ホツマのきらめき

四季折々の風景や花など、気ままな「ホツマワールド」です。

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義援金募集のお願い!

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写真、名古屋市東区の「徳川園」と「建中寺」にて/3月〜4月コンデジ撮影。


待夢トラベルの『自観の旅』。・・・
時間を縫って「旅の空」からお便りします。


  ネパール大地震被害への義援金募集のお願い!

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27日、大地震で甚大な被害を受けたネパールの古都バクタプル。救助活動の遅れに住民らはいら立ちを募らせていた=共同

義援金の募集始まる 
2015/4/28 朝刊
 公益社団法人「日本ネパール協会」(東京)は二十七日、ネパールの大地震を受け、被災者を支援するための義援金の募集を始めた。
 振込先はみずほ銀行五反田支店普通預金、口座番号2394624、口座名「公益社団法人日本ネパール協会災害募金」。問い合わせはメール、info@nichine.or.jp
義援金の募集始まる                   /安斐路
                                    
 



自観の旅

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写真は、名古屋市の「名城公園」にて/ケータイ撮影。



待夢トラベルの『自観の旅』。・・・
時間を縫って「旅の空」からお便りします。


記念すべき「昭和の日(4/29)」に、愛妻とウォーキングを楽しみました。 自宅からは一万歩を越す、程よい散歩コースで良い汗をかきました。
 藤棚は少し時期を逸していましたが、まだ楽しむ事ができます。
 今年は、こころ無しか季節の巡りが早まっているように感じます。/安斐路





國の肇

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写真は、竹内久一「神武天皇立像」など。/ウェブニュースなどから。



