黄門ちゃま漫遊記

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茶すり山古墳訪問後、「伊由神社」に立ち寄りました。
 
所在地  朝来市伊由市場243-1
主祭神  少彦名命  スクナヒコナノミコト
由  緒
創立年月不詳
 延喜式の制小社に列し、明治6年(1873)10月村社に列せらる
 
この神社も、青倉神社同様「不思議の古代史」の図書記載の神社で立ち寄りました。
 
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播但線・青倉駅の南東1Kmほどの伊由市場に鎮座。
青倉駅から円山川を越え、312号線を超えて526号線を進むと道路の南側に境内があります。
 
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神社案内板です。青倉神社への表示が大きく出ていました。
 
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神社境内から西側を望みます。
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木製鳥居の脇には「式内 伊由神社」と刻まれた社号標
 
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鳥居をくぐると境内の奥に塚のような場所がありその上に社殿が並んでいます。
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中央には、覆屋に納まった本殿。その左右には、同じく覆屋に納まった境内社があります。
 
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本殿は「こけら葺」で、扁額には「正一位大森大明神」とある
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左手の覆屋には、小祠が2つ
 
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右手の覆屋には、小祠が2つと石が祀られている。
『兵庫県神社誌』には金比羅神社と寿賀神社の名が記載されており
『平成祭データ』には、加えて護国の宮の名が載っている
 
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式内社・伊由神社の論社となっている古社。
 扁額にある通り、大森大明神とも呼ばれているようです。
 祭神は稚産霊命。一説には、「伊由」は「湯」の意味であり湯神社が変形したものと考え、各地の温泉を祀った神社が、大名持命・少彦名命を祀っているように当社の祭神も、少彦名命を祭神とする説もあるようです。
 
※  不思議の古代史には、但馬の國にもいろいろ神社が鎮座されているようです。
出石神社、養父神社等まだまだ訪問したい神社が数多くあります。
 
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前回に引き続き「粟鹿神社2」を記事アップします。
拝殿正面です。
落ち着いた建物でほっとします。
重厚な木造建築感で、訪問できて良かった。
 
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神社本殿です。
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境内社です。
 
神門を入って左側に鎮座する天満宮
 
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厳島神社です。
 
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御社殿の左に鎮座する床浦神社
御祭神は大己貴命
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床浦神社の奥に鎮座する茗荷神社
御祭神は草野姫命
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稲荷神社の参道と稲荷神社
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拝殿の右隣に鎮座する猿田彦神社
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 現在、姫路市の神社西部編を記事アップ中ですが、ちょっと寄り道で但馬方面を漫遊してみました。
 最初は朝来市山東町に鎮座される「粟鹿神社」です。
この神社は、既に記事アップしている「青倉神社」漫遊の際に寄りたかったのですが、時間の都合で寄ることができず今回の漫遊になってしまいました
 
 
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 きっかけになったのは下の図書からです。
姫路地名由来を探していくうちに「不思議の古代史」に巡り合い、購入した図書に記載してあったことから訪問してみました。
 
 
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所在地   朝来市山東町粟鹿2152
主祭神   日子坐王  ヒコイマスノミコト
由 緒
 和銅元年(708)に祭神や歴代祭主などを詳細に記した粟鹿大明神元記の写本が残る(宮内庁所蔵)
 当社は但馬国最古の社として国土開発の神と称す。国内はもちろん、付近の数国にわたって住民の崇敬が集まる大社であり、神徳高く延喜の制では名神大社に列せられた。
 人皇第10代崇神天皇の時、第9代開化天皇の第三皇子日子坐王が、四道将軍の一人として山陰・北陸道の要衝丹波道主に任ぜられ、丹波一円を征定して大いに皇威を振るい、天皇の綸旨にこたえた。
 粟鹿山麓粟鹿郷は、王薨去終焉の地で、粟鹿神社裏二重湟堀、現存する本殿後方の円墳は王埋処の史跡である。旧県社。
彦坐王(ひこいますのみこ、生没年不詳)は、
記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。彦坐命、日子坐王、彦今簀命とも。開化天皇の第3皇子。母は姥津命の妹・姥津媛命(ははつひめのみこと)。崇神天皇の異母弟、景行天皇の曾祖父、神功皇后の高祖父にあたる。
『古事記』によると、王は崇神天皇の命を受け、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)退治のために丹波に派遣されたとある。
稗史によれば、彦坐王は美濃を領地として、子の八瓜入日子とともに治山治水開発に努めたとも伝えられるが、その後裔氏族は美濃のみならず、常陸・甲斐・三河・伊勢・近江・山城・河内・大和・但馬・播磨・丹波・吉備・若狭・因幡など広汎に分布している。時代は下るが、戦国時代に大名となった越前朝倉氏は本姓日下部氏で、彦坐王の子孫と称する但馬国造家の流れを汲んでいる。
 
