こころの処方箋・・・河合隼雄著

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]

イメージ 1
 庭に咲くアガパンサス。
 
 
 スポーツの解説を聞いていると、「精神力」という言葉がよく出てくる。精神力さえつければスポーツに勝てるのか、と錯覚を起こしそうになるが、スポーツなんだから、まず体力が大切なことは当然のことだろう。体力という言い方が嫌いな人でも、ともかく、スポーツは身体的な力や技能や、身体の能力が大切だということは認めるだろう。従って、スポーツの解説は、そのような身体能力の使い方や、その巧みさなどのことを話すのかと思っていると、やたら「精神力」が出てくる。監督や選手にインタビューするアナウンサーも、何かと精神力の話を聞きたがっているようである。
 
 どうも、日本人は精神力が好きなようだが、それに輪をかけてでてくるのが、精神力を養うために、いかに耐えたか、という話である。苦しい練習に耐えて精神力を鍛えたために、遂に勝利を収めることができた。このようなお話の筋が好きなため、選手自身はそうも思っていないのに、このようなお話を引き出そうとアナウンサーがやっきになっているときがある。
 
 スポーツに「耐える」ことを期待しているのは、どうも人生全般について、日本人は「耐える」ことが好きなためではなかろうか。勝利を得るためには、耐えや苦しみがなければならない、と決め込んでいる。
 
 ところで、少し考えてみるだけでも、人間の「精神」というものが、耐えることだけに用いられるほど貧困なものだろうかという疑問が湧いてくる。人間の精神の力はもっともっと豊かなものであり、たとえばスポーツにも「精神」の力が必要というなら、それはもう駄目だというときに新しい手段を考え出す能力とか、相手によって方法を変えるとか、いろんなことがあるだろう。サッカーのときに、日本の選手はイマジネーションが不足しているとよく言われるが、イマジネーションこそ、人間の「精神」のはたらきそのものではないだろうか。「耐える」ことだけを精神力と思う日本のスポーツマンの訓練法が、イマジネーションという豊かな精神のはたらきを破壊していないかを反省してみる必要がある。
 
 スポーツの話がわかりやすいので、それを題材として述べているが、このことは人生全般について言えないだろうか。会社などで、「精神力」を強調する上司は、部下に「耐える」ことのみを要求しているのが多いのではなかろうか。部下を鍛えるというとき、その考え方を豊かにするとか、自由な行動性を身につけるなどというのではなく、「耐える」ことを第一目標としていないだろうか。できることを上手に教えてゆくのではなく、不可能なことを要求したり、長時間にわたる仕事を要求したりして、それに耐えることを学ばせようとする。しかし、既に述べたように、その方法こそは、本来の意味における「精神」のはたらきを貧困にし、没個性的にすることにつながっていないだろうか。
 
 以上のようなことは少し考えるだけでもわかることだが、それにもかかわらず、忍耐力イコール精神力という図式が、なかなか消えないのはどうしてだろうか。まず、第一に、それは免罪符として使用されやすいことである。「われわれはこれほどの苦しさに耐えてやってきた」という言いわけを、負けたときに言いやすいのである。日本のスポーツマンの練習時間が長いことの、ひとつの理由である。と思われる。
 
 次に、耐えることのみに重点をおくとき、それは指導者にとって好都合なのである。彼は自分を鍛える側に置いて、ひたすら選手を耐えさせるとよい。それは選手の個性をつぶすことになり、没個性的な選手を集団として統率することを容易にする。このような集団は確かにまとまりはよいかも知れないが、新しい場面に対応したり、個性的な打開策を打ち出したりすることには劣ることになる。
 
 こんなことを考えていたら、わが国のスポーツ・チームにも「耐える」ことに重点を置かない強いチームが出現してきて心強く思っている。楽しんでスポーツして、耐えることをしないなどと言っても弱くては話にならない。
 
 もう一度くり返すが、単にスポーツのこととしてではなく、人生全般にわたる生き方として、そろそろ日本人は、耐える精神力というワンパターンを破るために、新しい精神力を養う必要があると思われるのである。

イメージ 1

 佐渡旅行のお土産にいただいたユリです。 



 人間には身体的なエネルギーだけでなく、心のエネルギーというのもある、と考えると、ものごとが良く了解できるようである。同じ椅子に一時間坐っているにしても、一人でぼーと坐っているのと、客の前で坐っているのとでは疲れ方がまったく違う。身体的には同じことをしていても「心」を使っていると、それだけ心のエネルギーを使用しているので疲れるのだ、と思われる。

