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太陽公園は、兵庫県姫路市の峰相山山麓にあるテーマパークです。
世界の石で作られた建造物や遺跡、石像などのレプリカを多数設置した「石のエリア」と、
隣接する敷地の山上に建設された山城「白鳥城」をメインとする「城のエリア」に分かれています。
「石のエリア」の見ものは、全長2キロにおよび再現された「万里の長城」と、1000体の兵馬俑が発掘された現場を再現した兵馬俑展示館であり、そのほかの展示物も、ほとんどのものが実物大で作られており、見るものを圧倒する施設になっています。
何度か訪問しましたが、今回は、太陽公園に再建された鶏足寺を見ていなかったので訪問しました。 鶏足寺(けいそくじ)は、播磨国にかつて存在した寺院で、姫路市西北部の峰相山にあったとされています。
この寺院については、貞和4年(1348年)頃に成立した『峯相記』という書物に記載された寺伝以外に根拠となる史料がないそうです。
『峯相記』は筆者は不明であるが、貞和4年(1348年)頃、鶏足寺に参詣した一人の旅の僧が、寺の老僧から聞いた話を書き記したという設定になっており、播磨地方の寺社の縁起などが記されていて、当地方の歴史を知る上で貴重な資料とされています。
同書によれば、神功皇后が三韓征伐の際に連れてきた新羅の王子が草庵を建立したのが当寺の始まりで、その王子は3世紀ほど後の敏達天皇10年(581年)に没したという。
伝承によれば、「皇后が新羅の王子を連れ帰ることにした。王子は皇后に渡海を無事に終えて日域(日本のこと)に着けば、伽藍を建てたいと願い出たが、仏法の是非のわからない皇后は明答しなかった。
皇后は帰国後、西域の不安に備えて副将軍の男貴尊を播磨にとどめおき、王子を預けた。その後、王子は、峯相山に草庵をつくって、千手陀羅尼を唱えた」とある。
鶏足寺には空也や書写山圓教寺の開山・性空も来山したと伝わる。『峯相記』が書かれた1348年頃には寺勢はすでに往古にくらべて衰退していたという。 天正6年(1578年)、中国攻めの羽柴秀吉に抵抗したため、全山焼き討ちにあい滅亡し、廃寺となったが、平成になって、峰相山山麓にあるテーマパーク太陽公園の施設の一部として再建されました。
標高244mの峰相山は姫路市の西部、山陽自動車道と国道29号線が交わる地の北方にある。かつて山上には、神功皇后の三韓征伐に由来する日本最古の寺院なのではと一部で言われている峯相山鶏足寺の、壮大な伽藍が建ち並んでいたという。
だが天正6年(1578年)に、織田信長が羽柴秀吉に命じた中国攻めに無謀にも反抗し、果敢に立ち向かった鶏足寺はあえなく焼き討ちにあい、一宇を残すことなく全山火に包まれ、その長い歴史を閉じ二度と再興することなく今に至るという。
その焼き討ちの手先となって働いたのが、姫路城生まれの軍師黒田官兵衛だという。 播磨名所巡覧図絵該当部分 峰相山鶏足寺古蹟由来
峰相山と言うは東西両嶺相合う峰の様子から言う。鶏足寺と言うは釈迦十大弟子の迦業が入定した印度伽耶城の東西鶏足山に似ている処からで西峰の主峰は250mにして風早嶺と称し梢下に神岩大黒岩と名付くる奇岩等多く現出す。
神功皇后三韓へ派兵の砌り新羅の王子を伴い帰朝す皇后帰洛の途次当国播磨に王子を留め給う王子此の山に草庵を結び十一面観世音菩薩を祭祀給うこれ即ち峰相山鶏足寺の起りなり。その後宮中にまで鈴声聞こえ錦繍金玉二丈五尺の幡降り下る斯くして奇瑞興り大いに発興す。 即ち奈良朝には金堂講堂法華堂常行堂五大尊堂一切経堂鐘楼勧請神堂五重塔三重塔宝蔵及び僧房300余等々広壮なる寺観を誇る。平安初期より衰微の兆見え天正6年8月10日小寺氏により堂舎悉く焼亡さる。 然して現在は堂塔伽藍の跡礎石若干残すのみ。尚竜野市誉田町井上の観音像は等寺焼亡の際難を免れし御本尊と推定される。当寺の縁起由来については峰相記播磨風土記播磨名所図絵等に詳述してある。 平成5年4月吉日 峰相観音講一同 |
播磨国風土記