待夢トラベルの『自観の旅』。・・・
時間を縫って「旅の空」からお便りします。

事に当たっては敵(他人)を知ることも大事だが、
「我よし」に陥らない為に、まず自を知るための自観をすべし。 /安斐路

孫三昧 じいじの呼び名 板につき
いつの間にやら ボケの花咲く /安斐路





雄偉な神武天皇像に国柄しのぶ
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 □文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司
 ≪生々しい迫力と存在感≫
 過日、東京の地下鉄のホームを歩いていたら、1枚のポスターに注意をひかれた。そのポスターの下半分には、木彫と思われる人物像の上半身を少し横から撮った写真が印刷されていた。刀を差し弓矢の束を背負った古代の武人を思わせるこの人物は、圧倒的な存在感を持っていた。この彫刻は、一体何か。それが発する磁力に引き寄せられるように近づいてみると「神武天皇立像」とあった。
 平成27年の4月のある日、21世紀の東京という最先端の都市の一角に、突然、神武天皇が出現したようであった。それほどに、この神武天皇の像は、生々しい迫力に満ちていた。
 ポスターには「ダブル・インパクト 明治ニッポンの美」と書かれていた。この4月初旬から、上野の東京藝術大学美術館で開催されている展覧会で、ボストン美術館と東京藝術大学美術館のふたつのコレクションを合わせるダブル・インパクトによって、近代日本美術における日本と西洋との影響関係を再検討するという意図で企画されたものであった。開国から日露戦争くらいまでの日本の美術作品が展示されている。近来、思想史的な観点からではあるが、同じく「明治ニッポン」に深い関心を抱いていることもあり、早速上野に出かけた。
 明治初年のるつぼのようなエネルギーを感じさせる作品が多く展示されていて、興味深いものだったが、やはり「神武天皇立像」が圧巻であった。ポスターで見たときにも、かなり大きな像だとは思っていたが、実際の立像は予想を遙(はる)かに上回る大きさであった。台座も含めて、高さは3メートルくらいはあるだろうか。見上げていると、今上野の山に、神武天皇が出現しているような感じに襲われる。
 ≪思い出される「神武創業」≫
 作者は竹内久一である。展覧会のカタログの解説文によれば、明治22年に、新聞『日本』紙上で、「日本歴史上人物の絵画若くは彫刻懸賞募集」が告知されて、彫刻部門では「神武天皇御像」「護良親王像」「楠木正成像」を主題とする作品が公募されたという。
 新聞『日本』は、明治新聞界の巨峰・陸羯南(くが・かつなん)が主筆兼社長となってこの年に創刊された。さすが、明治のナショナリスト・羯南らしい企画であるといっていい。明治22年といえば、2月11日の紀元節に大日本帝国憲法が公布された年であり、そのような時代の気運を象徴しているであろう。その懸賞の入選作がこの神武天皇立像であり、第3回内国勧業博覧会にも出品されて、妙技2等を受賞した。
