭方面を望む&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　さて赤木城は三重県熊野市紀和町に所在するが、平成の合併前は「三重県南牟婁郡紀和町」と呼ばれていた。城跡の眼下を流れる赤木川を下ると、途中から本流の熊野川と合流して太平洋に注ぎ、地理的には下流の和歌山県新宮市側との結びつきが強い地域である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　当城は1586(天正14)年、地侍が起こした天正北山一揆の平定後の1589(天正17)年に築城された。築城者を特定する一次史料はないが、当時、藤堂高虎が統治を任されていたことから、藤堂の築城と見る向きか趨勢である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　また1612(慶長19)年には慶長北山一揆が勃発し、この時にも同城が再度利用された可能性が指摘されている(前千雄1980「赤木城」『日本城郭大系』10、新人物往来社)。ただし石垣遺構を見る限りでは天正年間止まりであると思われ、仮に慶長北山一揆で再利用されたとしても、大規模な改修はされていないと考えられる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/92/16543092/img_2_m?1543237551&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;336&quot; class=&quot;popup_img_800_480&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;写真２：虎口Ｄから主郭方面を望む&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　城跡は、標高230ｍ(比高30ｍ)の通称「城山」に占地する。縄張りは小規模ながらも、全山を石垣で固めた総石垣造りとし、ちょうど“天空の城”として有名な竹田城(兵庫県朝来市)をハーフサイズにしたような印象である。ただし地表面観察でも発掘調査でも瓦は見つかっていないことから、屋根は板葺や桧皮葺のような構造であったと思われる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&amp;#8544;郭が主郭で、ＡとＣの２か所に横矢掛かりの張り出しを設けている。天守台は存在しないが、特にＡは位置的に見て天守相当の櫓が建つに相応しい場所である。またＣは隅櫓状に突出し、２方向の側面に対して射撃を可能にしている。南側に主郭への唯一の出入り口となる虎口Ｂを開口するが、内枡形と外枡形を組み合わせた複雑な形状となっている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&amp;#8545;郭の虎口Ｄは内枡形であるが、上下の曲輪間で結構な段差がある。おそらく往時は、木製の階段のようなものを設置して昇降していたのであろう。&amp;#8546;郭には大手門相当の虎口Ｆを開口する。ここから&amp;#8544;郭まで４回折れて進むことになり、小規模な城域にもかかわらず導線を巧みに配して、横矢を掛ける工夫がなされている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&amp;#8544;郭の背後には&amp;#8547;郭を置き、&amp;#8545;郭と犬走りで連結することで、主郭を介ぜずに前後曲輪間の移動を可能にしている。その先端部には、１条の堀切を設けて尾根筋を遮断している。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&amp;#8548;郭には小さな石組の枡状遺構Ｇが残る。&amp;#8549;郭は、両脇を尾根に囲まれた谷間に３段の削平地を設けている。発掘調査により竈が出土していることから、ここが平素の生活の場であり、山麓居館的な空間であったとみられる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　このように当城は、小規模な城域にもかかわらず、何度も折れる枡形虎口や、横矢掛かりの張り出しなど、非常に純軍事的な匂いのする城郭である。まさに一揆平定後の当地に睨みを効かすために、ここに築城されたことを雄弁に物語っている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　赤木城は、晩秋や早春の頃になると雲海が発生することから、近年“第二の天空の城”として脚光を浴びつつある。“自称”城郭研究家としてはマイナーな城跡が全国区になることは嬉しい反面、観光客が増え過ぎて安土城(滋賀県近江八幡市)や竹田城のように立ち入り禁止区域が増えてしまうと、研究活動そのものにも支障をきたしかねず、それだけは御免こうむりたいものである。&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;right&quot;&gt;(文・図・写真：堀口健弐)&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/horiguchikenji0726/16543092.html</link>
			<pubDate>Sun, 11 Nov 2018 22:00:00 +0900</pubDate>
			<category>ブログバトン</category>
		</item>
		<item>