 このようなことは誰しもある程度知っていることである。そこで、人間はエネルギーの節約に努めることになる。仕事など必要なことに使うのは仕方ないとして、不必要なことに、心のエネルギーを使わないようにする、となってくると、人間が何となく無愛想になってきて、生き方に潤いがなくなってくる。他人に会う度に、にこにこしていたり、相手のことに気を使ったりするとエネルギーの浪費になるというわけである。
 ときに、役所の窓口などに、このような省エネの見本のような人を見かけることがある。まったくもって無愛想に、じゃまくさそうに応対をしているのである。そのくせ、疲れた顔をしたりしているところが、面白いところである。

 これとは逆に、エネルギーがあり余っているのか、と思う人もある。仕事に熱心だけでなく、趣味においても大いに活躍している。他人に会うときも、いつも元気そうだし、いろいろと心づかいをしてくれる。それでいて、それほど疲れているようではない。むしろ、人よりは元気そうである。

 このような人たちを見ていると、人間には生まれつき、心のエネルギーを沢山もっている人と、少ない人とがあるのかな、と思わされる。いろいろな能力において、人間に差があるように、心のエネルギー量というのにも生まれつきの差があるのだろうか。これは大問題なので、今回は取りあげないことにして、もう少し他のことを考えてみよう。

 他との比較ではなくて、自分自身のことを考えてみよう。たとえば、自分が碁が好きだとして、碁を打っているために使用される心のエネルギーを節約して、もう少し仕事の方に向けようと考えてみるとしよう。そこで、友人と碁を打つ回数を少なくして、仕事に力を入れようとして、果たしてうまくゆくだろうか。あるいは、今まで運動などまったくしなかったのに、ふと友人に誘われてテニスをはじめると、それがなかなか面白い。だんだんと熱心にテニスの練習に打ち込むようになる。そんなときに、仕事の方は、以前より能率が悪くなっているだろうか。あんがい、以前と変わらないことが多い。テニスの練習のために、以前よりも朝一時間早く起きているのに、仕事をさぼるどころか、むしろ、仕事に対しても意欲的になっている、というときもあるだろう。

 もちろん、ものごとには限度ということがあるから、趣味に力を入れれば入れるほど、仕事もよく出来る、などと簡単には言えないが、ともかく、エネルギーの消耗を片方で押さえると、片方で多くなる、というような単純計算が成立しないことは了解されるであろう。片方でエネルギーを費やすことが、かえって他の方に用いられるエネルギーの量も増加させる、ということさえある。
 以上のことは、人間は「もの」でもないし「機械」でもない、生きものである、という事実によっている。

 人間の心のエネルギーは、多くの「鉱脈」のなかに埋もれていて、新しい鉱脈を掘り当てると、これまでとは異なるエネルギーが供給されてくるようである。このような新しい鉱脈を掘り当てることなく、「手持ち」のエネルギーだけに頼ろうとするときは、確かに、それを何かに使用すると、その分だけどこかで節約しなければならない、という感じになるようである。

 このように考えると、エネルギーの節約ばかり考えて、新しい鉱脈を掘り当てるのを怠っている人は、宝の持ちぐされのようなことになってしまう。あるいは、掘り出されないエネルギーが、底の方で動くので、何となくイライラしていたり、時にエネルギーの暴発現象を起こしたりする。これは、いつも無愛想に、感情をめったに表に出さない人が、ちょっとしたことで、カッと怒ったりするような現象としてあらわれたりする。

 自分のなかの新しい鉱脈をうまく掘り当ててゆくと、人よりは相当に多く動いていても、それほど疲れるものではない。それに、心のエネルギーはうまく流れると効率のいいものなのである。他人に対しても、心のエネルギーを節約しようとするよりも、むしろ、上手に流してゆこうとする方が、効率もよいし、そのことを通じて新しい鉱脈の発見に至ることもある。心のエネルギーの出し惜しみは、結果的に損につながることが多いものである。 