 明治の彫刻家としては高村光雲は知っていたが、竹内久一という名は初耳であった。これは私の無学を露呈しているともいえるが、恐らく多くの今日の日本人も竹内久一のことを知らないと思われる。このことは「戦後民主主義」における日本人の教養の偏向の問題につながっているのである。
 カタログの作家略歴によれば、竹内久一は、安政4(1857)年、江戸の生まれ、大正5(1916)年に59歳で死去している。はじめ牙彫を学んだが23歳のとき、第1回観古美術会に出品された興福寺の古仏に感銘を受け木彫を志した。25歳からは奈良に滞在して古美術研究を行い、フェノロサ、岡倉天心の知遇を得た。東京美術学校が開校されると、その教師となり、没するまで務めた。仏像の模造の他、自作の木彫も多く残した。この「神武天皇立像」は代表作であり、竹内自身が明治天皇の「御真影(ごしんえい)」をもとに制作したと述べており、明治維新が「神武創業」の根本に遡(さかのぼ)るものであったことが、改めて思い出されるのである。
 ≪歴史の奥から出現を予感≫
 一方の高村光雲も似たような経歴であるが、今日、光雲の方がよく知られているのは、息子が詩人・彫刻家の高村光太郎であることもあるであろう。また、上野の西郷隆盛像の作者であることが大きいかもしれない。それに対して竹内久一は、神武天皇である。これが、「戦後民主主義」の風潮の中で、逆風を受けないはずはない。
 この「神武天皇立像」という作品は、恐らくこのような大きな展覧会で展示されるのは、戦後初めてのことではないか。そのように思わせるのは、この「神武天皇立像」のカタログに載っている写真をみると、左手に持っていた弓が無くなっているからである。展覧会で展示されている立像には、この弓が修復されている。このことは、この忘れられた立像の保存における不遇さを推測させる。
 11月20日の大阪での交声曲「海道東征」の公演については度々触れているが、この作品は、神武天皇の御東征を題材としている。作詩は北原白秋だが、最後の第8章「天業恢弘」のクライマックスのところで、「遙かなりその国柄、動(ゆる)ぎなし底つ磐根、いざ起(た)たせ天皇(すめらみこと)、神倭磐余彦命(かむやまといはれひこのみこと)」と歌われる。当日の夜、生演奏の大合唱でこの一節が歌われるとき、竹内久一の「神武天皇立像」の雄偉な姿が、歴史の奥の方から現在の眼前に出現して来るような予感がする。(しんぽ ゆうじ)

*関連






待夢トラベラー

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写真は、旅の空で/(3/1)「宗春ポスト」にて。 ケータイ撮影。


 待夢トラベルの『自観の旅』。・・・
きょうは四月一日、時空を超えた「旅の空」からお便りします。

 時代は今、激しく震えています。
 友好の「白日夢」の幻惑から早く目を覚まし、
荷崩れを起した沈没寸前の「ソウル」号の船体からも身を遠ざけるべし。
                           /安斐路
 歴史を振り返って見れば自明の如く、
 大陸の「鈴暗(すずくら)」な無頼漢とそのぶら下がりの族とは、
関わりを持たずに遠ざかっているほうが賢明だ。 /安斐路




