黄門ちゃま漫遊記

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白鳥城再訪

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数年前に訪問した「太陽公園」に再度行ってきました
たまたま親戚の者が遊びに来たので、昼食後ちょっと遊びにと思って立ち寄りしてみました。
 
目的は、石のエリアで、白鳥城はさ〜〜っと回るつもりでしたが、白鳥城に新しいアトラクションがあったと思っていませんでしたので、年よりたちが思いのほかハシャギ過ぎ時間を食ってしまいました(汗)
 
その模様を簡単にアップします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
城のエリアゲートから見た「白鳥城」です。圧巻です。
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お城に設けられている「3Dアートミュージアム」案内です。
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年寄りは何のことか分からず4階まで・・・
 
カメラがなければ面白くないですよ。
じっくり見てください。
 
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他にもたくさんありますが、私の写真はほとんど親戚のカメラに収まっています。
楽しみです。
 
最上階の王の間です。新たに玉座がもうけられていました
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障害者の方の作品も展示されています。その一部です。
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白鳥城中庭です。
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水尾神社には、男山三社の社務所として「崇敬会館」という社務所があります。
見てのとおり、社殿よりも大きく立派な建物です(苦笑)
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1階が社務所で2階が集会室のようなものがあります。
なおらいもこの二階で行いました。
 
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見ていただいたら分かるように、上座の右後ろに3体の人形が置いてあります。
この人形のいわれが下の説明です。
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千姫とその夫「本多忠刻」の木像です。
説明板によれば「姫路城西ノ丸の化粧櫓」に飾られてあったものだそうです。
 
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女性2体はいずれも千姫なんでしょうね。おちょぼ口の可愛い感じです。
現在、西ノ丸に飾られている人形は、ちょっと色っぽい感がしていますが、
その写真がないものですので比較できません。
 
今回自治会役員で参加したものですから初めて知りました。
近年「千姫天満宮」の参拝客が増え、この人形の見学要望もあるようです。
常時人がいませんので、水尾神社に電話すれば、宮司に繋がるようです。
一度覗いて見られればいかがですか?
 
 
 
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30日本番です。
朝8時半に神社に集合、午後3時からの神事の準備をします。
 
境内のテント設営です。
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これらの準備は、男山山上の八幡神社脇の倉庫からおろします。
テント、長机、、パイプ椅子など相当な量です。
おろしていくのは、簡易モノレール?です。
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社務所前には年番町のテントを置きます。
 
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ここには、神社の授与品やおみくじも。
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その他の準備に忙しく働きます。
湯立て神事用の笹です。             小宮神事用の準備です。
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水尾神社の準備です。
 
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湯立て神事の準備です。
湯立て神事は、湯立神楽(ゆだてかぐら/ゆたてかぐら)とも言われ、日本の伝統的な神楽の形式のひとつです。
釜で湯を煮えたぎらせ、その湯をもちいて神事を執り行い、無病息災や五穀豊穣などを願ったり、その年の吉兆を占う神事の総称です。
別名を「湯神楽(ゆかぐら)」とも言います。
 同じ湯立神楽でも神社によってかなり違いがあり、玉串に見立てた枝葉を浸して湯を撒くもの(神奈川県藤沢市白旗神社など)や、素手で煮え湯を払うようにして撒くもの(長野県飯田市正八幡神社(遠山郷)など)、全国的にも珍しいご神体を湯につけるもの(香川県丸亀市垂水神社など)などさまざま。なかには釜湯の中に米やお神酒などを入れるものもあるそうです(京都府京都市城南宮など)。
また、海辺の神社では釜湯に海水を使うところもあります。(千葉県横芝光町四社神社など)。
いずれも撒かれた湯(その飛沫)を浴びると無病息災になるとされています。
また、神社によっては釜湯を飲むと無病息災になるとされているところもあり、ビンなどにつめて持ち帰ることのできるところもあるそうです。(長野県天龍村池大神社など)。
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アルバイトの巫女さん登場です。
毎年募集するのが大変らしく、今回も氏子の親族等から説得して2人
来てもらいました。
すぐにアルバイト料の支払いです。非常に現実的です。
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でっ、衣装に着替えて写真撮影です。
一番多くカメラマンが集まりました。頭の毛が茶髪でも、結構似合っています(笑)
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小宮神事です。
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その後、宮司が各町テントを巡回しお祓いします。
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水尾神社での神事です。氏子代表が集合します。
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その後茅の輪くぐりです。
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氏子が茅草で作られた輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓うものですが、本年は多くの人が集まったため、大渋滞。急遽境内から出て大回りをさせましたが交通整理に大あわてでした。
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その間、湯立て神事に備え釜に火を入れます。
 
