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NO233 八王子神社(既記事アップ済)
所在地 姫路市書写1553
主祭神 素盞嗚尊 スサノオノミコト
配祀神 天之忍穂耳命 天之穂日命 天津彦根命 活津日子根命 熊野久須毘命 多紀理毘売命 狭依毘売命 多岐都比売命
(アメノオシホミミノミコト アメノホヒノミコト アマツヒコネノミコト イクツヒコネノミコト クマノクスビ ノミコト タキリビメノミコト サヨリビメノミコト タギツヒメノミコト) 由 緒
書写山の性空上人が、広峯神社の分霊を書写鉢ケ坪に迎えて王子権現と称した。その後天正年間(1573〜1592)に、この神々を東坂の神籬の空間に社殿を構えて遷座されたのが八王子神社である。
書写小字東坂本の氏宮として、境内は1,252坪あり、以前は8月25日に例祭を行い、書写山の衆僧が来て読経していたが、明治維新後は行われなくなった。近年、10月9日・10日を例祭に改められた。 拝殿の鬼瓦の銘に享保16年(1731)とあるのは、同殿の造営を示すものである。また、拝殿の両側には出雲狛犬が置かれている。米を運んだ北前船は、寄港する港の神社に狛犬を奉納して、航海の安全を祈ったのである。姫路に現存するのはこの一対だけで、阿形の台石の後ろ左下方に、文政13年(1830)の銘が見られる。 御祭神の素盞鳴尊は天照大神の弟神であり、日本神話の主役を担う神である。この地においでになり、村人に農耕の技術を教え、人々に福祉を授ける神として、その真価を発揮されるので「あら神様」と申し上げて、鎮守の神として祀った。 ※ 町名の由来
八王子神社が鎮座する「姫路市書写」は、書写山を中心にした南側一帯で、西は天神山、美濃山、東側は夢前川に囲まれた広大な地域を占めている地域である。
明治8年に飾西郡の東坂本村、田井村が合併して書写村になる。
明治22年には、六角、刀出を加えた3ヵ村が一緒になって曽左村となり、昭和9年には姫路市の大字になった。
地名は、書写山円教寺からつけられた。山号もこの書写からという。
また、性空上人が入山以前に素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀る寺があり、「そさ山」と呼ばれていた。
それは素戔嗚尊がこの山で一宿されたという伝説からで「スサノウ」が「ソサノウ」に転訛したとも言われる。
NO234 天満神社(既記事アップ済) 東坂露天満宮
所在地 姫路市書写1253-2
主祭神 菅原道真朝臣 スガワラノミチザネアサトミ
由 緒
創立年代不詳。慶長6年(1601)『検地明細地図』に天神宮が書写山東麓に描かれている。享保元年(1716)の『幕府巡見覚え書』には「露天神は東坂本東方にあり崇敬者五十戸」と記されている。
明治4年(1871)4月「山上並麓現在境内坂路丁数坪数帳」には、「書写山月番 妙光院 東坂本村氏神 東西二間半 天神社境内 南北五間 十二坪半」と記されている。 明治12年(1879)県庁に届け出た書類にょると、「当社は天満宮無格社(兵庫県神社誌)で祭神は菅原大神。由緒不詳。神殿、梁行三尺桁行二尺。氏子戸数、十五戸。県庁迄里数、十九里。露天神と呼ぶ由来は都を離れた大宰府の菅公の歌に、 露と散る 涙に袖は くちにけり 都のことを思ひいづれば また、境内にはこんこんと湧き出る露泉がある。」と記され、由緒は不詳であるが、このようなことが由来ではないかと推察される。以上の歴史的史料に見るように、由緒ある東坂露天満宮であることを誇りとして敬神の念を深めるのである。 NO235 稲荷神社
