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姫路城中壕周辺の探訪は、船場周辺探訪から始めました。
主として門跡を中心に回ってきましたが、未だ回っていない北部・東部が未探訪のため、
目の手術後運動を兼ねて回ってみました。
上記マップの赤○が既探訪門跡です。
黒○は、今回探訪した地域です。
旧来、姫路市街は「内町(うちまち)」「神谷(かみや)」「野里(のざと)」「船場(せんば)」の4つに大別して呼ばれていました。
内町は中濠から外濠までの地域のことで、神谷・野里・船場は「外町(そとまち)」になります。
神谷は外濠から東・神屋町周辺、野里は外濠から北・野里周辺、船場は船場川から西の周辺のことで す。
ちなみに、中濠から内は武家地といわれていました。 (姫路観光ガイドより)
今回の探訪は、外町の野里周辺になります。
1 野里門跡
野里門は、野里にあるところから名づけられました。
「野里」という地名は、「播磨國風土記」にいう「大野の里」に属した地域で、古くから人々が暮らしていたところです。
荒れた広い野原という意味の大野が開墾され人々が住む里になり、後に、大野の大が省略されて「野里村」が生まれたとされています。(新・姫路の地名より)
門跡北側から撮影 野里小学校を挟んだ位置から撮影壕の南側に「県立歴史博物館」等が あります。
野里門跡から少し東へ行き、お夏清十郎を祀る「慶雲寺」を巡り、その後野里街道を南下し姫路東高校の東側に至ると中壕に出ます。これは、別途2としてアップします。
西部・南部の中壕と違い、この壕は写真下右のように遊歩道になっており、この道を歩いていくと、大きな鯉が何十匹も悠々と泳いでいるのが見えます。
2 久長門跡
遊歩道を南下していくと久長門跡に出ます。
「久長(きゅうちょうまち)」という名の人が、この町を開拓したことから名付けられました。この町は久長門を 出たところにありました。
場所は、姫路医療センター(国立)と淳心高等学校に挟まれた道路にあります。
写真右下は、正面が姫路美術館、右が医療センター、左が淳心高校です。
3 内京口門跡
久長門跡から中壕沿いに歩いて行くと「京口」門跡に出ます。
この門は、外曲輪の「外京口門」とともに京都に通じる道を守るために名前が付けられたそうです。
場所は賢明女子学院高校南側と、旧姫路警察署の北側に挟まれた道路上にあります。
中壕は、西部と東部では趣が少し違っていました。
東部は、壕の内側に文教施設が多く並んでおり、西部は、民家
道路になっていました。
そういえば、かって中壕と内壕の間には
市役所、裁判所、検察庁等がありましたが、今は駅南へ移転しています。
このほか外壕にもたくさん門があったようです。今はほとんど面影が残っていませんね。
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姫路城
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榊原家は前後2回にわたり姫路藩主となりましたが、第一回目の榊原家は、
1649年から1667年の18年間に3代、
第二回目は1704年から1741年の36年間に4代に亘って姫路藩城主を務めています。
第一回目の榊原家の初代城主「榊原忠次」は、1649年から1665年までの16年間姫路城主を務め、「増位山随願寺」に祀られています。随願寺の鮮やかな唐門で記事アップしています。
その子の「榊原政房」は、書写山圓教寺のこの廟所に祀られています。
そして、第二回目の初代「榊原政邦」は1704年〜1726年城主を務め、増位山随願寺に夫人とともに祀られています。そして、その子「榊原政祐」は、1726年〜1732年の6年間姫路藩城主を務め、この廟所に祀られています。
第一回目と第二回目のそれぞれの二代目が、同じ廟所に祀られていることになります。
廟所の石垣です 廟所に上がる石垣下に設置してある案内板です。
石段を上がっていくと、入り口は柵がありましたが、それを乗り越えて中に入っていきました。
