ホツマのきらめき

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当たり前のこと

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写真は、水鳥の群れ集う冬の名城堀」/(1/11)コンデジ撮影。





世界が惹かれる夢の国
呉 善花(評論家、拓殖大学教授)

 
夢のような国

 江戸時代末期から明治初期にかけて、その当時来日した西洋人による日本の情勢、風景、人間模様などの見聞を記した書物がたくさん書かれている。それらに共通して見られ、私にとって最も興味深いところは、日本人には当たり前のことにずいぶんと驚き、また感心して思いを深めている描写である。日本人には当たり前のことだから、それらの大部分は、日本人自身の手になる書物にはまず書かれていないこと、書かれていても、いかにもそっけなく簡単にしか触れられていないことである。

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 ラフカディオ・ハーンは、警察官が殺人犯の了解をとって被害者の妻が背負う幼子に引き合わせ、「お前も人の子だろう……」というや犯人が大粒の涙を流しながら幼子にわびる場面を描写している。

 エドワード・モースは、旅館で財布と時計を預けた際に、仲居さんがお盆の上に乗せて部屋の畳に置いただけなので、あきれながらも不安で仕方がなかったが、それから1週間ほど他へ出かけて戻ってみると、時計と財布がそのままあったことに心から驚いたと書いている。

 イザベラ・バードは、蒸し暑い夏の宿場の休息所(駅舎)で、おかみさんが団扇で何時間もずっと扇ぎ続けてくれるので、チップを渡そうとしたところ「そんなものを貰うのはとても恥ずかしいことだ」と拒否されたと記している。いずれも明治時代初期の頃のことである。

 当時の日本人は、彼らがなぜそんなことに驚いたり感心したりするのか、わけがわからなかったに違いない。でも西洋人たちは、そこに「日本の心」を見出していた。現代日本にやってきた私は東洋人だし、彼らとは百数十年も時代を隔てているのに、よく似た体験を通して、はっと「日本の心」を見出したかのような感覚になるときがたびたびある。

 かつての西洋人や私のような外国人が発見したと思えている「日本の心」と、日本人自身が感じている「日本の心」とには、ある種のズレがある。それは当然のことで、外国人は外側から眺め、日本人は内側から眺めているからである。

 それら、外側からの日本見聞記を素材にしながら、幕末・明治初期の「日本の心」を鮮やかに描き出した素敵な本がある。渡辺京二氏の『逝きし世の面影 日本近代素描 I 』(葦書房/平凡社)である。この本によって私は、「素朴で絵のように美しい国」(ウェストン)、「ほっそりと優美な乙女と妖精の住む、こわれやすい小さな驚異の国」(チェンバレン)などの西洋人たちの感銘のことばが、単なる異国趣味による賛辞などではなく、心から日本を「夢のような国」と感じてのものだったことが、はっきりと信じられた。

 この本に紹介されているさまざまな外側からの目に触れて、私があらためて感じたことは、彼らが一様に自然や田園の風景と人々の生活風俗のうちに、「日本の心」の美しさを見ていることである。そして、その親和感に満ちた調和的な社会に、強烈な羨望のまなざしを向けていることである。私とまったく同じではないかと思った。

 しかし渡辺氏は、「夢のような国」はすでに滅び、けっして呼び戻すことのできない「逝きし(死んでしまった)世の面影」なのだと述べている。とすると、私が現在見ている「日本の心」は、百数十年前の「日本の心」の断片的な残存にすぎないのだろうか。

 「世界中で、両親を敬愛し老年者を尊敬すること、日本の子供に如くものはない」(モース)と今断言できるかといえば、たしかにできない。「日本人は生得正直である」(モース)といえないのも、たしかだ。先の見えない不透明な時間のなかで、倫理が得体知れずの大変化をとげつつあることはまちがいない。

 渡辺氏が論じたように、かつて世界に類例のない「夢のような国」が、一個の文明を堂々と形づくってこの日本列島に実在していたことは疑いようもない。そして近代以降の巨大な文明史の発展のなかで、人間の内面的な精神史が日本を含めて衰退と廃退の一途をたどってきたことも私は疑わない。渡辺氏が示したのも、そのことである。