所在地 姫路市書写1686
主祭神 宇賀之御魂神 ウカノミタマノカミ
由 緒
創立年月日は不詳である。この地区も田井と同じように三つの呼称名がある。ミツモリさん・稲荷さん・荒神さんで、この地区の守護神であるという。
この地は書写山の山麓にあって、東坂本の集落をほぼ見渡せる地にあり、中央にはむくの木や椿の常緑樹が茂り、その木の下に稲荷さんを祀る小祠がある。
昭和5年(1930)1月に鳥居がつくられた。その建築の時に五輪塔が出土したと伝わる。 各戸で祀る屋敷神として稲荷さんと地神さんがある。地神さんは祠はないが屋敷地の神として庭の隅の所に花を1日と15日に祀る。明治より大正にかけては次のような祭りがなされていた。2月初午、供物を祀り拝んだあと供物を配った。5月23日、田の神を迎える祭をした。11月23日、ニジュウソウといって豊作の感謝祭をしていた。この頃の祭の中心人物が祈祷師の森この氏であったのであろう。 |
姫路市中央部の神社
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何度か記事アップしました「姫路の神社」という図書には、安富町、香寺町を除く姫路市の327の神社が紹介されています。
区域の掲載順は、姫路市・夢前町・家島町の順とされ、さらに姫路市は、原則として市川と夢前川で東西間を東部、中部、西部の3つに区切り、東から順に掲載されています。
播磨国風土記の漫遊を始めてから数年たちますが、訪問した神社はバラバラでまとまりがないため、とりあえずこの図書に基づき漫遊をやってみることとし、近場の姫路中部を整理してみました。
姫路市の中部には、92神社が掲載されており、本日記事アップする「津田天満神社」
が92番目の神社になります。
正直住宅街の中にひっそりと鎮座されている神社も多く存在し、地域の限られた皆さんから手厚く信仰されています。
今後、他のテーマに基づき各種遺跡や史跡等々を漫遊していく傍ら、東部、西部、夢前町や家島町を巡りたいと思っています。
※ 参考
平成17年発行
神戸新聞出版センター発行
兵庫県神社庁姫路支部
津田天満神社
所在地 姫路市飾磨区構912
主祭神 菅原大神 スガワラノオオカミ
由 緒
ご祭神菅原大神が、太宰府へご左遷の際(延喜元年、901)、津田の細江に嵐を避けて船を寄せ、当社お旅所「史蹟菅公小憩伝説地」(県指定)の石碑がある思案橋のほとりで、とも綱を敷いて休憩されたと伝えられる。『播磨国鎮守大小明神社記』(養和元年、1181)の餝東郡26社の中に、津田大歳明神とあり、菅公が当地へ船を寄せられる以前、既にこの地に大歳明神の社が奉斎されていた。後世里人が、菅公の御徳を敬慕して、この氏宮に主神として祀り、津田天満神社と称え、主配その位置をかえるようになったもので、創立年代は不詳である。 『播磨記』に「此の辺天満宮の社多しといへども津田を第一とす…」とあり、綱敷天神ともいう。従って皇室・国司・藩主の崇敬篤く、往時は末社40社を数え、社地広大で社殿も壮麗であったが、天正8年(1580)羽柴秀吉の英賀城攻めで、社殿・神宝・旧記ことごとく消失したと伝えられる。以後、現在地に再建されたが、津田の細江の衰頽と共に往時の盛観を取り戻すことなく、津田の里(構、加茂、今左家、思案橋)四町の鎮守産土の神として崇敬され現在に至っている。
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① 八の宮天満宮
所在地 姫路市飾磨区三宅47
主祭神 菅原道真 スガワラノミチザネ
由 緒