			<title>告知：城郭談話会特別例会「～徹底討論～『図解近畿の城郭Ⅰ～Ⅴ』発刊記念報告会」(終了)</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/85/16478385/img_0_m?1543686310&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;792&quot; class=&quot;popup_img_2480_3507&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;※イベントは終了しました。多数のご参加、ありがとうございました。&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;right&quot;&gt;管理人敬白&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/horiguchikenji0726/16478385.html</link>
			<pubDate>Tue, 18 Sep 2018 20:33:17 +0900</pubDate>
			<category>ブログバトン</category>
		</item>
		<item>
			<title>№35：梁山倭城(大韓民国慶尚南道梁山市)</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/26/16445626/img_0_m?1536859050&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;396&quot; class=&quot;popup_img_3507_2480&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;梁山倭城縄張図&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;left&quot;&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　1996年の確か秋頃、梁山(ヤンサン)倭城が土取り工事で消滅するという、ショッキングな情報が飛び込んできた。さっそく筆者が所属するお城の研究会で、破壊前に地表面調査による調査を行い、その記録を残さねばという話しになって、有志で12月20・21の２日間にわたって実地踏査を行った。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　韓国は12月に入ると途端に寒くなり、城跡のすぐそばを流れる小川には分厚い氷が張り、寒さを堪えながら各人、縄張り図、石垣、瓦といった決められた役割分担の調査を黙々とこなしたのであった。その時の成果は、既に紙上で報告済みである(城郭談話会1998『倭城の研究』２、他)。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　結局この“消滅”情報は誤報であったことが分かり、帰国後に一同胸を撫で下ろしたのであった。しかしこれは決して笑い話ではなく、当時はこのような怪情報も信じてしまうような危機的な状況にあった。倭城は植民地時代に日本政府が史跡指定したものを、独立後の韓国政府もそれを引き継いできた。また倭城自体が寒村に所在するものが多く、開発の手がおよびにくい環境にあったことも幸いした。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ところが1990年代後半頃に入ると、急速に雲行きが怪しくなってきた。その頃から韓国も経済発展を遂げ、特に釜山周辺では新たな高速道路の建設や、釜山新港建設に伴う大規模な埋立と、そのための土取り工事があちこちで行われるようになった。事実この時期には、金海竹島(キメジュクト)倭城(釜山広域市)、加徳(カドク)倭城(同市)、安骨浦(アンゴルポ)倭城(慶尚南道昌原市)、順天(スンチョン)倭城(全羅南道順天市)などが軒並み開発対象となった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　幸いにも各自治体の文化財担当部局が歴史的重要性を訴えた結果、保存、もしくは最小限の破壊で済むように設計変更して、倭城が開発の手から守られた経緯があったのである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　その梁山倭城であるが、初訪城当時の交通手段は国鉄「勿禁」駅が最寄駅だったが、普通列車が１日数本しか停まらない超ローカル駅であった。その後2000年代に入って都市鉄道２号線が梁山市内まで開通し、2015年には待望の「甑山」駅が開業した。これにより梁山倭城は、駅から登り口まで徒歩20分ほどで行ける“駅前倭城”の仲間入りを果たしたのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　初訪城時は田園地帯に農家が点在する長閑な農村風景であったが、駅の開業と同時に駅前には商業ビルやタワーマンションが相次いで建設され、いきなり新しい街が一つが突然誕生したような賑わいである。それに伴って道路区画も新たに整備され、今春５月の踏査では昔歩いた農道が見当たらず、城跡の登り口へ辿り着くのも一苦労であった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/26/16445626/img_2_m?1536859050&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_2048_1536&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;写真１：梁山倭城遠望&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　さて梁山倭城は、釜山の北隣に位置する慶尚(キョンサン)南道梁山市勿禁(ムルグム)面甑山(チュンサン)里に所在する。洛東江(ナクトンガン)の左岸支流の梁山川が合流する沖積地に立地し、標高130ｍ(比高120ｍ)の瓢箪形の小山「甑山」に占地する(写真１)。