写真は正面で、お馴染みの廟所風景です。
石塔は2基ありますが、向かって右側の石塔です。
これは、「榊原政房」の墓です。
向かって左側の石塔は、「榊原政祐」の墓です。
次の廟所は、松平家の廟所です。
榊原家の廟所から少し南側に行ったところにあります。
ここには、「松平直基」(1648年〜1648年)が祀られています。
廟所は、写真でも分かるように、比較的静かな場所にあります。
土塀で囲まれ、入り口には木の柵が設けられています。
、「松平直基」は、徳川家康の孫(秀忠の第5子)で、出羽の国山形城にいましたが、1648年姫路城主を命ぜられましたが、姫路に赴く途中病で倒れ、神奈川県のお寺に祀られましたが、直基の子「松平直矩」(1648年〜1681年)姫路藩城主になってから、1670年分骨し、ここに祀りました。
すごく趣のある土塀に囲まれています。
入り口は木の柵がありましたが、鍵がかかっておらず、スライドして中に入りました。
土塀の中にはお馴染みの石囲いがあり、その中に
「松平直基」の石塔が祀ってあります。
「松平直基」の石塔です。
移封のため発病し、新地に赴けなかった無念さが分かる気がします。
蝉時雨の中、石棟の前に座り込み見つめていました。
よく考えてみると、徳川四天王のうち、榊原、本多、酒井諸侯が姫路城主となっていますね。
天下統一を果たした徳川家康が、西の外様大名を抑える目的で、家康の腹心を送り込んだものと言えます。
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久しぶりに書写山に登ってきました。
目的は「歴代姫路城主廟所」探訪のためです。
書写山は、過去数回登山しましたが、いずれも「圓教寺」が中心で、廟所にはあまり興味がなくとおり過ごしてきました。
今回、城跡巡りの傍ら姫路城主の墓を探訪してきましたが、江戸時代の歴代城主のうち、姫路市内に設けられている廟所の最後の場所となります。
下のパンフは、探訪時貰ったもので、赤丸の3カ所が廟所のあるところです。
書写山圓教寺については、この次の記事でアップします。
ここには、本多家を初め、榊原家・松平家の3カ所の廟所がありますが、
まず、本多家の廟所です。
本多家の廟所は、大講堂の東南の隅に土塀で囲まれたところにあります。
廟屋五棟と本多忠刻らの墓碑が並んでいます。
五棟の廟屋は、江戸初期から中期にわたる廟屋の建築として県下でも例のない珍しいものです。(兵庫県指定文化財) 廟所正面です。
西側から撮影しました。
西側には、圓教寺の中でも有名な「三つの堂(大講堂・食堂・常行堂)」があります。
また、映画「ラストサムライ」の撮影場所の一つにもなっています。
写真右は、廟所を西南から撮影。
写真左は、正面にあった案内板です。
それによれば、この廟所には
5棟の堂があります。
本多忠勝・忠政・政朝・政長・忠国5代の廟屋であり、5棟ともほぼ同一の構造形式です。
廟所の建立は本多忠勝廟所が寛永3年(1626)、忠政廟所が寛永8年(1631)、政朝廟所が寛永15年(1638)、政長廟所が貞享2年(1685)、忠国廟所が宝永元年(1704)であるとされています。 また、棟のない大きな2基の五輪塔がありますが、それは、忠政の子「忠刻(ただとき)」と孫「幸千代」の墓です。
本多忠政は、池田家のあとを受けて1617年、桑名より姫路へ移り、城を整備したり船場川の舟運を開いた城主です。(1617〜1631)
政朝は、忠政の次男で父の跡を継ぎました。(1631〜1638)
忠国は、二度目の本多家の姫路藩城主で、1682年福島より入封しました。(1682〜1704)
忠勝は、忠政の父で、「本多平八郎」と称し、幼少より徳川家康に仕え、徳川四天王の一人で有名です。
政長は、政朝の子で、大和郡山の城主となりました。
この二人は、当初別の場所に埋葬されていましたが、この地に写されました。
廟所の正面に立つと、入り口に鍵がかけられており中に入ることは出来ませんでした。(そんなぁ〜〜!)