開運「ポスト宗春」について

愛知県名古屋市中区栄にある錦通りに開運「ポスト宗春」を設置しました。
 ポストの上には尾張藩第七藩主 徳川宗春公を乗せ、宗春公が牛に乗って名古屋の町を移動していたことから、 ポストの頭に牛をイメージして耳と角をつけました。またポストの金色は名古屋城の金鯱からきています。
 このポスト設置には名古屋に新しい観光スポットを作り、名古屋を元気にすることを目的としています。 また、情報交換はインターネットやメールが主流になっていますが、このポストを通じて自分で字を書くことの 大切さに改めて気付いてもらうきっかけにしてもらいたいと考えています。それと同時に宗春公の「温知政要」の 中に“情報は宝”という言葉があります。お手紙を通じて他国を知り自国を知ることにより、名古屋の良さ、 日本の良さに気付き、さらに理解をすることにより名古屋に誇りを感じてもらえれば幸いです。
 このポストをきっかけに誰かにお手紙を出してみてはいかがでしょうか?





徳川幕府の危機
徳川幕府誕生から110年。度重なる大火事や飢饉により幕府は財政破綻に。その影響は庶民にまで及んでいた。この惨状を救うべく二人が立ち上がる。一人は徳川御三家、紀州藩に生まれ、後に8代将軍になった徳川吉宗。そしてもう一人は御三家筆頭の尾張藩主となった徳川宗春。二人が掲げた政策は正反対であった。吉宗が打ち出したのは、国を挙げての節約生活。極端な倹約令を全国民にしき、経済を根幹から建て直そうとした。しかし宗春は、吉宗の緊縮政策を真っ向から否定。豪華絢爛、ド派手な衣装に身を包んだ宗春。吉宗に対抗し打ち出したその驚きの政策とは!? ある時、吉宗のもとに届いた一冊の本、「温知政要」。書いたのは宿命のライバル宗春。そこに記されていたのは反享保の改革ともいえる言葉の数々であった。宗春の思想を危険視した吉宗は、宗春を尾張藩主の座から引きずり降ろす為クーデターを起こす。将軍吉宗が放った策、果たしてその結果は? 中興の祖の名君、徳川吉宗。徳川幕府きってのトリックスター、徳川宗春生死存亡を賭けた戦いが今始まる。
因縁の二人
貞享元年(1684)、吉宗は紀州藩主徳川の四男として誕生。紀州徳川家は、いわゆる徳川御三家の一つ。御三家には将軍家の後継ぎが途絶えた時、御三家のいずれかから将軍をたてるという役割があった。御三家とはいえ吉宗は四男。出世の道は既に閉ざされていた。ところが、宝永2年(1705)、父、長男、三男が次々と急死。吉宗は思いも寄らない形で紀州藩主の座についた。さらに大きな運命が吉宗を待ち受けていた。正徳63月。7代将軍の徳川家継が病にかかり危篤状態に陥る。家継はまだ8歳。当然子はなく、徳川宗家の血が途絶えてしまう一大事。次期将軍候補は、御三家の尾張・徳川継友、水戸・徳川綱条、そして、紀州の吉宗。御三家筆頭、尾張の徳川継友が最有力候補とされていた。時の老中、間部詮房が将軍に指名したのは紀州の吉宗。正徳6年、626日。吉宗は江戸幕府8代将軍に就任した。一方、当然将軍家になると考えていた御三家筆頭尾張藩は、後継者争いに負け落胆。数年後、その尾張から吉宗にとって不倶戴天の敵、継友の弟、徳川宗春が現れる。宗春は、元禄9年、尾張藩三代藩主の子として誕生。父には多くの側室があり、子供の数は39名。宗春は20番目の男子。当然、跡取りの望める様な状況ではなく、宗春は江戸の町に毎夜くり出し、芝居見物や遊郭で遊ぶ気ままな日々を過ごしていた。宗春が35歳になった享保15年、大勢いた兄が次々と死に、存命の兄も他家を継ぐ事となっていた為、宗春が藩主の座を継ぐ事に。宗春は吉宗に藩主となった報告をする為江戸城に出向く。質素な服を着た将軍の目の前に、豪華な衣服を身にまとう宗春が現れた。片や4男、片や20男。出会うはずのない二人が、同じような道を辿り、将軍と御三家筆頭藩主として歴史の表舞台であいまみえる。
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温知政要
