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航空写真をコピーしました。位置関係を見てください。
今回は、姫路市山田町多田にある「多田廃寺跡」と「諏訪神社」です。
多田廃寺跡は、まだ漫遊を始めた頃、古墳のある諏訪神社を探訪しているときに
見つけました。何となく撮影をしておこうと思ったのがこの写真です。
小さな交差点にある石碑を発見して車を交差点の真ん中に止めて撮影しました。
その後諏訪神社へ回りました。
兵庫県姫路市山田町多田920番
市川中流左岸の段丘上にあり、ほぼ東西方向に主軸を保つ全長約40mの前方後円墳。後円部側面には、片袖式の横穴式石室が南方に向かって開口する。横穴式石室としては古式のもので、6世紀前半と推定されるが、出土遺物については明らかではない。
神社遠景です。
拝殿です。
拝殿正面です
拝殿の奥にある本殿です。
本殿が古墳になっています。
ユーチューブの動画で、氏子の出入り状況を見ることができました。
拝殿に続く古墳への入り口は板塀に囲われていて見えません。
拝殿の横にある「多田廃寺塔心礎」の案内板です。
塔心礎全景
近寄ってみました。
アップです。
前方後円墳の状況です。
神社と古墳全景です。
昼間も薄暗い諏訪神社は、横穴式石室を神殿としていた。
俗にいう諏訪の岩穴で、拝殿横の2個の大きな石は白鳳期の多田廃寺の塔心礎だった。
大正初めの大規模開発で、東西2個の塔心礎が見つかったという。 かつて播磨にも、雄大で荘重な寺院が造営されていたことは、残る礎石や古瓦の出土からよく分かるという。
見野、本郷、播磨国分寺、播磨国分尼寺、上原田、小川、白国、平野、辻井、市之郷と、奈良白鳳期の播磨平野には、大きな寺院が点在していた。 なかでも辻井のそれは、今でも田んぼの真ん中にポツンと礎石が残され、昭和57年、市の発掘調査で講堂跡が発見されていた。 礎石は、心柱をはめ込む穴が大きく掘り込まれた塔心礎だったが、この時の調査で、塔と金堂が左右に並ぶ法隆寺式の寺院が明らかになっていた。 |
神社探訪(神前郡)
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今回は、前回アップした「神明神社」にあった「竹宮神社」を探して、姫路市山田町南山田に鎮座する
「竹宮神社」を漫遊しました。
所在 姫路市山田町南山田1139
祭神 天照皇太神・豊受大神・三野権現
となっています。 播但連絡道の船津ランプを降り、県道41号を東に走ると、白露ゴルフクラブの手前
の山裾に鎮座しています。
写真は南側から見た神社です。
神社正面の様子です。
鳥居の左側にある神社案内版です。
山田地区地域夢プラン実行委員会が掲出しています。
山の斜面を3段に削平して上段本社、中段拝殿、下段境内広場としています。
平安朝の頃、天照皇大神だけ祀っていましたが、文永9年(1272)90代亀山天皇の御代、
鎌倉幕府7代惟康親王の時代に境内各社を本殿に合祀した記録があります。
南山田には若宮、天満谷、才谷、柳谷、宮の谷、福井谷、牛谷などの字地名があり、
かつて江戸時代以前(中世以来)にはそれぞれの谷に小社が祀られていました。
明治政府の一村一社令によって各地小社を宮の谷、今の鎮守の地に合祀して現在に至っています。
鳥居をくぐって入った神社境内広場です。
中断の拝殿、上段の本殿が見えます。
拝殿正面です。 拝殿です。
絵馬です。 本殿に続く階段です。
本殿正面です。
本殿内部です。 本殿です。
明治43年(1910)に選座された境内社の愛宕神社です。
その右にある稲荷神社です。
並列3社の右社殿は大正4年(1915)に合祀された若宮神社です。左が天照皇太神となっています。
若宮神社前の木製手書きの板です。
本殿祭神として
天照皇太神
豊受大神
三野権現
の名が書いてあります。
しかし、神崎郡誌には、
天照皇太神
豊受大神
稲倉魂神
大年神
の4神が祭神と記載され、
境内社として、愛宕神社若宮神社が記されているそうですが、どこにも竹宮という名はありません
主祭神のうち、豊受大神は「愛宕神社」で、稲倉魂神は、稲荷神で稲荷神社に
それぞれ祀られていることになり、本殿は誰が祀られていることになるのか?
