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瞑想の真髄

【投稿記事】和尚ラジニ−シ 瞑想の真髄(スピリット)


アセンション / 2012-04-08 07:48:11


(ハイアーセルフ33さんからの投稿)

◎新瞑想法入門 P22〜29

瞑想は冒険だ。それは、人間の精神が引き受けることのできる、もっとも偉大な冒険だ。瞑想とは何もせずに、ただ在ること・・・行為も思考も感情もない。「ただ在る」だけで、それがまったくの喜びとなる。何もしていないのに、この喜びはいったいどこからやってくるのだろう。それは、どこからともなくやってくる。あるいは、あらゆるところからやってくる。それには原因がない。なぜなら実在は、<喜び>という素材によってつくられているからだ。

何もしていないとき・・・肉体的にも、精神的にも、どのレベルにおいても・・・すべての行為が止み、自分がただ単に在り、存在そのものであるとき、それが瞑想だ。それを為すことはできない。修練することはできない。それは理解しなければならないだけだ。

「ただ在る」ための時間が得られるときには、すべての行為を落としなさい。考えることも行為であり、集中することも行為であり、黙考することもまた行為だ。たとえほんの一瞬でさえ、何もせず、ただ自分の中心に完全にくつろいでいられるなら・・・それが瞑想だ。ひとたびそのコツを会得すれば、好きなだけその状態にいられるし、ついには一日二十四時間その状態にとどまることもできる。

ひとたびあなたの本性が乱されない方法に気づけば、徐々に自己の本性が妨害されず、しかも注意深くあり続けながら、物事をすることができるようになる。それが瞑想の第二の部分だ。最初はいかにして「ただ在る」かを学ぶ。それから単純な行為を学ぶ。自分自身の中心に定まったまま、床を掃除したり、シャワーを浴びたりする・・・。そうしているうちに、より複雑なこともできるようになる。
 
たとえば私は話をしている。だが、私の瞑想は乱されない。私は話つづけられる。だが、私の<中心>には、さざ波ひとつ立っていない。そこはまったくの静寂だ。完全に静まりかえっている。
だから瞑想は行為に対立しない。それは生から逃避しなければならない類いのものではない。それは生の新しい道を教えるにすぎない。あなたは台風の目(サイクロンの中心)となる。
 
あなたの生は続く。それどころか、それは以前より強烈に継続する。よりいっそうの喜びと、よりいっそうの明晰さと、よりいっそうのビジョンと創造性をともなって・・・。それでいて、あなたはただ、「丘の上のもの見」として超然と、自分のまわりで起こっているすべてを見ている。あなたは行為者ではなく「見守る者」だ。見守る者、観照者になることこそが、瞑想における秘密のすべてだ。

行為が、それ自体のレベルで継続することには何の問題もない。木を切り、井戸から水をくみ出すというように、あらゆることをしてもよい。だが、ひとつだけ許されないことがある。「自分の中心に定まっている」という質が失なわれてはならない。この<気づき>、この注意深さは、まったく曇らず、揺るぎないままであるべきだ。

ユダヤ教には、ハシディズムと呼ばれる反逆的な神秘派がある、その創始者バール・シェムはたぐいまれな存在だった。真夜中に川から戻ってくる。それが彼の目課だ。夜になると、川はまったく静まりかえっているからだ。彼は、つねにそこで座っていた。何もせず、ただ自分自身を見守り、その「見守る者」を見守りながら……。今宵家に戻る道すがら、彼はある金持ちの屋敷を通り過ぎた。扉の横には、ひとりの見張り番が立っていた。

見張り番は不思議だった。というのも、この男は毎晩いつもきっかりこの時刻に戻ってくるからだ、彼は外に出て来て言った。「邪魔して悪いのですが、私はこれ以上がまんできません。毎日、昼も夜も、あなたがつきまとっているのです。あなたの仕事は何ですか?なぜ川へ行くのですか?私は何度も後をつけてみましたが、何もありません。ただ数時間坐り、真夜中に帰ってくるだけです」

バール・シェム言った。
「あなたが何度も後をつけてくるのはわかっていた。夜はとても静かだから足音が聞こえる。毎日、その門の後ろに隠れるのも知っている。だから、あなたが興味を持っているだけではない。私もまた、あなたに興味がある。あなたの仕事は何かね?」
「私の仕事ですって。私はただの見張り番です」「なるほど、あなたは、キーワードを与えてくれたようだ。私の仕事も同じだ」 見張り番は言った。「わかりません。見張り番なら、家とか宮殿などを見張るはずです。砂の上に座って、何を見張っているのですか?」
「ちょっとした違いがある、あなたは屋敷に侵入しようとする外側の誰かを見張っているが、私はたんにこの『見守る者』を見張っている」 この『見守る者』は誰か、これが一生をかけての努力だ。私は自分自身を見張っている」
「それは奇妙な仕事ですね。どんな報酬があるのですか?」

バール・シェムは言った。
「すばらしい至福、すばらしい喜び、はかりしれない祝福。それは、充分すぎるほどに報酬がある。ほんの一瞬であっても、それに比べればどんな財宝も無に等しい」
見張り番は言った。
「不思議だ。私は一生見張りつづけているが、そんなすばらしい体験に出会ったことはありません。明日の夜、一緒に行きますから教えてください。私はどう見張るかは知っているのですし……それは、たんに別な方向が必要なだけのように思われます。あなたは違った方向を見張っているのでしょう」