家臣への給米も払えぬ程、財政状況が追いつめられる中、吉宗が最も力を入れたのが、徹底した倹約だった。自らも率先し倹約に努めた。安い木綿の服を着て、色も地味。食事は12食、おかずは三品まで、それ以上は「腹の奢りである」と自らを戒めた。ある時、質素倹約を進める将軍吉宗は奇妙な噂を耳にする。「江戸にある尾張藩邸が近頃やけに賑やかで、深夜を過ぎても人の出入りがある」との事だった。この頃宗春は、日常生活に関する物の売り買いまでも制限する吉宗の政策を問題視していた。そして宗春は真っ向から吉宗に勝負を挑みはじめる。藩主となった宗春は、まず尾張藩邸の夜遊び帰りの門限を撤廃し、規制を大幅に緩める。同年、尾張に戻った宗春は、芝居の興行を奨励。さらに、遊郭の営業も認める。ある日、宗春は質素になっていた盆踊りを盛大に行うよう藩庁に指示を出す。町民は浮き足だち、町は俄然にぎやかになった。が、その最中、宗春の2歳になる娘が、亡くなるとの報が入る。当然、藩庁は祭りの中止を告げ、領民たちはあきらめてこの触れに従った。ところが、「上に立つ人間の都合で、民の楽しみを奪ってはならぬ」と宗春は言い、盆踊りの再開を命じたのだ。人々は心をうたれ、宗春を支持する者が増えた。自らの政治理念を記した本「温知政要」を、堂々と吉宗に献上したというのだ。それはまさに時の将軍吉宗に対する挑戦状であり、もし宗春が敗北することがあれば、尾張藩自体の存亡も危ぶまれる。この時、吉宗は、自分にとっての宿命のライバルが現れた事を悟った。
対決
二人の対決がついに始まる。宗春は端午の節句の日、江戸の尾張藩邸におびただしい数の鯉の幟を飾り町人に見物させた。贅沢を禁じる吉宗への挑発。怒った吉宗は宗春のもとへ使者を差し向ける。使者は倹約令を守らない宗春の態度を咎め詰問。意外にも宗春は素直に頭をさげた。抵抗を恐れていた使者はこの態度に胸を撫で下ろす。すると宗春は使者に「ここからは世間話ですが」と断り一気にまくしたてた。「上にたつ主が倹約、倹約とおっしゃっても、貯まるのは幕府の金庫の中身のみ。民を苦しませる倹約は本当の倹約でしょうか。私は金を使いますが、使う事によって世間に金が回り、民の助けになるから使っているのです。口だけの倹約とは決して異なるものです」使者を真っ向から説き伏せてしまった。確かに吉宗が目指していたのは、緊縮財政政策による幕府の再建で、民の暮らし向きは二次的なもの。宗春の人気は急速に広がり、やがて「近々、尾張公が公儀をあいてに、一戦挑むそうな」といった不穏な噂までもがでる始末。この噂は、尾張藩士たちに強い危機感を与えた。吉宗は尾張藩の内部分裂を見逃さなかった。ある日吉宗は密かに尾張藩の重臣を江戸城に呼び寄せる。吉宗は、重臣を通じ尾張藩の有力な家臣たちに次々と接触。秘密裏にある計画を進めていた。そして、宗春が参勤交代で江戸へ出向いていた時の事。重臣たちが、「宗春さまが藩主になってから決めた事はとりやめ、すべて以前に戻す。これからは藩主の言う事ではなく、我らのいうことに従うべし」と、尾張国内で勝手にお布令を出した。反宗春派によるクーデターであった。さらにとどめとなる命令が幕府から下される。「藩主宗春、行跡常々よろしからざる故もって隠居謹慎せよ!」尾張で起こったクーデターの責任を宗春にとらせるという形。宗春の失脚が決まった。側近たちは皆泣き崩れた。一人宗春だけは違った。宗春はみじんも敗者の装いを見せず一言呟いたという。「おわり(尾張) 初もの」。自らの藩主人生の「終わり」を、「御三家筆頭藩主に対する初めての仕打ち」と洒落てみせた。
ゆめのあと
8代将軍徳川吉宗は、その生涯を通し、不安定な幕府の財政を立て直そうと戦い続けた。吉宗が進めた改革は、一応の成功を治め、吉宗亡き後も幕府が財政破綻に陥るたび、政治家たちは享保の改革を手本とした。その吉宗が最も恐れた男・徳川宗春は謹慎を命じられると尾張に戻り、名古屋城内に幽閉された。基本的に外出は禁止、母親の葬儀にさえ参列することは許されなかったという。明和元年(1764)、歴史の表舞台に戻ることなくこの世を去る。今日、宗春の肖像画は一枚も残されていない。それどころか、宗春在命中の正式な記録は闇に葬り去られている。そんな中、宗春の治世を懐かしみ、密かに記された一冊の本がある。「遊女乃阿戸(ゆめのあと)」こんな一説が記されている。「老若男女、貴賤ともにかかる面白き世にうまれ逢う事、ただ前世の利益ならん」必ずしも、宗春の意図したようには事は進行しなかった。260年の江戸時代のどこを見ても民衆にここまで言わしめた藩主は、如何の地にも出てはいない。