 そうではあるけれど、世界的な観点から眺めれば、日本が今なお「夢のような国」の様相を失っていないのは、私にはたしかなことに感じられる。私に限らず、実は多くの外国人が本音では同じように感じているはずなのだ。

 いったい現代日本のどこに「夢のような国」の姿が見られるというのか、といわれるかもしれない。かつてと同じように、日本人には当たり前のことだから、ことさら夢のようとは感じられていないだろう。また世間の関心はもっぱら政治や社会の暗黒面に向けられるから、なおさらのことだ。幕末から明治にかけての日本にも暗黒面がなかったわけではない。だが当時の西洋人たちは、そこにはほとんど関心を払うことなく、「夢のような国」にばかり注目したのである。それはなぜだったのか。

 当時の西洋人にとって、暗黒面なら自分たちにいくらでももち合わせはあるが、かの「夢のような国」ばかりは、驚嘆のうちに引き寄せられていくほかないものだったからである。私も同じようにして現代の日本に惹かれてきた。

 私は本書『なぜ世界の人々は「日本の心」に惹かれるのか』で、百数十年前の西洋人が外から見た日本と、現在の私が外から見ている日本とを行ったり来たりしながら、現代日本は何を保存してきたのか、何を捨ててきたのかを、できる限り見極めてみたいと思う。

 モースは時計と財布を頂けて旅館に戻ったときのことを、次のように記している。

 「帰ってみると、時計はいうに及ばず、小銭の1セントに至るまで、私がそれらを残していった時と全く同様に、ふたのない盆の上に乗っていた」

 モースによれば、欧米のホテルでは盗難防止のため、水飲み場のひしゃくには鎖が付き、寒暖計は壁にネジで留められているのが常だったそうである。

 この通りのことは、今の日本にも今の西洋にもない。しかし、それを「日本の心」として見れば、同じことが現代日本のいたるところに見られる。また同じような盗難防止の習慣が現代西洋にも見られる。その点では、当時も今もいっこうに変わりはないのである。そういうことを示していってみたい。

 またモースの、日本の子どもたちの孝行や尊敬の念への称賛は、次の文章のなかで発せられている。

 「この国の子供達は親切に取扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少く、気持のよい経験の、より多くの変化を持っている。赤坊時代にはしょっ中、お母さんなり他の人々なりの背に乗っている。刑罰もなく、咎めることもなく、叱られることもなく、五月蝿く愚図愚図いわれることもない。日本の子供が受ける恩恵と特典とから考えると、彼等は如何にも甘やかされて増長して了いそうであるが、而も世界中で両親を敬愛し老年者を尊敬すること日本の子供に如くものはない。爾の父と母とを尊敬せよ(中略)これは日本人に深く浸み込んだ特性である」

 日本人の孝行や尊敬が、なぜどのようにして「深くしみ込んだ」特性となっていたのかが、ここでは明瞭に物語られている。そういうことも考えていってみたい。
(『なぜ世界の人々は「日本の心」に惹かれるのか』より)

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乙姫大明神

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写真は、水鳥の群れ集う冬の名城堀」/(1/11)コンデジ撮影。



 流行り風邪に当たってから元気も気力も失せ、ひたすら床に伏す。
 時の過ぎるのがとても間遠く、食欲も湧かぬままただ水を飲む。
 肥満な体重も四日間で四キロの減量。
 おかげさまで、自慢の太鼓腹がしぼんでしまった感じです。
 峠を越した今、快方に向かっています。 /安斐路




イハレビコ誕生(5)建国の大業祈り 身を引いた妻
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吾平津神社に建つアヒラツヒメの像=宮崎県日南市


 カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)の幼少期や青年期を全く書かない古事記が唯一、東征前のことで触れているのは結婚のことである。
 〈日向(ひむか)に坐(いま)しし時に、阿多(あた)の小椅(をばしの)(きみ)が妹(いも)、名は阿比良比売(あひらひめ)に娶(あ)ひて、生みたまへる子、多芸志美美命(たぎしみみのみこと)、次に岐須美美命(きすみみのみこと)、二柱(ふたはしら)(いま)
 日本書紀はこう書く。
 〈(ひととな)りて日向国(ひむかのくに)の吾田邑(あたのむら)の吾平津媛(あひらつひめ)を娶(めと)りて妃(みめ)とし、手研耳尊(たぎしみみのみこと)を生みたまふ
 子供の数が違うが、妻がアタ出身のアヒラ(ツ)ヒメであることに、記紀の記述に違いはない。書紀は日向国と書いているが、薩摩半島にはかつて阿多郡という地があり、アタはそこと考える説が有力である。
 アタは天孫ニニギノミコト、つまりイハレビコの曽祖父が、よい国を求めてたどり着いた場所としても登場する。書紀はその場所を〈吾田の長屋の笠狭碕(かささのみさき)〉と書く。そこで出会い、結婚したのがコノハナノサクヤヒメ。イハレビコは曽祖父と同じ地のヒメを娶(めと)ったことが、記紀からわかる。
   ◇ 
 「アタがあった薩摩半島西部は、貝輪(かいわ)交易の拠点という特別な役割がありました」
 そう話すのは鹿児島国際大の中園聡教授である。貝輪とは、ゴボウラやイモガイといった沖縄周辺産の大型の貝からつくる腕輪で、弥生時代の権威を象徴する。同半島西岸の高橋貝塚(鹿児島県南さつま市)で盛んに製造されたことが発掘調査でわかっている。
 貝輪は弥生時代、九州北部や瀬戸内東部にまで流通した。イハレビコがアヒラツヒメと暮らした宮跡、駒宮神社(宮崎県日南市)は良港、油津港にほど近い。記紀の記述や資料から想像できるのは、「貝の道」を押さえて交易をする為政者、イハレビコの姿である。
   ◇ 
 油津港のすぐそばにある吾平津神社は、アヒラツヒメが主祭神。堀川運河に面する鳥居前には、海に向かって手を合わせるアヒラツヒメの像が立っている。東征するイハレビコの成功と安全を願う姿を表現したものだ。
 〈神武天皇が狭野尊(さののみこと)と称され、まだ日向に在られた頃の妃であり…天皇が皇子や群臣と共に東遷された時同行せず、当地に残られ、御東遷の御成功と道中の安全をお祈りされました〉
 同神社の由緒にはそうある。古事記は、妻を日向に残して東征を果たし、橿原宮で天皇に即位したイハレビコについてこう書く。
 〈(しか)あれども更に、大后(おおきさき)と為(せ)む美人(をとめ)を求(ま)ぎたまふ
 妻がいて2人の子がいるのにまた、皇后となさる乙女をお求めになった、というのだ。皇后になったのは大和・三輪山の神、大物主神(おおものぬしのかみ)の娘だった。大物主はオオクニヌシノミコトの分身ともされる実力者である。
 「ご祭神は明治まで乙姫大明神と称していました。甲に対する乙。アヒラツヒメは大和に行っても正室になれないと見越して身を引かれたのだと思います」
 同神社の日高久光宮司はそう話す。建国の偉業を支えた女性の物語もしっかり記紀は記録しているのである。    =第1部おわり(第2部に続く)
   ◇ 
 この連載は川西健士郎、佐々木詩、地主明世、兵頭茜、安本寿久が担当しました。
   ◇◇ 
【用語解説】日向三代の妻たち
 ニニギノミコトからヤマサチビコ、ウガヤフキアエズノミコトというイハレビコの曽祖父から父までを日向三代という。それぞれの妻が凛(りん)として気丈な女性であったことが共通点だ。
 ニニギの妻、コノハナノサクヤヒメは夫に、胎児の父を疑われ、火中出産して潔白を証明した。ヤマサチビコの妻、トヨタマビメは出産の姿を見ない約束を破った夫に悲しみ、海の国へ帰った。ウガヤフキアエズの妻、タマヨリビメは、残してきた子を案ずる姉、トヨタマビメの願いでウガヤフキアエズを育て、やがて結ばれてイハレビコら4子を産んだ。
   ◇
【用語解説】交声曲「海道東征」
 詩人・北原白秋(きたはら・はくしゅう)が記紀の記述を基に作詩し、日本洋楽の礎を作った信時潔(のぶとき・きよし)が作曲した日本初のカンタータ(交声曲)。国生み神話から神武東征までを8章で描いている。
 皇紀2600年奉祝事業のために書かれ、戦前は全国で上演されて人気を集めたが、戦後はほとんど上演されなくなった。昨年の建国記念の日、白秋の郷里・熊本で復活上演され、話題になった。
 白秋の詩は、記紀の古代歌謡や万葉集の様式を模して懐古的な味わいがあり、信時の曲は簡潔にして雄大と評される。
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【神武・海道東征】イワレビコ誕生(1)文明伝播 国を豊かにする旅






