ホツマのひかり

気ままな「ホツマワールド」の付録(総集編)です。

桃厳寺

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天下飛翔

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 織田信秀(1510〜1551)は、永正七年(1510)尾張に生まれています。
 尾張守護の斯波(しば)氏に仕え、守護代である清洲織田家の三奉行の一人でしたが、
華のある武者ぶりで「大器量の人」としての人望も厚く、次第に勢力を伸ばし、
織田家中での実力者にのし上がっています。 弾正忠から、のち備後守と改めています。

 天文元年(1532)、三月、今川氏豊(うじとよ)を襲い、那古野城を奪ってこれを居城とし、
同四年(1535)、松平清康と争って、その死に乗じ、同九年(1540)、三河安祥城を落とします。
 天文十一年(1542)八月、三河に進出した今川義元の大軍を小豆坂(あずきざか)の戦いにて破り、
同十二年(1543)、伊勢神宮遷宮のとき、禁裏の朝廷に対して修理費として四千貫文を献上し、
後奈良天皇より賞せられています。
 同十三年(1544)、三河の松平広忠(家康の父)を再び安祥城に破り、
広忠は今川義元を頼り、義元が出兵し織田と今川の戦いに進展します。
 天文十七年(1548)、美濃の前守護だった土岐頼芸が頼って来たことに端を発する美濃攻めでは、
斎藤道三に散々な敗北を続け、嫡子・信長と道三の娘帰蝶を婚姻させ同盟を結び和睦しています。

 末森城にあった晩年の天文二十年(1551年)三月三日、(「武功夜話」では天文十八年)
波乱のままに尾張統一戦の途上で、流行病(はやりやまい)によって急死します。
 享年四十二才でした。

 信秀は、主家の尾張守護代「織田大和守家」への臣従関係は保ちながらも、
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられる程、尾張の旗頭として活躍。
 勝幡(しょばた)城に近い商業都市津島(つしま)や、熱田を支配して経済力を蓄えるなど、
当時の経済流通拠点を支配下に組み込み、商業の活性化を図るなどの先見性を持っていました。

 主家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回り、国内の他勢力を圧倒する地位を築きましたが、
守護代家臣に甘んじたままで、尾張全域まで支配することはできませんでした。

 織田信秀は信長の父としても有名ですが、信長飛躍の土台を作った有能な武将であったと言えます。
 信長にその志が受け継がれ、数々の際どい苦難を乗り切りながらも、天下に飛翔して行きます。




写真は、泉龍山「 桃巌寺」境内、「織田信秀公廟所」の信秀公五輪塔。
/門の石柱に(大悲の水を以て洗除し、清からしむ)と刻された「清浄門」。(7/4)

織田信秀公廟所

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桃巌寺は、露座の「名古屋大仏」も有名で、別名「名古屋弁天」と云われています。
 境内に信秀供養の五輪塔が立ち、今は弁天様の寺として、芸能人などの参拝者も多い。
 また、「ねむり弁天」を始め男女和合の寺宝の多い名刹です。

 山門(不老門)は竜宮城の入口の様な 形をしていて、
桃巌寺が弁天様を祭っていること を示しています。
 山門を入ったすぐ左には、信秀公 の墓の五輪塔が建っていて、織田信秀の菩提を弔うために、
次男の 信行が 家老の柴田勝家を督励して作らせたと伝わります。

 信秀の葬儀での信長の奇行は良く知られています。
 まだ尾張統一もままならず、
さらに今川氏との争いも決着がついていない状況で急死した信秀に対する怒りと、
理解者を失った悲しみから抹香を父信秀の位牌に投げつけたのだろうか?・・・

 「武功夜話」には「葬儀は執り行われずその死は三年間秘された」とあります。
 「絵本太閤記」では、その時信長は、自領を通る僧侶をことごとく捕らえ監禁した。
 信長のうつけぶりを知っている僧侶達は死を覚悟したが、
四月下旬になって、捕らえていた僧侶に対し信長は、
「亡父の四十九日である本日、千僧供養をしたいためそなた達を留め置いた。
父のためどうか読経供養をお願いしたい」と申し出たと言う話を紹介しています。・・・