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これまで風土記を漫遊していますが、「讃容郡」は一度も漫遊していませんでしたが、
讃容の地名になった「佐用都比賣神社」に行きたいと急に思い立ち車を走らせました。計画段階では、日本で最古の神社と言われている「天一神社」を巡る予定でしたが、今回初めて「鳥取自動車道」が開通していることを知り、ついでにと少し奥まで走ってみました。
鳥取自動車道は、中国横断自動車道姫路鳥取線のことで、鳥取IC〜佐用JCT間
の道路です。嬉しいことに無料です。延長:86.5km の4車線(暫定2車線)道路です。
中国道佐用ジャンクションから入り「大原IN」まで行き、一般道におり、岡山県東粟倉にある「ベルピール自然公園」に行ってみました。
ここは、10数年前に甥っ子が結婚式を挙げた場所で、美作富士を一望できるビュースポットです。大きなアーチ型の鐘楼には、直径2m、重さ6トンに及ぶ、「リュバンベールの鐘」と名づけられた、大きなスウィングベルが備えてあり、ベルの音が緑の深山に鳴り響き、訪れた人は誰でも気軽に鐘を鳴らすことができます
鐘楼
すごく荒れていました。
利用する人も少ないのでしょうか?
天空の大パノラマ!
この景色は変わっていませんね。
この後、愛の村パークで昼食をとりましたが。ここもさびれていました。
そうそうに退散して平福に向かいました。
平福は佐用郡佐用町に属し、しばしば時代劇のロケ地にもなっている赤茶色の土蔵と川屋敷が建ち並ぶ「川端風景」で有名な旧宿場町・在郷町。秋から冬の朝霧の名所としても知られるています。
室町時代は赤松氏の拠点で、江戸時代初期に築かれた利神城の城下町を起源としています。 一国一城令による利神城廃城のため城下町としての歴史は短かったのですが、陣屋や鳥取藩本陣が置かれる因幡街道最大の宿場町として発展しました。また高瀬舟が坂越から千種川を遡って支流の佐用川の当地へ海産物などを運び入れたことで商業が隆盛、その1.2kmの区域の300戸余りの家の約8割に屋号がつく商人の町となった。
昭和初期まで出雲街道・因幡街道および佐用の中心として繁栄していたが、鉄道が敷設されなかったため衰退しその地位を失った(1994年に漸く智頭急行が開通し平福駅が設置された)。 往時の面影を伝える旧街道沿いにある連子窓と千本格子を持つ古い家並みと水運で賑わった佐用川沿いの石垣上の川座敷と土蔵群は、1983年に制定された佐用町歴史的環境保存条例の保存区域の指定を受けています。
今までは、たびたび通過した町で、道の駅に立ち寄る程度でした。
道の駅ひらふくから見た「利岩城」の遠望です。
道の駅すぐ南側にある陣屋門です。
本陣跡です。
本陣東側の門
本陣南側の門
本陣北側に隣接する「金毘羅神社」です。
所在地 佐用郡佐用町平福705-7
主祭神 大物主大神 オホモノヌシノオオカミ
配祀神 豊受大神 トヨウケノオオカミ
由 緒 無格社
街並みの一部です。
川端風景
対岸はかっての災害復旧でしょうか?工事を行っておりました。
この風景だけを見たかったので立ち寄ったようなものです。
ゆっくり回りたい町ですが、ここもそこそこに「佐用都比賣神社に向かうことにしました。いずれ再訪します。
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⑯ 道祖神
古刹龍門寺の東、網干西小の南に道祖神があり、 路地を入ると仁弘山義徳院があります。
龍門寺開基の盤珪禅師の生誕地「義徳院」を目指します。
⑰ 義徳院
盤珪禅師の生誕地で、盤珪の父が徳島から流れてきて当地で医師として生計をたてていました。
盤珪が1623年に生まれた後、11歳の時に父を失い、大覚寺で学び、 室津や京で修行し
、「不生禅」の悟りを開く。禅師の母がこの地に尼寺を開山号仁弘山(にんこうざん)、
寺号義徳院(ぎとくいん)は、盤珪国師の生誕地です。
境内には約260年前に建立された「盤珪国師誕生之地」の石碑と、
産湯に使った井戸である「盤珪国師初湯之井」があります。