創立年代は不詳だが、古くから八の宮と呼ばれていた。この付近一帯は竹藪で、北条天満神社の辺りまで続いていた。その藪の中に、八面の大いたちが棲んでおり、たびたび田畑を荒らし、困り果てた村人は、北条で人身御供の神事を行うようになった。その後、ある一人の虚無僧が、そのいたちを退治し、災厄を恐れた三宅の人々は神として崇めた。その後、天満宮を勧請して奉り始めたのが今の八の宮と言われている。 『播磨国風土記』の飾磨郡の条の末尾に「飾磨の屯倉」とあり、仁徳天皇の世に意伎・出雲・白耆・因幡・但馬の国造が召還された際、お召しの使いを水手として京に向かわせ罪とされ、播磨国へ退去して贖罪のために水田を造成して、そこで作った稲を収納する家を「播磨の御宅」と名付けたとされる。
この地は、江戸時代を通して、姫路藩領であり、天保郷帳に「高三百石余」とある。小字名に具栖塚・塚町・大門などがあり、古くから開けていた。古瓦や土器などが出土した三宅遺跡が現在の三宅字貝柄塚にある三宅天満神社である。
② 稲生社
所在地 姫路市飾磨区玉地84
主祭神 保食神 ウケモチノカミ
由 緒
飾磨の玉地向島の地は姫路藩主、池田三左衛門輝政(慶長18年正月25日歿 享年50才)が飾磨に通ずる運河(三左衛門堀)を起こさんとして、播磨・備前・美作三国の人々を使用し工事を起こした時、当時飾磨より出向く人々は毎日帰宅の時には自分の肩に一袋ずつの砂土をかついで帰り、入り江であったこの地を埋め立てて我が家に帰る。こうして細江であったところはたちまち島となり陸地を形成した。この島を玉地の人達は向島と名づけた。 この向島の面積は東西73間、南北94間で、後にこの島に姫路藩の船役所を設け守護神として稲荷大神を祀ったといわれている。
天保7年(1836)姫路藩は大飢饉のため困窮し、新たに藩主の命により新田開発の事業を姫路平野町住太物尾山本左兵衛と酒造屋井上源三郎に命じて妻鹿新田開発を執り行った。これを太平新田という。この両人が当社に参拝され社頭に石灯籠を寄進されている。
安政6年(1859)藩の船溜まりに於いて西洋型帆船・神護丸(恵美酒宮に絵馬あり)金華丸を建造する事となり、現在の地に奉遷された。
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① 春日神社
所在地 姫路市飾磨区山崎319
主祭神 武甕槌神 タケミカヅチノカミ
配祀神 経津主神 天児屋根神 比売大神フツヌシノカミ アメノコヤネノカミ ヒメノオオカミ
由 緒
春日神社は古く野杉春日社と称せられており、『播磨鑑』には鎌倉時代文治2年(1186)この地方の地頭の吉川但馬次郎が勧請奉斎したとある。 室町時代になり嘉吉3年(1443)、英賀城主の三木右馬越智通近が、崇敬する揖保郡太田村黒岡天満宮より菅原道真天神の神霊を迎え、春日神社の神霊とともに奉斎し英賀天満宮とした。
山崎村はこの時より英賀神社の氏子となったが、名残惜しく元の地へ春日の分室を迎え、元宮として奉斎した。天正8年(1580)豊臣秀吉中国攻めの時、英賀城が落城し英賀神社・春日神社ともに戦火によって消失したが、当時は神域広大にして杉の木立に囲まれ、朱色に塗られた社殿は荘厳を極めたといわれている。「野杉なる 春日のやしろ ぬかづきて とるで正しき 神のしるしは」(長谷掃部重長)という古歌が、神徳が高かったことを物語っている。 現在は山崎村の氏神神社。
② 加茂神社
加茂神社
所在地 姫路市飾磨区加茂30 主祭神 加茂別雷大神 カモノワケイカズチノオオカミ 由 緒
