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姫路市西部の神社

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姫路神社庁発行の図書「姫路の神社」に登載されている、姫路市西部の神社(林田町、安富町除く)63神社も今回の記事アップで最終になります。これで、中部と併せて155の神社の記事アップが終わることになります。
残る神社は、姫路市東部、夢前町、林田町、香寺町、安富町の神社が200社以上残っています。
それでも、このうち過去3割くらいの神社は訪問していると思いますので、何とかクリアしたいと思っています。
私はどちらかと言えば無信心論者であり、研究者でもなく、単に一種のコレクターのようなものですので、単純に神社を訪問し古代人の生活に接したいという思いでいます。
今回、中央部、西部を回って感じたのは、神社庁に登録されている神社以外にも多くの神社が存在していることです。
全てを回れませんが、出来るだけ回ってみようと思います。

NO292   厳島神
 
所在地  揖保郡太子町糸井28      
主祭神  素盞嗚尊  スサノオノミコト 
配祀神  市杵嶋姫命  イチキシマヒメノミコト 
由 緒
 荒神社が糸井山に建立され始めたのは、大正13年(1924)頃で「糸井記録」によれば、大正15年(1926)に上棟式と春の祭りを一緒に行っている。 旧武大神社(荒神さん)は糸井126番地内にあり、厳島神社(弁財天)は糸井山の階段を登った所に祀られていた。 明治の末期、一村一神社の布令により合祀されたようである。
 荒神社には、武大神社(ぶだいじんじゃ)・厳島神社があり、素盞鳴命(すさのおのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)が祀られていると「兵庫県神社誌」に記載されている。
 
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※ 地名の由来
 
【糸の井】

糸の井は、太子町糸井にあり、
鎌倉時代中頃にこのあたりに浄土宗をひろめた、
朝日山の顕実上人の硯水と伝えられている。

いろいろの木の葉流るる糸の井は
       ゆききの人のしるしとぞきく

                      顕実上人
 
 
神社の少し北にあります。「風土記を歩く」で訪問しました。
いずれ他のものと併せて記事アップします。
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NO289   恵美酒神社
 
所在地  姫路市網干区浜田1143      
主祭神  事代主命  コトシロヌシノミコト
配祀神  大国主命   オオクニヌシノミコト 
由 緒
 当社は旧浜田村集落の南端より海岸線に延びる広大な開拓新田が形成されていて、その少し小高い丘に寛永14年(1636)海上航海の安全と、漁業従事者の安全と豊漁を祈願して建立されている。明治3年(1870)天満神社(元文年中不徹庵に勧請)を移し、後合祀された。その後台風等の被害を数回にわたり被り、その都度地元村民による浄財寄進によって修復が施されてきた。
 特に昭和の大修理で現在の社殿と容姿を変える。その落成を祝って部落で所有する2台の屋台を練り出し、多くの村人が参加して大変賑わったと伝えられている。また平成3年(1991)には社殿及び拝殿の屋根を改修した。
 境内南端に老人憩いの家が設けられ、それを記念して植樹された桜が春には開花し、境内一面に華やかさを醸し出している。地域住民による観桜会も多く見受けられる。
 
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NO290   三神社
 
所在地  姫路市余部区上余部539       
主祭神  天兒屋根命  アメノコヤネノミコト
配祀神   武御名方命 八坂入姫命                    
          タケミナカタノミコト ヤサカイリヒメノミコト
 
由 緒
 上余部三神社は、姫路市の西端の清流・揖保川沿いに面した位置にある。広い境内を玉垣で囲み、玉垣の内側は数多くの大きな樹林で囲まれた鎮守の森である。境内の神殿には、天兒屋根命、武御名方命、八坂入姫命が祀られている。その他に、境内には、山王社、荒神社が末社として祀られている。
 創建については、寛徳元年(1044)と伝承されている。延元元年(1336)に焼失し、江戸時代の宝永2年(1705)に社殿を再建した。当時、この神社は諏訪神社と呼ばれていた。明治7年(1874)には村社となり、神社名も三神社に変更され、現在に至る。
 奉納品として、山門前に天保2年(1831)の常夜燈一対、拝殿前に慶応3年(1867)の狛犬一対、また、慶応3年(1867)の百度石と並んで特別な願いを祈願する千度石もある。
 
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NO291   二神社(既記事アップ済)
 