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瀬駅から、427号線を南東に2Km、そこから南へ1Km弱、粟鹿川の南、粟鹿にある。道路の西側に白い鳥居が立っている。
 
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馬国一宮は出石神社と当社の二社とされる。但し、いくつかの資料で異なっており、鎌倉時代の但馬国大田文では当社を二宮としているが、室町時代の大日本国一宮記では当社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていない。現在は両社ともが但馬国一宮を称し、全国一の宮会に加盟している。
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参道をあるくと、土塀に囲まれた境内、北側に勅使門、南側に日の出門があります。
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但馬国一の宮、延喜式に定める明神大社でもある粟鹿神社は、昔から神徳の高い神社として朝廷の尊崇が厚く、国家の大難に際して四度の勅使が派遣されたと伝えられています。その折にお陰があったことを記念して建てられたのが勅使門です。
 本柱間の両開きの唐戸は、透かし彫りの欄間をつけ、羽目板には鳳凰が刻まれ、頭貫には唐草模様が見られます。
全体的には、唐様でありながら、天竺様の手法が取り入れられた貴重な町指定文化財です。
通常は年二回の大祭(祈年祭・例祭)以外に開かれることはなく、俗に「開かずの門」とも呼ばれています。

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勅使門の門扉には、左甚五郎作の鳳凰の彫刻があります。粟鹿神社の七不思議に、この鳳凰の話があります。名作ゆえに夜な夜な飛び出し、人を驚かせ、鳴声もうるさく、苦情がきたため、首を切り落とされてしまったそうです。
左右の門扉の右の扉の鳳凰が首から下だけになっているそうですが、よくわかりません。
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日の出門(随身門)です。その奥に見えるのが「勅使門」です。
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日の出門境内側にいる木製神門狛犬
古式に則り、阿は獅子、吽は角が付く狛犬となっています。非常に整った顔立ちで、逞しい体つきの、素晴らしい狛犬です。
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社殿全景です。
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社殿前、昭和9年生まれの出雲丹後狛犬
島根県ではなく、阿吽の位置が反対で、阿は親そっくりの子狛を連れています。
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※ 粟鹿の地名由来
粟鹿の地名由来については、歴史博物館ネットワーク「兵庫歴史ステーション」に分かりやすく説明されています。
イラストもあり楽しめます。
 
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 6月から7,8ヶ月の3ヶ月かけて治療した眼の手術も今月で終了しました。
結果は、本日「神戸市民病院」に行き結果を聞いてきました。
果たしてどうなのか?まぁ、可もなく不可もなくってことでしょうか?
 
漫遊もまだまだ沢山残っていますので、運転が出来る間、
ぼちぼちまわてみることにしています。
現在、姫路市の神社西部編を漫遊していますが、今回は、その中で
 
ある意味特別?な神社を訪問していましたので、記事アップします。
神社の特別という表現は変ですが、神社庁に登録されていない神社
で、「寛延義民社」という名で呼ばれている「置塩神社」です。
 
義民(ぎみん)とは、飢饉などの際の一揆の首謀者や幕末の尊皇攘夷運動
において国事に奔走した百姓などのことを言います。
主に江戸時代、村落共同体の代表として年貢の重圧による生活の困窮を
 
領主、幕府に直訴した人物。特に直訴は死罪とされていたため、
その行為は義挙と賞賛されていました。
 
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所在地 :兵庫県飾磨郡夢前町
祭  神
  姫路藩一揆の中心人物として処刑された、滑(なめら)の甚兵衛、
  塩田の利兵衛、 又坂の与次右衛門の霊を慰め、その遺徳をたたえる
  ために建てられた神社。
 
