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美談感動集

 ◇お支払いにお困りの方は免除いたします
 東京都新宿区左門町の診療所で、週5日診療を続ける91歳の女性医師がいる。入り口には「支払いにお困りの方は免除いたします」と張り出し、内科・小児科・皮膚科・リハビリテーション科を1人で受け持つ。生活保護を受ける高齢者や路上生活者らに手をさしのべて40年。「困っている人はどんどん来てくれていいのよ」と今後も受け入れるつもりだ。【藤野基文】

 今も現役で診療を続けるのは財団法人・国民保健会付属四谷診療所の玉盛やす子さん。診療所は1941年、千代田区に開設。「人々の健康のために」と、私財を投じた実業家の栄八さんとこの年に結婚し、診療所で働き始めた。出産を機に現場は離れたが、40年前に栄八さんが倒れ会社経営が悪化。診療所は現在地に移転し、前任者から引き継ぎ現場復帰した。

 診療所の入り口脇には「医療費の支払いにお困りの方は事情によっては減額・免除をいたしますからご遠慮なく申し出てください」。移転時に掲げた紙は黄ばんだが、精神は変わらない。現在も1日25人程度患者は訪れ、昨年免除や減額したのは10人弱だった。

 山梨県富士吉田市の機織り業者の長女として生まれた。地元の実業学校を卒業後、家業を手伝ったが、医師を志し帝国女子医学薬学専門学校(現東邦大)に入学。「易者から、医者になったら(現東京女子医大創立者の)吉岡弥生さんみたいになると言われて、その気になっちゃった」。勉強はつらかったが、「家族や親せきが機織りで稼いだ金を仕送りしてくれてるから、必死で勉強したわ」と振り返る。

 健康の秘訣(ひけつ)は、地域の人と毎朝続けるラジオ体操と終了後に自身のハーモニカ伴奏に合わせて歌う合唱、社交ダンス。「財団の趣旨を守らなくちゃいけないから、生涯現役よ」と体の続く限り診療を続ける。
http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20070919




20年間、果物しか食べない台湾のおばあちゃん

大紀元日本さんのサイトより http://www.epochtimes.jp/jp/2011/11/html/d32991.html

 【大紀元日本11月4日】人間の生命活動を支えるには、タンパク質、糖、脂肪の三大エネルギー源が欠かせないといわれています。しかし、時にはこのルールを無視して元気に生きている人もいます。

 台湾の雲林県二侖郷に住む田耿花さん(76)。彼女は20年間、果物しか食べていませんが、元気に過ごしています。毎日、朝から晩まで自分の田んぼの仕事をするほか、道路に生える雑草を取ったりして、休む間もありません。

 田さんは25歳の時、原因不明の病気に罹りました。数多くの医者に診てもらいましたが一向に良くならず、最後に「もう命は長くない」と医者に言われました。彼女は当時、「もう命が長くないなら、残っている時間にしっかり善いことをして、できるだけ業を償ってから死にたい」と思いました。そして、道路脇の雑草を取ることを日課としました。それから50年経った今、死ぬどころか、ますます元気になっています。

 彼女は原因不明の病気に罹ってから、肉類を食べられなくなりました。50歳以後は果物以外のものも食べられなくなり、無理に食べると、気持ちが悪くなりました。旅行にも行けなくなり、無理に行くと、帰ったら必ず病気になるのです。今ではボランティアの仕事しかできなくなり、金を儲けるために働けば、必ず体調が崩れるといいます。 




陸上自衛隊多賀城駐屯地 有馬勝彦 二曹の話です。
有馬さんは3.11の際、大津波に流されたのですが、同じように流され溺れている女性をひっぱりあげて助けました。
私はもう駄目だと諦めかけたその女性をそんなこと言うな!最後まで諦めるな!と励ましつつ助けたようです。しばらくするとまたもう一名の男性が流れて来て有馬さんはその男性も助け上げ、なんと二人も両脇に抱えたまま民家の2階へとたどり着き助けだしました。有馬さんがその2階から下をみると、他にも多くの人達が濁流にのみ込まれて苦しんでいるのが見えました。有馬さんはこうしていられない気になると行って助けに行こうとしました。出て行ったらあなたも命危ないと言ってみんな止めたようです。気になるといって結局助けに行ったようです。そして有馬さんは流れていた木材をイカダがわりにして、結局朝まで奮闘し18名も助けたということです。
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/



澤選手のあるコメント
アメリカでは美談として流れているものの、何故か日本では報道や掲載されないのだ。日本語コメントの英訳を再び和訳する事に違和感ながら、日本のマスゴミが報道しない為にあえて和訳する。

「我々のしていることは、ただサッカーをするだけではないことを、意識してきた。我々が勝つことにより、何かを失った人、誰かを失った人、怪我をした人、
傷ついた人、彼らの気持ちが一瞬でも楽になってくれたら、私達は真に特別な事を成し遂げた事になる。こんな辛い時期だからこそ、みんなに少しでも元気や喜
びを与える事が出来たら、それこそが我々の成功となる。日本は困難に立ち向かい、多くの人々の生活は困窮している。我々は、それ自体を変えることは出来な
いものの、日本は今復興を頑張っているのだから、そんな日本の代表として、復興を決して諦めない気持ちをプレイで見せたかった。今日、我々にとってはまさ
に夢のようで有り、我々の国が我々と一緒に喜んでくれるとしたら幸いです」

