ホツマの黎明のブログ

気ままな「ホツマワールド」の付録続編です。

三州「足助」

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写真は、「足助まつり」の日の夕刻、香嵐渓「巴川」の幽谷。(10/9)


 足助城は愛知県豊田市足助(旧・足助町)の真弓山に築かれた      連郭式の山城です。                           鎌倉時代に足助氏が居城したと伝えられていますが、          発掘調査では15世紀以降のものしか見つかっていないとこのこと。
 室町戦国時代には、鈴木氏が在城したことが知られる豪族でした。     三河の大名・松平氏(後の徳川氏)相手に半独立の立場で、       離反・従属を繰り返しますが、                     徳川家康が豊臣秀吉の関東入国指令で三河を去ると、           鈴木氏も一緒に移動したようで、足助城も廃城となります。


 足助城は、比較的尾張に近いところに位置したため、          今川時代には尾張攻略・三河防衛の要所であると言えます。        それゆえ、                              松平氏に離反・従属をする駆け引きが盛んだったと考えられます。      鈴木氏という豪族が在住していたことで、               武田氏の遠江攻略の出城としての役割だった・高根城とは違って、     足助城は建物の遺構も多く存在するようです。





『歴史の渚』にて

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写真、「足助まつり」、各町の組による勇壮な火縄銃の競演もあります。(10/9)


 江戸時代、足助は中馬街道(塩の道)の宿場、              商家が集まる交易の町として栄えていました。               造り酒屋6軒、穀屋10軒、油屋6軒、塩屋14軒、宿屋13軒など、      業種も多く、人の往来も盛んでした。                   また、それ以前、縄文時代草創期より、                この地に人々の足跡は残されていおり、多くの縄文土器が出土しています。  以降、足助一族や、戦国時代の鈴木氏なども歴史に名前を残しています。

香嵐渓あり、三州足助屋敷あり 塩の道伊奈街道の宿場と商業の町
 足助が生んだ歴史上の人物に足助次郎重範(しげのり)がいた。      彼は元弘の変(1331)で後醍醐天皇に味方、              笠置山(京都府)篭城軍の総大将として指揮を執るが、          奮戦むなしく捕らえられて京都・六条河原で斬首されている。        敵からは弓の名手として恐れられ、                  その勇敢な戦いぶりは『太平記』の記すところでもある。
 そんな重範にあやかってか、足助は弓道の盛んな土地柄でもある。     境内には矢場も作れており、                     「金的中」(きんてきちゅう)と書かれたたくさんの額も奉納されていた。  ここでは毎年秋に豪華な彫刻を施した4両の山車が出て、        にぎやかに秋祭りも繰り広げられる。
 八幡宮に隣接してあるのが足助神社だ。                 明治30年の創建と社歴こそ新しいが、                 強弓で知られた重範を神として祭っている。                その鳥居脇に誤ってガンを射たことから出家したという人の       「雁塚」(かりづか)も建てられていた。
  先立ちし 雁や浄土の 道しるべ






ふる里のにほひ

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写真、「足助まつり」には、伝統の山車も出揃います。(10/9)


 古い写真を整理しつつ・・・母を偲びて、こころ安らぐ。
「ふるさとのにほひ懐かし日溜まりに心安らぐ母の面影)」/安斐路

 足助八幡宮にての「足助祭り」(秋)。                 足助の自慢は、山車、棒の手、火縄銃です。               そして、ほら貝も有名だそうです。
 300年の伝統をもつ足助の山車。                   新町、本町、田町、西町の四台の山車は、万博へも出展参加しています。                    
 108日(土) 109日(日)の両日、                    足助に秋の訪れを告げる「足助まつり」が足助八幡宮にて開催されます。
 足助八幡宮の例祭は、試楽祭と本楽祭からなり、今では新暦10月第2日曜日に行われ、「足助祭り」と称されています。
 祭が今の形になったのは、文化11年(1814)江戸時代後期頃であると思われる。   現在では祭は2日間に渡り行われ、試楽祭では神輿渡御、山車4台の町内曳き回し。  本楽祭では神輿渡御、山車4台の宮入、火縄銃、棒の手の奉納が行われます。
 この祭は、足助八幡宮が古くから足助総郷の淴社として、            地域の人々の篤い崇敬を集めていた伝統を今に伝えるもので、           実に情緒あり壮観で雰囲気は祭ならではのものがあります。
 当日は各地より多くの人々が参拝に、そして見物に訪れます。

 足助まつり(足助観光協会)

 平成23年10月8日()試楽祭 9日()本楽祭
 足助まつりは、足助八幡宮(白鳳2年創建)のお祭りです。
 文正元年(1466年)再建の本殿は国の重要文化財に
 指定されています。遺されている文化財も多く、
 特に慶長17年(1611年)に奉納された「鉄砲的打図板額」(県文化財)は、
 東京オリンピックで射撃競技のプログラムの表紙に使用されました。 
 1700年代中期以前より、現在に近いの形のお祭りが
 行われていた様です。西町、新町、本町、田町の4台の山車が有り、
 町内を引き回します。
 かつては、5日間かけて行われていましたが、
 現在は2日間に縮まり、土曜日を山揃え(試楽祭)、
 日曜日を本楽祭と呼んでいます。
 土曜の夜は御神輿渡行もあり、町内を、
 提灯行列を先頭に御輿が巡行されます。






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写真は、祭りの日に、「マンリン小路」と夕陽の町並み。(10/9)