 宣教師の話として、信秀が病に倒れた時、信長は僧侶達に祈祷すれば信秀公は助かると言われた。
 しかし祈祷の効果なく信秀は死んだため、信長は僧侶達を寺院に監禁し、
「お前達の命乞いを仏像にしてみろ」と言い放ち、その寺を包囲して弓鉄砲を撃ち掛けた。
 これにより数人が死亡したと言う事である。

 「万松寺(ばんしょうじ)」は、天文八年(1540)に信秀によって建立されています。
 開祖は瀬戸赤津の「雲興寺」の八世だった、信秀の伯父の「大雲永瑞大和尚」。
 信秀が夢で見たのとそっくりな場所に建てられ、そこは縁起の良い亀が多く棲む森だったことから、
亀岳山「万松寺」と名づけられたと云います。
 徳川家康が幼少時に人質として尾張にいた時、一時ここで過ごした事もあると伝わります。・・・

 信秀の墓所はもう一つ、信秀の法名から名付けられている。ここ「桃巌寺」です。




写真は、「織田信秀公廟所」は、城山八幡宮の西南に位置する「揚輝荘」の敷地南端に面した一角
(かつての桃巖寺領)に、信秀の墓石と三基の五輪塔があったようです。
 墓石は信秀二百五十回忌の寛政十三年(1801年)に再建されたもので、
信秀と信行に加えて柴田勝家の名も記されていました。
 昭和二十六年(1951年)、信秀没後四百年にあたって、桃巌寺境内に移されています。

 /「名古屋大仏」の原像(1/10)。 京都須田鋳造工芸社、鋳造。
 昭和五十三年、奥の院延壽山で断食修行中発願完成す。

琵琶を弾じる弁財天

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 「竹生島 (地歌)」は、島にある宝厳寺の「竹生島弁財天」の由来縁起を歌詞としています。
 作者は不詳で、菊岡検校作曲。八重崎検校箏手付。(歌詞は能の「竹生島」とは異なる。)


 『さる程に、これはまた勿体(もったい)なくも竹生島、
弁財天の御由来、委(くわ)しくこれを尋ぬるに、津の国難波の天王寺、仏法最初の御寺(みてら)なり。  本尊何かと尋ぬるに、しょうめん童子庚申(かのえさる)。
 聖徳太子の御建立、三水四石(さんすいしせき)で七不思議、亀井の水の底きよく、
千代に八千代にさざれ石、巌(いはほ)となれや八幡山(やはたやま)、八幡に八幡大菩薩。
 山田に矢橋(やばせ)の渡し守。
 漕ぎゆく船から眺むれば、女波男波(めなみおなみ)の絶間(たえま)より、
弓手(ゆんで)にたかき志賀の寺、馬手(めて)は船路で片をなみ、
沖なる遙かを見わたせば、昔聖人のほめたまふ、余国に稀なる竹生島。
 孝安天皇の御代のとき、頃は三月十五日、しかもその夜はつちのとの、
己(み)を待つ辰(たつ)の一天に、二股竹を相添えて、八声(やごえ)の鶏(とり)と諸ともに、
金輪奈落(こんりんならく)の底よりも、揺ぎ出でたる島とかや。
 さるによって鳥居にかげし勅額(ちょくがく)は、竹に生(うま)るる島とかく。
 これ竹生島とは読ますなり。
 弁財天は女体(にょたい)なれど、十五童子のそのつかさ、
巌(いわほ)に御腰(みこし)を休らえて、琵琶を弾(たん)じておはします。』


 「そうしているうち、これは勿体なくも竹生島、弁財天の御由来をくわしく尋ねてみると、
摂津の国、難波の天王寺は仏法渡来最初の御寺である。
 本尊は何かと尋ねてみると、正面の童子は庚申で、聖徳太子の御建立になる。
 三水四石で七不思議がある。
 亀井の水の底がきよく、千代に八千代に細石、巌となりなさい八幡山、
八幡には八幡大菩薩があり、山田に矢橋の渡し守がおり、漕いで行く船から眺めれば、
女波、男波の絶間から左手に高い三井寺があり、右手は陸路で囲んだ浜がある。
 沖の中を遥かに見渡せば、昔聖人が賞めなさった他国にはない竹生島がある。
 孝安天皇の御代の時、頃は三月十五日、しかもその夜は己で、東南の一天に二股に割れた竹が現れ、八度鳴く鶏の声とともに、地下深い底から揺ぎ出た島であるということである。
 そのようにして鳥居にかけられた勅額は竹から生れた島と書かれてある。
 これを竹生島と読ませたのである。
 弁財天は女体であるが、十五人の童子をひきいているお方で、
巌に御腰をすえさせられ、琵琶を弾じていらっしゃるのである。」