所在地  姫路市余部区下余部572       
主祭神  伊弉諾命  イザナギノミコト 
配祀神  伊弉冊尊  イザナミノミコト
由 緒
 地名辞典によると余部郷として平安期に存在し、八木家の和名類聚沙の書き抜き(931年以降)によれば、揖保郡19の里名の中に「餘戸、(余戸)」の名が記され、現・下余部の小字に浸(新)田・宮の元・下川原・井の坪・中州その他を記している。この下余部に鎮座される二神社は、伊弉諾命・伊弉冊命を御祭神として、夫婦円満・家内安全の神様を厚く崇敬されている。
 また、余部郷土史(明治末期、数人で編纂)によると、天文年中(1532〜54)の岩見井溝灌漑地図には「上川原、上余部は殆んど中州の如く、北方より東方にかけて一水の流れを見る。其の流れ広からずと雖も普通の水路と大小を論ずべからず。蓋し、旧河川の跡なるべしと断じ、余部村の起源は遠く奈良朝の昔に在り」と記されている。
 さらに、太子町にある文禄4年(1595)に作成された石見井・浦上井灌漑用水図では、上川原と上余部が完全に揖保川の中洲になっていることから、この年以降の洪水で中州と近辺が分断され、上の余部・下の余部と呼称されるようになったようである。
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NO286   金比羅神社(既記事アップ済)
 
所在地  姫路市網干区興浜8      
主祭神  大国主命  オオクニヌシノミコト
配祀神 倉稲魂命 事代主命 日本武尊 猿田毘古命 菅原道真 天照皇大御     神       
      ウカノミタマノミコト コトシロヌシノミコト ヤマトタケルノミコ サルタヒコノミコト スガワラ        ノミチザネ アマテラシマススメオオミカミ                 
 緒
 当社は安政7年(1860)4月8日に勧請された。明治41年(1908)に湾洞神社(元福寿院庚申堂)を合祀し、同境内社稲荷神社を移す。大正7年(1918)、境内恵美酒神社(部落南方から移した)を合祀する。
 寛永時代、興浜は龍野藩京極家の領有であった。万治元年(1658)に丸亀に移封されたが、二十八ケ村は一万石の領地として陣屋を置き、明治の初めまで統括した。
 年代は不祥だが、陣屋内の御社地に讃岐金刀比羅宮を祀っていた。安政6年(1859)に現地に移され、神社が建立された。大正3年(1914)より同6年(1917)までに現在の様相(盛り砂をして本殿を高くした)に再建された。神社の北、対岸の砂山まで丸太で桟橋を組み立て、村中総出で砂持ちや掛け声を合わせ、大変賑やかだったようである。
 境内には恵美酒神社、金刀比羅神社、湾洞神社の合祀記念碑(大正5年丙辰6月)(1916)と改築記念碑(大正6年10月)(1917)がある。
 
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※ 地名の由来
揖保川から流れ出た土砂が作り上げた三角州にできた集落。旧網干村三ヵ村の一つで1658年余子浜村と興浜が「讃岐丸亀藩領」になったので、新在家村と分村し横浜奥浜村となった。余子浜から見た陸地の様子を「沖ノ浜」と呼び、のちに興浜となった。(NO284船渡八幡神社同)


NO287   道祖神社(既記事アップ済)
 
所在地  姫路市網干区興浜8      
主祭神  猿田彦命  サルタヒコノミコト
由 緒
 揖保川と中川に挟まった当地域は、古くから利水の便が良く、豊かな田園地帯を形成している。しかし、揖保川の犯濫により幾度かその地形を変えてきた。その都度復旧事業に多額の費用を村民で負担してきている。そうしたこともあり農家の信仰神として祭祀されたのが庚申堂であり、当初は小さな祠であったが、後に祠を覆う上家が建造されて現在の社殿となった。
 また、一時期山伏龍家院が後に隣接する西方寺の支配下にあったことが言い伝えられている。そのような関わりから大峰山信仰が盛んとなり、その分身を授り持ち帰って地元有志の寄進で新しく社殿が本殿脇に設けられて祭祀されていた。しかし、残念ながら平成に入ってから社殿は撤去され、祠は現在龍門寺で祭祀されている。
 境内には銀杏の大木があり、その古木の下に老人憩いの家が設けられて熟年者の集いの場所として賑わっている。境内に設けられている相撲場では毎年子供相撲が奉納され、地域を二分するような応援合戦が見ものである
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※ 地名の由来
揖保川から流れ出た土砂が作り上げた三角州にできた集落。旧網干村三ヵ村の一つで1658年余子浜村と興浜が「讃岐丸亀藩領」になったので、新在家村と分村し横浜奥浜村となった。余子浜から見た陸地の様子を「沖ノ浜」と呼び、のちに興浜となった。(NO284船渡八幡神社同)
 