龍石という龍馬

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写真は、冬場の名古屋城」の堀に水鳥集う/(1/11)コンデジ撮影。



 流行り風邪に当たって気力も元気も失せ、ひたすら床に伏す。
 時の過ぎるのも間遠く、食欲も湧かずにただ水をのむ。
 肥満の体重が四日間で四キロの減量。
 おかげで、出っ腹が萎んでしまったと感じています。
 今朝は峠も越して快方に向かいつつあります。 /安斐路



イハレビコ誕生(4)愛馬伝承が語る古人の息吹
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イハレビコが馬上、東に向かった「馬登」に建つ石碑=宮崎県高原町


 〈狭野尊(さののみこと)、宮崎ヘ向ハセラル時、土民ノ奉献セシ馬ニ召サセ給ヒシ地ナリ…〉
 宮崎自動車道高原(たかはる)ICに近い宮崎県高原町の「馬登(まのぼり)」。この地にはカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が長じて東に向かった際、住民たちに見送られた伝承が残っている。その時、イハレビコは馬上だった。今も残る石碑の文言は、この経緯を語るものである。
 馬登から少し東の「鳥井原(ばる)」は、住民たちが去りゆくイハレビコを見送った場所とされる。
 〈最後の別れを惜しむ住民たちが、ミコトの行路の安全を祈りながら見送ったところ〉
 同県の観光パンフレット『ひむか神話街道』にそう書かれている。2カ所は、住民に慕われるほど成長したイハレビコの姿を想像させる土地である。
     ◇
 イハレビコの父、ウガヤフキアエズノミコトの生誕地とされる鵜戸神宮(同県日南市)から南へ約10キロ。駒宮神社はイハレビコを主祭神とし、同県の結婚風習「日向シャンシャン馬」の発祥地とされる。この伝承にも、イハレビコと愛馬の物語が語られている。
 〈駒宮アリ、神武天皇ガ舟釣リヲサレシ折、龍神カラ賜ッタ龍石トイフ龍馬ヲ祀ル〉(日向国神祇史料)
 イハレビコは龍石にまたがり、父の元に通った。同神社の近くには、龍石をつないだ松の跡や、龍石の足跡が残る駒形石が現存している。同神社は、イハレビコがアヒラツヒメを妻に迎えて住んだ宮跡とされる。伝承の数々は、イハレビコが妻帯独立後も父に孝養を尽くしたことをうかがわせるものなのだ。
 やがてイハレビコは、この地も去って北上する。同神社から約4キロ北には、その際に龍石を放った場所、立石がある。
 「立石には江戸時代、飫肥(おび)藩の牧場があり、九州各地から飫肥の馬を求めてやって来たといいますから、いい馬を育てていたのでしょう。それだけ、この地での飼育の歴史があったのでしょう」
 日南市教委の岡本武憲文化財担当監はそう話す。
     ◇
 「大陸から日本列島に馬が伝わったのは4世紀の終わりごろ。日向で馬が飼われたのは5世紀ぐらいと推測されます」
 そう語り、イハレビコは馬に乗ることがなかったと指摘するのは宮崎産業経営大の柴田博子教授である。5世紀は古墳時代中期。16代の仁徳天皇らが活躍した時代だ。
 ではなぜ、日向にイハレビコと馬を結びつける伝承が多いのか。柴田教授は大和政権時代、馬を献上する「牧」が数多く存在し、江戸時代も各藩が競って馬を飼育した歴史を理由に挙げる。
 「南九州は放牧地に適した地が多く、馬が身近な存在でした。また、馬は権威の象徴ですから、後世の人間が神武天皇と結びつけ、語り継いだのでしょう」
 イハレビコの伝承は、その地の歴史や人々の思いを伝えるものでもあるのだ。     =続く(次回「妻がいるのに…美女を求めたワケ」は1月18日に掲載)
     ◇
【用語解説】日向シャンシャン馬
 宮崎県内で大正の初めごろまで行われていた結婚風習。イハレビコが龍石を放った故事が起源とされる。立石は日本最古の牧場といわれる。
 花婿が、美しく飾った馬に花嫁を乗せ、手綱を取って日南海岸沿いの七浦七峠を越え、鵜戸神宮や駒宮神社へ参拝した。道中、馬につけた鈴がシャンシャンと鳴り続けたことから、この名がついた。
 当時、同神社の例祭には、近郷近在から着飾った農耕馬が集まり、にぎわった。現在、民謡「シャンシャン馬道中唄」の大会が行われ、名残をとどめている。
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【神武・海道東征】イワレビコ誕生(3)幼い心に映る「水穂」の原風景