姫路市街から北に向かって県道67号走ると、「塩田温泉」の上山旅館
に行く交差点に行き着きます。
その手前200メートル右側に鳥居が見えます。
 
ここが置塩神社です。
県道を挟んで西側の川沿いに、駐車場がありここに車を止めました。
鳥居には置塩神社とは書いてなくて、寛延義民社と書いてあります。
 
鳥居の横に顕彰会が作った石碑が、参道階段両脇に置かれています。
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参道の階段です。
鳥居の割には荒れている参道です。
階段の両端に続く石灯籠群です。
 
どんなに人が来ていないかは、石段でもわかります。
石段は、まんなかの手すりでのぼりの段と下りの段に分かれていますが、
木の枝葉落ちており、蜘蛛の巣も多く歩きにくい状態でした。
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階段から見た社殿です。
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拝殿正面です。
拝殿も拝殿の周りも放置されたままという感じですね。
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拝殿脇にある案内板です。
寛延二年(一七四九)姫路藩では凶作続きと藩の悪政により極端な財政不振となり、年貢米をきびしく取り立てようとした。農民はたびたび年貢米の減免を願い出たが聞き入れられず、遂に年貢米の徴収の機能を停止させるために立ち上がった。
寛延二年正月二十八日、置塩郷の百姓達は日頃人望のある滑の甚兵衛を先頭に、塩田の利兵衛、又坂の与次右衛門らと共に結集して立ちあがった。一揆の軍勢は一万余の大群衆となり、姫路藩から鎮圧に向ってきた藩兵を蹴散らしながら、大庄屋、庄屋、御用商人等、六十余軒ちかくを打ちこわし、姫路城にせまる勢で進んだが、二月二日藩四村の誉福寺で、藩から依頼された船場本徳寺の御坊様の説得により解散した。
その後一年半におよぶきびしい取調べの結果、一揆のおもだった者は、磔、獄門、遠島、国払いの刑に処せられた。寛延三年九月二十三日、市川の河原にて滑の甚兵衛は磔、塩田の利兵衛、又坂の与次右衛門は獄門となりその遺骸は返されず、法要も行なえず、ようやく三十三年後の安永十年(一七八一)ささやかながらも村人によって供養碑が建立され、昭和二十九年(一九五四)に置塩神社が創建された。その尊い志は、未来永劫に郷土の誇りとして伝えたいものである。』(立て看板より)
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さらに、寛延義民を顕彰する会の説明によると、
 
寛延2年(1749)姫路藩で蜂起した西日本最大の百姓一揆。
当時、姫路藩は家康の二男結城秀康を祖とする越前松平の系譜である
松平朝矩の治世でありましたが、藩の財政は極めて厳しい状態にあって、
 
江戸、大阪の豪商や藩内の商人に藩の年貢を抵当に借財を頼む状態でした。
藩士の知行借り上げや領内の町民、百姓にも負担が強いられ、
町方、村方にも御用金の割り当てなど年貢の取り立てもますます厳しく、
 
その上に寛延1年の不作で百姓は生活の窮状を訴えて、藩に対し度々、
年貢の減免や延納、猶予を願い出たが認められず、領内のあちこちで
百姓の蜂起が始まりました。
姫路城の北、置塩村でも不穏な動きがあり、
古知ノ庄の百姓、滑の甚兵衛をはじめ塩田の利兵衛、又坂の与次右衛門を
指導者として1月28日蜂起し、庄屋の打ち壊し、焼き討ちなどを働きました。
 
加古郡、印南の一揆とも合流して総勢1万人余の大一揆なったそうです。
一時は鎮圧に出た藩兵をも押し返し、播磨一帯を掌握する勢いとなりましたが、
藩は大阪奉行所の応援を得てようやく鎮圧しました。
 