神事が始まりました。まず神主から。
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そして巫女さん二人も、お湯をかけるのに抵抗があるのか、なかなか前に進めません。でも、トップにある写真のように豪快に・・・?
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小さい茅の輪の配布です。          年番町の子供会によるビンゴゲーム
 
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多くのテントで一番聖教の綿菓子です。いろいろな種類があります。
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「なおらい」です
 
神祭りにおいて、神に供えたものと同様の御膳(おぜん)(斎食(さいしょく))、あるいは、神に供えた神酒(みき)や神饌(しんせん)のお下がりをちょうだいする行事をいいます。
一般には神祭りの最後に行われることから、これは神祭りに仕えるために、斎戒(さいかい)して清浄なる状態になったのを、祭りが終わって平常に戻ること、すなわち解斎(げさい)と説かれていますが、もともとは祭りのなかで斎食を頂くことであったようです。
宮中の新嘗(にいなめ)祭では、祭儀の中心において、神々との共食を直会と称し、京都の賀茂別雷(かもわけいかずち)(上賀茂)神社の御阿礼(みあれ)神事(神迎えの祭祀(さいし))では、祭場にて、神迎えに先だち、神酒と「掴(つか)みの御料(ごりょう)」(混ぜご飯のようなもの)を頂くことを直会と称しているなど、本来の直会の形式が今日もなお継承されています。
直会を解斎と説いたのは本居宣長(もとおりのりなが)である。すなわち、「奈保理阿比(なほりあひ)の切(つづま)れる也(なり)、直(なほ)るとは、斎(ものいみ)をゆるべて、平常(つね)に復(かへ)る意也」(『続紀歴朝詔詞解(しょっきれきちょうしょうしかい)』)と。以来、直会と解斎とが混同されてきたとされています。
 
まぁ、こむつかしい話は別として、酒飲みには待ちこがれていた時間かも知れませんね。(私は飲まないから・・・・)
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私たち年番役員は、テントなどの後かたづけで、なおらいの終盤に参列しました。
くたくたになって終わりました。
輪は7日に片づけます。まだ境内に残っているはずです。
 
 
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6月29日(土)、30日(日)の両日、姫路市山野井町に鎮座する「水尾神社」
の夏越の大祓祭に参加してきました。
今年度は、氏子年番町として自治会役員はもとより、多くの方々が参加します。
ちなみに私は神社漫遊はしていますが、全くの無信心者ですので、この一年間
はぼやきまくりの日々を送りそうです(笑)
 
男山3社
水尾神社が鎮座する 「男山」は、
伝承
『播磨国風土記』
姫路が海だった昔の話。大汝命の子である火明命は乱暴者で、これを憂いた大汝命は火明命を置き去りにすることを考える。因達神山(八丈岩山)まで来たところで、火明命に水を汲みに行かせ、その間に船を出して大汝命は逃げてしまった。置き去りにされたと知った火明命は怒り狂って波風を立たせ、大汝命の船を転覆させてしまった。この時に船から落ちた積荷などにちなんで周辺の14の丘に名前が付けられた。
男山には積み荷の箱が流れ着いたので「筥丘(箱丘・はこおか)」と名付けられました。
 
飾磨の褐染め
昔々、現在の自衛隊姫路駐屯地にあった長者屋敷から逃げた男女がおり、男が逃げた山は男山、女が逃げた山は姫山(現在、姫路城がある山)と名付けられた。
と古くからいろいろな伝承のある山です。
この男山には3つの神社がお祀りされています。
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水尾神社
 
所在地  姫路市山野井町1-3 
 主祭神  大己貴命  オオナムチノミコト
由 緒
 男山の麓に鎮座。境内から姫路城が眺まれ、城下町の家並が残る氏子約1,300戸の氏神社である。
 記録によれば、当社はもと伊和大臣を祀っていたが、29代欽明天皇26年(1460年前)6月11日この神を水尾山(古箕丘、今秩父山)に鎮祭し、延暦5年(786)6月11日将軍坂上田村麻呂は梛本の地に遷して祀った(現在の播磨国総社)。しかし山麓の民多く、男山の下に移り住み、神影を崇めて祠を建て奉祀した。
 後に元和5年(1619)3月本多美濃守忠政は姫路城築城の時、神守岡より岡大歳社を遷し社殿を造営する。この神は姫山の四方の守護として、岡主社、角岡社、角社の一社である。
 国内神名帳所載の神社として崇敬され、池田、本多、榊原、酒井等の藩主は、祭時に能楽を奉納した。霊威著しい神として祭神を本社に伴せ祀った。明治の神仏分離の際、大年社歳徳大明神を水尾神社と改め現在に至る。
 明治年間社殿を改築する。伴設の社務所(崇敬会館)は平成7年(1995)に新築し、境内整備をする。
 