そういえば、日曜、祝日のみ公開していると書いてあったっけ・・・・・(汗)
そこで仕方なく格子から撮影(上左の写真)裏手に回り上から撮影(写真左下)をしていますと、大講堂におられた作務衣の方が近寄ってこられ、ご親切に鍵を開けて頂きました。
な、なんとラッキー、何度もお礼を言って早速中に入りました。
下の右の写真は、めでたくオープンしたところです(^_^)
門を潜ると、まず正面の堂の中にある墓石が目に入ります。とにかく、今までの歴代城主の墓の中では立派です。思わず足を止め見ほれていました。
案内板(写真上右側)によれば、本多忠国公の墓です。享年39歳
写真上左側は案内板。
写真右は、本多政長公の墓。大和郡山で没したが、忠国が大和郡山から改葬した。
享年47歳
廟所北側に設けられている案内板。
左奥にある、本多政朝公の墓。姫路城主 その横西側にある、本多忠政公の墓(姫路城主)
享年39歳 享年57歳
本多忠政公の墓 本多忠勝公の墓。桑名城主(享年63歳) 桑名から改葬された。
堂のない五輪の塔 忠刻と千姫の長男「幸千代君の墓。(享年3歳)
手前は、本多忠刻公の墓。(享年31歳)
忠正の長男で、千姫の婿
この他にも、忠刻公の墓の裏手には、
○ 宮本三木助(宮本武蔵の養子) 忠刻の墓前で切腹して殉死
○ 宮田角兵衛(宮本三木助の弟子。三木助を解釈した後、その場で殉死。(享年31歳)
○ 岩原牛之助(元本多家の家臣、当時浪人)他国にいたが、墓前で切腹して殉死。(享年21歳)
の3名の殉死者の墓が寄り添うように建っています。
この区域は、立ち入り禁止柵が設けられており、撮影は出来ませんでした。
また、ラストサムライでは、この廟所の中で撮影されました。
トムクルーズと渡辺謙の二人が、桜満開の中で話しているシーンですが、廟所内には桜の木がなく、全て造花を使ったと、お寺の方に聞きました、
いずれにしても、今までと違って立派な廟所でした。絵筆を握りたくなるようなロケーションです。
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本日の午後1時30分から
姫路市にある「イーグレひめじ3階」にある「あいめっせホール」で開催された
黒田官兵衛を大河ドラマに!姫路シンポジウムに行ってきました。
姫路市も、かなり以前から、街の活性化を図る目的でNHKの大河ドラマで戦国の知将黒田官兵衛をドラマ化され、放映されるよう運動をしてきておりました。
今、現在放映されている「龍馬伝」で高知市は勿論京都市が大いに賑わっていることを思えばうなずけますが・・・・・。
このシンポウムの中で行われたのが、
戦国の知将「黒田官兵衛と題する講話を受講しました。
ホール入り口受付の状況です。 左同
ホール内の状況です。ほぼ満席です。
カメラも多数入り盛況でした。
やはり男性の年配者が多く、女性は、
動員された?おばさん達(汗) 姫路市長の挨拶です。
講師は、福岡県出身の「安部龍太郎」氏(作家)です。
著書としては
天馬、翔る
彷徨える帝
関ヶ原連判状
風の如く水の如く
信長燃ゆ
生きて候
天下布武
道誉と正成
下天を謀る
などがあります。
(パンフレットより)
講演する「安部龍太郎」氏です。
パンフレットのプロフィールコピーです。
講演は1時間に亘りました。
内容は、
黒田官兵衛の生涯の中で、小寺家の家臣として毛利方に付くか、信長方に付くかという主従の鬩ぎ合いについて、黒田家の旧臣がまとめた如水と長政の言行録「故郷物語」を分かりやすく解説する内容でした。
確かに、この時の様子は、数ある歴史書にも書かれておりますが、時の政治の背景や、組織の中での決断力や先見の明について、管政権と比して楽しく話されました。
33歳の武将が、先を見据えた行動や、父や家臣の決意等に感銘を受けました。
参加者の多くは、安部氏の内容を熱心にメモしており、私も走り書きでメモりました。
でも、私の探訪に新たな宿題も増えましたが・・・・・。
次回も講演があれば拝聴したいですね。
シンポジウムの開催状況です。
姫路市長
連合自治会長
青年会議所理事長
作家
の4名がパネラーとなり、熱くNHK招致の必要性を討議しました。
