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山登りと関係ない記事が続きましたが、今回の白山登山最後の記事です。
白山長滝寺(ながたきじ)は、奈良時代の養老年間(717〜24)越前の僧、泰澄(たいちょう)の開基と伝えられます。天長5年(828)法相宗から天台宗に改宗、比叡山延暦寺の別院となりました。
長滝白山神社(昨日記事にしました)と一体で、白山本地中宮長滝寺と称し、加賀・越前とならぶ白山登拝信仰の拠点として栄えました。
全盛時には堂社30余宇・6谷6院・僧坊360を擁したそうですが、明治の神仏分離により天台宗白山長滝寺となりました。明治32年(1899)の大火により、大講堂などことごとく焼失しましたが、「木造釈迦三尊像」「木造四天王像」(いづれも国重要文化財)などが残りました。
石燈籠(重文)・・・鎌倉時代の正安4年(1302)伝燈大法師覚海の寄進により建てられたと銘記されています。この石燈籠は、般若寺型に類するもので、細部の手法が優れ、装飾の善美を尽くし、制作年代も明確、かつ白山信仰上の貴重な資料として国重要文化財となっています。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)・・・本来は宝篋印陀羅尼の経文を納める塔のことをいうのだそうですが、のちには納入物に関係なくこの塔形の名称になりました。
この塔は、天保4年(1833)に建立され、石塔の梵字と銘文は豪潮律師の筆になるもの。豪潮(1749〜1835)は、肥後出身で、天下無双の大徳と仰がれた僧だったとのことです。
護摩壇跡と金剛童子堂・・・白山登拝に際し、護摩を焚き、祈祷をしたところといわれています。護摩行は、修験道では欠くことのできない重要な儀礼で、壇上に井桁に組んだ護摩木を焚き、願い事の達成を祈る修法です。白山禅定道には、ここを起点に峰伝いに長滝十宿と呼ばれる行場があり、修験者は山中で苦行を重ねたといいます。
金剛童子堂では、堂の周りを石を持って息をせず、三周すると力が授かるといわれています。
延年水・・・この霊水は、夏でも涸れることはなく、古くから五穀豊穣・悪疫鎮静などのため神仏に供え、加持祈祷を納めてきたといいます。
また、「千蛇ヶ清水」とも呼ばれ、白山頂上の千蛇ヶ池(最後の写真・・・泰澄大師が千匹の毒蛇を封じ込めたという)から湧き出しているものといわれ、古くから白山参詣者は薬水として重宝していたといわれます。
白山は、古くから人々の信仰を集めてきた山です。もともと山岳信仰は、水に対する信仰から生まれたといわれ、白山も四県を流れる河川の源です。元来は禁足の神体山として仰がれてきましたが、養老元年(717)越前の僧泰澄が開山、中世以降は修験道の道場として登拝の対象とされるようになりました。
神仏習合を教義とする修験道のもと、神仏一体の思想による白山信仰は、明治時代まで広く行われていました。
その参詣登拝道は、禅定道(ぜんじょうどう)と呼ばれ、加賀禅定道・越前禅定道・美濃禅定道が開かれ、馬場(ばんば)が設けられました。馬場とは登拝口のことです。
各馬場には、白山を祀る寺社がそれぞれあり、加賀には白山本宮(石川県鶴来)、越前には平泉寺(福井県勝山市)、美濃にはここ白山中宮長滝寺(岐阜県郡上市)でした。
美濃禅定道は、ここ長滝寺を拠点に石徹白(いとしろ)から銚子ヶ峰〜一ノ峰〜二ノ峰〜三ノ峰〜別山〜御前峰(白山)となる長大なもので、現在石徹白道と呼ばれているものです。別山まででも10時間以上の距離があり、途中に山小屋もありませんから、歩くとすればテント持参ということになるのでしょう。修験道時代の登拝の厳しさがうかがわれます。
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