*(竹生島弁財天は、厳島、江の島と共に日本三弁財天の一つ。)




写真は、桃巌寺の「はだか弁天尊像」(上)。/江ノ島の「裸弁財天」(下)。

**「はだか弁天」は、琵琶(びわ)を抱えた音楽と芸能の守護神として、雨乞( あまご)いのほか、開運、除災、除病などが御利益があるとして、民間にも強い信仰があります。

***以下のURLも御覧下さい。
http://blogs.yahoo.co.jp/hotsuma816owhari/folder/1403801.html?m=lc&p=9 /竹生島
http://blogs.yahoo.co.jp/hotsuma816owhari/folder/1403801.html?m=lc&p=8
http://blogs.yahoo.co.jp/hotsuma816owhari/folder/1403801.html?m=lc&p=7

玉虫色の別天地

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 曹洞宗の禅寺、泉龍山「 桃厳寺」の境内には仙人が棲み、
「金、銀、瑠璃(るり)、玻璃(はり)、シャコ、珊瑚(さんご)、瑪瑙(めのう)」
の七宝が存在し、長寿と繁栄の「不老不死」を象徴するという
『蓬莱山』が他にはなくここにあるかのようで・・・
 異世界との境界の汀(みぎわ)のさざ波の音さえ聞こえて来そうな、
鮮やかな静寂の深い緑に囲まれ、山門は、弁天様を祭っていること を示すように、
竜宮城の入口のような 形をして人を招き誘います。

 このお寺には、寝姿の弁天様の「ねむり弁天」が祭ってあるほか、
かなり怪しい感じの秘仏も色々にあり、シヴァ神を象徴する、
高さ2m、直径50cmのブロンズ製の円い柱(男根)もあり、
受け皿(女陰)の上に突っ立っています。
 境内には精子を供養するお地蔵さんの「精虫地蔵(たまむしじぞう)」などもあります。

 また、「触れると、過去の一切の悪行が消滅する。」と云われる、
直径1mの楠の大木から作られた日本一の「木魚」。 
他にも「絵天井」、「名古屋大仏」など玉虫色に満ち、人目を驚かすような趣向に溢れています。




写真は、「ねむり弁天」と大楠の「木魚」。・・・「 桃厳寺」にて。

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 「桃の恋しさ 巌の強さ 寝たる姿の秘仏寺」・・・「桃巌寺(とうがんじ)」は、
愛知県名古屋市千種区本山にある曹洞宗の寺院で、山号を「泉龍山(せんりゅうさん)」と言います。
 開基は織田信秀とされており、開山は龍泉寺輪住二十世、慈眼寺三世住職などを務めた快翁玄俊。

 桃巌寺の寺号は信秀の法名「桃巌道見大禅定門」から取られており、
恵心僧都作とされる「聖観世音菩薩像」を本尊とし、信秀が所有していたと伝わる「辨天画像」や、
竹生島から勧請した「十五童子像」を守護神として祀っています。

 この寺は、天文年間(1532年〜1554年)に、織田信長の弟で、
末森城主であった信行が父信秀の菩提を弔うため に建てたもの。
 城の南に位置する末森村二本松(現在の千種区穂波町付近)に建立し、
後に現在の松竹町に替地となり、正徳四年(1714年)に現在地に移されています。

 「裸辨天」や「歓喜仏」、日本一と言われる直径一メートルもの「大木魚」などの他、
年に二回御開帳される「ねむり辨天」の寺として良く知られています。





写真は、「桃巌寺」本堂内陣にて。(7/4)
/須弥壇上には恵心僧都作と伝わるご本尊の「聖観世音菩薩」と、「十六羅漢」が安置されています。

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