 人生に心配や苦しみはつきものである。子どもが大学を受験する、毎日毎日一所懸命に勉強していて、合格するだろうか。第一志望も第二志望ももし駄目だったらどうするのか。浪人一年ぐらいはよいとして二年もするとどうなるのか。そもそもあの子は浪人一年でも体がもたないのではないか。などなど心配しはじめると切りがない。

 こんなときに、心配でたまらないと嘆く人もあるが、考えてみると、子どもを持って、その子が受験勉強をまがりなりにもして、合格できるかしないかと心配できるとは、結構な話である。もし子どもがなかったら、もし子どもが大学受験などしなかったら、などと考えてみるとよい。そのときの方がもっと心配が大きいことだろう。心配できるだけでも幸せというものである。

 「心配してもはじまらないから、心配するな」などという人もある。しかし、「心配するな」といわれてやめらられるようなものではないのだ。とすると、心配しながらも、どこかでそれを楽しむようにしてはどうだろう。心配の種はつきることがないのだ。沢山ある心配のなかで、特にその心配が自分に与えられることになった。それも大きく考えると、人生の楽しみのうちではなかろうか。

 心配や苦しみは少ないことにこしたことはない。しかし、心配や苦しみのない人がこの世に存在し、その人は幸福な人だときめてかかっているために、その人に比して自分は不幸だと思うことになる。そのような苦しみや心配のない人などまず居ないだろうし、もし居たとするならば、そのために周囲の人が困っていると考えて、まず間違いないだろう。

 ある家庭の一年浪人の受験生が、いったいどこを受験するかで迷い始めた。できる限りよい大学に行きたいが二浪は少し辛い。と言って前年の失敗のことなど考えると、再度挑戦という気持ちも湧いてくる。それだけではない。親類にも受験生がいるので、それとのバランスまで考えねばならない。両親と子どもとで大いに頭を悩ませるが、同居している祖母には、「心配をかけない」ように、ともかく「次は大丈夫だから」と言うことにして、こまごましたことは言わないことにした。

 何しろ、前年の失敗のときに祖母のあまりにも気落ちしてしまったことを考えると、これ以上心配はかけたくない、という気持ちが先行してしまうのである。ところが、その頃から祖母が少しボケはじめたようなのである。自分はいじわるをされて、あまり十分に食べさせて貰っていないとか、自分を一人にして放っておいて、家族一同でレストランに御馳走を食べに行ったとか、親類のものに言うようになった。もちろん、そんなことは事実ではないのだが、父親の姉妹などが心配してやってきたりして、事情がわかってきたのである。

 皆でいろいろ考えてひとつ考えついたのは、祖母から孫の受験に関する「心配」を取りあげてしまったので、急に疎外感を感じたのではないかということであった。そこで、試しに、思い切って孫の受験のことについていろいろと話をしてみた。すると、ボケているはずの祖母が何やかやと意見を言い、それはそれでやっぱりうるさい点もあったし、祖母なりに心配するので、それに対応してゆかねばならぬということは生じたものの、祖母の「ボケ」は収まってしまったのである。

 苦しみや心配は少ない方がいいとは言うものの、心配すべきときにその心配を取り上げられては、生きる楽しみがなくなるのである。このことは、老人のことを考えるときに、特に必要なことではなかろうか。老人に対して配慮しているように見えながら、それは強力な疎外を行っていることになる。老人のボケが多くなる理由のひとつに、このようなことがあると思われる。

 老人に心配をかけることは、もちろん、その後で老人がする心配を共にわけ合うことを前提としている。できる限り、共に苦しんだり、共に心配したりすることこそが、人生の楽しみにつながってくると思われる。このようなことを抜きにして、単に苦しみや心配を与えることが楽しみになるなどとは、誰も考えないであろう。それはただ重荷を与えるだけのことである。重荷を支えることに共に参加しているという感じが必要なのである。

 心配や苦しみも楽しみのうちなどと言っても、その渦中にあるときは、心配に打ちのめされたり、苦しみから逃れようとのたうち廻ったりで、楽しみどころではないかも知れない。しかし、そのような状況から抜け出した後で、思い直してみると、「やっぱり楽しみのうちだったかな」と思えたりしてくる。このような経験を重ねてゆくと、心配や苦しみに対して他の人よりは落ち着いて受けいれられるようになるだろう。

