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庭に咲くアガパンサス。
スポーツの解説を聞いていると、「精神力」という言葉がよく出てくる。精神力さえつければスポーツに勝てるのか、と錯覚を起こしそうになるが、スポーツなんだから、まず体力が大切なことは当然のことだろう。体力という言い方が嫌いな人でも、ともかく、スポーツは身体的な力や技能や、身体の能力が大切だということは認めるだろう。従って、スポーツの解説は、そのような身体能力の使い方や、その巧みさなどのことを話すのかと思っていると、やたら「精神力」が出てくる。監督や選手にインタビューするアナウンサーも、何かと精神力の話を聞きたがっているようである。
どうも、日本人は精神力が好きなようだが、それに輪をかけてでてくるのが、精神力を養うために、いかに耐えたか、という話である。苦しい練習に耐えて精神力を鍛えたために、遂に勝利を収めることができた。このようなお話の筋が好きなため、選手自身はそうも思っていないのに、このようなお話を引き出そうとアナウンサーがやっきになっているときがある。
スポーツに「耐える」ことを期待しているのは、どうも人生全般について、日本人は「耐える」ことが好きなためではなかろうか。勝利を得るためには、耐えや苦しみがなければならない、と決め込んでいる。
ところで、少し考えてみるだけでも、人間の「精神」というものが、耐えることだけに用いられるほど貧困なものだろうかという疑問が湧いてくる。人間の精神の力はもっともっと豊かなものであり、たとえばスポーツにも「精神」の力が必要というなら、それはもう駄目だというときに新しい手段を考え出す能力とか、相手によって方法を変えるとか、いろんなことがあるだろう。サッカーのときに、日本の選手はイマジネーションが不足しているとよく言われるが、イマジネーションこそ、人間の「精神」のはたらきそのものではないだろうか。「耐える」ことだけを精神力と思う日本のスポーツマンの訓練法が、イマジネーションという豊かな精神のはたらきを破壊していないかを反省してみる必要がある。
スポーツの話がわかりやすいので、それを題材として述べているが、このことは人生全般について言えないだろうか。会社などで、「精神力」を強調する上司は、部下に「耐える」ことのみを要求しているのが多いのではなかろうか。部下を鍛えるというとき、その考え方を豊かにするとか、自由な行動性を身につけるなどというのではなく、「耐える」ことを第一目標としていないだろうか。できることを上手に教えてゆくのではなく、不可能なことを要求したり、長時間にわたる仕事を要求したりして、それに耐えることを学ばせようとする。しかし、既に述べたように、その方法こそは、本来の意味における「精神」のはたらきを貧困にし、没個性的にすることにつながっていないだろうか。
以上のようなことは少し考えるだけでもわかることだが、それにもかかわらず、忍耐力イコール精神力という図式が、なかなか消えないのはどうしてだろうか。まず、第一に、それは免罪符として使用されやすいことである。「われわれはこれほどの苦しさに耐えてやってきた」という言いわけを、負けたときに言いやすいのである。日本のスポーツマンの練習時間が長いことの、ひとつの理由である。と思われる。
次に、耐えることのみに重点をおくとき、それは指導者にとって好都合なのである。彼は自分を鍛える側に置いて、ひたすら選手を耐えさせるとよい。それは選手の個性をつぶすことになり、没個性的な選手を集団として統率することを容易にする。このような集団は確かにまとまりはよいかも知れないが、新しい場面に対応したり、個性的な打開策を打ち出したりすることには劣ることになる。
こんなことを考えていたら、わが国のスポーツ・チームにも「耐える」ことに重点を置かない強いチームが出現してきて心強く思っている。楽しんでスポーツして、耐えることをしないなどと言っても弱くては話にならない。
もう一度くり返すが、単にスポーツのこととしてではなく、人生全般にわたる生き方として、そろそろ日本人は、耐える精神力というワンパターンを破るために、新しい精神力を養う必要があると思われるのである。
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こころの処方箋・・・河合隼雄著
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佐渡旅行のお土産にいただいたユリです。 |
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人生に心配や苦しみはつきものである。子どもが大学を受験する、毎日毎日一所懸命に勉強していて、合格するだろうか。第一志望も第二志望ももし駄目だったらどうするのか。浪人一年ぐらいはよいとして二年もするとどうなるのか。そもそもあの子は浪人一年でも体がもたないのではないか。などなど心配しはじめると切りがない。 |
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誰しも、何かをやりたいなとか、やってみたいなとか思うことがあるが、なかなかそれができない、ということがあるものだ。 |
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人間の感情というものは面白いものである。喜び、悲しみ、怒り、などの感情が生じてきて、人間はそれを抑えてみたり、外に表したりする。そして、そのような感情が生じてくるのには、それ相応のことが生じており、だいたいにおいて、それがどうして生じてきたのか説明できるものである。 |