【レポート】愛知県名古屋市栄の「ポスト宗春」は、倹約ブームへの静かな……
ある晩、筆者は久しぶりに会った友達と名古屋市栄の繁華街で飲んでいた。飲み会に金を使うと奥さんに叱られるという友のため、男2人で飲み放題の店に入りしこたま発泡酒を飲んでいい気分の千鳥足。その時である、金ピカの変なポストが目の前にこつぜんと現れたのだ。
吉宗による倹約一色のご時勢に、唯一反旗を翻した宗春
「なんだこれ?」。そこにあったのは、確かに郵便ポスト。それも全身を黄金色に染めた「金ピカポスト」だ。ポストの上には、お殿様とおぼしき「小さなお兄さん」フィギュアまで取り付けられていた。
まじまじとみると、ちゃんとした作りである。細面の貴公子。手には長いキセルを持ち、牛に乗っている。これを聞いて名古屋という地名から一瞬で「もしや」と思う人は、相当な歴史オタクにちがいない!
正式名は、開運「ポスト宗春(むねはる)」。なんと公式サイトまで存在していた。やっぱり彼か、徳川宗春なのかと思った筆者は生粋の名古屋っ子。金色は大方の予想通り、名古屋城の金シャチから来ているようだ。2010年11月21日に完成したそうだから、もう2年近くこの栄に鎮座されているのだ。
全国のみなさんに解説しよう。宗春というのは尾張藩(今でいう愛知県の左半分)の7代目藩主、徳川宗春(1696〜1739)のことだ。彼の時代の江戸幕府の将軍は、かの質素倹約の鬼、徳川吉宗である。国の財政悪化に悩んだ吉宗が断行した政策が、ご存じ江戸三大改革の一つ「享保の改革」だ。
倹約を前面に押し出した緊縮財政で、ぜいたく行為はもちろん、歌や芝居といった伝統芸能にも規制をかけ、庶民の楽しみもコントロールした。国のトップである将軍の出した方向性である。当然、全国の諸大名もその流れに追従する中で、たった1人、公然と彼に対して反旗を翻したのが、この徳川宗春だったのである。
宗春は尾張藩内で、吉宗の意とは真逆の積極経済政策を取った。この2人の哲学の違い、今でいうならば「財政規律派」と「積極財政派」の違いといえるのかもしれない。 
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ポスト宗春のアップ。細面で、今で言うイケメンなお殿様だ
風紀の乱れと財政難をきっかけに終焉を迎えた開放政策
古くからの祭りや芸能を手厚く保護し、女性や子供が夜遅く街を自由に歩けるためにと、なんと尾張の町に数多くのちょうちんまで掲げさせたという宗春。その開放政策は、当然、商人や庶民に支持された。結果、日本では愛知県(当時の尾張藩)にだけヒトとカネが集まり、華やかな一時代を築いたという。
当時は京都・江戸・大坂の三大都市をしのぐ繁栄ぶりで「名古屋の繁華に興(京)がさめた」とまで言われたらしい。当然、突如現れたインドのマハラジャのような宗春のパフォーマンスを、江戸の吉宗が黙っておくはずがない。
吉宗は使者を通じて再三にわたり、スタイルを改めるように迫ったという。しかし、宗春はあらゆる言葉を使い、これまた徹底的に反論したのである。だが、この開放政策も終わりをつげる。
開放し過ぎたゆえに風紀が乱れ、加えて藩の借金増といった宗春財政のマイナス面が噴出するようになる。それを待ち構えていたかのような江戸幕府一派の後押しもあったのかもしれない。クーデターが突発して、宗春は元文4年(1739)に44歳の若さで失脚して蟄居(ちっきょ)謹慎を命じられた。これにより、「尾張の開放政策」は最期を迎えた。
宗春を慕う「宗春ロマン隊」が金ピカポストで世に問う
現代人の彼に対する評価は様々だ。批判する者も多いが、支持派はインテリ、庶民を問わない模様。それは単純に、「あの将軍・吉宗にたてつき、名古屋を盛り上げたリーダー」という理由だけではない。当時にしては珍しい、日本人らしからぬ大胆な統治スタイルに支持が集まっているのだ。
例えば、政治家だけでグループを作ることなく、力のある商人との対話を積極的に行い、地域を活性化したこと。はたまた、市場や祭りといったコミュニティーを手厚く保護する一方、当時の日本にまだ多かった、人道に反するような祭りや刑法は規制したこと……。
宗春を慕う者は今も多い。このポストを作成したNPO法人「宗春ロマン隊」もその一つだろう。「徳川宗春公を愛し、元気な名古屋を創る」をモットーとする「宗春ロマン隊」。もともとは、戦争中に破損した宗春の墓碑の修復運動をしていたというから驚きだ。いかに宗春が愛されているかがよく分かる。
その墓碑修復運動も2010年に完結し、次なる目標として、「宗春を世に知らしめること」を掲げたらしい。ここが名古屋の歴史好きの面白いところ。マニアが集まって過去の歴史上の出来事や人物の様々について語り合い、盛り上がることに終始しない。その良さを、今の社会や地域のコミュニティー作りに積極的に取り込んでいくのだ。
「不景気ゆえの日本全体を脅かしている閉塞(へいそく)感を打破したい」。ド派手金ピカには、そんな気持ちが込められているのかもしれない。今の時代に「宗春」をもってきたというのは、実に名古屋らしいアジテーションで面白い。
が、まだまだ寂しいのは、このポスト、栄に“一体だけ”ということだ。一体だけじゃいくらなんでも目立たないのでは? 名古屋中のポストをすべて宗春ポストに変えるくらいのことをやってのけないと! そうすれば、観光客のみなさんは、の悪趣味なデザインに驚き、同時に「名古屋らしいなあ」とニンマリしてその哲学を理解されると思うのだが。 

