ホツマの黎明のブログ

気ままな「ホツマワールド」の付録続編です。

元伊勢「籠神社」

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伝説あれこれ

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写真は、帰りの新幹線車窓から、伝説の「三上山」と「伊吹山」。(7/17)



浦島太郎が玉手箱を開けた地
 寝覚の床(ねざめのとこ)  --- 長野県木曽郡上松町 ---

  竜宮城から地上へ帰ると 両親は死んでおり知人もおらず
  天涯孤独の身となった浦島太郎は旅に出ることにした
  旅の途中 木曽川の風景の美しい里にたどり着き 竜宮の美しさを思い出し
  乙姫にもらった玉手箱をあけた
  すると玉手箱からは白煙が出て 白髪の老人になってしまう
  浦島太郎には今までの出来事がまるで「夢」であったかのように思われ
  目が覚めたかのように思われた
  このことから この里を「寝覚め」 岩が床のようであったことから「床」
  すなわち「寝覚の床」と呼ぶようになったという


浦島太郎の玉手箱が納められている

 知里付神社(ちりふじんじゃ)  --- 愛知県知多郡武豊町 ---

  この神社の社宝には浦島太郎が竜宮城から持って帰ってきたされる
  「あずけの箱」が保管されている
  明治時代の干ばつの年 宮司がこの箱を浦之島の沖に舟で運び出し
  祈祷を捧げて箱のフタを取ると 遥かかなたに雨雲が浮かんで
  大雨が降ったといわれています
  しかしながら 滅多なことでは開けられないため中身は不明(非公開)


*以下のサイトもご参考に。




鶴と亀

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写真は、講談社本、お伽話「浦島太郎」の表紙。
 天の橋立「籠神社」からの帰り途、車窓の「福知山城」。(7/17) 



 古くは『丹後国風土記』『万葉集』『日本書紀』にも浦島太郎にまつわる話が出ていますが、
その後、現在の浦島太郎の元となった『御伽草子』での浦島太郎の結末は、
現在のストーリーよりも、ハッピーでした。
 『御伽草子』での浦島太郎の結末はこうです。
 玉手箱を開けておじいさんになってしまった浦島太郎。
 その後、浦島太郎は鶴になって、飛び立ち、亀(乙姫)と出逢い、幸せに暮らしました。
 この鶴と亀は、夫婦の神様となったそうです。
 めでたし。 めでたし。

 浦島太郎は『御伽草子』などで見かける人物ですが、
源流は『日本書紀』『風土記』 まで遡ることができるといわれています。
  数ある昔話の中でも浦島太郎を装飾に使うことが多く、
これは「浦島太郎=鶴 (玉手箱を開けた後老人になり、
そして鶴になって飛び立ったという)」と
「乙姫 =亀」という組み合わせ(鶴亀)から用いられたのではないかと思います。
浦島太郎(うらしまたろう)-雄峯閣 装飾の間雄峯閣 書と装飾彫刻のみかた―



*以下のサイトも御覧下さい




伊勢への遷宮

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写真は、(7/17)天橋立「籠神社」からの帰り途、「アソの海」と輝く空。
 /見上げる沖天に、日本列島とも見える?龍形の雲が現れていました!



・・・丹後における古代王国の存在、ヤマトの建国と、海部家とのつながり、
三世孫倭宿祢命の存在、籠神社の果たす役割は重い。・・・
 平成31年(西暦2019年)とは、
真名井原から籠神社に遷して1300年の年であり、
アマテラスが、笠縫邑からこの真名井原に滞在されて4年、
その時から2074年の年になり、
雄略天皇22年に豊受大神が伊勢に遷られてから1541年になる・・・。

・・・ 国宝「海部氏系図」は、
871年から877年の間に書かれたものである。
 しかし、上部左に、別筆で
「始 養老三年己未 三月廿二日 籠宮天下給」とある。
 養老3年とは719 年である。