現在は河道が後退しているが、朝鮮時代後期の1750年代初めに描かれた古地図『海東地図』(梁山博物館蔵)によると、甑山のすぐ南側まで川岸が迫り、漢字で港を意味する「津」と記されている。このことから、往時は洛東江に直接望む水城であったと考えられる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　当城は1597(慶長２)年、黒田長政により築かれた。しかし敵陣に突出しすぎて危険という理由で、僅か１年たらずのうちに廃城となった短命の倭城である。なお現地説明板に「伊達政宗の築城」旨とあるのは、明らかな後世の誤伝である(太田秀春2005『朝鮮の役と日朝城郭史の研究』清文堂)。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　縄張りは、山頂とそこから派生する尾根続きの小ピーク上に曲輪を設け、その間を２条の登り石垣で連結し、さらに両翼から山麓に向かって竪堀を落とし、城外側には石垣の周囲に長大な横堀を巡らしている。この横堀は一部で二重になっている。さながら城域自体が１枚の城壁のような印象を受け、その“城壁”に守られるように山麓居館(&amp;#8547;郭)を設けている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&amp;#8544;郭が最高所で主郭である。東西両方向に枡形虎口Ａ・Ｂを開口し、北東隅に天守台Ｃを設けるが、この天守台自体が枡形虎口の一翼を担っている。天守台上には2000年代まで、山火事監視用の小さなコンテナハウスが建てられて、監視員が昼間常駐していたが、現在は撤去されている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/26/16445626/img_3_m?1536859050&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_2048_1536&quot;/&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;写真２：&amp;#8545;郭の矢穴石垣&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&amp;#8544;郭と&amp;#8545;郭とを結ぶ登り石垣の暗部には、南北両方向に虎口Ｄ・Ｅを開口する。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&amp;#8545;郭は独立性の高い、一種の堡塁的な曲輪である。ここの石垣には矢穴が２か所残る。このうち写真左手の矢穴は、まず輪郭を点彫りして掘る位置を下書きしているが、何らかの理由で断念している(写真２)。これ以外にも矢穴の残る、本来の石垣石と思われる転石が見られる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ただし当城は、植民地時代に国鉄京釜線の建設用資材として石垣を持ち去ったとされており(太田秀春2008『近代の古蹟空間と日朝関係』清文堂)、これが当時の矢穴か、それとも近代のものかの見極めが難しい。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　なお縄張り図上ではあえて図示していないが、今はもう使われなくなった韓国陸軍の演習用陣地が残されており、&amp;#8545;郭を取り巻くように二重の同心円状の塹壕と、前後の塹壕を連結する交通壕が張り巡らされている。また&amp;#8545;郭のすぐ東下にはヘリポートまで設けられている。戦国の世と現在の軍事施設とが同居していて、実に面白い風景である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&amp;#8546;郭も小規模ながら、独立性の高い堡塁状の小曲輪となっている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/26/16445626/img_4_m?1536859050&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 4&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_2048_1536&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;写真３：山麓居館(&amp;#8547;郭)&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&amp;#8547;郭は山麓居館である。山城の石垣が高さ３ｍ程度に対して、当曲輪は目測で高さ６ｍほどもありそうな高石垣を築いている(写真３)。現在は畑に利用されおり、地表には朝鮮時代の白磁椀・皿などの陶片の散布が見られる。おそらくこちらが生活空間の場であったのだろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　なお山城と山麓居館とは山道で繋がっており、これが本来の城道と思われる。数年前までこの山道は通行可能であったが、今年５月の踏査時には完全に笹竹のブッシュに埋もれてしまって、山道そのものが完全に消滅した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　梁山倭城“消滅”の情報は誤報であったが、同城周辺は開発の速度が速く、急激に環境が変化しつつある。史跡に指定されていることもあり破壊に及ぶ可能性は低そうであるが、何とかこのまま良好な状態で、後世に受け継がれていくことを願うばかりである。&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;right&quot;&gt;(文・図・写真：堀口健弐)&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/horiguchikenji0726/16445626.html</link>