「天使」の歌声

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写真、大曽根から見る金鯱「蓬左(名古屋城)(11/22)コンデジ撮影。



 マララさんのスピーチには「天使」の歌声の響きがある。 /安斐路

17歳の受賞演説
 もし彼女が、日本の総選挙に出馬していたなら迷わず一票を入れたでしょう。
 17歳でノーベル平和賞を授与されたパキスタンのマララ・ユスフザイさんの受賞演説は、見事、というしかありませんでした。力強い声質はもちろん、時にはユーモアを交え、ヤマ場で韻を踏んでたたみかける口跡は、並の政治家ではとても太刀打ちできません。
 ことに「私は後者(声をあげて殺されること)を選んだ」のくだりは、イスラム過激派に銃撃され、生き残った者のすごみさえ感じました。
 かつては、日本でも田中角栄元首相をはじめ、演説でうならせた雄弁家が何人もいましたが、いずれも戦争の時代をくぐり抜けた政治家でした。
 近ごろの政治家の演説に魂がこもっていないのは、日本が平和な証拠なのかもしれません。(編集長 乾正人)
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【ノーベル平和賞】児童売春いまだ深刻 受賞者出身のインド 救出活動のNGO「受賞は励み」

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日本一有名な家族 12月12日
 日本人初のノーベル賞学者が誕生した昭和24年11月3日、湯川秀樹博士は、家族とともにニューヨークに滞在していた。妻のスミさんは、ちょうど日本の知人から送られてきた振り袖をトランクに詰めて、ストックホルムへ旅立った。
 ▼スミさんの振り袖姿は、現地で注目の的だった。なにしろ当時、スウェーデン在住の日本人は3人しかいない。舞踏会では、重い帯を締めたまま、汗びっしょりになりながら踊った。博士とダンスをしている写真も残っている。
 ▼今年の物理学賞に選ばれた赤崎勇、天野浩、中村修二の3氏は日本時間の昨日未明、スウェーデン国王から、メダルと賞状を受け取った。現地で日本のメディアの注目の的となったのは、天野夫人、香寿美さんのファッションと愉快な言動である。ダンスにも意欲を示していたが、こちらは実現しなかったようだ。
 ▼スミさんの自伝『苦楽の園』によると、博士と結婚して2日目の夜、早くもノーベル賞が話題になっている。「君が僕に勉強以外に時間をとられないように内助してくれたら」「自信がある」。スミさんは、博士の言葉を聞いて、命がけで守る決心をする。
 ▼天野さんは結婚前から、仕事が忙しいから家事は手伝えない、と宣言していた。香寿美さんは、2人の子供を育て上げ、今は若い頃から憧れていたロシアで、日本語を教えている。内助を果たしただけではない。見事に自分の人生を謳歌(おうか)している。
 ▼今や、日本一有名になった家族の笑顔から、たくさんの勇気をもらった。連日の行事参加と取材対応に、疲れもたまっているはずだ。普段は離れて暮らす4人が集まるのは、今年の正月以来だという。久しぶりの家族だんらんを、水入らずでしばし楽しんでいただきたい。
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写真は、市街地の上空を回遊する「飛行船」。(11/22)コンデジ撮影。



