朴思堂だより

打てば響く世界を朴の木の下で思う

一期一会

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藤本幸邦老師


先日亡くなった、豊田市の二人の女の子のことを思っていると、ふと十数年前の出来事が蘇りました。

長野市篠ノ井に円福寺というお寺があります。円福寺には養護施設「円福寺愛育園」がありまして、長野県下でも戦後一早く養護施設として開園しました。住職兼、愛育園園長として頑張ってこられた藤本幸邦老師は月一度、当地佐久まで法話(サバスクール)に来てくださいました。
幸邦老師が90歳の卒寿を迎えられた時、私は8階建てのホテルの最上階のレストランで、お祝いの会を計画しました。佐久で一番のノッポビルで、ここから見る浅間山が最高にきれいなのです。
当日は快晴でした。大きな北側の窓には額縁に入れたような浅間山が輝いていました。幸邦老師は立ったままじっと浅間山を見ておられました。
私は「ああ、藤本先生、浅間山を見て感動されておられる。卒寿記念をここで開催できて良かった」そう一人喜んでいました。
老師はみなさんと満面の笑みで過ごされ、お祝いの会は終了しました。

それから3か月ほど経った頃でしょうか、ある方から藤本幸邦老師が長野市で講演された時の講演録が送られてきました。薄い本でしたから、すぐ読み始めました。そこには私が全く知らない老師の青春時代のことが書かれてありました。
「え!」読み始めてすぐに私の心は折れそうでした。
藤本幸邦老師15歳の時、2つ年下の妹さんが、仲の良かった女子友達と一緒に浅間山へ投身自殺をされたと、書かれてありました。その時、思春期真っ最中の老師のショックは計り知れません。
気持ちの優しい妹さんが、生きることを悲観していた友達に同情しての死であった・・・と。
親との縁の薄い子供たちの施設「円福寺愛育園」を始められたきっかけには、妹さんの死というものがどこかにあったのかもしれません。
卒寿のお祝いの会の時、浅間山をじっと見つめておられた老師の胸中は、どんなだったでしょう。それを思うと、今でも心が痛みます。
良かれと思ってしたことが、そうでなかったり、人生学校は宿題が大きいですね。

二人の小学6年生の女の子。今さえ生き抜いたらこれからどんなに楽しい日々が待っているのかも知れないのに・・・。
すべての大人たち、子供たちへ、命を懸けてメッセージを遺された2人。
どう受け取とめ、どう応えていけばいいのでしょうか。
一人の大人として、悔しくてそして申し訳なさでいっぱいです。


  ヌチドゥタカラ(命は宝)
              
 三十年前、沖縄県伊江島にある「ヌチドゥタカラの家」を訪ねた。ここにある「反戦平和資料館」を見学した時、身震いした。
 米軍が使用したカラの弾薬のおびただしい量、投下訓練した模擬爆弾、戦時中の粗末だった衣類や島の暮らし、目を覆いたくなるような白黒写真、壁に掲げられた命の言葉の数々。
 伊江島は、沖縄戦で島民の三分の一に当たる千五百人が命を奪われ、破壊つくされた島である。米軍によって奪い取られた土地を、島民の方々の非暴力の抵抗運動で少しずつ取り戻していった。
 当時、館長であった阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんにお会いしてお話を伺った。九十に近いお歳であったが、静かな語りの中に、多くの困難に立ち向かってこられた強い精神を感じた。
 阿波根さんは生涯を平和運動に捧げ、「沖縄のガンジー」と呼ばれたお方。ご自身、大切な息子さんを沖縄戦で亡くされた。
 揺るぎない信念で、訪れる方々に平和の尊さ、命の尊さをお話して下さっていた。
 二〇〇二年、百一歳で亡くなられた阿波根さんのメッセージが、資料館の壁に遺されている。
 
