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写真は、旅の空で。/(3/1)「宗春ポスト」にて。 ケータイ撮影。
待夢トラベルの『自観の旅』。・・・
きょうは四月一日、時空を超えた「旅の空」からお便りします。
時代は今、激しく震えています。
友好の「白日夢」の幻惑から早く目を覚まし、
荷崩れを起した沈没寸前の「ソウル」号の船体からも身を遠ざけるべし。
/安斐路
歴史を振り返って見れば自明の如く、
大陸の「鈴暗(すずくら)」な無頼漢とそのぶら下がりの族とは、
関わりを持たずに遠ざかっているほうが賢明だ。 /安斐路
開運「ポスト宗春」について
愛知県名古屋市中区栄にある錦通りに開運「ポスト宗春」を設置しました。 徳川幕府の危機
徳川幕府誕生から110年。度重なる大火事や飢饉により幕府は財政破綻に。その影響は庶民にまで及んでいた。この惨状を救うべく二人が立ち上がる。一人は徳川御三家、紀州藩に生まれ、後に8代将軍になった徳川吉宗。そしてもう一人は御三家筆頭の尾張藩主となった徳川宗春。二人が掲げた政策は正反対であった。吉宗が打ち出したのは、国を挙げての節約生活。極端な倹約令を全国民にしき、経済を根幹から建て直そうとした。しかし宗春は、吉宗の緊縮政策を真っ向から否定。豪華絢爛、ド派手な衣装に身を包んだ宗春。吉宗に対抗し打ち出したその驚きの政策とは!? ある時、吉宗のもとに届いた一冊の本、「温知政要」。書いたのは宿命のライバル宗春。そこに記されていたのは反享保の改革ともいえる言葉の数々であった。宗春の思想を危険視した吉宗は、宗春を尾張藩主の座から引きずり降ろす為クーデターを起こす。将軍吉宗が放った策、果たしてその結果は? 中興の祖の名君、徳川吉宗。徳川幕府きってのトリックスター、徳川宗春生死存亡を賭けた戦いが今始まる。
因縁の二人
貞享元年(1684)、吉宗は紀州藩主徳川の四男として誕生。紀州徳川家は、いわゆる“徳川御三家”の一つ。御三家には将軍家の後継ぎが途絶えた時、御三家のいずれかから将軍をたてるという役割があった。御三家とはいえ吉宗は四男。出世の道は既に閉ざされていた。ところが、宝永2年(1705)、父、長男、三男が次々と急死。吉宗は思いも寄らない形で紀州藩主の座についた。さらに大きな運命が吉宗を待ち受けていた。正徳6年3月。7代将軍の徳川家継が病にかかり危篤状態に陥る。家継はまだ8歳。当然子はなく、徳川宗家の血が途絶えてしまう一大事。次期将軍候補は、御三家の尾張・徳川継友、水戸・徳川綱条、そして、紀州の吉宗。御三家筆頭、尾張の徳川継友が最有力候補とされていた。時の老中、間部詮房が将軍に指名したのは紀州の吉宗。正徳6年、6月26日。吉宗は江戸幕府8代将軍に就任した。一方、当然将軍家になると考えていた御三家筆頭尾張藩は、後継者争いに負け落胆。数年後、その尾張から吉宗にとって不倶戴天の敵、継友の弟、徳川宗春が現れる。宗春は、元禄9年、尾張藩三代藩主の子として誕生。父には多くの側室があり、子供の数は39名。宗春は20番目の男子。当然、跡取りの望める様な状況ではなく、宗春は江戸の町に毎夜くり出し、芝居見物や遊郭で遊ぶ気ままな日々を過ごしていた。宗春が35歳になった享保15年、大勢いた兄が次々と死に、存命の兄も他家を継ぐ事となっていた為、宗春が藩主の座を継ぐ事に。宗春は吉宗に藩主となった報告をする為江戸城に出向く。質素な服を着た将軍の目の前に、豪華な衣服を身にまとう宗春が現れた。片や4男、片や20男。出会うはずのない二人が、同じような道を辿り、将軍と御三家筆頭藩主として歴史の表舞台であいまみえる。
温知政要