 誰しも、何かをやりたいなとか、やってみたいなとか思うことがあるが、なかなかそれができない、ということがあるものだ。
 「――がやってみたい。しかし――」というわけで、何か保留条件がつき、その条件について考えこんだり、それを解決してから、などと思っているうちに、日が経ってしまったり、意欲が薄れたりしてしまう。あるいは、ずっとそのように思いながら死を迎えてしまうということもある。
 やりたいことはやればいいじゃないか、と言えばまったくそのとおりなのだが、そこで「しかし」という条件が心のなかに生じてきて、のびのびになるところに、人間というものの在り方がよく示されていると思われる。

 ごく一般にあることとしては、やりたいことがあっても、「その前にしておかなければならないこと」があって、それが気になるという場合がある。小さい例をあげると、たとえば麻雀の好きな人が麻雀に誘われる。「しかし、どうしても明日までにしなければならない仕事がある」というような場合である。
 こんなときは、やりたい麻雀を辛抱して、しなければならない仕事にかかるが、後から考えてみると、そのときの能率はきわめて悪いものである。

 ――今頃はあいつらは楽しんでいるだろうなと思ってみたり、自分が麻雀で勝つところを空想してみたり、ともかく仕事に身がはいらない。最悪のときは、そのような様子で結局は仕事を終えることができず、翌日まわしになって、こんなときは麻雀をしておればよかった、ということになる。

 このようなときは、やりたいと思ったら麻雀をやってしまう方が能率的なことがある。どちらにしろ仕事は翌日まわしになるが、好きなことをしたと思うので、翌日は張切ってやることになり、手際よく出来るのである。どちらにしろ一日後れになるのなら、麻雀を楽しんだだけ得というものである。

 そんな心がけの悪いことではいけない。なすべきことはまず優先させるべきだ、という人もある。それがそのとおりに出来る人は偉大であるし、それは立派で、文句のつけようもない。しかし、われわれ凡人はなかなかそうはいかないのだ。立派なことを言っても、そのとおりには出来ないし、おまけに好きなことが出来なかったという不満がたまってきて、誰かに当りたくなってくる。知らず知らずのうちに近所迷惑なことをしている方が多い。
 好きなことを先にして、仕事が遅れるのも近所迷惑だし、仕事を優先して周囲に当っているのも近所迷惑で同じようなものだが、後者の方が威張る傾向が強いぶんだけ、マイナスが多いように思われる。

 次に、「――したいのだが、時間がない」という人が多い。確かに現代人は忙しい。することがありすぎるほどである。その上に好きなことなどはじめたら、忙しすぎてたまらない、というのが一般常識である。
 ところが、思い切ってその好きなことをはじめるとわかることだが、やってみると、あんがい時間のやりくりがつくものなのである。好きなことをしたために、他のこともちゃんとやらなくてはと感じるので、能率がよくあがり、短い時間で仕事ができるので、全体としてうまくゆくことになる。

 それに、もうひとつ忘れてはならないことがある。どうも現代人は仕事の量が増えるほど、エネルギーの消耗が激しくなって疲れる、と単純に考えすぎているようである。いくら仕事の量が増えても、好きでやっているときは、エネルギーの流れがいいので、それほど疲れないものである。何か仕事をしながら、やっぱりあの好きなことをしておけばよかったとか、いやだなとか思っているときは、心のなかに生じる摩擦のためにエネルギーを消耗するものである。このために、あまり仕事をしていない割に疲れるということになる。

 「やりたいことがあるが、もう遅い」という人も多い。スポーツをするには年齢が高すぎる。新しいことを勉強しようにも、記憶力もにぶってきている。今更やってもしかたがない、と言いつつ、その人が他に何もやらずにぶらぶらしていたり、暇をもて余して他人におせっかいを焼きすぎたりしているのを見ると、ぶつぶつ言う前に、ともかくやってみては、と言いたくなる。そして、何度も言うようだが、自分がやりたい、好き、と思うことは、やはりそれだけの意味があるもので、それをはじめたために若返ってくることさえある。自分の思いがけない能力が引き出されてくるのである。

 何だかうまく乗せられそうだが、そんなにうまくゆくはずがない、と思う方があったら、ともかくまずやって頂きたい。やってみないと物事はわからない。それに駄目だったとしても、もともとなのだ。あれこれ考える前にはじめることである。

