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前回の御着城跡1に引き続き、その2です。
前回アップした城址公園は二の丸跡といわれており、国道を挟んで南側に小公園がありますが
こちらが本丸跡と言われています。ここに、天川城址の碑と、小寺大明神が祀られています。
支所側から、国道2号を挟んで歩道橋が架けられています。
その歩道橋南側を降りきったところの公園が本丸跡となっています。
歩道橋を北側の東より撮影。
歩道橋から見た公演の中です。
歩道橋を織り、その角を左に曲がると公園入り口になっています。
入り口に掲示されている表示板です。
御国野公演とまっています。
公演に一歩はいると、史跡保存会の御着付近史跡要図の案内板が建っています。
すぐ横にある小寺大明神の案内板です。
『天川城址、小寺城主之奥都城』の碑が建っており
「しづかなる 姿のままにふるさとの 山川みえてかにかくうれし 政隆」
の歌碑が建てられています。
『天川城址、小寺城主之奥都城』の碑
戦国時代、西播の有力国人として御着城に拠った小寺氏は、播磨国佐用庄の地頭で室町時代に播磨守護となった赤松氏の一族である。すなわち赤松氏の祖源季房の孫頼範の四子将則を遠祖とし、将則の曽孫頼定の次子頼季が初めて小寺氏を称したと伝えられている。
初代の頼季は、赤松円心の三男則祐とともに叡山に入り、尊雲法親王(のちの護良親王)の側近となった。やがて後醍醐天皇による倒幕計画である元弘の変が起ると護良親王に従い、親王の熊野落ちに勇名をはせた小寺相模守は頼季その人である。元弘三年(1333)、赤松円心が六波羅勢と戦った桂川の合戦においては、弟の宇野国頼とともに先陣の則祐に従って奮戦した。 ところで、小寺は「おでら」と読まれることもあるが、古文書に「木寺」とも書かれているように「こでら」が正しい読みである。 とされています。 「しづかなる 姿のままにふるさとの 山川みえてかにかくうれし 政隆」
小寺明神正面です。
下の写真は、たまたま開いていたものを撮影しました。
不敬だったかな?
きちんと扉は閉めています。
北東隅にある五輪の塔です。
石碑には、
この五輪塔及石佛は旧御国野小学校々庭を発掘調査した時に出土したものを復元したものです昔御着城があった時豊臣秀吉の軍と戦い戦死した御霊の菩提を弔うために建てたものと思います
平成元年七月吉日
とありました。 境内にある稲荷神社です。
西側の道路から撮影。
次回は、旧天川橋、御着の町並み漫遊です。
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城跡探訪
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壇場山古墳漫遊後、天川沿いに御着城跡まで帰ってきました。
この城跡も、前々から訪問したかったところですが、近場過ぎて今回に到りました。
そもそも、「御着」という地名は、誰か偉い人が着いたから「御着」と言うのだろう・・・
と思っていました。
今回、いろいろな本を読んでみますと、
① 聖武天皇が国分寺を建立したときに勅使が着いたところ。
② 神功皇后が麻生山に登られるときに、最初に着いたところ
③ 白川法皇、花山法皇、後醍醐天皇が来られた
④ 壇場山古墳を「御塚」と呼んだのが転訛した
と言われており、定説はないようです。
いずれにしても、この地域には、古い時代から、天皇等が往来していた地域ののようですね。
下のマップは、支所の窓口で頂いたものです。
城跡入り口を、国道2号
の東側から撮影しました。
写真右手に史書があり、一面が城跡になっています。
案内文によれば、
城址は本丸中央を国道2号線が貫いており、周囲も宅地化して失われている。
姫路市役所東支所の敷地内が城址公園になっており、城址碑が建てられています。
支所の建物は城郭風になっており、その裏には空掘跡に天川橋が架けられている。 城址公園と国道を挟んで南側に小公園があり、こちらが本丸跡と言われている。 ここには天川城址の碑と、小寺大明神が祀られている
とあります。
姫路市役所東支所の建物です。
御着城は永承16(1519)年、播磨守護赤松氏の家臣、小寺政隆によって築城され、
茶臼山城・天川城とも呼ばれていました。
天川を外堀とし、四重の堀が廻る大城郭であったと「播州飾東郡東御野庄御着茶臼城地絵図」
で伝わっており、英賀城・三木城と並んで播磨三大名城と呼ばれています。
小寺氏は3代に渡って御着城に居城し、黒田氏はこの小寺氏の家老として、 姫路城に居城していました。