 すなわち、上古よりこの奥宮である真名井神社でお祀りしていたが、

この時、籠神社に天下られたという年であるという。
 2019年から719年をひくと、1300年となる。


 また、アマテラスが吉佐宮にこられたのは、崇神天皇39年の時であり、

それは、紀元前59年である。
 そして、4年という月日をこの吉佐宮ですごされ、
その食事のことを司ったのが豊受大神だという由緒がある。
 そして、豊受大神の伊勢への遷宮は、雄略22年、478年のことである。
・・・・・

2010年 1月17日伴とし子/国宝『海部氏系図』が古代史を書き換える


                     


葵祭りの起源

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写真は、天の橋立、「籠神社」にて。(7/17)


 葵祭りといえば、京都の三大祭りである5月15日に行われる葵祭りを思い浮かべる人が多いかもしれない。京都の葵祭りの起源は、欽明天皇56 7年とある。国内に五穀が実らなかったので、占わせると、賀茂の神社の祟りであるというので4月吉日に祭礼をおこなったところ、五穀がゆたかに実り、国民も安泰になったということだ。京都御所から下鴨神社をへて、上賀茂神社へと行列が繰り広げられる。賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の例祭である。・・・・・第四代である懿徳天皇4年とは、紀元前507年である。当社では、平成6年には、藤祭り葵祭り発祥2500年祭も執り行われた。・・・・・驚くべきことは、国宝『海部氏勘注系図』にもこの祭りの起源を伝える記述があることだ。・・・・・ということは、海部家の先代宮司は、「欽明天皇の御代に始まったと謂われるが、・・」とは書かれているが、断定をあえてさけられ、それ以上の言葉は記されていないことに気付く。おそらく周囲をはばかられ、苦心の末の記述ではなかろうか。・・・・・
2010年 1月17日伴とし子/国宝『海部氏系図』が古代史を書き換える



*以下のURLも御覧下さい。
ホツマのひかり - Yahoo!ブログ 元伊勢の旅(1)〜(5)
                     




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写真は、天の橋立、「籠神社」にて。(7/17)


・・・・・ 国宝『海部氏勘注系図』は、江戸期に成立したものとはいえ、   内容的には、ほかにない重要な古伝、秘伝を伝えていることから、       その内容においては、平安期に成立した国宝『海部氏系図』に遡るものであろう といわれるものであるが、そこに次のようにある。
 「四世孫、笠水彦命」のところに、「御蔭之神事、今俗称葵神事」とある。  「御蔭(みかげ)の神事、今、俗に葵の神事と称す」と明記されている。     この「四世孫、笠水彦命」とは、倭宿祢命の子であり、           二代目の天皇である綏靖天皇のときに、天御蔭之鏡を神寶と為し、       以て仕え奉ったとある。

 ということは、海部家の先代宮司は、                   「欽明天皇の御代に始まったと謂われるが、・・」とは書かれているが、    断定をあえてさけられ、それ以上の言葉は記されていないことに気付く。     おそらく周囲をはばかられ、苦心の末の記述ではなかろうか。
 丹後の「葵祭り」は、欽明朝以前は「藤祭り」といわれ、          その神事は、さらに「御蔭の神事」といわれて、               『海部氏勘注系図』の四世孫のところに記されている。             ということは、                             京都の葵祭りより古くからの歴史をもった祭りだということになる。      「御蔭(みかげ) 」とは、倭宿祢命の亦の名を「天御蔭命」というように、   私は、大王のような人物、太陽神を想定している。               あらためて、伝統深き氏族によって神まつりがなされ、           守られ継続されてきたことを思うとともに、                 この丹後の葵祭りの古き由緒に耳を傾ける時、                その原点は丹後にあったのではないかと思う。・・・・・

2010年 1月17日伴とし子/国宝『海部氏系図』が古代史を書き換える

特集001 - 小さなうつわのメッセージ




*以下のサイトもお楽しみ下さい。

http://www.youtube.com/watch?v=4uVVrePl9e8&feature=related

 2/3 Japanese are Jewish? Eng/Sub 日本とユダヤ




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