●information
ポスト宗春(設置) 名古屋市中区錦三丁目22-10



... 尾張藩7代藩主徳川宗春の像はNPO法人「宗春ロマン隊」が20101121日に設置 された。 名古屋の歴史を多くの人 ... 今度は、その帽子を一度は元の場所に戻そうと するが、次の瞬間、ポストの中に入れてしまった。 男たちはその後、足早 ...





遠き「旅の空」より

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写真は、旅の空にて。/(3/1)ポストの上の「宗春像」。ケータイ撮影。





遠き「旅の空」からお便りします。・・・
 時代は激震している。
 友好の『白日夢』の幻惑から早く目を覚まし、
荷崩れを起して沈没寸前の「ソウル」号の船体からも身を遠ざけるべし。
                           /安斐路

 ならず者を避け、「触らぬ神に祟りなし」・・・
「石がもの言う」如く、「日中友好」は幻想である。
 大陸の「鈴暗(すずくら)」な無頼漢とそのぶら下がりの族と、
関わりを持たずに遠ざかっているほうが
日本にとっては賢明で利にかなっていることが、
歴史を振り返って見れば明らかである。
 /安斐路
                         


「謝絶中韓」のすすめ
 中国と韓国に新しい政権ができて以来、対日姿勢の横暴さが日々増してきている。
 中国の習近平政権は発足以来、自衛隊護衛艦へのレーダー照射や接続水域での潜水艦潜航など、日本に対する軍事的威嚇行為をエスカレートさせている。最近ではメディアが、「琉球(沖縄)は中国領」との暴言まで言い放って、「領土問題」を拡大化させ、日本と全面的に争っていく姿勢を鮮明に示している。
 もし今後、中国が「国家の陰謀」として沖縄を日本から切り離すような工作を本気で進めるのならば、確実に日本の敵国となるのであろう。
 一方の韓国は、女性の朴槿恵(パク・クネ)大統領が就任以来、「歴史問題」を用いた日本攻撃を執拗(しつよう)に続けている。アメリカまで遠征して「正しい歴史認識」を吹聴しているようだが、自分たちの「歴史認識」を「正しい認識」として他国に強要するその理不尽さは「小国の横暴」そのものである。
 そして今年3月1日、朴大統領は日本に対して「加害者と被害者の立場は千年過ぎても変わらない」との演説を行った。それは明らかに、韓国という国が未来永劫(えいごう)、「被害者」の立場から日本を恨みつづけていくことへの意思表明である。
 中国も韓国も事実上の「日本敵視政策」を国策の基本に据えているのだから、日本にとっては厄介者以外の何者でもないのである。
 今から百数十年前、福沢諭吉翁は当時の清国と朝鮮を「亜細亜東方の悪友」と名付け、この両国との交渉を「謝絶するものなり」と提言した。21世紀になった今でも、この提言は依然、現実的な意味を持っている。
 日本は今後、この2つの「悪友国家」との関係を根本的に見直すべきではないかと思う。できるだけ、彼らとは一定の距離をおきながら、両国を除外した国際大戦略を再構築すべきであろう。
 たとえば、アジア外交に関していえば、日本にとっての友好国家はいくらでもある。
 インドやベトナム、タイやフィリピン、ミャンマーやモンゴル、それらの国々は日本との間で「歴史問題」や「領土問題」などの厄介な問題を抱えておらず、中国大陸からの膨張を食い止めなければならないという日本と共通した危機感がある。
 日本は今後、こういった「亜細亜の良友」と連携すればよいと思う。
 アジア外交を超えたより大局な戦略としては、米国との同盟関係を基軸にしてEUとの伝統的友好関係を保ちながら、もうひとつの大国・ロシアとの関係を深めるべきだ。「米・露・欧」という中国以外の世界の3極との強固な関係を構築できれば、日本外交の腰も据わってくる。
 諸外国との経済交流の推進に関しては、中国と韓国を抜きにした環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)への参加が重要であろう。
 今後の成長センターともなりうる環太平洋諸国と連携し、共存共栄の一大経済圏を構築することは、日本にとっての将来の繁栄の保証となるだけでなく、大陸からの脅威を防ぐための安全保障上の意味が大きい。
 考えてみれば、中・韓以外のアジア諸国との連携、米・露・欧の3極との関係強化、そして環太平洋大経済圏の構築、この3つの戦略をきちんと展開していけば、世界の中の日本の立場は安泰なのである。そうなれば中国も韓国も、日本にとって謝絶しても構わない国となる。
 いざとなった場合に中国や韓国と関係断絶しても、あるいはこの2つの反日国家と全面対決する局面になったとしても、日本の安全と繁栄がきちんと保証されるような国際関係を作り上げていくことが、今後の日本が進めていくべき核心的な外交戦略となるのではないか。
                   ◇
【プロフィル】石平
 せき・へい 1962年中国四川省生まれ。北京大学哲学部卒。88年来日し、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。民間研究機関を経て、評論活動に入る。『謀略家たちの中国』など著書多数。平成19年、日本国籍を取得。