マララ・ユスフザイさん演説 全文(1)
20141210 21:12

 慈悲深く慈愛あまねき神の御名(みな)において。
 陛下、ノルウェー・ノーベル賞委員会の皆さま、親愛なる姉妹や兄弟たち、本日は私にとって本当に幸せな日です。ノーベル賞委員会にこの貴重な賞の対象に選んでいただき、恐れ多い気持ちです。
 支援と愛情を与え続けてくださる全ての方に感謝します。世界中から今も届く手紙やカードをありがたく思っています。優しい励ましの言葉を読んで私は元気づけられ、鼓舞されています。
 無償の愛を注いでくれる両親にも感謝したいと思います。私の翼を折らずに羽ばたかせてくれた父に感謝します。忍耐強くなることを教え、どんな時も真実を話すよう励ましてくれた母に感謝します。それがイスラムの真の教えだと強く信じています。
 私は最初のパシュトゥン人、最初のパキスタン人、最初の若者としてこの賞を受けることをとても誇りに思います。きっと、いまだに弟たちとけんかしている最初のノーベル平和賞受賞者でもあるでしょう。あらゆる場所が平和になることを望んでいますが、私と弟たちはまだ努力している途中です。
 私はまた、子どもの権利擁護に長年取り組んできたカイラシュ・サトヤルティとこの賞を分かち合えて光栄に思います。彼が取り組んできた時間は、私が生きてきた時間の実に2倍もの長さです。私たちが力を合わせ、1人のインド人と1人のパキスタン人が平和的に団結し、子どもの権利のために共に取り組めると世界に示せることもうれしいです。
 親愛なる兄弟や姉妹たちよ。私の名前はパシュトゥン人のジャンヌ・ダルクである(民族的英雄)マイワンドのマラライにちなんで付けられました。マララという言葉は、「悲嘆に暮れた」「悲しい」といった意味です。でも、私の祖父は少しでも幸せを呼ぶようにいつも「マララ、この世界で一番幸せな女の子」と呼んでくれました。そして本日、重要な目的に向かって私たちは共に立ち上がっており、私は本当に幸せです。
 この賞は私だけのものではありません。教育を求める、忘れ去られた子どもたちのためのものです。平和を求める、おびえた子どもたちのためのものです。変革を求める、声なき子どもたちのためのものです。
 私は子どもたちの権利のために立ち上がり、子どもたちに声を上げてもらうためにここにいます。今は彼らを哀れむときではありません。教育を奪われた子どもを目にするのが最後となるよう行動に移すときなのです。
 私は人々が私のことをさまざまな表現で語ることに気付きました。
 ある人たちは、タリバンに撃たれた少女と呼びます。
 権利のために闘った少女と呼ぶ人もいます。
 今では「ノーベル賞受賞者」と呼ぶ人もいます。
 私が知る限り、私はただ全ての子どもが良質の教育を受けるよう望み、女性が平等な権利を得られるよう望み、世界の隅々まで平和であるよう望む、一生懸命で頑固な人間にすぎません。
 教育は人生の恵みの一つであり、人生に欠かせないものの一つでもあります。これは私の人生、17年間の経験で分かったことです。私の故郷であるパキスタン北部のスワト渓谷で、私はいつも学校を愛し、新しいことを学ぶことを愛していました。特別な日には、友達と植物ヘナの色素で手を彩ったことが思い出されます。花や模様ではなく、数学の公式や方程式を描いたものでした。
