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 今庄宿の続きです。
 
 
 今庄宿が形成され始めたのは中世に入ってからで、江戸時代になると北国街道は幹線道路として整備され宿場としての形を整えます。
 
 北国街道は、京から大津、彦根、米原を経て福井県に入り、敦賀からここ今庄宿をへて武生、鯖江、福井そして金沢、富山、新潟まで続く全長520㎞に及ぶ街道です。江戸幕府によって整備が進められた東海道、中山道、甲州道、奥州道、日光道の五街道に次ぐ脇海道の一つです。
 
 越前各藩の江戸への参勤交代は、江戸への最短路であったこともあって、必ずといってよいほどここを利用し、また、商用や伊勢参りなどの旅人も増え、今庄宿は大いに繁栄しました。天保年間(1830〜44)には、戸数290戸、人口1300余人、本陣・脇本陣、問屋3軒、旅籠55軒、茶屋15軒、娼屋2軒などが軒を連ねていたそうです。
 
 
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 「北善酒造(北村善六家)」・・・福井藩第4代藩主のときの寛文元年(1661)に幕府から銀兌換の藩札の発行が認められ、福井藩内では藩札の使用が強制されました。福井藩の南端に位置する今庄宿では、旅人や商人が金銀を藩札に、あるいは藩札を金銀に両替するための御札場(あふだば)が設けられました。最初は北村太平家が、その後北村新平家が、つづいて西尾茂左衛門家が、また享保15年(1730)からはここ北村善六家が務めました。
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 今庄宿は北国街道に沿って、南(京側)から北へと上町・観音町・仲町・古町・新町の5町があり、その町並みは約1キロメートルに及びます。中心の仲町には、福井・加賀両藩の本陣や脇本陣、問屋や造り酒屋が集まり、高札場もありました。
 
「本陣跡」・・・大庄屋で宿場の指導的立場にあった後藤家が本陣を務めました。建坪は百坪、部屋数も20を数える大きな本陣で、明治11年の明治天皇北陸行幸のとき行在所となりますが、その後後藤家は移住し取り壊されます。
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 昭和8年に篤志家田中和吉氏によって本陣玉座に明治殿を築造、付近一帯が公園として整備されます。
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 「若狭屋」・・・江戸時代の純粋な旅籠(はたご)です。旅籠は一般人が泊まる宿ですが、初期は各自に食料を持参し薪代などを払う携帯でしたが、庶民の旅行が多くなると、食事を提供する形態に変わっていきます。
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 「堀口酒造」・・・4軒目の造り酒屋です。
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 「京藤甚五郎家」・・・今庄宿でひときわ異彩をはなつ家です。 塗籠の外壁と赤みの強い越前瓦の屋根の上に、卯建(うだつ)の上がっているところが特徴です。天保年間(1830〜44)頃の建物とか。厚い土壁や土戸に周囲が覆われた土蔵造りで、完全な防火構造となっています。
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 宿場内では脇本陣格の建物で、当時は造り酒屋でした。幕末時代水戸天狗党一行が宿泊し、造り酒屋であった当家の酒で風呂を沸かし入浴したというエピソードも伝わります。 
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 「問屋、旧右衛門佐跡」・・・問屋は近世宿役人の長で、宿駅業務を行いました。また荷主から委託された貨物を手数料をとって仲買人に売りさばいたり、荷主から貨物を買い取って売りさばいたりして繁盛しました。
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 「旧西尾茂佐衛門家御札場跡」・・・藩札の両替所
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  矩折(かねおり)・・・一般的には桝形といい、遠くを見通すことができないように造られています。敵の侵入の勢いを弱めるよう防御を考えた構造です。
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 今庄宿はここまでです。
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                                                                                                                     2010.10.16

閉じる コメント(17)

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こんばんは〜、よく調べておられますね〜。
京藤甚五郎家のうだつが落ちそうです。
ここは余り補修をされてないようですね。
よく見るとあちこちにうだつが上がってますね。
宿場町として昔は繁盛したようですね。

