ほつまの憧れ

四季折々の気ままに撮った風景や花。

松平郷

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天下は天下の天下なり

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 室町塀の中程に冠木門(かぶきもん)が構えられ、その奥に「天下茶屋」という食事処があります。
 <織田がつき羽柴がこねし天下もち、座りしままに食うは家康>
と入り口には書かれた幟があり、あいにくと実食には及んでいませんが、
串に刺された団子がどうやら名物なようです。

 さて松平郷の話題を切りにしますが、けじめとして大御所家康公の遺言で〆とします。

「わが命旦夕に迫るといへども、将軍斯(か)くおはしませば天下のこと心安し。

されども将軍の政道その理にかなはず、億兆の民艱難することもあらんには、
たれにても其の任に変らるべし。
 天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり。
 たとへ他人天下の政勢をとりたりとも、四海安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより、
家康が本意にしていささかもうらみに思ふことなし。」

             元和2年4月17日 家康公薨七十五才於駿府城


と刻まれた石碑が岡崎公園にはあるようです。




写真は、愛知県豊田市の「松平郷」にて。

厭離穢土・欣求浄土

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「桶狭間」の合戦(1560年5月19日)で、
信長の急襲によって駿河の今川義元が討ち取られています。

 敗軍に属していた元康(後の家康)は、織田軍の追撃を恐れ、
その翌日に近臣十数人と共に岡崎の大樹寺へと逃げ込みます。
 大樹寺は、三河統一を成し遂げた祖父の松平清康が建立した、
七堂伽藍、多宝塔のある松平氏の菩提寺です。

 周囲を 敵に囲まれ、前途を悲観した元康は、祖先の墓前で自害しようと決意します。
 そのとき、住職の登誉上人(とうよしょうにん)が、
『厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)』を指し示し、
争いで穢れた国土を住みよい浄土にするのがあなたの役目と諭し、
十九歳であった元康の切腹を思いとどまらせています。・・・
 「私利私欲のための戦いで穢れた土を厭(いと)い離れて、
永遠に平和な浄土を願い求めて、それを成す」という意味で、
平安中期の高僧、源信(恵心僧都)が書いた「往生要集」にある言葉です。

*源信は、阿弥陀如来を信じて理想国を求める浄土信仰を確立し、
その弟子筋が法然、親鸞と言われています。

 数日後になって元康は、今川家の代官が逃げ去った後の岡崎城に無事入り、
今川家の支配から岡崎を取り戻して、ようやく自立する事ができます。
 以来、家康は生涯の座右の銘として、「厭離穢土、欣求浄土」の旗印をかかげることになります。

 そして紆余曲折を経ながらも・・・終には、
戦乱に疲れた世を収め、遠離の江戸の地で泰平の華を咲かせる事に成ります。



写真は、松平郷の「高月院」にて。

*以下のURLも御覧下さい。
http://blogs.yahoo.co.jp/hotsuma816owhari/27877227.html /(岡崎城)

やさしく生吹く

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 『人の一生は
重荷を負うて遠き道を行くが如し
  急ぐべからず  不自由を常と思えば不足なし

 心に望みおこらば  困窮したる時を思い出すべし
 堪忍は無事長久の基  怒りは敵と思え 
 
勝つことばかり知り  負くる事を知らざれば 害その身に至る 
 己れを責めて人を責むるな
 及ばざるは過ぎたるに勝れり』

                         慶長八年正月十五日/東照公遺訓

                                 

 司馬遼太郎さんの絶筆となった「街道を行く」シリーズの「濃尾参州記」には、
「松平郷の魅力は、建物ではなく、小さな、やさしい自然である。・・・」と、
徳川家の発祥の地「三河の国、松平郷」を訪れた時の印象が述べられています。
 さらに、「私にとって三十年ちかい前の松平郷の印象は、山も渓も家々もじつに清らかだった。
・・・そこに浄土宗高月院があり、高い松の木が一幹あって、幹に枝がなく、
はるかな青空を掃くように梢にだけ枝葉が茂っていた。・・・高月院そのものに人格を感じた。
孤独な山僧に出会ったようだった。云々」と、高月院の印象について語っています。