NO288   稲荷神社
 
所在地  姫路市網干区浜田526       
主祭神  倉稲魂命  ウカノミタマノミコト
由 緒
古来の村落には、その中心に神社の祭祀があり、その祭礼は村落の集団行事として、極めて重要視されてきた。旧浜田村の中央に位置する正一位白玉大明神社も、そうした村民の信仰心の現れであったものと推測される。
 当初は、篤志家によって寄進されたものを祠として祭祀されていたが、天保12年(1741)の勧請で社殿として現在の境内地が形成された。
 その後幾度かの修復に手を加えられ、現在のような立派な社殿となった。社殿前に連なる朱塗りの鳥居が社殿と調和し、稲荷神社としての尊厳さを表現している。

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NO283   網干神社  (既記事アップ済)
 
所在地  姫路市網干区新在家366    
主祭神  事代主神  コトシロヌシノカ
配祀神  住吉の神 大国主神 塩竈の神 稲荷の神 
          スミヨシノカミ オオクニヌシノカミ シオガマノカミ イナリノカミ
由  緒
慶長5年(1600)姫路蕃池田氏領となってより明治維新まで、幾度か領主の変遷を見たが、早くから塩浜が拓かれ天明7年(1787)塩田が開発された。従来一つであった余子浜、興浜、新在家が分割されたのは万治年間(1658〜1660)である。
 寛保年間(1741)新在家に利左衛門という者がいて、蛭子の小社を守り自ら「えびすや」と称した。しかし家は極貧のため妻はその子甚次郎と一女を残して、吾が里に逃帰する。甚次郎は幼いながらも魚売りをして生業を助けるが、やがて父は虚しくなる。稟性貞実正直にして利をむさぼらず生業に励む甚次郎は、傍ら養母と逃帰した母へも孝養を尽くした。成長するに及び魚売りをやめ、諸品を携えて備前美作へと行商をなした。そして遂に家を富ます。幼年より蛭子神への信仰が篤かった甚次郎は、その財を以て神田を買い求め、宝暦10年(1760)蛭子の社を造営する。遠近の貴賤群集として彼の徳行を讃え、祭りは大いに賑わったという。これが新在家の戎神社の興りである。明治42年(1909)、内務省令により大国神社、宇賀神社を合祀して「網干神社」と改称する。
 
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※ 地名の由来
揖保川河口部左岸。地名は、網干本村の余子浜村から新しく分かれたので、新在家と名付けられた。網干村が新在家、余子浜、興浜の「在家」や「興」は、一般に新田を表す地名となっている。
 


NO284   船渡八幡神社 (既記事アップ済)
 
所在地  姫路市網干区興浜8     
主祭神  大国主命  オオクニヌシノミコト
配祀神  倉稲魂命 事代主命 日本武尊 猿田毘古命 菅原道真 天照皇大       御神 
         ウカノミタマノミコト コトシロヌシノミコト ヤマトタケルノミコ サルタヒコノミコト スガ          ワラノミチザネ アマテラシマススメオオミカミ
由 緒
 当社は安政7年(1860)4月8日に勧請された。明治41年(1908)に湾洞神社(元福寿院庚申堂)を合祀し、同境内社稲荷神社を移す。大正7年(1918)、境内恵美酒神社(部落南方から移した)を合祀する。
 寛永時代、興浜は龍野藩京極家の領有であった。万治元年(1658)に丸亀に移封されたが、二十八ケ村は一万石の領地として陣屋を置き、明治の初めまで統括した。
 年代は不祥だが、陣屋内の御社地に讃岐金刀比羅宮を祀っていた。安政6年(1859)に現地に移され、神社が建立された。大正3年(1914)より同6年(1917)までに現在の様相(盛り砂をして本殿を高くした)に再建された。神社の北、対岸の砂山まで丸太で桟橋を組み立て、村中総出で砂持ちや掛け声を合わせ、大変賑やかだったようである。
 境内には恵美酒神社、金刀比羅神社、湾洞神社の合祀記念碑(大正5年丙辰6月)(1916)と改築記念碑(大正6年10月)(1917)がある。
 
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※ 地名の由来
揖保川から流れ出た土砂が作り上げた三角州にできた集落。旧網干村三ヵ村の一つで1658年余子浜村と興浜が「讃岐丸亀藩領」になったので、新在家村と分村し横浜奥浜村となった。余子浜から見た陸地の様子を「沖ノ浜」と呼び、のちに興浜となった。
 