さらに、
平安朝の頃、天照皇大神だけ祀っていましたが、文永9年(1272)90代亀山天皇の御代、鎌倉幕府7代惟康親王の時代に境内各社を本殿に合祀した
と書いてあります。
本殿左側にある
天照皇太神
の石塔です。
3社のうちの左側に祀られていることになります。
石塔正面です。
同上です。
ここまで見てきて、奇妙に思ったのは、
全ての社殿が丁寧に造られているのに、
主神の一人の天照皇太神の社殿がないと言うことです。
市川氏の言う古代の不思議は、このことについて
天照皇太神を祀っているが祀っていない・・・・そんな意図が見える、犬飼の神明神社と同じ感覚で天照皇太神を重要視していない。8世紀の裏面の古代史が浮かんでくる と。
本殿に祀られているのは、郡誌にいう主祭神4名のうち、大年神が祀られていることになるんでしょうか?
勉強不足の私には理解しがたい部分も多いが、現地を訪れてみて、なるほどと頷ける部分も多いですね。
さらに、市川氏は、木製手書きの板に記載されている「三野権現」が何かということで、を
三野はサンノー、つまりサンノーとは山王であり、三野権現とは山王権現ではないか?
つまり、竹宮は山王神社の別名ではないかとしています。
こうなると、ますます分からなくなってきます。
もう少し、市川氏の説につきあってみます。
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神社中段の広場にある「犬塚」です。
神明神社は、姫路市香寺町須加院にある「田川神社」の口社であるのでは?と推理されていますが、
確定はされていないようです。
上のURLは記事アップした田川神社のものです。
右の写真は、境内社の「竹宮神社」と主祭神の天照大神の神社配置です。
前回でアップした記事のように、
主祭神の天照大神が単純に高所に奉られているだけのような気がしますね。
これでは、正体不明の竹宮神社の祭神が主祭神でのようです。
塚は西南のすまっこにあり、しかもフェンスに囲まれており触れません。
犬塚の由来は、前回記事アップのとおり、
南條郡の犬飼村は、昔は、沢村といった。
ここの農夫で提左助という者が人身御供の祭祀当番になり、神主も里の人も、一女のすげ・十三歳の少女を差し出せという。折りしも、伊勢の御師で芝左太夫という者が、左助の家に泊まっていたが、彼には愛犬がいた。 御師が(少女の)名代になって、笹の枝に四手をかけ、神主の頭山氏民部とともに夜の宮に参り集った。そして、御師を神前にさし置き、榊を取る伴御代わりと名のり、四方の戸を閉めて皆は帰った。 そのあと、彼は愛犬をつれて宮に籠もった。燈火ですかし見ていると、夜半を過ぎるころだった。風が激しく御戸を開き、一丈余りの大猿が一咬みにせんと挑みかかってきた。御師は伴の犬を追い、猿と犬が食い合ったが、ついに犬が猿をかみ殺した。 御師が刀で大猿の首を取ると、たちまち、狸と化したという。 これより、この御備えは止まった。 こののち、伊勢雨宮を祀り氏宮とあがめ奉ったのだが、この時の犬を飼ったという故事から、沢村を更めて、犬飼村と号するようになったということです。 このような伝説は、各地に多くあり、岩見重太郎のヒヒ退治が有名です。
市川氏は、古い神から新しい神に代わったという逸話で、人身御供を強要する悪者の古い神から、それを救った正義の神・・・・それが伊勢の神で、天照大神が祀られたということになるそうです。
このときまで祀られていたのが「竹宮明神」と言うことになりますね。
竹宮神社とは何者なのか?
同じ「竹宮」を冠する神社が、対岸の姫路市山田町に存在しています。
次回の探訪先はこの神社に決定ですね。
高台にある、背面から見た塚です。
上記同です。
国道312号から見た「神明神社」のある伊勢山です。
この神社付近には、背後の伊勢山麓に伊勢大神が神馬で飛来せられたと伝える馬
蹄の跡があったが、明治三〇年ごろに石の切り出しを行って今はないとのことで発見
出来ませんでした。
いずれにしても、いろいろな逸話のある地域ですね。
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市川愼氏著作の「神代の残像 姫の國への道標」に基づいて神社を探訪しています。
市川氏の説を十分に理解できないまま、行き当たりばったりに回っていますが、
論理は後でまとめることにして、神社探訪の結果をアップすることにしました。
今回の神明神社は、以前記事アップした香寺町の「田川神社」の口社では?