ちなみに、今日の試合は両チーム共にフェアプレイで有り(倒した選手が倒れた選手の手を取って立たせる)(そもそも明らかな反則がない等)
アメリカのゴールキーパーは日本人選手と衝突し、足を負傷していた。残り時間が限られてのリード時、ケアの為に時間を割く事を拒み、時間稼ぎという戦法より、正々堂々と勝負することを望んだ。
http://atr4440.tumblr.com/post/7790832610



母と子
私の両親は自営業。いつも店で仕事をしていてあんまり遊んでもらえなかった。子供の頃は解ってはいたけどちょっとさみしかった。そんな私が子供を産んだ。
母は1日しかない休みの日に、毎週私を手伝いに来てくれる。「大変だろうからいいよ」と言うと、「いいの。私はあんた(私の事)に責任がある。親だから。
孫はどうでもいい。 子供に対して責任があるの。あんたも自分の子供に責任があるんだよ」と言われた。母の愛ってこういうものかと感じ、自分も親なんだ・・・とちょっと泣いた。

最後の晩餐
今日は結婚記念日でカミさんと外食した。レストランはそこそこに混んでいてガヤガヤうるさかった。 特に隣の家族がうるさくって、カミさんとちょっと顔を見合わせて苦笑いをしたぐらいだった。 父親が子供にいろいろ質問しては笑い、っていうのがえんえん続いてこっちもうんざりしてた。 しかも、その父親がやたらと大きく咳き込むので実際鬱陶しかった。しばらくすると、ウチのカミさんがその家族の父親を見て、「ちょっとあのお父さん見て」と 言うので、見つめるのも失礼なので向いの鏡越しに彼の後姿をみてみた。咳き込むたびに ハンカチを口に当てていて、それをポケットにしまうのが見えた。ハンカチは血だらけだった。 咳き込んだあとは赤ワインを口に含んで子供たちにばれないよう大声で笑いごまかしていた。 向いに座っていた彼の奥さんは笑っていたが、今にも泣きそうな顔をしていた。 奥さんはどうやら事情を知っているみたいだった。その父親が何らかの重い病気なのは明らかだった。うちのカミさんはちょっともらい涙していた。 帰りにカミさんが、「かっこよかったじゃんあのお父さん。ああいうお父さんになってね」って涙声で俺に言った。俺もちょっと泣いた。

父の面影
4歳になる娘が、字を教えてほしいといってきたので、どうせすぐ飽きるだろうと思いつつも、毎晩教えていた。ある日、娘の通っている保育園の先生から電話があった。 「○○ちゃんから、神様に手紙を届けてほしいって言われたんです」 こっそりと中を読んでみたら、「いいこにするので、ぱぱをかえしてください。おねがいします」 と書いてあったそうだ。 旦那は去年、交通事故で他界した。字を覚えたかったのは、神様に手紙を書くためだったんだ・・・ 受話器を持ったまま、私も先生も泣いてしまった。「もう少ししたら、パパ戻って来るんだよ〜」最近、娘が明るい声を出す意味がこれでやっとつながった。娘の心と、写真にしか残っていない旦那を思って涙が止まらない。

「お母さん」と呼んだ日
私がまだ小学2年の頃、継母が父の後妻として一緒に住むことになった。
特に苛められたとかそういうことはなかったんだけど、 なんだか馴染めなくて、いつまで経っても「お母さん」と呼べないでいた。そんなぎくしゃくした関係だったけど、 継母が私のために一生懸命だったことはよくわかってた。
小学校4年になった夏休み、私は継母の提案で二人で川に遊びに行くことになった。あんまり気が進まなかったけど、 断る理由もなく言われるままにしぶしぶついていった。 現地に着くやいなや、私は継母のことを放ったらかしで川に浸かって遊んだ。しばらく水と戯れてた時、急に深みにはまって溺れて息が出来なくなった。 すごく苦しかった。 でもそのうち喉の奥が「クッ、クッ」と鳴ってだんだん苦しくなくなってきて、意識が飛んだ。
気が付くと、私は病院のベッドで寝ていた。一時心臓が止まって危なかったんだよと涙ぐんだ父が言ってた。ベッドの傍に、継母はいなかった。私は父に「あの人は?」と訊いた。 父は一呼吸置いてゆっくりとした口調で教えてくれた。私が溺れた時に継母が服のまま飛び込んで私を助けてくれ、そのまま力尽きて下流まで流された。 その後救助されたものの、今も意識が戻らないのだ、と。
私は次の日に継母のいる病室に行った。継母は機械に囲まれて、いっぱい管をつけられていた。彼女は、そのまま我が家に戻ってくることなく…。
葬儀が終わって母の遺品を整理してたら、鍵のついた日記が出てきた。私は父と一緒になんとか鍵を探し当てて、日記を読んだ。そこには私との関係に悩む継母の苦悩など、私のことばかり書いてあった。 ずっと読み進めていくと最後のほうの日記に「ちょっとはにかみ屋さんだけどとてもいい子。 あの子なら、命かけてでも守れる自身がある。 ○○ちゃんを私に託してくれた△△(実母の名前)さん、本当にありがとうございます。」
継母は、あの日記を書いた数日後に命と引き換えに私を守ってくれた。いつだってとても優しい目で私を見てくれていた。いつも私の目線と同じ高さになるように中腰になって話し掛けてくれた。 そんな気持ちはちゃんと伝わってきてたのに私はあの人に何一つしなかった。愛情をもらいっぱなしでそれに答えなかった。
私は愛情どころかあの人の命まで奪ってしまった。
日記を読んではじめて、私は「お母さん!」と大声で叫びながら、声が出なくなるまでごめんね、ごめんね、と言って泣いた。
http://www.freepe.com/i.cgi?gaogaoga


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