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友よ さようなら
新年を迎えて間もなく、大切な友が亡くなった。K君、彼とは小学校六年間同級生であった。二十歳の頃に再会して、演劇ボランティアのグループに共に入り、近隣の児童施設への慰問を続けた。
K君は上田市塩田に建設予定の授産施設に会社を辞めて飛び込んだ。無給で廃車したバスに住み、開所を夢見て頑張った。 私は同じ頃、知的障がい児教育の田村一二先生の著書を読み、田村先生が寮長を努める滋賀県石部町(現・湖南市)の児童施設に長期実習に入った。 道それぞれであるが、彼の頑張る姿は私の心の支えでもあった。 その頃のある夜、彼は私に電話をくれた。
「おい、糸賀一雄先生の命日知っているか?」と言う。
「いや、知らんけど、どうしたんだ?」
「えらいことだ、糸賀先生の命日は9月18日だ」
「だからどうしたんだ?」
「俺の誕生日だ!」
「ああそうか・・・」
「糸賀先生が、この子らを世の光に・・・そう言われて講演の途中マイクを持ったまま倒れられたのが、9月17日。先生は翌日の18日に亡くなったんだ。だから・・・・俺は糸賀先生の生まれ変わりのつもりで頑張る!」
忘れられない思い出の一つである。
こんなこともあった。
私が一麦寮から、北海道千歳市にある施設実習に向かう途中、K君のところに寄った。廃車したバスは座席が全部取り払われ、畳敷きだった。そこで一晩を過ごした。
K君は開所した施設内で園生みんなに見守られ結婚式を挙げた。三三九度の盃を交わすその瞬間、O君が「うんちー」と叫んで立ち上がった。触発されたかのように「おしっこ」「わたしも」と連呼の声。結婚式はやむなく中断となり、十分ほどのトイレタイムとなった。
結婚式という場に、園生のほとんどが初めて参加した為、みんな堅くなっていたのだ。O君の一声のおかげでみんなの緊張も和んだ。今までたくさんの結婚式に出席して来たが、この時のほほえましい光景は第一等である。 K君は五年間指導員を勤めた後、社会自立を目指す2名の園生を預かり、ふるさと佐久へ戻った。当初、土木建設会社に2人と一緒に勤め、やがて手作りせっけんの作業所を作った。 家族と共に多くの苦難の末、現在では福祉作業所を有限会社にして、グループホームも3棟になった。働く仲間は40名余りに増えた。
3年前に発病して、医師から厳しい告知を受けたK君。どんな言葉掛けが・・・と悩む私の心を察して「もうやることは十分やった。悔いはないから大丈夫だよ」と運命を受け入れていた。どんなにか苦しかっただろうに。 グループホームから、みんなの声の聞こえる自宅で、奥さんの手厚い看護を受け、家族に看取られて最期を迎えた君。 遺影に向かい、弔辞を読ませてもらった私は、かけがえのない友を失ったことに、あらためて身震いした。 人生は出会いであるとつくづく思う。
さようならK君、たくさんの思い出をありがとう。
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