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写真は「フラミンゴ」と「インド象」。/(4/8)東山動物園にて。
「合気神髄」開祖語録
開祖の語録を編集した本である。
開祖の言葉は、大本の影響であろうか古事記の世界観が多く表現されているので、
古事記を読まないと理解不能であるかもしれない。
合気道を精神面で理解することは、技の上達と一見関係ないように思われるが、
根本がない技など、開祖に言わせれば「遊び」にしかならないはずである。
それを説明しない開祖にも問題があるとは言えるのではあるが。
まぁヒントを与えてやるから、自分で気づけということなのだろう。
私には門人はありません。
はじめから皆ことごとく自分の友達でありますし、また、自分の師匠さんであります。
こういう謙虚な気持ちが大切なのだろう。
偉そうに見下して教える愚か者に聞かせてやりたいお言葉である。
術の稽古ができてくると、相手よりも、先にその不足を満足させるように、
こちらから相手の不満の場所を見出して、術をかける。
この不満を見出すのが合気の道でもある。
上手い人に技をかけられると、気持ちよく投げられるし、気持ちよく極められる。
抵抗する気すら起きない気持ちのいい完敗状態である。
関節技は、相手の関節をストレッチさせてあげるものであり、
投げ技は、相手の体を大きく運動させてあげるものなのである。
力いっぱいに相手を痛めて喜んでいる人間は、クズなのである。
日常生活でも同じである。
他人に攻撃する人間は、自分に満足していないからなのである。
自分の存在が確保されていない不安から、
イジメなどというくだらない現象が起きるのである。
合気道では強くなろう、相手を倒してやろうと練磨するのではなく、
世界人類の平和のため、少しでもお役に立とうと、
自己を宇宙の中心に帰一すること、帰一しようとする心が必要なのである。
合気道とは、各人に与えられた天命を完成させてあげる羅針盤であり、
和合の道であり、愛の道なのである。
技の面でも、相手を倒してやろうと思うと、
力が入ってしまい上手く技がかからないのである。
相手を見ながらも、相手にとらわれず、
相手と一体化するように意識すると何気なく上手く技がかかるのである。
日常生活でも同じである。
相手の意見をただ否定するだけでは、
人間関係も上手く技がかからないのである。
合気というものは、小戸の神業であって、禊である。
「小戸の神業」というのは、
イザナギが黄泉国のケガレを落とすために禊を行ったことである。
古事記によると、その禊によって、
アマテラスやスサノオなどの神様が生まれてきたらしい。
まぁそんな物語はどうでもいいのであるが、稽古に行って運動や技の向上だけでなく、
精神的な修行も必要であるといいたいのであろう。
稽古へ行く時に、
ミサや初詣や墓参りへ行くような厳粛な気持ちを持つのもいいかもしれない。
または、自分が神様と一体化して神を生むように稽古しろということだろうか。
谷川の流れを眺めて、たくみに岩の間をぬって流れる水、
その姿を見て体の千変万化を習うとか、
またありがたいお経のようなものを読んだり聞いたりして、
これを武道になおしていくとか、ことごとく天地の真象を眺めて、そして学んでいく。
そして悟ったり、反省したり、学んだりを繰り返していかなければいけない。
要するに武道を修業する者は、宇宙の真象を腹中に胎蔵してしまうことが大切で、
世界の動きをみてそれから何かを悟り、また書物をみて自分に技として受け入れる。
ことごとくみな無駄に見過ごさないようにしなければいけない。
すなわち山川草木ひとつとして師とならないものはないのである。
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