天正5(1577)年、織田信長の中国攻略として、羽柴秀吉が播磨へ侵攻してくると、 小寺政職は、家老黒田孝高の説得によって織田方に味方しました。
天正6(1578)年、三木城の別所長治が信長に叛旗を翻すと、 政職もこれに共鳴して毛利方に味方しました。
秀吉は、三木城を孤立させるため、播磨の諸城の攻略を進め、
御着城は天正7(1579)年12月、押し寄せる秀吉勢との攻防2日の後、
政職が密かに英賀城に逃れる事によって終結しました。
この後、御着城は黒田官兵衛に預けられましたが、その後、御着城は廃城となっています。 姫路市御国野町御着1142-8
南側歩道上から見た城跡(二の丸)です。
黒田官兵衛顕彰碑です。
同上
姫路城主・黒田家の墓所(上記案内文)
ここの墓所には、黒田孝高(よしたか)(官兵衛のちの如水)の祖父・重隆(しげたか)と生母(明石氏)の2人がまつってあります。 黒田家は御着城主小寺家の家老となり、重隆の時から姫路城を守って姫路城主となりました。姫路城主は子の職隆(もとたか)、孫の孝高とつぎましたが、天正八年(1580)秀吉の播磨平定の時、孝高は姫路城を秀吉に譲り、父職隆と自分は国府山城(妻鹿)に移りました。職隆の墓所は妻鹿にあります。のちに黒田家は筑前福岡の城主となったので、どちらの墓所も地元では「チクゼンサン」と呼んでいます。 ここの墓所は、1802(享和二年)に資材を九州から運んできて造られました。廟屋を持つ立派なもので、周りの龍山石の石塀から内部は、昭和五十六年に姫路市指定史跡となっています。 支所の西側に建っています。
入り口は、解放されています。
墓所正面です。
城跡の内、内堀に当たる部分で、支所の裏側になります。
東側のグランド北側に残っている土塁跡です。
同上。
支所東にある梅の花が満開でした。春は来ています。
次回は、本丸跡をアップします。
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播磨国風土k探訪中、福本陣屋跡がある大歳神社を漫遊しました。
ヤフーはじめ他の地図検索サイトは、どうしても地図の拡大に制限があるため、ブログに添付する際制限がありますので、マピオンを印刷、スキャナで取り込んで添付しました。(ほかに方法があるかもですが)
場所は、国道312号沿いにある、神崎高校の南側の道を東に回り直進したところにあります。
鳥居のそばに
陣屋跡の石碑が建っています。
車は鳥居内に止めました。
境内にある陣屋の案内板です。
参道です。まずは神社にお詣りしました。
拝殿です。
本殿です。
陣屋跡案内図です。
福本陣屋跡
神崎郡神崎町福本、大歳神社 この地は但馬、播磨の国境にあり、北は天領(幕府直轄地)生野銀山に接した交通の要所のため寛文四年(1664)五月、徳川家康の外戚に当たる池田能登守政直公(祖父が家康の娘督姫、祖父は姫路藩主池田三左衛門輝政)が福本一万石を与えられ因幡国(今の鳥取県)鹿野より入部されて以来明治維新まで約200年間神崎郡北部の政治、経済の中心となったところです。 建物は小藩のため陣屋形式で現在の大歳神社境内全体が藩邸跡で社殿のところには藩主御殿があり、又神社参道の両側には家臣の屋敷約100戸が整然と立て並び武家屋敷と町家は竹林による天然の防護柵で区切られておりました。当時の面影を残すものとしては月見燈篭が浮かぶ藩邸跡の庭園及び国道添いに残している武家屋敷数軒、防護を目的とした竹林等があります。
出島の神社
雨が降り出したため、駆け足で回りました。
この地は明治維新まで約200年の間
神崎郡北部の政治経済の中心でした。
現在の大歳神社付近一帯が陣屋形式の藩邸跡です。
陣屋の面影は本殿の南側に残っている池付近に往時の庭園がしのばれます。
木々の間に池が広がり、その中の細い道で結ばれた島に
月見灯篭があるすばらしい回遊式庭園地である。
陣屋の構造は播磨のほかの小藩と違い、藩主の屋敷と侍屋敷を一体として
竹矢来を組み防衛の体制をかためています。
大歳神社は廃藩後大正二年に福本字や真似から移されたものです。 (現地案内パンフレットより)
境内から見た参道です。
案内板の地図の部分の拡大です。
確かに大歳神社の中に陣屋跡があることがわかります。
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林田の里漫遊に際して、風土記に関係なく、林田町を散策しました。
簡単に記事アップします。
① 林田陣屋跡
姫路市には二つの城下町があります。
一つはいわずと知れた「姫路藩」
もう一つは「林田藩」です。
『林田陣屋跡案内板』(写真)によれば、