			<pubDate>Sun, 09 Sep 2018 23:00:00 +0900</pubDate>
			<category>ブログバトン</category>
		</item>
		<item>
			<title>№34：安宅八幡山城(和歌山県西牟婁郡白浜町)</title>
			<description>&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/59/16431659/img_0_m?1539528737&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;396&quot; class=&quot;popup_img_3507_2480&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;安宅八幡山城縄張図&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　筆者が生まれて始めて訪れたお城は、小学校４年生の遠足での和歌山城で、２番目は小学校の修学旅行での大坂城である。この時はそれなりに楽しんで帰った記憶があるが、現在の城郭研究には直接繋がっていない。人生３番目に訪れ、そして初の中世城郭の訪城となったばかりでなく、その後の中世城郭研究にのめり込む切っ掛けとなったのが、今回紹介する安宅八幡山(あたぎはちまんやま)城である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　筆者は幼少期から、歴史や科学などのノンフィクション系の本を読むのが好きであった。中学校では必ずクラブ活動に参加しなければならず、奇しくも入学時に誕生したばかりの歴史クラブに入部した。入部してすぐに顧問の橋本観吉先生から「あの山は中世の城跡だよ」と教えて頂いた。その山とは筆者の自宅の真ん前で、川向であるが直線距離にして僅か600ｍほどであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　俄然興味が湧いてきて、同じ部員の友人たちと早速休日を利用して探索に出かけた。確か1977年の６月頃だったと思う。初訪城時は山頂部が擂鉢状に窪んでいることしか分からなかったが、踏査を繰り返すうちに、窪んでいるように見えたのは曲輪の周囲を土塁が取り巻いているのだと分かった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　また山道を外れて雑木林に分け入ると、それまで気付かなかった新たな曲輪・堀・石積みなどの存在を見つけ、さらには友人が青磁や常滑焼の破片まで見つけ出してしまった。このように山中の探索を繰り返すうちに、探せば探すほど遺構・遺物が見つかる中世城郭の魅力に、完全に取りつかれてしまったのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/59/16431659/img_1_m?1539528737&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_2048_1536&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;写真１：安宅八幡山城遠景(手前の小山)&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　さて安宅八幡山城は、紀伊半島南端の和歌山県西牟婁(にしむろ)郡白浜町に所在する。城跡は日置川の左岸に面した、標高83ｍ(比高70ｍ)の半島状丘陵に占地する(写真１)。現在は丘の東麓が深田池となるが、江戸時代の古地図『安宅一乱記巻末絵図』によると、東麓と西麓がにそれぞれ沼に描かれており、往時は両脇の沼が天然の水堀の役割を果たしていたようである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　当城は熊野水軍の一派で、南北朝期から室町時代末期にかけて日置(ひき)川下流域を支配した、安宅氏(安宅水軍)の持城である。日置川と安宅川の合流地点に安宅本城を構え、これを守備すべく輪形陣に支城群を築いている。現在同町では、この一帯を「安宅の里」と呼び、城跡の学術調査やシンポジウムを開催するなどして、地域振興に力を注いでいる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　軍記史料『安宅一乱記』によると、当城は安宅定俊の居城で、安宅一族の跡目相続から発展した戦いにより、1530(享禄３)年に落城したとされる。現在も落城したとされる日には、麓の矢田地区民により、戦火に散った城主の魂を弔うささやかな祭礼が行われている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/59/16431659/img_2_m?1539528737&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;368&quot; class=&quot;popup_img_2240_1472&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