創立年代は不詳であるが、当社は中世の播磨国・美作国・備前国の守護職・赤松満祐が山城国上賀茂神社から御分霊を播磨国荒川村岡田の地に勧請したことに始まる。 当時は社領として法輪寺辺に一町坪の田地があり、領主の崇敬も篤かった。しかし、永享4年(1432)の大洪水により流されてこの地に止まり、そのまま崇敬されて今日に至ったものと伝えられている。
この地は永正9年(1512)壬申12月6日、妙善寺開基仏御裏書に「津田牧水田村」とあるところから水田村と称されていたが、加茂神社に関わるであろう地誌『播陽萬寳智恵袋』の名所の部に、「播州餝萬邊に加茂明神鎮座せり。此所を今に至り加茂村という」とあり、よって加茂村と称するようになった。
古老の伝えに、菅公ご左遷の砌、津田の細江に船泊の際、当社にご参詣になり、ご所持の御杖を突挿し「我家昌成時者必生繁」と言い残し船出なされた。数日後、芽をふき瑞枝が青々と生い茂ったので、村人はその葉を頂いてお護りとし、小石を集め築山として守り伝えたのが榊塚であり、南方約100mの地にある |
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中地天満神社
所在地 姫路市中地南町1
主祭神 菅原道真 スガワラノミチザネ 由 緒
当社はもと津田天満宮の御旅所であったと伝えられている。今から900年以上も前の創建であり、『津田天満宮社記』に「御旅の天神は手柄山の西に社頭造営・・・」と記しており、これが当社を示すものであろう。 (考証)「圓融天皇之御宇天元二年爾改而神社造営之勅宣有而御本社並四十末社造営有末社神名当社旧記爾委久見閉(中略)其後手柄山之西爾社頭造営至御旅之天神上言御旅天神蓼野管家天神両社共縁起社訖爾見由・・・」(『津田天満宮社記』)
神殿は二合五勺南に面し、流造屋根瓦葺で境内地は77坪ある。現在の社地は中地南町であり、この地は区画整理により中地南公園のすぐ横にある。小さな一坪ほどの祠だが、中地の氏子達が境内地を示すものとして、玉垣が立てられている。
旧の社地は、姫路倍バス中地インターから南へ走る南幹線の道路の真中に位置する。
英賀稲荷神社
所在地 姫路市飾磨区英賀西町2-40
主祭神 保食神 ウケモチノカミ
配祀神 住吉神
由 緒
当社の正式な名称は稲荷神社であるが、ご祭神の稲荷大明神と住吉大明神は、「みょうじんさん」「すみよしさん」と呼ばれ親しまれている。『播磨国風土記』に出てくる英賀彦神と英賀姫神は、伊和大神の御子で、播磨国を治めるに当たり、英賀の地を中心に開拓創始したので、里人はこれを総氏神として木村の地(現英賀神社)に鎮祭した。 ところが降って室町時代初期、三木通近が英賀城主になると、その崇信する文武の神である天満天神を太子の黒岡天満宮よりお招きし、併せて八幡神と春日神を崇め奉り、英賀天満宮とした。その時、通近は古来よりお祀りしていた英賀彦姫神を南方二町の地(現稲荷神社)に奉遷して天満宮の摂社とし、祭祀はすべて本社と同格にして敬神の誠を捧げた。
恵比寿天満宮
所在地 姫路市飯田130
主祭神 蛭子命 ヒルコノミコト
由 緒
当社の御祭神は西宮神社より勧請し、当社の北字地神の籔の転地に祭祀した。その後年月を経て、明治8年(1875)に旧社地地神の籔を上地し全く廃社となっていたのを、明治10年(1877)に当初字大屋敷の空き地に社殿を造営し、明治12年(1879)9月現在の地に奉還した。その後、昭和59年(1984)に社殿を新しく再建し、現在に至る。 現在の社地の前は、飯田町の児童公園として地域の人々に親しまれている。
社殿は本殿が銅板葺きで、幣殿、拝殿は瓦葺である。旧の
無格社(兵庫県神社誌)ではあるが、一村で崇祠している社としては、すばらしい立派な建物と言える。 |