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石平(せき・へい、シー・ピン、1962年(昭和37年)130 - )は、中華人民共和国四川 省生まれの漢族系中国人であり、現在中国系日本人(1世)の評論家。拓殖大学客員 教授。2007年(平成19年)末に日本に帰化。主に日中の政治・経済・外交問題について  ...




我(われ)よしの唐心/唐人式に日本人が染まり切っているために、我と他人とが争い、この様なことが原因となって、悪い病や災害等が、この世に発生する事となったのであるから、日本人そのものが、我よしの今までの世より、一厘の肉体そのままの統一神に神を改める改神をしなければならないのであります。/この世の大峠、・・・この世の大峠には、数は少なくても一厘のキッスイの統一神の神心を一日も早く悟りて、永遠の神国完成の神業に命がけで御奉仕しなければならない神機が来ているのであります。

 自分さえ良ければそれで良いという物欲の塊で盤古大神の中国。



PS・・・
3月28日
 NHKの大河ドラマは昔ほど視聴率を取れなくなった。録画率の上昇など理由はいろいろあろうが、昭和の終わりに放映された「武田信玄」の最高視聴率は、49・2%もあった。
 ▼当初は、主役に抜擢(ばってき)された当時26歳の中井貴一さんを不安視する声もあった。大ヒットドラマ「ふぞろいの林檎たち」で演じた若者役のイメージが強かったためだが、見事に前評判を覆した。中でも平幹二朗さん演じる父の信虎をクーデターで追放し、国境(くにざかい)で見送るシーンは今も目に浮かぶ。
 ▼人間のすることは、戦国時代も今も代わり映えしない。大塚家具の経営権をめぐる父娘の争いは、株主総会で決着がつき、信虎と同じく父親が追放の憂き目を見た。
 ▼はた目には、ちょっと面白い「ミニ大河」だったが、創業者の父に付き従って記者会見にまで出さされた幹部社員の心境は痛いほど分かる。「総会が終わった後はノーサイド」と娘の社長が言おうと信じる者はまずいまい。
 ▼いまの世界情勢も戦国時代に近づきつつある。ソ連崩壊後、圧倒的な「一強」ぶりをみせつけていた米国が、オバマ米大統領の外交ベタと相まって退潮し始めた隙をついて、盟主の座を中国が軍事力とカネで虎視眈々(たんたん)と狙っている。
 ▼札束で途上国の歓心を買い、同時に中国企業をもうけさせようという意図が見え見えのアジアインフラ投資銀行(AIIB)に英独仏伊を引き入れたのも国盗(と)りの布石である。今さらドイツなどを「裏切り者」と罵(ののし)っても後の祭り。だからといって中国が指定した締め切り期限までに飛び乗ることもあるまい。戦前、バスに乗り遅れるな、と飛びついたヒトラーとムソリーニが運転するバスは地獄行きだった。軍師・山本勘助なら一本待つよう進言するはずだ。







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