家臣への給米も払えぬ程、財政状況が追いつめられる中、吉宗が最も力を入れたのが、徹底した倹約だった。自らも率先し倹約に努めた。安い木綿の服を着て、色も地味。食事は1日2食、おかずは三品まで、それ以上は「腹の奢りである」と自らを戒めた。ある時、質素倹約を進める将軍吉宗は奇妙な噂を耳にする。「江戸にある尾張藩邸が近頃やけに賑やかで、深夜を過ぎても人の出入りがある」との事だった。この頃宗春は、日常生活に関する物の売り買いまでも制限する吉宗の政策を問題視していた。そして宗春は真っ向から吉宗に勝負を挑みはじめる。藩主となった宗春は、まず尾張藩邸の夜遊び帰りの門限を撤廃し、規制を大幅に緩める。同年、尾張に戻った宗春は、芝居の興行を奨励。さらに、遊郭の営業も認める。ある日、宗春は質素になっていた盆踊りを盛大に行うよう藩庁に指示を出す。町民は浮き足だち、町は俄然にぎやかになった。が、その最中、宗春の2歳になる娘が、亡くなるとの報が入る。当然、藩庁は祭りの中止を告げ、領民たちはあきらめてこの触れに従った。ところが、「上に立つ人間の都合で、民の楽しみを奪ってはならぬ」と宗春は言い、盆踊りの再開を命じたのだ。人々は心をうたれ、宗春を支持する者が増えた。自らの政治理念を記した本「温知政要」を、堂々と吉宗に献上したというのだ。それはまさに時の将軍吉宗に対する挑戦状であり、もし宗春が敗北することがあれば、尾張藩自体の存亡も危ぶまれる。この時、吉宗は、自分にとっての宿命のライバルが現れた事を悟った。
対決
二人の対決がついに始まる。宗春は端午の節句の日、江戸の尾張藩邸におびただしい数の鯉の幟を飾り町人に見物させた。贅沢を禁じる吉宗への挑発。怒った吉宗は宗春のもとへ使者を差し向ける。使者は倹約令を守らない宗春の態度を咎め詰問。意外にも宗春は素直に頭をさげた。抵抗を恐れていた使者はこの態度に胸を撫で下ろす。すると宗春は使者に「ここからは世間話ですが」と断り一気にまくしたてた。「上にたつ主が倹約、倹約とおっしゃっても、貯まるのは幕府の金庫の中身のみ。民を苦しませる倹約は本当の倹約でしょうか。私は金を使いますが、使う事によって世間に金が回り、民の助けになるから使っているのです。口だけの倹約とは決して異なるものです」使者を真っ向から説き伏せてしまった。確かに吉宗が目指していたのは、緊縮財政政策による幕府の再建で、民の暮らし向きは二次的なもの。宗春の人気は急速に広がり、やがて「近々、尾張公が公儀をあいてに、一戦挑むそうな」といった不穏な噂までもがでる始末。この噂は、尾張藩士たちに強い危機感を与えた。吉宗は尾張藩の内部分裂を見逃さなかった。ある日吉宗は密かに尾張藩の重臣を江戸城に呼び寄せる。吉宗は、重臣を通じ尾張藩の有力な家臣たちに次々と接触。秘密裏にある計画を進めていた。そして、宗春が参勤交代で江戸へ出向いていた時の事。重臣たちが、「宗春さまが藩主になってから決めた事はとりやめ、すべて以前に戻す。これからは藩主の言う事ではなく、我らのいうことに従うべし」と、尾張国内で勝手にお布令を出した。反宗春派によるクーデターであった。さらにとどめとなる命令が幕府から下される。「藩主宗春、行跡常々よろしからざる故もって隠居謹慎せよ!」尾張で起こったクーデターの責任を宗春にとらせるという形。宗春の失脚が決まった。側近たちは皆泣き崩れた。一人宗春だけは違った。宗春はみじんも敗者の装いを見せず一言呟いたという。「おわり(尾張) 初もの」。自らの藩主人生の「終わり」を、「御三家筆頭藩主に対する初めての仕打ち」と洒落てみせた。
ゆめのあと