鎮圧にあたって藩は、船場本徳寺の僧侶に依頼して一揆の指導者の
説得に当たらせたといいます。
この一揆で滑甚兵衛ら首謀者をはじめとして345名が捕らえられ、
 
多くの百姓を磔、獄門、遠島、追放などの重いに処しました。
滑甚兵衛は市川の河原で磔の刑を受けてこの一揆は終わりましたが、
一揆の首謀者たちの首は獄門台に曝されました。
 
時に甚兵衛40才、利兵衛37才、与次右衛門32才でした。
取り調べに当たった坂町奉行は、345人という多量の百姓を投獄し、
1年半もの長い取り調べの後、前之庄村滑の甚兵衞を磔の刑、
 
塩田の利兵衞、又坂の与次右衞門を獄門に処しました。
時の幕府は3人を死罪、5人を遠島、4人を播磨一国払い、18人を追放、
167人を過料に処していあす。
 
 
拝殿内部正面です。
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向かって右側の「塩田の利兵衛」の額
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向かって左側の「滑の甚兵衛」の額
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本殿
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境内から見た階段
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石灯籠の一部
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「磔獄門 2名
     斬首獄門 2名
     死罪打捨 3名
     牢死 33名
     など345名の魂に捧ぐ」
      寛延義民顕彰する会
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神社近くにあった塩田の利兵衛の墓碑
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※ 姫路藩主の墓石を訪ねて漫遊したことがありました。
  下の写真は、この一揆の時の藩主「松平朝矩」の墓です。
  ものすごく荒れています。
  修復もされていません。  
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「松平直基」の石塔が祀ってあります。
 
書写山にあります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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写真右は、本多政長公の墓。大和郡山で没したが、忠国が大和郡山から改葬した。
享年47歳
書写山にあります。
映画「ラスト侍」のロケ地です。
 
 
 
 
 
 
 
 
普通は、この二枚の写真のように、藩主の墓は丁寧に祀られていますが、
時の藩主「松平朝矩」の墓は荒れ放題になっています。
この一揆の百姓達の祟りでしょうか?怨念でしょうか?
 
 
 
 
また下の写真は、夢前町にある固寧倉発祥の地標識です。
力石漫遊の、夢前町置本の町村公民館脇にある案内標識です。
江戸時代・度々の大飢饉で庶民生活は、困窮の窮みに達し
 
多くの餓死者が出ました。
これら庶民を救うために文化6年((1809)飾西郡町村組大庄屋:
衣笠弥惣左衛門氏長の主唱により、時の藩主:酒井忠道が
 
家老:河合寸翁に建議し、 飢饉や災害に備えての非常食料保管庫を
文化6年(1809)より藩内各地に92ヶ所設置させたことが固寧倉のはじまり
といわれ、弘化年間(1844-48)頃には300ヶ所ちかく在った様で、
 
姫路市や福崎町等数箇所に文化遺産として復元されています。
同じ藩主でも偉い違いですね。一揆とは関係ないのですが、
対比する意味でアップしました。
 
故郷にはいろいろな歴史があり、全てどこかで繋がっていると
感じました。

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青倉神社漫遊12

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前回に引き続き青倉神社2です。
二階建ての社殿というのは初めてです。
写真は1階の拝殿でしょうか?
巨石が丸出しになり、しめ縄がはってあります。
その前に「二階ご神殿があります。ご参拝ください」とあります。
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二階に上がる階段が両側についています。上から見た階段です。
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二階上がると祭壇がありました。
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同上
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同上
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社殿の外に回ります。
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これがご神体の巨石です。
正面と反対側には行けませんでした。自然?人の手?
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その脇清水が流れていました。これが霊水?
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帰り際社殿を振り返りました。
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金色に輝く文字
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参拝後、来た道を戻らず、駐車場から黒川温泉方面に向かいました。
この道もカーブが多く細い道で、3台車と離合しました。
ひやひやものでした。
道の終わりは、黒川ダム湖西側の舗装道路でした(ほっ)
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大きく迂回するダム湖道路を下りていくと黒川ダムに着きます。
写真は何故か1基だけの風力発電装置がありました。
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ダムを下りきったところで撮影しました。
 
 
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そのわきにある美人の湯で有名な黒川温泉です。
 
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温泉の横奥に藁ぶきのお寺がありました。大明寺です。
 
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そのまま銀山湖を経て生野町内に出て帰りました
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