 私たちは教育を渇望していました。なぜなら私たちの未来はまさに教室にあったからです。私たちは一緒に座り、本を読み、学んだものでした。私たちはこぎれいな学校の制服を着るのが好きで、大きな夢を見ながら座っていたものです。私たちは、両親に誇りに思ってほしかった。私たちも勉強で秀でて、いろいろなことを成し遂げられると証明したかったのです。男の子にしかできないと思っている人もいますから。
 物事は同じようには続きませんでした。私が10歳の時、風光明媚(めいび)な観光地スワトは、突如としてテロの舞台となりました。400以上の学校が破壊され、女の子は学校に通うのを禁じられました。女性はむちで打たれ、罪のない人々が殺されました。私たちの誰もが苦しみました。そして私たちの美しい夢は、悪夢に変わったのです。
 教育は、権利から犯罪へと変わりました。
 しかし、私の世界が突然変わった時、私の中の優先順位も変わりました。
 私には二つの選択肢がありました。一つ目は、沈黙したまま殺されるのを待つこと。二つ目は、声を上げて殺されること。私は後者を選びました。声を上げることにしたのです。
 テロリストは私たちを止めようとし、2012年10月9日に私と私の友達を襲撃しました。でも、彼らの銃弾は勝てませんでした。
 私たちは生き延びました。そしてその日から、私たちの声はより大きくなる一方でした。
 私が自分の話をするのは、それが特別だからではなく、むしろ特別ではないからなのです。
 多くの少女に共通した話なのです。
 本日、私は彼女たちの話もします。ここオスロには、私と同じ経験をした友達や、パキスタン、ナイジェリア、シリアの友達も来てくれています。私の勇敢な同志であるシャジアとカイナト・リアズは、あの日スワトで私と共に銃撃されました。彼女たちも痛ましいトラウマを経験しました。パキスタンから来てくれたカイナト・ソムロはひどい暴力と虐待に苦しみ、兄弟が殺されましたが、屈することはありませんでした。
 そして、私がマララ基金の活動を通じて出会い、今では姉妹のような少女たちです。シリア出身の勇敢な16歳のメゾン、彼女は今ヨルダンの難民キャンプに暮らし、テントを回りながら女の子や男の子たちが学ぶのを手助けしています。私の親友のアミナはナイジェリア北部出身です。そこでは(イスラム過激派)ボコ・ハラムが、ただ学校に行きたいと願っている少女たちを脅し、拉致しています。
 私はハイヒールの高さを加えても身長約157センチです。1人の少女、1人の人間としてここにいますが、1人で声を上げているわけではありません。私は大勢(の代弁者)なのです。
 私はシャジアです。
 私はカイナト・リアズです。
 私はカイナト・ソムロです。
 私はメゾンです。
 私はアミナです。私は学校に行けない6600万人の少女なのです。
 人々はよく私に、どうして教育が特に女の子にとって重要なのか尋ねます。私の答えはいつも同じです。
 私が(イスラム教の聖典である)コーランの最初の2章から学んだのはイクラという言葉で、「読みなさい」という意味です。そして「ペンによって」という意味のヌーン・ワルカラム。(オスロ共同)