8代将軍徳川吉宗は、その生涯を通し、不安定な幕府の財政を立て直そうと戦い続けた。吉宗が進めた改革は、一応の成功を治め、吉宗亡き後も幕府が財政破綻に陥るたび、政治家たちは享保の改革を手本とした。その吉宗が最も恐れた男・徳川宗春は謹慎を命じられると尾張に戻り、名古屋城内に幽閉された。基本的に外出は禁止、母親の葬儀にさえ参列することは許されなかったという。明和元年(1764)、歴史の表舞台に戻ることなくこの世を去る。今日、宗春の肖像画は一枚も残されていない。それどころか、宗春在命中の正式な記録は闇に葬り去られている。そんな中、宗春の治世を懐かしみ、密かに記された一冊の本がある。「遊女乃阿戸(ゆめのあと)」こんな一説が記されている。「老若男女、貴賤ともにかかる面白き世にうまれ逢う事、ただ前世の利益ならん」必ずしも、宗春の意図したようには事は進行しなかった。260年の江戸時代のどこを見ても民衆にここまで言わしめた藩主は、如何の地にも出てはいない。
【レポート】愛知県名古屋市栄の「ポスト宗春」は、倹約ブームへの静かな……
ある晩、筆者は久しぶりに会った友達と名古屋市栄の繁華街で飲んでいた。飲み会に金を使うと奥さんに叱られるという友のため、男2人で飲み放題の店に入りしこたま発泡酒を飲んでいい気分の千鳥足。その時である、金ピカの変なポストが目の前にこつぜんと現れたのだ。
吉宗による倹約一色のご時勢に、唯一反旗を翻した宗春
「なんだこれ?」。そこにあったのは、確かに郵便ポスト。それも全身を黄金色に染めた「金ピカポスト」だ。ポストの上には、お殿様とおぼしき「小さなお兄さん」フィギュアまで取り付けられていた。
まじまじとみると、ちゃんとした作りである。細面の貴公子。手には長いキセルを持ち、牛に乗っている。これを聞いて名古屋という地名から一瞬で「もしや」と思う人は、相当な歴史オタクにちがいない!
正式名は、開運「ポスト宗春(むねはる)」。なんと公式サイトまで存在していた。やっぱり彼か、徳川宗春なのかと思った筆者は生粋の名古屋っ子。金色は大方の予想通り、名古屋城の金シャチから来ているようだ。2010年11月21日に完成したそうだから、もう2年近くこの栄に鎮座されているのだ。
全国のみなさんに解説しよう。宗春というのは尾張藩(今でいう愛知県の左半分)の7代目藩主、徳川宗春(1696〜1739)のことだ。彼の時代の江戸幕府の将軍は、かの質素倹約の鬼、徳川吉宗である。国の財政悪化に悩んだ吉宗が断行した政策が、ご存じ江戸三大改革の一つ「享保の改革」だ。
倹約を前面に押し出した緊縮財政で、ぜいたく行為はもちろん、歌や芝居といった伝統芸能にも規制をかけ、庶民の楽しみもコントロールした。国のトップである将軍の出した方向性である。当然、全国の諸大名もその流れに追従する中で、たった1人、公然と彼に対して反旗を翻したのが、この徳川宗春だったのである。
宗春は尾張藩内で、吉宗の意とは真逆の積極経済政策を取った。この2人の哲学の違い、今でいうならば「財政規律派」と「積極財政派」の違いといえるのかもしれない。
ポスト宗春のアップ。細面で、今で言うイケメンなお殿様だ
風紀の乱れと財政難をきっかけに終焉を迎えた開放政策
古くからの祭りや芸能を手厚く保護し、女性や子供が夜遅く街を自由に歩けるためにと、なんと尾張の町に数多くのちょうちんまで掲げさせたという宗春。その開放政策は、当然、商人や庶民に支持された。結果、日本では愛知県(当時の尾張藩)にだけヒトとカネが集まり、華やかな一時代を築いたという。
当時は京都・江戸・大坂の三大都市をしのぐ繁栄ぶりで「名古屋の繁華に興(京)がさめた」とまで言われたらしい。当然、突如現れたインドのマハラジャのような宗春のパフォーマンスを、江戸の吉宗が黙っておくはずがない。