出来ればNHK政策担当者も呼べば・・・・とも思いましたが。
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私のお城探訪は、司馬遼太郎の「播磨灘物語」から始まりました。
NHK招致もさることながら、今後もこのような講演会に参加しようと思います。
休憩時間に1階ホールに展示されているお菓子の姫路城も見てきました。
お城から大名行列、立木全てお菓子で出来ています。
菓子博で展示されていたものをこのホールに展示しているもので、市民にとっては誰でも知っていますが・・・。
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今日は、姫路藩第33代城主「榊原政邦」とその奥方、更には側室のお墓、第28代城主「榊原忠次」のお墓を探訪しました。
これらのお墓は、姫路市の北部、広峰山と連なる「増井山」にある「随願寺」に祀ってあります。
この寺は、厩戸皇子(聖徳太子)が高麗僧の慧便(えべん)に命じ開基した増位寺が前身です。当初は法相宗寺院であったが、承和元年(834年)仁明天皇の命により天台宗寺院となり、嘉承2年(849年)「随願寺」の寺号を与えられたと伝えられています。
後には播磨天台六山の一つに数えられるようになり、中世末期には多くの衆徒を抱え、 多数の坊舎が立ち並ぶ大寺院であったが、天正元年(1573年)に三木の別所長治に攻められ全山焼失。寺僧は他所に避難していたが、天正14年(1586年)旧地に再興された。今の本堂は、寛文6年(1666年)姫路藩主榊原忠次によって再建されたものであり、これにより、榊原忠次のお墓が建立された。(随願寺案内抜粋)
お寺に行くには、白国から増井山登山道路を登っていきますと、駐車場に着きます。
車をとめて随願寺に向かいます。
駐車場からの道です。 途中、木立を抜ける道です。 蛇ヶ池?
すぐに境内に到着しますが、お寺の裏側であることが分かります。
目の前に「開山堂」が現れます。
どっしりとした綺麗な形のお堂です。
下の写真は「鐘楼」です。 本堂正面です。
とりあえずお墓を目指します。境内に下のような案内板がありますから景福寺と違い楽でした。
案内板に従って東に進んでいくと、梅林があり、さらにその奥にお墓はありました。
右の写真が入り口です。
見てのとおり、立派な墓所です。
左側が城主、右側が夫人の墓石です。
左は夫人の墓のアップです。
右が城主のアップです。
いずれも亀が背負っています。
さらに、本堂横にしばらく行ったところに、榊原政邦の側室「実相院」の墓所があります。
この側室は婦人病に悩んだことから、死後、婦人病に苦しむ人を救いたいとの遺言を残した
ことから、「しも」の病に効果があるとされ、今もお参りする人が多いようです。
実相院の墓所アップしました。
次に、本堂西側にある「榊原忠次」の墓所です。
色鮮やかな唐門を正面に備え、煉瓦塀で囲まれた立派なお墓です。
中央には巨大な碑があって、忠次の功績を碑に彫られた3,000文字に表わしているといわれています。そしてその文字全てを間違わずに読むと、碑石のカメが動くという伝説もあるそうです。是非その碑の文字を見たかったのですが、墓所の入口の朱色の鮮やかな門の扉が固く閉められていて、中をうかがい知ることは出来ません。(見ても読めないと思います・・・)
門越しにお墓を撮影。 東側から撮影。
駐車場に戻る途中に見かけた「池田輝政」の墓標です。
本当のお墓は、岡山県備前市にある「池田家墓所」に祀られています。
三代のお墓参りをしてきましたが、それぞれの城主の姿は浮かんできませんでした。
でも、側室までこのように立派に祀るということは、夫人と側室がうまくいってたのかな?
なんて凡人の考えることで一杯でした。
その他散策
梅林の案内。かなり大きいので来年花見に来てみたい気がしました。 境内の池です。
駐車場の北に広がる公園です。もう少し早ければ菖蒲が見れたのに。 駐車場です。広いです。
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