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播磨国の国土開発の神として伊和大神という名が多くの地方で伝承されています。
その伊和大神は、出雲から来た「大国主神」だとされております。
この辺りのことは、改めて記事アップするつもりですが、今回、大己貴神が国作りの拠点とし、さらに國造りを終えて鎮まったとされている「伊和神社」を探訪しました。
伊和の語源について、風土記の伝承では
神酒(みわ)から、或いは大己貴神が国作りを終えて「於和(おわ)」(感動詞・終わったの意)と呟いてこの地に鎮まったからとしている。
このほか、伊和は岩のことで磐座・山・鉱石などを意味するとも考えられています。
※ 伊和神社御由緒略記 (神社資料)
創祀 大己貴神は国土を開発し、産業を勧めて生活の道を開き、或は医薬の法を定めて、治病の術を教えるなどして、専ら人々の幸福と世の平和を図り給うた神であります。 大神は播磨国に特別の御恩恵を垂れ給い、播磨国内各地を御巡歴になって国造りの事業をされ、最後に伊和里(現在当神社のある地方)に至りまして、我が事業は終わった「おわ」と仰せられて鎮まりました。ここに於て人々がその御神徳を慕い、社殿を営んで奉斎したのが当神社の創祀であります。 その御神徳により、古来、農業・工業・商業等産業の神、縁結びの神、福の神、病気平癒の神、又、交通安全の神として崇敬されております。 一説に、成務天皇甲申歳二月十一日丁卯(144年)、或は欽明天皇二五年甲申歳(564年)の創祀とも伝えております。 (てんこもり劇場から)
所在地 兵庫県宍粟市一宮町須行名407
主祭神 伊和大神(大己貴神)『播磨国風土記』で活躍が描かれている伊和大神(大己貴神)を祀っています。 社格等 式内社(名神大)・播磨国一宮・国幣中社 海神社、粒坐天照神社とともに播磨三大社とされている。
祭神
大己貴神 少彦名神、下照姫神 摂社 播磨十六郡神社「播磨国式内東八郡の神」 摂社 播磨十六郡神社「播磨国式内西八郡の神」 摂社 五柱社「天照大神、宇賀魂神、國底立神、素盞嗚命、猿田彦神」 摂社 市杵島姫神社「市杵嶋姫命」 摂社 宮山の祠、白倉山の祠、花咲山の祠、高畑山の祠「大己貴神」 摂社 射楯兵主神社 祭神 射楯神、兵主神(昭和十三年兵庫県神社誌) 御造営 1、欽明天皇の御代(564年) 伊和恒郷に神託あり、西方の霊地(現在の鶴石上)に神殿を再築 2、建長元年(1249年)4月 炎上、朝廷より御再興 3、明徳三年(1392年)7月 赤松上総介儀則再興 4、永禄五年(1562年)2月 長水城主宇野越前守村頼再興 5、嘉永五年(1852年)2月1日 炎上、文久二年(1862年)二月 領主小笠原信濃守、本殿を造営、 幣殿以下は国の一の宮たるの故を以て播磨国内より金銭木材等を寄進して安政5年(1858年)2 月落成す 国道29号線に面した表参道。 ① 表参道から見た道の駅「伊和の里」
車はここに停めて参拝しました。
表参道。大きな木が連なっています。② 参道途中にある鳥居③
参道の途中にある「随神門」④ 案内板
参道突き当たりを左に廻ると本殿⑤ 本殿に向かって右にあるご神木
ご神木の側にある「神楽殿」⑥
拝殿⑦
丁度、車の安全祈願のためお若いご夫婦が祈祷を受けていました。
拝殿の絵馬
東側から見た本殿⑧ 屋根組の様子⑨
本殿の真後ろの下がった所に鶴石が祀られている。⑩
これは、欽明天皇甲申歳、伊和恒郷に「我れを祀れ」との御神託があり、一夜のうちに杉・桧等が群生して多くの鶴が舞っており、大きな白鶴が二羽石上に北向きに眠っていたのでその所に社殿を造営したという。
その石を鶴石といい、社殿が北向きであるのもそのためであるといわれています。 磐座信仰が出発点だった神社の歴史を物語っているのだろうか。
本殿を挟んで祀られている摂社⑪⑫
揖保川の東岸の大きい社叢の中に鎮座する神社周辺の山々は、削られたような跡と思われる谷が小刻みにあり、金属を採掘した跡と思われています。伊和神社の社叢の木々は、神域としてここ数百年は伐られたようには見えないくらい生い茂っていますが手入れは行き届いています。
揖保川沿いは古代からの交通の要路でもあり、一宮町には縄文時代早期から一連の土器が出土しています。少し奥に行ったところに「家原遺跡」があり、ここも記事アップします。
弥生時代に入って、有力な支配者も登場したのでしょうか、伊和神社の真西にあたる地点の山腹から銅鐸が出土している。一宮と銅鐸、この神を祀った氏族は鍛冶氏族でもあった証と思われます。
当社の創祀の伝承に鶴が登場しますが、鍛冶氏族は鳥の伝承を持つと言われており、銅鐸出土はとても興味深いですね。
伊和神社では祭祀氏族の伊和一族の居住地と伊和大神の伝承地とが重なるとされており、そこへかなり早い時期に中央の勢力が及んだと見られています。
中央の勢力とは、大和王権の勢力を言いますが、その前に天日槍の侵攻伝承が『播磨国風土記』で語られており、さらに近隣の吉備や出雲からの侵入もあったのではなかったかと思われます。 天日槍の侵攻伝承についても記事アップする予定です。
延喜式の時代には社名を「伊和坐大名持御魂神社」としている所から見ると、基層の住民は出雲からの移住者であったとも考えられる。
戦前刊行の『兵庫県神社誌』には、伊和神社の摂社に射楯兵主神社が記載されており、祭神を射楯神と兵主神としていますが、姫路総社の「射楯兵主神社」はこの神社から分遷したものであり、この神社は射楯兵主神社の元社になっているようです。
このことは、改めて「総社」の記事でアップします。 |
神社探訪(宍粟郡)
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