2011/3/3(木) 午後 8:49 mda 返信する

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北国街道は長い道程ですね。
このまま街道を進めば帰えれないというのがわかります。

う・だ・つ・・・・初めて聞いたときなんだろうと意味が解りませんでしたが、うだつのあるお家ばかりなんですね。

2011/3/3(木) 午後 9:02 sero 返信する

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mdaさん、駅前観光案内所で散策マップをいただいて廻りました。
家を補修するには大金が必要です。
保存地区になって補助金でも出ればいいのですが。
昔は大繁盛したようです。今は寂れています。

2011/3/3(木) 午後 9:17 houzan 返信する

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mdaさん、ポチありがとうございます。

2011/3/3(木) 午後 9:26 houzan 返信する

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古風な建物がずっと並んでいてそれぞれ商いをしているようですね。
二階の部分の両側が囲われていますがなんなんでしょう・・・。
北海道では見られない光景です。
ポチ☆

2011/3/3(木) 午後 9:29 ゆうこ つれづれ日記 返信する

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Seroさん、はい、新潟までは遠いのが理解いただけたでしょうか。
うだつには屋根の上まで上げる「本卯建」と隣家の境に造る「袖卯建」があります。「本卯建」が上げられるのは財力のある家です。ですから数は少ないです。
ポチありがとうございます。

2011/3/3(木) 午後 9:33 houzan 返信する

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ゆうこさん、はい、宿場町ですから、旅籠を中心に、各種な職業がなされていました。
「袖卯建」のことでしょうか。連棟造りの家で隣家からの火事の延焼を防ぐ防火壁です。
ポチありがとうございます。

2011/3/3(木) 午後 9:37 houzan 返信する

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こんばんは〜
歴史を感じる建物が並ぶ街並みが素敵ですね。
ちょっとタイムスリップしてきたみたいです。
今もこの家で生活をしているのかな。。
ずっと残していってほしい街並みですね。
ぽち☆

2011/3/3(木) 午後 11:25 KEI 返信する

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KEIさん、はい、当時の面影が色濃く残っています。

ポチありがとうございます。

2011/3/4(金) 午前 0:02 houzan 返信する

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一枚目の家はほんと歴史を感じますね@@
宿は自炊・・・今の山小屋より大変ですね^^ポチ!

2011/3/4(金) 午前 7:21 ser*k*iko 返信する

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酒でお風呂?!
びっくりというか豪快なことをする人がいるものですね@@
お酒によわいわたしには考えられないことです・・・

2011/3/4(金) 午前 7:50 やまさん 返信する

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今は、昔・・・・・天保年間に、人口1300人居たのですか?因みに、平成の今は、どのくらいの人が、住んでいるのか?今は、寂しいですが、うだつのある家が、あるということは、昔は、栄えて居たのでしょうね! 削除

2011/3/4(金) 午前 8:00 [ 奈良屋 ] 返信する

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おけいさん、はい、木賃宿と旅籠は区別されていた…との話もどこかで聞きました。
ポチありがとうございます。

2011/3/4(金) 午後 2:21 houzan 返信する

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やまさん、はい、世間の注目を集めた天狗党も、こういった傍若無人ぶりに世間から見放されたのでしょうね。

2011/3/4(金) 午後 2:23 houzan 返信する

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奈良屋さん、いつもコメントありがとうございます。
はい、人口もさることながら、宿場として大繁盛したのは造り酒屋の多さからいってもわかります。
今の人口はどれぐらいでしょうか、ただ、生活の匂いはぷんぷんと漂っていました。

2011/3/4(金) 午後 2:27 houzan 返信する

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今庄宿の町並みは、魅力ありますね。
TB、ありがとうございます。

2014/5/15(木) 午後 8:42 Komoyo Mikomoti 返信する

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こもよみこもちさん、TBありがとうございます。

2014/5/19(月) 午後 10:05 houzan 返信する

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