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とても信じられない発想に驚きます。
ある責任者は、二世に対し、「カイン圏の子供達はうんこだ。交わるとうんこまみれになってしまう。」
と話しました。
ある責任者は、「カイン圏に一人で入ったら、カインの恨みまみれになってしまう。(つまりカイン圏に主管されるという意味だと思う)そして教会やアベルを批判するようになる。心配だ」言い、
またある責任者は、私が「カイン圏に入って長子権復帰をすると戦いをしなければならない。」
と言ったら、「そう言って離れた人をたくさんみてきた」と言いました。
これらは、みんな同じ発想です。
カイン圏の僕に位置に行けません。
神様を中心に父母の心情で、カイン圏の犠牲になっていくことができません。
どうやって復帰するの?
要するにカイン圏が恐いのです。
方や、「真のご父母様の勝利の恩恵がある、恩恵がある。」と言っています。
矛盾していますね。勝利の恩恵があるのに、なぜカイン圏を恐がるの?
つまり、天使長圏の心情圏では、サタンが恐くなってしまうのです。
心情が修道院の中にいます。
マザーテレサのように、カイン圏の真っ只中にでていけません。
天使は、みんなで一致団結して、サタンから守られようとします。
または、天使なので、真のご父母様によって守られようとします。
宗教圏は善の天使長圏です。それが宗教圏の限界なのです。
また、天使長圏は上下関係が強いので、カイン圏に対してもを上から見下ろす発想になってしまいます。そのような心情だと、カイン圏は簡単に自然屈服しないので、カイン圏が恐くなってしまうようです。
一人でカイン圏に入って愛することができなくなってしまいます。
カインの僕に立って神様の父母の心情で愛して、怨讐を解いていく ことが重要です。
カイン圏を見下す心情は、結局 カイン圏(怨讐)を怨讐視ししてしまうことになっていくのです。
サタンの表示体をサタン視してしまうことになります。
ということは、このままでは愛を復帰することはできません。
天使長圏の心情 宗教圏の心情では愛が復帰できないということです。
どうしたらよいのでしょうか?
神様を信じて、み言葉を携え、御父母様と同じ道を歩んでいこうと、
カイン圏の僕に立って愛する努力をするしかありません。
そのことを通して、自分に愛が足りないことを実感していきます。
そうすると、自分が無能であることがはっきりわかってきます。
自分が無能であることがわかると、能力や人間的な力では、カイン圏が屈服しないことがわかってきます。
本質的歩みをすればするほど、そのような人間的内容は否定されます。
真のお父様がおっしゃっているように、「愛と犠牲と奉仕」しか武器のないことが明確にわかってきます。
決して、カイン圏の恨みにまみれてしまうことは、ありません。
カイン圏から否定を受ければ受けるほど、真のご父母様のように、自分がもっと愛の人になっていかなくてはとむしろ心は燃えていくのです。
自分が無能であるとわかるまで、自己を否定できるか ということが鍵です。
そこから、み旨は始まります。
そうでないとサタンの僕の位置、つまり僕の僕に位置は勝利できないからです。
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「自分が無能であるとわかるまで自己否定ができるか」という言葉を読みながら、「愛がない」と嘆かなくても、そこから始めればいいのだという勇気がわくと同時に、かといって「自己否定」できてるのかといえば、「弁解」と「保身」が巣食っていることに目をつぶってはいけないなと思いました。でも、ぼちぼちと・・・
愛されて育った人が人をやはり愛することのできる人になっているのをみかけます。そんなとき、イエス様はなぜ両親からも愛されない立場で人類を、神を愛せたのかという疑問があります。マリアの信仰が胎教でしみついたか、ごくごく乳児期の愛が人間に深く影響を与えるということなんでしょうか。「愛されなくても愛せる」人間になることのヒントがあるような気がして、関心を持っています。
なかなかじっくり読めないのですが、一つづつでもこのブログ毎日読んでいくことが出来たらなあと思っています。
2010/9/24(金) 午前 10:27 [ konayuki ]
ありがとうございます。
やはり、イエス様は、親である神様からの愛を生まれたときから感じれたのかもしれませんね。
2010/9/25(土) 午後 3:54 [ hos*a*84 ]
私たちは、(教会の言っているアベルではなく、み言で語っている本質的なアベルのこと)もっとアベルになっていく競争をするべきですね。教会は、気がつかないうちにすべての信徒をカインの心情にしようとしています。つまり、天使のままでいさせようとしています。統制をとっていくためです。み言を見る限り全くそのようなことを、神様は望んでいませんが、なぜそうなるのでしょうか? 勘違いしているのに気がつきません。
一つは、キリスト教の心情圏の土台がないためです。
み言は心情圏で捉えるので、愛の心情圏が乏しければ間違って理解してしまうからです。
また、神様の立場にたっていないからです。
中心の近くいればいるほど、神様の立場の心情に立つことが難しくなります。堕落性があるので、上から下へ見てしまうためです。
僕に立ってカイン圏を愛することができません。
マザーテレサは、神様が栄光に位置にいないことに気がつきました。
もっとも貧しい人の中に神様とイエス様(メシア)がおられることを感じました。
神様の立場がわかったので、マザーの中で修道院から外に出て愛することが当たり前になったのだと思います。
2010/9/25(土) 午後 5:24 [ hos*a*84 ]