 NO285   武大神社
 
所在地  姫路市網干区垣内本町516     
主祭神  彦狹知命  ヒコサシリノミコト
配祀神 倉稲魂命 事代主命                    
        
ウカノミタマノミコト コトシロヌシノミコト
由 緒
 創立年月については、旧萬福寺の記録によれば享保元年(1716)に再興し、落慶の御祝いの件が謹識されており、長享元年(1487)吉川家文書によれば福井荘二十八ケ村が記されている。しかしこの文書には、「あぼし、三石、尾ね島(大江島)」とあるが、他の網干の集落名はなく、元禄五年(1692)下司領福井荘二十八ケ村の中に新在家興浜、余子浜と共に垣内が始めて出てくる。その後、村の名前はあっても、字名の垣内がない時期もあり、幾多の変遷を経てきた。
 垣内村総墓が天保7年(1836)現萬福寺境内墓地に建っており、武大神社の創立については不詳とはいえ、萬福寺建立の後であると推察される。
 垣内村落発生とともに産土神としてこの地に祀られ、村人達の厚い崇敬を受け、郷土垣内の発展と平和の祖神(守護神)、また心のふるさととして維持されてきた。
 
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※ 地名の由来
古くから垣内と呼ばれていた集落のあった地域で、平成3年に成立した町。
垣内発祥の地で、中心部であった。
 
NO281   大江神社 
 
所在地  姫路市網干区大江島541   
主祭神  天児屋根命  アメノコヤネノミコト
配祀神  武甕槌命 経津主神 姫大神 倉稲魂命 事代主命 素盞男命 大己貴命
        タケミカツチノミコト フツヌシノカミ ヒメノオオカミ ウカノミタマノミコト コトシロヌシノミコト           ス サノオノミコト オオナムチノミコト    
由  緒  
 当神社の鎮座する大江島は、もとは揖保川と大津茂川の河口に形成された島で、「生い島」から転じたという。平安時代は藤原氏の荘園「大江島荘」があり、この付近が中心地だった。藤原氏は、ここに統治の一手段としてその氏神・春日神社をお祀りしたことが記録されている。
 各御祭神は、村人の信仰による勧請と推察される。村内には合祀令まで三カ所に四社があったが、現在地に統合された。稲荷神社の本殿を移築し、拝殿・鞘殿は明治39年(1906)上棟された。魚吹八幡神社の記録によると、「明治四十一年稲荷神社、恵美須神社、春日神社、金刀比羅神社を合祀」とあり、また「明治四十五年七月二日社号を大江神社に改称する」と記録されている。ちなみに現在地には、三社大明神(住民は親しみをこめて“明神さん”と呼ぶ)が祀られていた。
御本殿には京都の二条東新地多門町の大仏師の作になる享保5年(1720)の神像一対と、姫路の茶町の大仏師作の天保15年(1844)の神像が伝わる。
 境内には文久2年(1862)銘の玉垣がある。また、廃社になった荒籬大明神の大幟りも保存されている。 
       
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この神社は、「揖保川下流域に開けた網干町を歩く」の記事の際、大江島も漫遊したことがありますが、神社には訪問していませんでした。今回初めて訪問しました。
 
狭い路地の奥に鳥居が見えます。
 
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拝殿正面です。
 
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案内板です。
 
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多く掲げてあった絵馬の一部です。
 
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本殿です。
 
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境内社です。
 
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ここにも力石がありました。
 
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社殿全景です。
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  町名の由来
案内板や神社由緒に記載してるとおり河口に出来た島が、後に陸続きになり、「生ひ島」が「大江島」になったと言われている。

NO282   三石天満神社 
 
所在地  姫路市網干区垣内中町65   
主祭神  菅原道真  スガワラノミチザネ
由  緒
当神社は、山陽電車網干駅より徒歩一分の所にご鎮座され、菅原道真をご祭神とし、厚く崇敬されている。
 天神講は室町の御代に全盛を呈し、やがて文道の大祖として称賛され、文学・詩歌の神と崇められ、その後各地に普及していった。やがて、播磨灘のお側元、網干地域の商工業の中心として発展し、氏子のみならず、幅広い崇敬者より信仰された。
 当時この地域で活躍した文人・詩人達もまた、多く参詣し、作品等を神様にご報告し、感謝の祭りを斎行し、発展していったと語られる。今でも町の中心に位置するため、学生達が早朝より神社へお参りする風景が見られる。
 また、網干四町の興浜・新在家・余子・垣内は、10月21日・22日に行われる魚吹八幡神社秋季例祭で檀尻を曳き、天満神社付近を通るなど、見所のひとつとなっている。
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※ 町名の由来
昭和59年に誕生した新しい町で、古くから呼ばれていた「垣内」地区の中心に位置することから付けられた。
 
 
 
 

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