日本各地できびしい修行をし、「不生禅」を説き、龍門寺を開祖しました。
⑱ 船渡八幡神社
余子浜の揖保川河口近くに八幡神社がある。 神功皇后の西征から帰還のとき、
この地に船をつけたといわれています。
この河口近くの余子浜村に鎮座する船渡八幡神社は、
小字地名「船戸」から名付けられたもので、その起こりについて『網干町史』は
「神楽岡、余子浜の西、揖保川にのぞめる地に鎮座する船渡八幡宮は一に若宮ともいい、
もと船戸とも書いたようです。
船戸は道祖神であり、猿田彦を祭ったものである‥八幡を祭ったのは後のことである」と述べ、
また『揖保郡誌』は「八幡御手洗場」のこととして、船渡(ふなと)八幡社とていねいに読み
仮名を付けている。
船戸、岐神(くなどかみ)また久那斗神とも書かれる道祖神は、
道行く人を安全に守る行路神の一つであるが、わが国では道祖神や
庚申さんなどの呼び名で親しまれ、村境や国の境となる川の船着場近くに
祀られることが多いようです。
拝殿です。
神功皇后が座ったとされる石です。
本殿です。
力石です。
揖保川堤防道路から見た神社と揖保川です。
⑲ 加藤家
神社の北に初代網干町長加藤邦太郎氏の顕彰碑と加藤家があります。 碑の題字は勝海舟の筆とか
⑳ あぼしまち交流館
神社木南側に「あぼしまち交流館」がありました。
※ 田ステ女石像
国道250の網干橋東詰め田ステ女の石像があります。
田ステ女は、同じ兵庫県の柏原の出身で、6歳にして「雪の朝 二の字二の字の下駄の跡」の
句を残したとされる才女です
老後に移り住んだのが網干で、網干に不徹寺を開基して多くの女性信者を指導した ことを記念するもののようです。
網干大橋東詰めの橋の下に置いてあります。
山陽電車網干駅に到着です。
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網干町を歩く5はになります。
陣屋門跡から揖保川を渡り西に行くと「龍門痔」があります。
⑮ 龍門寺
臨済宗妙心寺派。1661年盤珪によって開基。
丸亀藩主や浜田の豪商の寄進で建てられたため、 檀家がなく 地元の企業や有志が護持会をつくり維持している。
4月3日の献茶式法要では、直径50cmの大茶碗による大茶会が開かれる。 盤珪和尚は、元和8年(1622)というから、徳川家康の死後6年目、
盤珪はこの年、播州揖西郡浜田郷の医者の3男として生まれた。
浜田郷とは、現在の網干区浜田のことで、関が原から既に22年が経ってはいたが、 この年の8月、幕府は京都の町衆に向ってキリスト教徒を匿うことを禁止した。
長崎では55人が処刑されるなど、人心は関が原の後遺症から、まだ完全に立ち直れていない時期でもあった。 『在るがまま』こそが『明徳』であり、それが後に『不生』へと発展していく過程で、 盤珪が残した和歌に、開悟していくその姿が込められていると先達はいうが、体験したことのないものにとって、それは非常に困難なことだった。 色香をも知らぬ昔はみ吉野の
花もあだやに春をへぬらん 承応元年(1652)、盤珪31歳のときに詠んだ歌です。 盤珪は、丸亀藩主京極高豊らの帰依を得て、龍門寺を創建した。
寛文元年(1661)、40歳の時だった。
弟子400人、尼僧270人を数え、法話、逸事、言行などを記録した書物も、 三十部を超えていた。
寛文6年(1667)6月、健康を崩して、9月3日に入寂。世寿72歳。 龍門寺のほかに創建した寺は47か寺を数え、没後、盤珪禅師のために 開山されたものを含めると、およそ150か寺にも及んでいた。
――苦行の果てに掴んだ『不生』。 不生を説く盤珪に、大衆は湧いていたといいます。 そんな『在るがまま』を、分かりやすく説法する盤珪の聴衆の中に、ひときわ目立つ尼僧がいた。
不生禅の悟りを開いた禅僧と、揺れ動く心情を奥深く秘めた捨女との、初めての出会いだった。 秋風の吹き来るからには糸柳
心ぼそくも散る夕べかな 捨女が出家を決めたときの歌なのだが、尼僧は亡夫7回忌の翌年、天和元年(1681)12月21日、