千姫天満宮
主祭神  天満大自在天神(菅原道真)
由 緒
 元和9年(2623)3月千姫によって建てられた。千姫は徳川二代将軍秀忠を父とし、淀君の妹に当たるお江を母とする。乱世に生を受けながらも、自らの意思を通し、美しく才智に富んだ生涯を送った。元和2年(1616)9月、本多忠刻のもとに再嫁。翌年姫路城に入府。千姫の化粧料十万石で西の丸を築き、姫路城はまさに白鷺城と呼ばれるに至った。千姫は男女二子に恵まれ、姫路で過ごした10年は人生で最も幸せな時期であった。
 千姫は天馬大自在天神を信仰し、比叡山延暦寺第十三代座主法性坊尊意作の天神木像を守護神として城内に祀っていたが、元和9年(1623)三月男山に天満宮を建てこれを遷し、朝夕西の丸長局の廊下から遥拝した。他に金泥法法華経、観音経、唐鏡、袖手見、羽子板、虎の爪、茶碗、帯などを寄進。
 今も全国から絵馬に愛の願いを託して神前に掛けられている。今の社殿は平成14年(2002)春竣工。
八幡社
主祭神  応神天皇(誉田別命)  ホンダワケノミコト
配祀神  息長帯姫尊(神宮皇后) 比売大神    
 由 緒
 男山(海抜56m)から眺む初日の出は、姫路城の天守附近から昇天し、正に絶景である。
 自然林のこぼれ陽の中、石段を上りきり著名な石鳥居をくぐると目前に拝殿を仰ぐ。当社は遠く貞和元年(1345)国家の守護神としてその名を高い京都の石清水男山八幡宮より勧請された。文明元年(1469)大改築の記録も残されているが、正徳6年(1716)3月15日第13代城主、榊原政邦は姫路城の守護神として新社殿を寄進建立した。石鳥居に刻まれた銘文は今も政邦の願いが偲ばれ、金箔壮巌な御神鏡も奉納し、家中諸士から石灯籠、絵馬が奉納され極めて壮麗であったと言われている。
 政邦が雄徳山(男山)八景を詠み、大掛軸に和歌一巻を添えて奉納。その内の一首、雄徳青松「仰げなお恵べは高し男山、峯にさかゆく松のみどりは」は有名であり、その後、代々の城主の尊崇も厚く、特に能面掛け神事が明治初年(1868)まで長く斎行された。
 昔から姫路城の姫山に対し夫婦山である男山に鎮座されたことから、崇敬者も歴代城主から庶民まで「男山厄神さん」と親しまれている。現社殿は平成2年(1990)9月再建。
私たちはこの3社の祭り行事には参加していきます。
 
 
6月29日(土)
前日の29日、午前八時に20名近くの氏子が集合し、モール近くの
水尾川に向かいました。
 
 
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河の河川敷に茅が生えています。
ここに鎌を持って降りていき刈り取り開始です。
 
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刈り取った蚊帳を軽トラックに載せます。約一杯分を刈り取り神社に戻りました。
 
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「茅」と呼ばれるのは、細長い葉と茎を地上から立てる一部の有用草本植物で、チガヤ、スゲ、ススキなどがその主要なものです。
イネやムギなどの茎(藁)は水を吸ってしまうのに対し、茅の茎は油分があるので水をはじき、耐水性が高く、 この特徴から茅の茎は屋根を葺くのに好適な材料となり、以前の日本では最も重要な屋根材として用いられました。
屋根を葺くために刈り取った茅をとくに刈茅(かるかや)と呼び、これを用いて葺いた屋根を茅葺(かやぶき)屋根と呼んでいます。
その他かつての農村では牛など家畜の飼料、田畑の肥料、燃料などさまざまな利用がありました。。 現在でも、菅笠をはじめとする各種民芸品や、茅の輪(ちのわ)などが茅を編んで作られています。
このように重要であった茅を確保するために、往時の農村では、集落周辺の一定地域を茅場とし、毎年火を入れて森林化の進行を防ぎ、そこから茅を収穫することが普通であったようです。
この日刈り取った茅は自然に生えているものでが、地元や関係機関に了解を得ております。
 
神社境内に降ろしたところです。
 
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全員で茅を揃えていきます。
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揃えた茅を土台の円筒に結んでいきます。まずは仮止めです。
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同上
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仮止めができれば荒縄で細かく結んでいきます。
この時、男結びで結びます。
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茅の輪の下部です。この部分をくぐります。
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垣根に括り付けていきます。
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出来上がりました。
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神事が終わるまで通行禁止です。
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茅輪神事の由来
 