 「すべて剣を持つ国は剣で亡ぶ 
 基地をもつ国は基地で亡び
 核を持つ国は核で亡ぶ」
 
 二月八日、阿波根さんの精神を今こそ噛みしめたくて、三十年ぶりに伊江島を訪ねた。
 島のシンボル・城山(ぐすくやま・タッチュー)は、変わらぬ姿のまま迎えてくれた。反戦平和資料館では、阿波根さんの展示物紹介のお話が、音声として流されていた。
 あらためて、平和は私たち一人一人が創り
出すものであると学ばせていただいた。
 館長の謝花悦子さんとも懐かしい再会であった。手作りのお昼までご馳走になり、夕暮れまでたっぷりお話をお聞きした。
 資料館へは、今まで本土からも多くの高校生が修学旅行で来て、若い精神で戦争と平和というものを真剣に学んでくれたが、最近はほんとうに少なくなってしまったそうである。
 こういう施設にいると、この国の教育機関への圧力が切実に感じられる・・・と。
 沖縄の基地問題は、本土に住む私たちの直面する問題でもあるのだ。長野県内でも既にオスプレイが飛び始めているという現実。
 いつでも、いつまでも、おかしいことをおかしいと言えるわたしでありたいと切に思う。
 翌日、辺野古のキャンプシュワブ前に立った。じっとしていられなくてここへ来た。
 沖縄のおじい、おばあと共に座り、こみ上がる怒りの思いを、握った拳に込めた。
       二〇一九年二月十八日 記

ある出会いから

   ある出会いから
               

仕事中、SBC信越放送を聞く機会が多い。
月曜から金曜までの平日、文化放送の「氷川きよし節」を聞いているが、きよしさんとアナウンサーの寺島尚正さんとの語りが楽しい。 歌あり、昔話、俳句、寸劇ありで、十分間が短く感じられる。
 きよしさんの「満天の瞳(ほし)」がなんともいい歌で、聞き惚れている。今まで「虹色のバイヨン」が大好きでよく聞いていたが、「満天の瞳」も長く聞きたい歌だ。歌詞の「愛されるよりも愛さなきゃ」ここがなんともいい表現!
 もう十年位前になるだろうか。氷川きよしさんのことで忘れられない思い出がある。
 東京駅で四国、高松までの夜行バスを待っている時、七十代後半と思われるご夫婦と話をする機会があった。
 お二人、リュックサックを背負い長椅子に座っていた。なんとなく親しみを感じたので、近くにいた奥さんに声をかけた。
 「高松へは旅行ですか?」
 「いえ、帰るんです」
 「そうですか、東京へは観光ですか?」
 その時、旦那さんが横からひと言
 「ライブですよ、ライブ。わたしは家内の付き添い!」

高松弁で表現できないのが残念であるが、
ちょっとぶっきらぼうな言い方だった。
 「ええー!高松から、すごいですねぇ。どなたのライブですか?」
 「あんた、誰のライブか分かりますか?」
 奥さんが、宿題を出す先生のように「ニヤリ」と、笑いながら聞いてきた。
 突然の質問に首をひねっていると
 「分かるわけないねー 」
 と、いたずらっぽい目でこっちを見てる。
 

ええーい、当てずっぽうに言おう

「ひかわきよしさん!ですか?」
「あれー、あんた、どうして分かったんかい。びっくりしたあー」
それから、バスの出発時間ぎりぎりまで、

まさに奥さんの「氷川きよし節」オンパレードだった。
 「この歳になっても、心ときめかせる歌手がいるって幸せだぁ〜」
 忘れられない一言である。
 高松発の夜行バスで昨日の朝、東京へ着き、昼間、西武球場での「氷川きよしコンサート」を聞き、ほんとうは今晩の日本武道館でのコンサートも聞きたかったそうである。

明日、高松で用事があるので今晩の夜行バスに乗らねばならない無念さを語られた。
 旦那さんは「もう、病気ですな!」と私に向かって言いながら、ご自身も氷川さんのファンであることを喜んでいるようであった。
 すごいなあ、氷川きよしさん。このような熟年のファンがおられるとは。氷川さんの歌も、歌声ももちろん素敵だけれど、氷川さんの惹きつける人間性そのものの表れなのだ。
 およそ十時間の高松までのバスの旅。お二人は仲良く並んで語り合っている。

きっと氷川きよしさんのライブの余韻に浸っておられるのだろう。「お二人いい夢を見られますように」祈るような思いで私も眠りについた。
 翌朝、七時少し前に高松駅前に着いた。バスから降りた後、短いお別れの挨拶をした。 リュックを背負ったご夫妻は並んで、高松の街の中に消えていった。