室町時代の後期、谷沢国氏がこの丘に築城し、窪山城と称したのが始まりであるが、
永正十三年(1516)赤松政村に背いて落城した。
藩祖建部政長は慶長十五年(1610)八歳で亡父の跡を継ぎ、 大阪の陣では徳川方に属し、摂津国尼崎城を固守した。
その功により、政長は元和元年(1615)七月、摂津国川辺郡(兵庫県)西成郡(大阪府)の内で
一万石の所領を与えられ、大名に取り立てられた。
元和三年(1617)九月、播磨国揖東郡林田に一万石で入封し、
窪山城の跡を聖岡と改め、ここに陣屋を構え、灌漑用に鴨池をつくるなど農業に尽力した。
以来藩主の交代なく廃藩置県まで十代二百五十年余り建部氏が治めた。
三代「政宇」は伏見奉行にもなり、京都の大火で禁裏が炎上したときは造営にも当たり 正徳四年(1714)には寺社奉行にも昇進している。
七代「政賢」は学問を好み、林田藩校敬業館を創設した。 九代「政和」は幕府の大番頭として京都二条城守護の重責につき、 敬業館の振興のために河野鉄兜を迎えた。
歴代藩主の墓は、京都紫野の大徳寺内芳春院にまとめてまつられている。 建部家は外様大名であったが、姫路藩・岡山藩との縁故もあり、郡北に雄視していた。 とあります。 ② 林田藩 藩校 『敬業館』
寛政六年(1794)、学問を好み、儒学を尊ぶ七代藩主 政賢が家臣の文武士気向上により創設。講堂・聖廟・練武場・文庫などが併設。現在は講堂のみが残る。講堂の正面式台玄関に掲げられた「敬業館」の扁額は白河楽翁候(しらかわらくおうこう 江戸幕府老中 松平定信の隠居後の名)の書とされる。学術品行に優れた者は藩費で遊学させ、また士族の子弟のみならず、庶民でも志願者は入学を許された。昇降着席は同じ扱いではなかったが、授業は一様に区別なく行われたという。
文久3年(1863)火災にあったが、一年足らずで再建された。教授に石野黄裳や高野鉄兜が知られ、林田藩の教育は大いに振興し、二人は「君美文章、夢吉詩」と諸国に知れ渡った。
式台付きの玄関に掲げられた扁額『敬業館』は白川楽翁候(しらかわらくおうこう江戸幕府老中 松平定信の隠居後の名)の書であるとされ、寛政の改革で知られる松平定信は、寛政5年(1793)に老中職を辞し陸奥白河藩の政治に精励しているときに、時の藩主政賢が敬業館の題字を依頼したとされる。原本については現在姫路市立城内図書館に保管されている。 ③ 三木家住宅
林田藩1万石の大庄屋の貴重な建物
主屋(17世紀中頃の遺構)・長屋門・蔵など6棟が県指定文化財 三木家は、英賀城主三木氏の出自と伝えられます。
天正8年(1580)、羽柴(豊臣)秀吉による播磨侵攻により英賀城が落城した際、
一族は各地に逃れました。
当家は林田に来て帰農し、江戸時代を通じて林田藩の大庄屋をつとめました。
周囲は土塀等で囲まれ、南西には園池が広がっています。敷地内には主屋、 長屋門、引き続き矩折れに長屋、土蔵(米蔵、内蔵、新蔵)の6棟の他、
屋敷神、裏門等が残っています。
また長屋西端には藩主を迎え入れるための御成門が建てられています。
主屋他6棟の建物は、平成2年(1990)兵庫県指定重要有形文化財に指定されました。 また、古文書は5,068点、古絵図も10数点が残され、内6点が附指定を受けています。
当日は休館日で内部は見学できませんでした。
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坂越浦城跡へは、大避神社をめざしていけばわかりやすいです。
神社の参道の坂道をそのまま進むと奥に左折できる道があります。
その上が公園化している坂越浦城跡です。
駐車スペースもありますので、城跡の目の前まで車でいくことができます。
城跡には簡単な案内板とモニュメント化した城址碑があります。
特筆すべきは眼下に広がる坂越の港と瀬戸内海が一望できるロケーションです。天然記念物の生島もよく見えています。
坂越浦城は、「坂越浦砦」または「坂越城」とも呼ばれ、室町時代に播磨地方を支配していた山名氏が築いたと言われています。その後、龍野城主である「赤松下野守村秀」の通城(かよいじろ)となり、坂越を支配したと言われています。
江戸時代には、この展望台の前の小高い場所に赤穂藩の御番所が置かれ、坂越浦に出入りする船の監視をしていました。 『坂越浦城跡案内板』より
瀬戸内海に浮かぶ生島です。
確かに海上交通の監視場所としてはいいところですね。
城跡に至る道の紅葉です。
落ち葉が広がっていました。
駆け足の赤穂市内探訪でした。
またゆっくりと探訪したいですね。
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