そこにはひとつのステップしかない。そして、そのステップとは方向、次元のものだ、私たちは外側に焦点を合わせる。あるいは、外側に対して目を閉じ、内側の意識全体に中心を定める――そしてあなたは知る。あなたは知る者、あなたは〈気づき〉だ。それを失うことはけっしてない。ただ無数のものごとのなかで、〈気づき〉をもつれさせているにすぎない。あらゆるところから〈気づき〉を取り戻し、自分自身の内側で休ませなさい。そうすれば、あなたは我が家に辿り着いている。

瞑想の本質的な核心、その真髄は、いかに観照するかを学ぶことにある。カラスが鳴く・・・あなたは聴いている。ここには二つのもの、主体と客体がある。だが、そこに両者を見ている観照者が見えないだろうか。カラス、聴く者、なおかつその両者を見守る誰かがいる。

これは非常に単純な現象だ。あなたは木を見ている。あなたがいて木がある。だが、もうひとつ発見できないだろうか。自分が木を見ていることを、そしてまた、木を見ている自分を見ている観照者が、あなたのなかにいることを・・・。

見守ること、観照することが瞑想だ。何を見守るかは問題ではない。木を見守ってもよい。川を見守ってもよい。雲を見守ってもよい。子供たちが遊ぶのを見守ってもよい。見守ることが瞑想なのだ。何を見守るかは要点ではない。観察の質、気づき、油断なく醒めているという質・・・これが瞑想だ。

いいかね、瞑想とは、醒めて気づくことだ。気づきながらすることは何であれ瞑想だ。行為が問題なのではなく、行為に持ち込む質が問題なのだ。油断なく醒めて歩けば、歩くことが瞑想となる。油断なく醒めて座れば、座ることが瞑想となる。<気づき>もって聴けば、鳥のさえずりを聴くことが瞑想となる。油断なく醒め、注意深ければ、心の内なる騒音を聴くことが瞑想となる。そのポイントのすべては、「眠りのなかで動くべきではない」ということだ。そうなれば何をしようと瞑想となる。
 
<気づき>の第一歩は、肉体に注意することだ。徐々に、それぞれの仕草、それぞれの動作に油断なく醒めてくる。そして気づくにつれて、奇跡が起こり始める。以前していた多くのことが単純に消えうせる。体はいっそうくつろぎ、ますます調和してくる。深い平和が体の中に広がりはじめる。妙なる音楽が、体のなかで脈打つようになる。

そうなったら、思考に気づきはじめなさい。同じことが思考にも為されなければならない。それは肉体より微妙で、もちろんより危険でもある。思考に気づくようになれば、自分の内部で起きていることに驚くだろう。いつでもいいから、起きていることを書き留めてみれば、人は非常な驚きに見舞われるだろう。それが自分の内側で起きていることだとは信じられない。

そして十分後に読んでごらん。内側に狂ったマインド(思考・想念)を見るだろう。私たちが気づいていないため、この狂気全体が潮流のように流れつづける。それは何をしていようと影響を及ぼす。何もしていなくても影響を及ぼす。それはあらゆることに影響を及ぼす。その総計があなたの人生だ。だから、この狂人が変容されなければならない。そして<気づき>の奇跡とは、ただ気づくこと以外には何もいらない、というところにある。
 
まさに「見守る」という現象が、それを変える。徐々に狂人は消え、ゆっくりと、思考が一定の型のなかに落ち着きはじめる。もはや混沌はない。それは秩序あるものとなる。そうなれば、ふたたびより深い平安に包まれる。そして体と心がくつろいでいるとき、人はそれらが協調し合っていることを知る。そこには橋がある。いまや、体と心は別方向に走っていない。それは別々の馬に乗ってはいない。そうしてはじめて、そこには調和がある。そしてこの調和は、計り知れないほど第三ステップへの働きかけを助ける。それは自分の感覚、感情、気分に気づくようになることだ。
 
それはもっとも微妙な層で、もっとも困難だ。だが思考に気づけるようになれば、もう一歩だ。もう少し強烈な<気づき>がいる。そうなれば、自分の気分、感情、感覚を反映しはじめる。ひとたび、この三つすべてに気づけば、それらはすべてひとつの現象のなかに連結される。そして、この三つが全体として一つであるとき・・・完璧にともに機能し、ともにハミングしていれば、この三つすべての音楽が感じられる。それはオーケストラとなる。

そのとき、「第四のもの」が起こる。あなたが為すことはできない。それはひとりでに起こる。それは全体からの贈り物であり、この三つを済ませた者に対する恩恵だ。「第四のもの」とは、人を覚醒させる究極の<気づき>だ。人は<気づき>に対して気づくようになる。それが「第四のもの」だ。それは人をブッダ・・覚者・・にする。その覚醒のなかでのみ、人は至福の何たるかを知ることになる。

肉体は快感を知り、マインドは幸福を知り、ハートは喜びを知り、「第四のもの」は至福を知る。至福がサンニャス・・・探求者たること・・・の目的地であり、<気づき>がそこへ至る道だ。

注意深く、見守ることを忘れない。見守って、見守って、見守っていることが大切なのだ。しだいに「見守る者」がより固定し、定着し、不動になり、そして変容が起こる。見守っていたものごとが消え失せる。そのときはじめて、「見守る者」自身が見られるものとなり、観察者が観察されるものとなる。あなたは<わが家>にたどり着いたのだ。

ふるやの森 http://blog.goo.ne.jp/flatheat

(瞑想します (堀進) 2012-04-08 20:21:28
僕は胸がへこんでいる漏斗胸なので、深呼吸するのが辛かった。それで今までほとんど瞑想していません。
瞑想とは気づきだと書いてあるので、それなら僕にもできるなと思いました。これからやってみようと思います。)

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