 人間の感情というものは面白いものである。喜び、悲しみ、怒り、などの感情が生じてきて、人間はそれを抑えてみたり、外に表したりする。そして、そのような感情が生じてくるのには、それ相応のことが生じており、だいたいにおいて、それがどうして生じてきたのか説明できるものである。

 ところが、いわゆるイライラするとき、というのは、そのわけがわかっているようで、その実は、ことの本質がわかっていないときが多いのではなかろうか。イライラというのは、人間の落ち着きをなくさせるが、その落ち着きのなさは、何か不可解なものが存在していることを示しているように思われる。

 ある奥さんが、自分の夫の話しぶりを聞いていると、何かイライラして仕方がないと嘆かれる。それまでは、ものの言い方が少し遅いなと感じるくらいだったが、最近は、もっとピシッとすればいいのに、という感じがしてきて、何となくしまりの無いのにイライラしてしまう。夫が話をはじめると、「もっと早く」とか「はっきりと」とか横から言いたいくらいになる、と言う。

 確かに、この男性は話のテンポが少し遅いことは事実である。彼の夫人がそれを気にするのもうなずける。しかし、彼女が言うほどにもイライラする、というのはどうかなと思われる。こんなとき、私が彼女の立場にあるとしたら、「イライラするのは、何かを見とおしていないからだ」と心のなかで言ってみて、イライラを直接に夫にぶつける前に、見とおしてやろうとする目を自分の内部に向けて探索してみるだろう。

 このように言っても、イライラというものは、落ち着きを無くさせるし、それを相手にぶっつけないとたまらないような性格をもっているので、そんな悠長なことを言っておられるか、ということになるが、それだからこそ余計に、今述べたようなことが必要なのである。イライラは、自分の何か――多くの場合、何らかの欠点にかかわること――を見出すのを防ぐために、相手に対する攻撃として出てくることが多いのである。

 さて、先ほどの女性の場合は、私と話し合っているうちに、ふと、自分自身が是非やらねばならぬ仕事を、のばしのばししてきていることに気づかれたのであった。自分がなすべき仕事に「遅れをとっている」ことが、夫の話の遅さと妙なひっかかりをつくったというわけである。このことに気がつき、自分の仕事をはじめると、今までイライラのもとだった、夫の話し方は、やはり時には腹の立つときもあるが、それまでのようにやたらにイライラを引き起こす種にならなくなった、とのことである。

 夫婦の場合は、常に一緒に暮らしているし、思いの他に、心と心の動きが呼応し合っていることが多いので、ここに述べてようなイライラが生じやすいものである。特に、何か新しい変化が生じはじめるときは、その変化に気づかないまま、どちらもイライラしていることになる。そのときに、どちらかが、目を自分の内に向け、「何か見とおしていないぞ」とゆっくり構えると、イライラのなかから有益な発見が生じてくることになる。

 一般には、夫婦の間でこの種のイライラをぶっつけ合い、一時的には別れたいほどの気持ちになりながら、そのうちにイライラも収まってくるし、関係もまたよくなってくる、ということを繰り返すことになる。よくよく考えると、その間に何らかの変化が生じたり、何か課題を解決したりしているのだが、本人たちはそれほども意識していないのである。

 イライラを繰り返しながら、このように自然に生きるのも、またひとつの方法だが、少し見とおしをもった方が、イライラで苦しむことも少なくなるし、意味がわかって面白くなる分だけ、得ではないだろうか。

 イライラは見とおしの無いところに生じる。この際、ある人が自分について――多くの場合、その欠点について――見とおしを持たず、しかもその御本人が悠然としておれば、周囲の人はイライラしてくるはずである。こんな人は、本人が落ち着いていればいるだけ、周囲のイライラも強くなってくる。家庭や会社などに、この種の落ち着いた人が居ると、周囲の人はわけのわからぬイライラのために争いを生じ、傍から見ると、「あの家族は、父親(母親)は落ち着いたよい人なのに、どうして他の人はいつもけんかばかりしているのだろう」などということになる。この場合でも、その中心人物を非難するよりは、やはり、それに呼応してイライラを生ぜしめた何らかの要因は、周囲の人ももっているわけだから、イライラしたものが、少しずつ自分のなかを見とおすことによって、問題が解決していくようである。

 だいたい心の問題は「急がば回れ」の解決法が得策のように思われる。

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]


.
houzan
houzan
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

ブログバナー

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事