写真２：発掘された&amp;#8545;郭の雁木(2004年１月撮影)&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　縄張りは、急崖の東斜面を除く三方を堀切と横堀で曲輪群を取り巻き、急崖側にも竪堀を設けている。特に尾根続きの背後は、二重の堀切で遮断する防御意識が見られる。城域は決して広くはないが、切岸は高くて堀は深く、とにかく土木量の多い城跡である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&amp;#8544;郭が最高所で主郭である。周囲に土塁を巡らし、東北隅が土饅頭上に一段高くなっている。地元では城主を供養した塚と伝えられるが、位置的に考えて櫓台の可能性もある。土塁に虎口Ａ・Ｂを開口する。虎口Ｂと&amp;#8547;郭間は、石段で繋がっていたことが2003(平成15)年度に行われた発掘調査により判明した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&amp;#8545;郭は三方が土塁囲みで、土塁内面に石積みを施す。また発掘調査では、土塁上面に登る雁木が出土している(写真２)。主郭ではなく&amp;#8545;郭が発掘調査の対象に選ばれたのは、主郭の地面には地山の岩盤が一部露出しており、ここを発掘しても成果が少ないであろうと判断してのことだそうだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&amp;#8546;郭は堀切をはさんで&amp;#8545;郭と土橋で繋がり、三方が土塁囲みとなるが、曲輪内の削平は極めて悪い。おそらく純戦闘的な機能を担った空間であろう。塁線には張り出しＣがあり、堀底を攻め上がってくる敵兵に弓矢などで掃射可能である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　堀切はいずれも岩盤を掘りぬいた、いわゆる「岩盤堀切」である(写真３)。尾根背後の大堀切からは、常滑焼もしくは備前焼の甕片が多量に見つかっている。東斜面は、目測で傾斜角度が70～80°くらいもありそうな岩肌が露出した崖で、とても敵兵がよじ登ってこれそうに思えないが、こんな所まで竪堀を２条設けており防御の厳重さが窺える。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-76/horiguchikenji0726/folder/562340/59/16431659/img_3_m?1539528737&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 4&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_2048_1536&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
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写真３：尾根筋の大堀切&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　さて&amp;#8545;郭で行われた発掘調査では、『一乱記』の記述を裏付けるように焼土層が検出され、この焼土より上層には生活痕がなく、遺物は主に焼土より下層から出土した(日置川町教育委員会2004『八幡山城跡』)。このことから火災による消失後は、城は再興されなかった可能性が高い。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　出土遺物の内訳は、白磁皿、青磁椀、染付皿、備前焼甕・壺・擂鉢、瀬戸美濃焼皿、常滑焼甕、土師器皿などで、貯蔵具が多く日常の土師器類が少ない。遺物の年代観は、伝世品の可能性が高い貿易陶磁器を除外しても、14世紀から16世紀初頭までと実に200年近くにおよぶ時間幅がある。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　城郭存続期間の下限を示す備前焼擂鉢は15～16世紀初頭に位置付けられるが(乗岡実ほか2004「中世陶器の物流―備前焼を中心にして―」『日本考古学協会2004年度大会研究資料』日本考古学協会2004年度広島大会実行委員会)、この年代は『一乱記』で当城が落城したとされる1530(享禄３)年に近い数値である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　当城は長らく『一乱記』の記述に基づいて、安宅氏の一族内紛により灰塵に帰したと信じられてきた。しかし1980年代に入って縄張り研究が進展すると、紀州の中世城郭は1585(天正13）年に起きた豊臣秀吉の紀州攻めに引き付けて年代を下げて考えられるようになった(村田修三1985「戦国時代の城跡」『歴史公論』115、雄山閣)。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ところが発掘調査の結果、落城を裏付ける焼土層が見つかり、また遺物の年代観も16世紀初頭止まりであることから、結局は元の鞘に戻った格好となった。それと同時に『一乱記』の記述も全くの創作ではなく、ある程度の史実を基に脚色して書かれた可能性も出てきた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　現在、白浜町では、安宅の里の城跡群として国史跡にしようと動いている。和歌山県内の国史跡の城跡は、和歌山城１件のみと寂しく、この数字は近畿地方でも最も少ない。筆者も国史跡に関わる調査や啓発イベントがあれば、有償無償に関係なく文化面で故郷に恩返しする意味でも、何らかの形で関われればと考えている。&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;right&quot;&gt;(文・図・写真：堀口健弐)&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/horiguchikenji0726/16431659.html</link>
			<pubDate>Sat, 25 Aug 2018 22:00:00 +0900</pubDate>
			<category>ブログバトン</category>
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