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(エディターズ・ミュージアム)小宮山量平さんの編集室にて
小宮山量平さんを偲んで
四月十四日、信濃毎日新聞の「斜面」に「混迷のただなかで羅針盤を失ったー」と、編集者・小宮山量平さん訃報の記事が載った。
そこには児童文学出版・理論社を創業された小宮山さんのお仕事、哲学、願いが端的に書かれていた。
前日の十三日早朝、小宮山量平さんは亡くなられた。九十五年のご生涯であった。
「もっともっとたくさんのことを教えていただきたかった。お別れの日がこんなにも早く訪れるなんて・・・」
私はただ身震いするばかりであった。
急いで上田市のご自宅に駆けつけ最期のお別れをさせていただいた。沢山のお花に囲まれて、小宮山さんは穏やかなお顔であった。
今までのご縁の数々を思い出し「先生、長い間ほんとうにありがとうございました」そう心の中でお礼を述べた。
二十年程前、佐久で映画「つづり方兄妹」の上映会と、原作を編集された小宮山さんのお話の会を開催した。その折、小諸駅までお迎えに行った私を「主催者はご苦労ですから今日はね、あなたにごちそうしましょう」と、島崎藤村ゆかりの食堂「いちぜんめし・あげはや」へ連れて行って下さった。
道すがら「車が来ましたよ」そう言われると素早く車道側へ回られ、私の肩を抱え案じてくださった。時に、小宮山量平さん七十六歳、私は四十になったばかりであった。
佐久でのお話を小宮山さんは心待ちにして下さっていた。お母さんの故郷・望月町(もちづきまち・現佐久市)で、幼少の頃数年を過ごされたこともあり「一度は話に来てみたかった」とおっしゃった。
「子どもの詩・元気な子ども」と題してお話が始まった。
子供の本作りへの思いを熱く語られ、子供のたくましく、ユーモア溢れる詩もいくつか朗読して下さった。
お話の最後に竹中郁さんの「もしも」という詩を朗読して下さった。
もしも
子どもがいなかったら
大人ばかりで としよりばかりで
大人はみんな むっつりとなり
としよりはみんな 泣き顔となり
地球はすっかり色を失い
つまらぬ土くれとなるでしょう
子どもは鳩です
子どもはアコーデオンです
子どもは金の指輪です
とびます うたいます ひかります
地球をたのしく にぎやかに
いきいきとさせて
子どもは
とびます うたいます ひかります
子どもがいなかったら
地球はつまらない土くれです
「つづり方兄妹」の映画は、小宮山さんも三十数年ぶりだそうである。広い畳の会場だったので、小宮山さんはスクリーンの一番近くへ座られ、病気で亡くなったふうちゃんと語り合っておられるようだった。
会場には子供さんを連れたお母さん方が多かった。小学生の頃きっと涙をこぼしたのだろう、ハンカチを握りしめ嗚咽している。
私の横には小学校時代の恩師がいた。同級生もいた。小学校の講堂で、みんなで泣いた思い出がこみ上がり再び瞼を熱くした。
引き続いて楽しい座談会になった。手作りのごちそうを囲んで、みなさんからの感想をあたたかなまなざしで聞いておられた小宮山さんは「つづり方兄妹」のその後のことや、本づくりでのご苦労、幼いころの望月町の思い出を懐かしく語って下さった。
花束贈呈の大役を引き受けてくれた小学四年生の長女・啓子も「わたしも行く」と一緒に小宮山さんを小諸駅までお送りする。
駅前で小宮山さんとお別れすると「わたし、先生にてがみ書く。ねえ、書いてもいい?」
啓子はあふれる思いを抑えきれないように言った。この子の心をこれほどまで感動させてくださる小宮山さんの優しさと、肩に残る手のぬくもりが忘れられない。
家に帰ると、七五三の晴れ着の写真を同封して啓子は手紙を書いた。
たどたどしくも、今日の先生のお話と映画「つづり方兄妹」の感想を書いてあった。
しばらくして啓子宛てに小宮山さんから便りが届いた。
「おたよりとお写真をどうもありがとう!あんまりきれいな着物姿に思わずチュウをしました。・・・・・」
手にした啓子の顔がポッと赤らみ、恥ずかしそうに喜んでいる。こうして子どもの心の振幅を大きくしてくださるお心が嬉しい。
「週刊上田」の編集長をされていた深町さんからお誘いを受け「太郎山塾」の一員にもさせていただいた。夕暮れの西の空を仰ぎながら上田へ通った日々が懐かしい。この会で、夕食を囲みながら、小宮山さんのお話をじっくり聞く機会に恵まれた。
小宮山さんと、時々小さな旅のお供をさせていただいた。勿体なくも父のように慕い、甘え、ハガキやお手紙を書き、ご返事もたくさん戴いた。それは思い出と共にかけがえのない宝物になっている。
大正、昭和の時代、想像を絶する日々を生き抜かれた小宮山量平さんのやさしさ。それは多くの悲しみの命への共感と「つづり方兄妹」の我らがふうちゃんへのレクイエムとなって心に響く。
いただいたたくさんの豊かな種を、私も大切に育てていきたい。
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