との説と、姫路十四の丘伝承の「犬の丘」ではないかとする説があり、さらに、
この神社の祭神についての不思議を体感するために大いに興味をかき立てる
神社です。
所在/姫路市香寺町犬飼
神明神社/犬飼字伊勢山/村社 祭神 天照大神
由緒 播磨鑑には白河法皇勧請を記すが、永禄九年、増井山東南有明山鎮座の天照大神を遷座し たのに始まる。
となっています。
そもそも、神明神社の祭神は、本来「天照大神 」となっています。
が、この神社での天照大神 は、主祭神ではなく、まるで境内社の一部のようになっています。
国道312号を福崎方面に北上していき「犬飼南交差点」を左折し、播但線踏切を越えてすぐ左折
そのまま道なりに進んでいくと、右手に鳥居が見えてきます。
写真は、神社参道の東側にかかる播但線の鉄橋と、通過する電車です。
鳥居前にある案内板です。 取り周辺の様子です。
鳥居をくぐると、奥に続く長い石段の参道が見えてきます。
参道途中にある広場に掲出されていた神社案内板です。
神社調書 には、
播磨鑑伝承に云う。 南條郡の犬飼村は、昔は、沢村といった。 ここの農夫で提左助という者が人身御供の祭祀当番になり、神主も里の人も、一女のすげ・十三歳の少女を差し出せという。折りしも、伊勢の御師で芝左太夫という者が、左助の家に泊まっていたが、彼には愛犬がいた。 御師が(少女の)名代になって、笹の枝に四手をかけ、神主の頭山氏民部とともに夜の宮に参り集った。そして、御師を神前にさし置き、榊を取る伴御代わりと名のり、四方の戸を閉めて皆は帰った。 そのあと、彼は愛犬をつれて宮に籠もった。燈火ですかし見ていると、夜半を過ぎるころだった。風が激しく御戸を開き、一丈余りの大猿が一咬みにせんと挑みかかってきた。御師は伴の犬を追い、猿と犬が食い合ったが、ついに犬が猿をかみ殺した。 御師が刀で大猿の首を取ると、たちまち、狸と化したという。 これより、この御備えは止まった。 こののち、伊勢雨宮を祀り氏宮とあがめ奉ったのだが、この時の犬を飼ったという故事から、沢村を更めて、犬飼村と号するようになった。 とあります。
その横にある
犬飼の案内図です。
さらに参道は続きます。 社殿が見える最後の階段です。
階段を昇りきったところです。
まず目につくのが拝殿です。
北向きの拝殿の右横に45度はあろうかと思われる屋根付きの石段が見えています。
拝殿正面です。
拝殿正面に掲げてある「竹宮大明神」の額と絵馬です。
ここから不思議が始まります。
拝殿西側から続く石段です。 その突き当たりに見える拝殿です
神社の配置から見れば、この階段は境内社へと続いていると思ってしまいます。
でも、拝殿正面に掲げてあったのは、
天照大神はここに祭られてあります。
天照大神の本殿です
その傍らにある「境内社の天満宮」のようです。 そこから見た神社配置です。
さらにその北にある稲荷神社です。
神社調書には記載されていない神社だそうです。
天照大神前から見た竹宮神社の本殿です。
その他の社より立派です。
神社配置状況です。 天照大神社から見た参道です。
竹宮神社本殿から見える天照大神社です。
竹宮神社前の境内の様子です。
このように、神社の配置から見ると、主祭神は詳細不明の「竹宮明神」となります。
主祭神に天照大神、境内社として天満神社・竹之宮神社(不詳)を記していますが、 市川氏はこの配置が奇妙だとしています。
境内は長い石段の上にあり社殿は北向き、 その社殿に祀られているのが境内社と記された「竹宮明神」ということになります。
社殿の脇からさらに階段を上った所に別の社殿があり、天照神はそこに祀られています。 側に祠があり、たぶんそれが天満神社と思われます。
神社調書では、永禄九年に増井山東南の有明山から天照大神を遷座したのに始まる とされています。
この神社配置は、主神は竹宮明神で、天照大神はまさに、上げ奉られている形だす。
さらに、別宮で祀られているのが稲荷神社で社殿は天照神の社殿と遜色ありません。 しかもこれは、調書に記されていない。
竹宮神社は、不明とされています。果たして竹宮神社とは??
その2に続けます。 |
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今回は「笠森神社」です。
所在/兵庫県神崎郡神河町東柏尾
祭神等詳細不明
ヒメコ連峰を取り囲む神社の一つで紹介されていましたのでお詣りしました。
前回の「薬王子神社」と同じ町道沿いにあります。
道路を南下していると右側に赤い鳥居が見えます。
路上駐車してお詣りです。
鳥居の右にある建物は?
「かんざき桜の山桜華園」と看板が出ていましたが人影はありません。
神社額と手洗い所です。
鳥居の先にある社殿です。
拝殿正面です。
拝殿の中です。ここも鍵はかかっていませんでした。
神社横にある古墳の案内板です。
同上
神社の裏側にある古墳の入り口です。(赤いところ)
赤いのは立ち入り禁止の鉄柵でした。
入り口から古墳内部を撮影。
憤丘です。神社の真後ろにあります。
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