 私もまったく同じような印象を抱いています。
 松平郷の魅力は、『桃源郷』のような、清らかな「里山」の、
狭間の袋地の奥にやさしく生吹く自然なのだろうと思う。



写真は、「元信君(徳川家康公)御手植」の「枝垂れ桜」。・・・高月院境内にて。

数奇な運命

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 司馬遼太郎さんの遺作となった「濃尾参州記」の「高月院」の章には、
「徳阿弥は三河に入ったもののすぐ松平郷にきたわけではなかった。
まずいまの吉良町の酒井与右衛門(名については、諸説がある)という地侍級の家に長逗留した。
・・・
 徳阿弥の行動は、数奇である。かれは吉良には落ちつかず、矢作川をさかのぼり、
さらにその支流の巴川の山道をのぼって、
松平郷の松平太郎左右衛門重信というものの家に逗留した。 そこにも娘がいた。
 これと通じ、やがて康親とよばれる男の子を生ませた。そのうちこの家の養子になり、
上手の所たくわえ、松平太郎左右衛門親氏(チカウジ)と名乗った。
 徳阿弥は、多能だった。その一代のうちに郷民を手なづけ、
山中のわずかな水田村落をいくつかおさえたという。
 これがはるかなのちに徳川家康を生むこの家系の祖になる。・・・」とあります。



写真は、「高月院」本堂にて頒布されている、「家康公遺訓」。
/親氏寄進によるご本尊の「阿弥陀如来」立像と須弥壇。

「相好」なる如来

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 如来には、普通の人間とはことなる身体的特徴があると考えられています。

 主なもので三十二あるといわれ、これを称して三十二相といいます。
 さらには、特徴が八十あるとされ、これを八十種好といい、
三十二相と合わせて、如来の特徴を「相好」と称し、
仏像を作る際、仏師はこれらの特徴を留意したそうです。

 ○「頂成肉髻相」/頭上にこぶのような肉髻があり、一段盛り上がっている。

 ○「身毛右旋相」/体の毛が全て右旋している。
 頭の螺髪も髪の毛が右周りに螺旋状になっている状態を表わしています。

 ○「眉間白毫相」/眉間に一本の白い長い毛があり、右回りにおさまっている。

 ○「肩円満相」/肩先がとても円く豊満であり、仏の力の強いことを表わす。

 ○「身金色相」/皮膚が滑らかで黄金のようである。

 ◎「足千輻輪相」/足に輪のしるしがある。(手にもあるともいわれ、千輻輪相ともいう)

 ◎「足安平相」/如来の足は凸凹がなく、どのような地面でも足がしっかりとつく。

 などがあり、その特徴(◎印)を形にしたものが「仏足石」なのだそうです。


 初期仏教では、仏さまを形にすることはおそれおおいことと考えられていました。
 そのため、仏さまを象徴するものとして、菩提樹や塔などを礼拝の対象としていました。
 そのうちの一つとして、作られたものが仏足石です。

 さらに仏足石には、「千輻輪相」に基づいた法輪のほかに、
「双魚紋」(二匹の魚、繁栄の象徴とされる)や、「金剛杵」、「卍」の文字が描かれています。
 また、音声が朗々としているとする「梵音声相」や、
舌が顔全体を覆うほど長く広いとする「広長舌相」、最上の味覚を持つ「得最上味相」、
歯が四十本あるという「四十歯相」など、形として表わしきれないものが数多くあり、
想像力の豊かさを彷彿させます。



写真は、(木魚を楽しむ親子連れ)・・・松平郷の「高月院」本堂にて。
/「仏足石」図柄。
*「仏足石」については、以下のサイトが参考になります。
http://www.d4.dion.ne.jp/~hanami2/but/07butuzo/butuzo.htm /仏像の見方
http://www012.upp.so-net.ne.jp/daigyouji/rituzou/nanasyou/nanasyou.htm /仏足跡の瑞祥七相

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