 愛知県足助町は、三河(愛知)と、信州(長野)を結ぶ         伊那街道の中継ポイントとして栄えた町です。               昔、三河からは塩が、そして信州から山の産物が運ばれ、        別名「中馬(ちゅうま)街道」と呼ばれていました。
      
 足助町の魅力は、なんといってもその町並みにあります。
 かつては伊那街道、飯田街道と呼ばれた街道の宿場町として栄えた町の面影が今も残されています。 「妻入り型」や「平入り型」という古くからの家並みや、
蔵が連なる小路が美しいマンリン小路などがあり、

散策するだけで懐かしく優しい気持ちにさせてくれます。
 また、100年ほど前の蔵を改装したカフェ&ギャラリー「マンリン蔵の中ギャラリー」や、

江戸末期より続く鍛冶屋の老舗でライブカフェも併設している「足助のかじや」といった、
個性あふれるお店も。
 町全体が一体となったイベントもたくさん開催されていて、
町並みと一緒に楽しめるように工夫されています。
 香嵐渓を訪れたら、ぜひ足助町の旧街道沿いの町並みも楽しんでみてください。

古い家並みが残る町の「マンリン小路」
 昔、街道の宿場町として栄えた足助宿の面影を今に残す町です。
 白壁の土蔵や、格子戸、黒い板壁など、昔ながらの建物が佇んでいて、
散策を楽しむことができます。
 養蚕指導所として大正時代に建てられた建物を利用した「足助資料館」や、
古い銀行を利用した「足助中馬館」といった建物も魅力です。
 いずれも足助町の魅力を紹介しています。
 足助の町並みのなかでも、最も美しいといわれているのが、マンリン小路です。
 黒い板壁と白い漆喰のコントラストを楽しむことができる小路で、散策を楽しむのにぴったりです。

 足助の町並みを丸ごと会場にしたイベントも、数多く開催されています。
 「中馬のおひなさん」「たんころりんの夕涼み」のほか、
民家に残る古い道具が展示される「足助まちじゅう博物館」(9月上旬〜下旬)などを開催。
 町並みの散策と同時に楽しめます。

足助春祭り(4月第2日曜とその前日)、足助まつり(10月第2日曜とその前日)
 足助春祭りは、足助神社の祭礼。
 旧町内から7つの花車がひかれ、華やかな雰囲気に包まれます。
 足助まつりは、足助八幡宮の例祭です。
 高さ6mもある山車がひかれ、火縄銃の鉄砲隊も登場する、勇壮で力強いお祭り。
 いずれも、足助を代表するまつりです。






吹けよ風

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写真は、紅葉にはまだ早い、三州足助の香嵐渓「巴川」にて。(10/9)



『吹けよ風、龍よ遊べ。』雪村の心意気。・・・
 ただ、私は雪村(せっそん)は初耳で、
全くその存在を知りませんでした。
 (わたしは写真を撮りたいんです。 美しい写真を!
   ただそれを・・・楽しみたい。)/安斐路


 ミステリー絵画シリーズ 雪村周継 「呂洞賓図」
 途方もない問題作を遺した男です。突然変異のように現れた謎の絵師。
 ただし、凄腕です。
 ミステリー絵画第4弾は、雪村周継作『呂洞賓図』。
 縦およそ1m20cm、幅60cm程の水墨画です。
 背景は、暗い霧に包まれた海。海面が割れ、逆立つ波間から龍が姿を現しています。
 その頭に立つ一人の男。
 彼こそが「呂洞賓(りょどうひん)」と呼ばれる仙人です。
 両手を広げ、胸を張り、全身に風を集めて天空を見上げています。
 その眼が見つめているのは、天翔ける龍。
 仙人が左手に持っている瓶からは、なにやら気体のようなものがゆらゆらと立ち上っています。 風が吹きつける中、龍と仙人が対峙しているスペクタクルな世界。
 けれども、実はこの絵の中で途方も無いことが起きているというのです。
 一体何が起こっているのでしょうか?

 描いたのは雪舟ではなく、雪村。安土桃山時代の画僧です。
 もともとは武家の出身で、
現在の茨城県常陸大宮市一帯の守護大名・佐竹一族の家に生まれました。
 しかし、父が側室の子に家を継がせた為に、禅僧になり画家を目指したと伝えられています。  そんな雪村の絵は、
江戸文人画の重鎮・谷文晁、琳派の天才・尾形光琳、光琳の後継者・酒井抱一など、
美術界の玄人筋から愛されました。
 墨の濃淡で深山の静寂を描いたかと思えば、表情豊かに人物を描きあげ、
まるで前衛絵画の趣を持つ作品も描いてしまう。
 そんな雪村は、江戸の頃から既に伝説的な存在だったのです。

 では、それ程の腕前を雪村はどこで身につけたのか?これまで、
雪村は一文字違いの雪舟の弟子であると信じられてきました。
 けれども、雪舟の弟子はもとより、雪村は箱根の山より西に行った形跡はありません。
 師匠もなく、京の都で学んだわけでもなく、
雪村は東国を遍歴しながら自分の世界を作り上げた極めて稀有な画家だったのです。

 今日の1枚『呂洞賓図』は、福島会津の守護大名・芦名盛氏に請われ
会津に滞在していた折に生まれたといわれています。
 一見すると、古代中国で庶民を助ける正義の英雄として人気のあった
仙人・呂洞賓を描いたただの水墨画のように見えますが、
実は絵の中ではすごいことが起こっているのです。
 その謎を読み解く鍵は、絵に描かれた龍の数にありました。
 実は、この絵の中に龍が4体描かれているのです。
 空に1体、そして呂洞賓の足元に1体。
 では、あとの2体はどこにいるのでしょうか…?





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