吉宗は使者を通じて再三にわたり、スタイルを改めるように迫ったという。しかし、宗春はあらゆる言葉を使い、これまた徹底的に反論したのである。だが、この開放政策も終わりをつげる。
開放し過ぎたゆえに風紀が乱れ、加えて藩の借金増といった宗春財政のマイナス面が噴出するようになる。それを待ち構えていたかのような江戸幕府一派の後押しもあったのかもしれない。クーデターが突発して、宗春は元文4年(1739)に44歳の若さで失脚して蟄居(ちっきょ)謹慎を命じられた。これにより、「尾張の開放政策」は最期を迎えた。
宗春を慕う「宗春ロマン隊」が金ピカポストで世に問う
現代人の彼に対する評価は様々だ。批判する者も多いが、支持派はインテリ、庶民を問わない模様。それは単純に、「あの将軍・吉宗にたてつき、名古屋を盛り上げたリーダー」という理由だけではない。当時にしては珍しい、日本人らしからぬ大胆な統治スタイルに支持が集まっているのだ。
例えば、政治家だけでグループを作ることなく、力のある商人との対話を積極的に行い、地域を活性化したこと。はたまた、市場や祭りといったコミュニティーを手厚く保護する一方、当時の日本にまだ多かった、人道に反するような祭りや刑法は規制したこと……。
宗春を慕う者は今も多い。このポストを作成したNPO法人「宗春ロマン隊」もその一つだろう。「徳川宗春公を愛し、元気な名古屋を創る」をモットーとする「宗春ロマン隊」。もともとは、戦争中に破損した宗春の墓碑の修復運動をしていたというから驚きだ。いかに宗春が愛されているかがよく分かる。
その墓碑修復運動も2010年に完結し、次なる目標として、「宗春を世に知らしめること」を掲げたらしい。ここが名古屋の歴史好きの面白いところ。マニアが集まって過去の歴史上の出来事や人物の様々について語り合い、盛り上がることに終始しない。その良さを、今の社会や地域のコミュニティー作りに積極的に取り込んでいくのだ。
「不景気ゆえの日本全体を脅かしている閉塞(へいそく)感を打破したい」。ド派手金ピカには、そんな気持ちが込められているのかもしれない。今の時代に「宗春」をもってきたというのは、実に名古屋らしいアジテーションで面白い。
が、まだまだ寂しいのは、このポスト、栄に“一体だけ”ということだ。一体だけじゃいくらなんでも目立たないのでは? 名古屋中のポストをすべて宗春ポストに変えるくらいのことをやってのけないと! そうすれば、観光客のみなさんは、の悪趣味なデザインに驚き、同時に「名古屋らしいなあ」とニンマリしてその哲学を理解されると思うのだが。
●information ... 尾張藩7代藩主徳川宗春の像はNPO法人「宗春ロマン隊」が2010年11月21日に設置 された。 名古屋の歴史を多くの人 ... 今度は、その帽子を一度は元の場所に戻そうと するが、次の瞬間、ポストの中に入れてしまった。 男たちはその後、足早 ...
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おじゃましまーす(^▽^)
楽しいブログをUPされてますね☆
やっぱりヤフーブログはステキなブログが多いですね♪
私の記事の感想など聞かせて頂けると嬉しいです。
2015/4/8(水) 午前 0:54 [ ゆうママ ]
ゆうママさま、ご来訪とコメントをありがとうございます。旅行中の為、返事が遅れてごめんなさい。・・・灯芯に手をかざせば火傷する。我(われ)よしの唐心からも遠ざかるのが身を守る為の一つの手段かと? 思います。
2015/4/11(土) 午前 10:51 [ ホツマのきらめき ]