茅輪神事は、「ちのわしんじ」と読んで、他に「輪越祭」「茅の輪くぐり」とも言われています。茅(ち=かや)とは、茅萱(ちがや)菅(すげ)薄(すすき)などの総称で、この輪をくぐり越えて罪やけがれを取り除き、心身が清らかになるようにお祈りするものです。

昔、素盞鳴尊(すさのおのみこと)が旅の途中で、蘇民将来(そみんしょうらい)巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟のところで宿を求められました。
弟の巨旦将来は、豊かな生活をしていたのにそれを断りました。しかし、兄の蘇民将来は貧しい暮らしをしていましたが、素盞鳴尊をお泊めして、厚いもてなしをしました。
その後何年かたって素盞鳴尊は再び蘇民将来の家を訪れて、「もし悪い病気が流行することがあったら、茅で輪を作って、腰につけていれば病気にかからないですむでしょう」 とお教えになりました。
これから、「蘇民将来」と書いた紙を門にはっておくと災いを免れるという信仰が生まれました。茅の輪も、最初は人々が腰につけるほどの小さなものでしたが、時代がたつにつれて大きくなり、これをくぐって罪やけがれを取り除くようになりました。
 
大祓(おおはらえ)は、6月と12月の晦日(新暦では6月30日と12月31日)に行われる除災行事です。
犯した罪や穢れを除き去るための祓えの行事で、6月の大祓を夏越の祓(なごしのはらえ)、12月の大祓を年越の祓(としこしのはらえ)といいます。
6月の大祓は夏越神事、六月祓とも呼んでいます。
なお、「夏越」は「名越」とも標記します。また、宮くぐり祭や輪くぐり祭とも呼ばれる。
 
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 行事としての大祓
701年(大宝元年)の大宝律令によって正式な宮中の年中行事に定められました。
この日には、朱雀門前の広場に親王、大臣(おおおみ)ほか京(みやこ)にいる官僚が集って大祓詞を読み上げ、国民の罪や穢れを祓いました。
衣服を毎日洗濯する習慣や水などのない時代、半年に一度、雑菌の繁殖し易い夏を前に新しい物に替える事で疫病を予防する意味があったようです。
その後、百年ほどは盛大に行われましたが、応仁の乱の頃から行われなくなったものの、江戸時代(1691年(元禄4年))に再開され、次第に広まったいきました。
1871年(明治4年)の太政官布告にて明治新政府により「夏越神事」「六月祓」の称の禁止と「大宝律令」の「大祓」の旧儀の再興が命じられ、全国の神社で行われるようになりました。
戦後には「夏越神事」「六月祓」の称も一部では復活し、現在に至っています。
夏越の祓では多くの神社で「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われます。
これは、氏子が茅草で作られた輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓うものです。
『釈日本紀』(卜部兼方 鎌倉時代中期)に引用された『備後国風土記』逸文にある「蘇民将来」神話では茅の輪を腰につけて災厄から免れたとされ、茅の旺盛な生命力が神秘的な除災の力を有すると考えられてきました。
また、茅の輪の左右に設置する笹竹に願い事を書いた短冊を振下げ、七夕に河川に流すといった俗信仰は、書初めをどんどん焼きで焚くと筆が上達するといった行事と対応しています。
尚、茅の輪のカヤを引き抜いて持ち帰る人が後を絶たず、本来は罪や穢れ・災厄をカヤに移すことで無病息災を得る風習であり、カヤを持ち帰ることは他人の災厄を自宅に持ち帰ることになるので(茅の輪のカヤを抜いて持ち帰るのは)避けるべきであるとされています。
そこで、小さな茅の輪を女性部の皆さんがつくり、参拝された氏子の皆さんにお渡しするものです。
 
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次回は30日本番の模様をアップします。
 
 
 

日本唯一の石仏群

今回は少し変わった?石仏を漫遊しました。
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姫路市山の井町にある不動院の西側には、男山になっています。
この不動院は、伝によると神亀五年(728)に、徳道上人により、大和の長谷寺を模して姫山の地に創建され長谷寺と号し、元亀三年(1572)小寺職隆(もと)(たか)が姫路城域拡張のため、惣社(播磨國総社)地内に移し不動院と改めたとされる。
この不動院の裏側にある石仏群です。
西国三十三観音霊場石仏群
 西国三十三観音霊場を曼荼羅のように見立て、外側に12天を配置したもので国内唯一の石仏群。石柱に「願主一心寛政七年(1795)乙卯」とあり、とりわけ12天の石仏は珍しい。
 
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