マララ・ユスフザイさん演説 全文(2)
20141210 21:13

 国連で昨年お話しした通り「1人の子ども、1人の教師、1本のペン、そして1冊の本が世界を変えられる」のです。
 今日、世界の半分では急速な発展や近代化、開発が見られます。しかし、非常に古い問題である飢餓や貧困、不公平、紛争で何百万人もがなお苦しんでいる国々があります。
 実際、第1次世界大戦から1世紀が過ぎた2014年ですが、100年前に何百万もの命を失った際の教訓を私たちが十分学んでいないことをあらためて思い知らされています。
 何十万もの罪のない人々が命を失う紛争が今もあります。シリアやガザ、イラクでは多くの家族が難民となっています。ナイジェリア北部ではいまだに学校に行く自由のない女の子たちがいます。パキスタンとアフガニスタンでは、自爆攻撃や爆弾で罪なき人々が殺されています。
 アフリカでは、多くの子どもたちが貧困のため学校に行けません。
 インドとパキスタンでは、多くの子どもたちが社会的なタブーのために教育の権利を奪われたり、児童労働を強制されたりしており、少女が児童婚を強いられたりもしています。
 私と同い年のとても仲の良い級友の1人は、勇敢で自信に満ちた少女で、医者になることを夢見ていました。しかし、彼女の夢は夢のままで終わりました。12歳で結婚させられ、彼女自身がまだ子どもだった時に息子を産みました。わずか14歳の時です。彼女はとても良い医者になっただろうと思います。
 でも、それはかないませんでした。彼女が女の子だったからです。
 彼女の話こそ、私がノーベル賞の賞金をマララ基金に託す理由です。世界中の女の子たちに質の高い教育を与える手助けをし、指導者たちに私やメゾンやアミナのような女の子を支援するよう呼び掛けるためです。この資金は最初に、私の心のよりどころであるパキスタン、特に私の故郷スワトとシャングラでの学校建設のために使われます。
 私の村では、いまだに女の子が通える中学校がありません。友達が教育を受け、夢をかなえるための機会を得られる学校を建てたい。
 私はそこから始めます。でも、それでおしまいではありません。全ての子どもたちが学校に行くのを見届けるまで、私は闘い続けます。銃撃されて死線をくぐり抜けた後、私はより強くなったと感じます。誰も私を、あるいは私たちを止められないと分かったからです。今や私たちは何百万人(もの仲間)になり、共に立ち上がっているからです。
 親愛なる兄弟、姉妹たちよ。変革をもたらした偉大な人々、例えば(米公民権運動指導者の)マーチン・ルーサー・キングや(南アフリカで黒人解放闘争を主導した)ネルソン・マンデラ、(貧しい人々の救済に尽くした修道女)マザー・テレサや(ミャンマーの民主化運動指導者)アウン・サン・スー・チーは、かつてこの場に立ちました。彼らと同じように、カイラシュ・サトヤルティと私がこれまでしてきたことやこれから取り組むことが、長く続く変革をもたらしてほしいと思います。
 私の大いなる望みは、児童教育のための闘いをこれで最後にすることです。これを解決し、最後にできるよう、皆さんには団結して私たちの取り組みを支持してほしいと思います。
 繰り返しますが、私たちは既に正しい方向に多くの歩みを重ねてきました。今こそ飛躍の時です。
 教育がいかに重要か理解するよう指導者に求める時ではありません。彼らは既に知っているのです。彼らの子どもたちは良い学校に入っています。今こそ行動を起こすよう彼らに求める時です。
 世界の指導者たちに対し、結束し教育を最重要課題とするよう求めます。
 15年前、世界の指導者たちは国連ミレニアム開発目標という一連の地球規模の目標を定めました。それからの年月で、一定の成果は見られました。学校に行けない子どもたちは半減しました。しかし、世界は初等教育の拡充だけに目を向け、進展は全員に行き渡りませんでした。
 来年、2015年には、次の一連の目標である持続可能な開発目標を決めるため、世界中の代表が国連に集まります。来るべき世代のための世界の大きな目標を設定することになります。全ての子どもたちに無料で良質な初等および中等教育を保証するため、指導者たちはこの機会を捉えなければなりません。
 現実的でないとか、費用が掛かりすぎるとか、あまりに困難だと言う人もいるでしょう。不可能という声すらあると思います。でも、世界はより大きなことを考えるべき時なのです。
 親愛なる兄弟、姉妹たちよ。いわゆる大人の世界は理解するでしょうが、私たち子どもには分かりません。「強い」といわれる国々は、戦争を起こす上では非常に力強いのに、なぜ平和をもたらす上ではあまりに弱いのか。銃を渡すことはとても簡単なのに、なぜ本を与えるのはそれほど大変なのか。戦車を造るのは極めて易しいのに、なぜ学校を建てるのはそんなに難しいのか。
 21世紀の現代に生きる私たちは、不可能なことはないと信じています。月にだって行けるし、火星にもそのうち着陸するかもしれない。ですから、この21世紀に、誰もが良質な教育を受けられるという夢もかなうのだとの決意を持たなければならないのです。
 平等と正義、そして平和をみんなにもたらしましょう。政治家や世界の指導者たちだけでなく、全員が貢献する必要があります。私も、あなたも。それが私たちの義務なのです。
 だから、立ち止まらず、努力しなければなりません。
 私の仲間である子どもたちに、世界中で立ち上がるよう求めます。
 親愛なる姉妹、兄弟たちよ。最後になることを決める最初の世代になりましょう。
 空っぽの教室、失われた子ども時代、生かされなかった可能性。これらを私たちでもう終わりにしましょう。
 少年や少女が子ども時代を工場で過ごすのは、もう終わりにしましょう。
 少女が児童婚を強いられるのは、もう終わりにしましょう。
 純真な子どもが戦争で命を落とすのは、もう終わりにしましょう。
 教室が空っぽのままであり続けるのは、もう終わりにしましょう。
 教育は権利ではなく犯罪だと少女が言われるのは、もう終わりにしましょう。
 子どもが学校に行けない状況は、もう終わりにしましょう。
 終わりにすることを始めましょう。
 私たちで終わりにしましょう。
 今ここで、より良い未来を築きましょう。
 ありがとうございました。
 (オスロ共同)


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