「いつか、氷川さんのライブで会えるといいですね」
 そう後ろ姿に呼びかけていた。
 
一人、小豆島へ向かうフェリーの中で「俄か氷川きよしファン」になっている自分が、なんだかとても嬉しかった。
 

小池勇助 隊長

糸満の戦跡14 糸洲壕 ・・・小池勇助少佐の決断

2012年03月23日 | 博士の研究日記
 国道329号線を南下、何部病院の先からバイパスに入りしばらく行くと左側に畑が広がります。その畑の中、糸満市伊敷に自然壕の糸洲壕があります。1944年10月10日、十・十空襲の際に糸州の住民達がこの壕に避難しました。壕には出入り口が2箇所ありそれぞれウッカーガマ、ウンジャーガマと呼ばれています。
 1945年5月27日、戦況の悪化に伴い、豊見城城址にあった第24師団第二野戦病院(山3487部隊小池隊)は糸洲壕に移動してきます。この第二野戦病院には私立積徳高等女学校の女生徒25名が学徒動員されていました。移動にあたっては、歩ける者は部隊に帰し、重傷患者は「処置する」よう命令されました。
 しかし軍医は「本来なら患者を治してやるべき医者が、例え戦争中でも命を奪うのは忍びない」と、患者一人一人に励ましの声をかけ、枕元に水や乾パンと手榴弾を置いて別れたということです。
 この長野県出身の軍医・小池勇助隊長は戦時中にあって命の尊さを説く珍しい軍人であり、最期まで学徒隊を守り犠牲を最小限に抑えた人物でした。

糸洲壕の上に立つ鎮魂の碑
 第二野戦病院小池隊は糸洲壕に避難したものの艦砲射撃が激しくなり、衛生兵や学徒隊・傷病兵は壕の奥へと移動していくことになります。壕の中は広いのですが、中には水量豊富な川が流れており洞窟内は濡れた状態で、学徒隊の足袋は乾くことが無く足がふやけてしまい歩くのも困難になったということです。
 6月17日に壕の周囲は米軍が取り囲み、壕は馬乗り攻撃を受けます。壕の上からボーリングし穴を開けガソリンを流し込んで火をつけたり、ガス弾を打ち込んだりする攻撃です。
 衛生兵たちは切り込み隊に任命され、夜になると闇夜に紛れて米軍へ奇襲を行いました。
 衛生兵が少なくなるにつれ、学徒隊の仕事はますます多くなっていきました。
 こうした中、小池隊長の元に野戦病院の解散命令が届きます。この解散命令とは実際には「玉砕せよ」という命令です。しかし今解散したら学徒隊を戦場に放り出すことになる。小池隊長は学徒隊の命と軍命の狭間で悩みましたが、こんな状況の元で少女たちを放り出すことは出来ない、と解散命令を握りつぶし壕の中で解散の時期を探ることにしたのです。

糸洲壕への入り口
 6月26日になって、沖縄守備隊第三十二軍牛島中将・長参謀自決の報を受け、小池隊長は日本軍の敗北を知ります。そこで小池隊長は危険が少なくなったと判断し積徳学徒隊に解散命令を出します。
 解散にあたって小池隊長は学徒隊を集め、次のような話をしたということです。
「日本は戦争に負けました。長い間、軍に協力してくださりご苦労だった。負ける戦だと分かっていれば、君たちを預からなかった。親御さんに何とお詫びしたらいいか、本当に申し訳ない」と謝罪し、頭を下げました。
 米軍に捕らえられるくらいなら自決を選ぶと言う少女たちに対しては、
「捕虜になることは恥ではない、本当の恥は死ぬことだ。決して死んではいけない。必ず生きて家族のもとに帰りなさい。そして凄惨な戦争の最後を、銃後の国民に語り伝えてください」と訓示し、一人一人握手をし、学徒隊を送り出しました。
 解散命令が、沖縄戦の戦闘が終了した後のことであったために、学徒隊25名のうち、戦争の犠牲となったのは3名で、22名が生還しました。
 解散の翌日、恐怖のため糸洲壕から遠く離れることができなかった学徒隊の一人の少女が壕に戻り、服毒自決した小池隊長の変わり果てた姿を発見します。
 なぜ常々「決して死んではいけない」と諭していた小池隊長が自決したのかは明らかでありません。軍人として命令を握りつぶした責任を取ったのでしょうか?
 いずれにしても沖縄戦において、命を尊ぶ考えを持った軍人が日本軍にいたという事実を知っておかねばなりません。
 

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