頭を落とし浄土宗に帰依、妙融と号していた。
『在るがのまま』の悟りを得る。
静かに説く盤珪の言葉の奥に、捨女は己の姿を見つけようとしていた。 既に出家していたとはいえ、捨女の作品は多くの俳諧集に選句され、貞門女六俳仙の一人に数えられるほどで、そのプライドが捨て切れないでいたが、甘えていた己の姿に、やっと気付いたのかも知れない。 このお方こそ、私を生かしてくださる人に違いない。 尼僧は、貞亨5年(元禄元年 1688)、名も貞閑と改め、龍門寺のそば近くに不徹庵という小さな庵を結ぶ。捨女56歳の時だった。 1698年に死去し龍門寺に葬られた。龍門寺には現在も捨女の墓があります。
裏にある竹林です。
本堂です。
不生の庭です。
案内に渡されたものです(笑)
鐘楼です。
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引き続き網干の町を歩きます。
⑩ 大覚寺
善慶寺の北側に丸亀藩と龍野藩を区切る堀に架けられていた「境橋」から
古い町並みを歩いていくと、古刹「大覚寺」に着きます。
<由緒>
1233年の創立した光接院(こうしょういん)が前身で、もとは真言宗として余子浜 字古網干にあったが兵火で焼失し1556年に堯淳上人がこの地に移して再興した。 この時上人は白鶴に導かれ当地を選んだので、以来「鶴立山大覚寺」と称し、浄土宗に 改められたと伝えられている。 当寺の中興の祖と言われる智淳上人は、時の後陽成天皇の帰依を受け、豊臣秀吉が訪れる など寺運大いに栄えた。 江戸時代には高い格式を誇り、盛時は6つの塔頭があり幼児の盤珪国師や河野鉄兜の勉学所 でもあった。寺記によれば、現本堂は1634の建立で、その後諸堂が造営されて今に 至っている。秋には隔年毎に寺宝が公開されている。 また三宝荒神夏祭り(6月26〜28日)は網干ゆかた祭として有名。 (寺の看板より) 兵庫県 姫路市 網干区 興浜 151
網干の町並みです。
⑪ 山本家住宅(興浜地区)姫路市都市景観重要建造物
大覚寺から更に西に歩くと、城郭のような山本家があります。
山本邸
陣屋跡に通じる街道は、室津への街道だった。 今も往年の町並みが保存されている。
兵庫県住宅百選に選ばれた山本家は明治初期の建物で、 大正時代に網干銀行の頭取や網干町長を務めた山本真蔵氏が建築。
3階に望楼がある。
街道沿に金毘羅神社もある。 ⑫ 金比羅神社
山本家の前に鎮座する「金比羅神社」です。
この神社は、丸亀藩に属していたことから、四国から勧請されました。
⑬ 陣屋門
金比羅神社のすぐ西側に、丸亀藩1万石の飛び地の陣屋跡に復元された
陣屋門です。
龍野藩主だった京極家は四国丸亀に移封された後も、網干の興浜や浜田など28カ村を飛領として支配し、陣屋を設けた。京極家の紋瓦がある陣屋門は当時のものだが、昔の藩邸などは明治期に取り壊された。
正面です。
案内板
⑭ 不徹寺
田捨女は1634年、丹波国氷上郡柏原藩(現在の兵庫県丹波市柏原町、当時の藩主は織田信勝)に、
柏原藩の庄屋で代官も務めた田季繁の娘として誕生した。
6歳のとき、「雪の朝 二の字二の字の 下駄の跡」
という俳句を詠み、周囲にその才を認められる。後に北村季吟に師事。
1674年(延宝2年)夫が死去したため髪を下ろし妙融と号した。
この頃にはすでに貞門女流六歌仙の1人として著名であった。
その後子供らの独立を見届けた後、京都で俳諧・仏道などの修行を重ねた後、
1688年(元禄元年)播磨国の天徳山龍門寺の傍らに「不徹庵」という庵を構え、
貞閑と改名。その地で後進の指導に当たった。
1698年に死去し龍門寺に葬られた。龍門寺には現在も捨女の墓がある。
死後 [編集]捨女の生誕地である柏原町の丹波市立崇広小学校には
捨女を顕彰する記念の石像が、また資料館として柏原町歴史民俗資料館がある。
また捨女の名を冠した俳句のイベントが定期的に開催されるなど、地元での認知度は高い。
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