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ウルトラクイズは最後まで勝ち抜くとおおよそ1カ月くらい会社を休む羽目になるが、実は後楽園(東京ドーム)から決勝までを通しで行っているわけではない。8月のお盆前に後楽園(東京ドーム)で国内第1次予選が行われてから、9月初旬に再度招集されて成田で国内第2次予選(第11回は久伊豆神社)が行われるまで、3週間ほどのブランクがある。
ビザをとったりする時間が必要などの事務的な理由もさることながら、最高で1カ月もの休みをとるために、いろいろと準備や根回しが必要であり、そのための時間ともいえる。中にはせっかくとんでもない倍率を突破して勝ち抜けながらも、結局まわりとの調整がつかずに参加を断念して辞退する人もでてくる。スタッフ側としては、辞退者がでた場合はすばやく補欠(○×クイズの最後のほうで惜しくも敗れた人)の人たちと連絡をとり、あらかじめ決められた挑戦人数を確保しなければならない。
この○×クイズは、いわずと知れたウルトラクイズの最難関で、かつてウルトラクイズに批判的だったクイズプレイヤーを含む、幾多の猛者たちの挑戦を、ことごとく退けてきた。僕も全部で13回挑戦して2回しか(2回も?)勝ちぬけていない。
ところが、なぜか勝ちぬけてもそのまま続けて参加できないような状況をつくったりすると、するっと勝ち抜けてしまえたりする。第11回のときの僕がまさにそれだった。
1987年4月。僕は一浪一留を経て立命館大学を卒業し、某大手印刷会社の関西支社に就職した。4月の1カ月間は東京で集合研修があり、関西に戻ってからの2ヵ月も引き続き研修ずくめ、ようやく7月に配属されたものの、ウルトラクイズのある8月の時点ではまだ1カ月くらいしか経っておらず、クイズからは相当遠ざかっていたし、なによりとても長期間会社を休めるような状況ではなかった。
当時の僕たちにとって、ウルトラクイズに参加することはもはや年中行事だったから、後楽園に行くことはまるで違和感がなかったが、たとえ勝ち抜いたとしても、勝者弁当だけ食べて辞退しよう(辞退せざるをえない)というのが正直な気持ちだったのだ。
ところが、こんな状況だからこそか、7年目の挑戦にして初めて後楽園を突破する。勝者たちはグラウンドから地下のトンネルを通って隣の建物に移り、ひと通りの説明を受けた後に勝者弁当が配られ、プロフィール用紙への書き込み、そして個別面接などを行った。
ちなみにウルトラクイズでは放送時にしばしば名前と都道府県名がテロップとして表示されるが、ここにでてくるのは現住所が基本になっている。にもかかわらず、当時大阪府箕面市の会社寮に住んでいた僕が岐阜県と表示されたのは、プロフィールと面接で強硬に「岐阜県にしてほしい」と言い張ったからである(とにかく岐阜県人としてでたかった)。テレビでは岐阜県になっている僕が、ウルトラ本では大阪府箕面市となっているのはそのためだ。
そして翌日に出社。僕はだめもとで上司に相談することにした。説明会の折にA4サイズの用紙2〜3枚に書かれた行程表が配られていたので、それをもって課長、そして部長に相談した。「行程表の1枚目だけをコピーしてくれ」と言った部長が、人事と協議してだした回答は「有給休暇の分だけならばよい」というものだった。新入社員の僕がもっていた有給休暇は6日間だけ。それでもその回答は、僕には最大限の厚遇のように思われた。行程表をみながら部長が「ハワイまでにしておこうな」(大陸に渡ると6日間を超えるから)と言ったとき、僕は「たぶんハワイまで行ったら帰ってこないだろうな」と思いつつ、うなずくしかなかった。
このときに課長からは「6日間以上休むと、君の将来のためによくない」と釘をさされた。これが決勝前のヘリコプターで飛んでいたときに紹介されたのを知ったのは、テレビ放送をみたときが初めてだ。
以上が、僕が「辞表覚悟」をキャッチフレーズとした経緯だが、これらのエピソードについては、僕はウルトラクイズの旅行中(そしてもちろん旅行前にも)、留さんやスタッフに一言も話してはいない。では、なぜこのエピソードが引用されていたのだろうか。
実は、ウルトラクイズに再招集される1週間ほど前、朝日新聞の記者が関西クイズ愛好会の例会に取材(注:ウルトラクイズの取材ではなく、何回かのシリーズでクイズブームにまつわるコラムを書いていて、そのための取材だった)に来ていた。そのときに第11回の勝ち抜け組だった僕ともう1人が集中的に取材され、精神的に追い詰められていた僕が話した内容が、ウルトラクイズの旅の最中に新聞記事になった。そしてそれが日本テレビ関係者の目に留まり、テレビで使われたというわけだ。
そのときの記事は、「名誉か?仕事か?」で始まり、大事なものを賭けてまでクイズに打ち込む人たちをとりあげたものになっており、最後は「16日現在(ウルトラが中盤にさしかかった頃でこの記事のでた前日)、稲川はまだ勝ち続けている。この番組の模様は11月に放送される」で結ばれていた。
ウルトラクイズの制作中に挑戦者の実名がでるのは極めて異例なことであっただろうし、その挑戦者がその後そのまま優勝したことで、この記事の価値は数段高まったことだろう。
だが、当時の僕はそんなことをまるで知らなかったし、ウルトラクイズの旅を無条件に楽しむ余裕もなかった。「ウルトラクイズでの敗退=帰国して辞表提出」がはっきりしていた僕にとって、それぞれのチェックポイントでのプレッシャーはとんでもなく重かったのだ。
ウルトラクイズ再招集の前日、なけなしの貯金30万円ほどの全額をおろしてスーツケースなどを買い込んだ僕は、寮の自室でほとんど徹夜をして準備をした。会社のみんなにはなんと言われるだろう。なんの相談もなく出発したことを知った両親はなんというだろう。などなど、いろいろなことを考えながら・・・
そしてこのときにはまだ、再招集の日にクイズがあることも、翌日の成田から始まる1日が長い長い1日になることも、僕は知る由もなかった。
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