もずの独り言・ヤフー版Part2

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福山城 ケータイ投稿記事

【2009年2月26日】

阿部伊勢守正弘。
備後福山藩主である。

22歳のとき、寺社奉行としてある不祥事の始末を老中・水野忠邦に命ぜられた。
まだ22歳のときだ。26歳で首席老中(総理大臣)になるだけのことはある。

ある不祥事というのは、日啓という僧侶と大奥の間に発生した。
日啓は江戸牛込の仏性寺という日蓮宗のお寺の僧侶だった。
この日啓の娘にお美代というのがいた。
坊さんに娘がいた。
本来ならこれでこの話は「はい、おしまい」だ。
ところがこの寺の檀家に中野清茂という男がいたことが不祥事の芽だった。

中野清茂は一般的には中野碩翁の名前で知られる男で、旗本だった。
清茂が檀家ということで日啓は江戸神田駿河台の中野屋敷に出入りがあった。その関係で、日啓はお美代を中野屋敷に奉公に出していた。
清茂は日啓に



「お美代はワシの眼から見ても美人。どうじゃ、ワシの養女として大奥に御奉公させてみぬか?」



と話を持ちかけた。
日啓に異存は無く、お美代は清茂の養女として大奥に入り「お手付き」となった。
お美代と家斉将軍の間には3女が生まれ、このうち溶姫は金沢の前田斉泰に嫁いだ。

文政年間に家斉将軍が病気から頭痛持ちになったことがあった。
この頭痛持ちが日啓の祈祷で治ったということで日啓は家斉将軍から信用を得た。日啓の祈祷を家斉将軍に勧めたのは、言うまでも無くお美代だ。

日啓は信用を得たことを利用して感応寺というお寺を再興しようとした。
「再興」というのは感応寺というお寺そのものは江戸谷中にあったのだが、綱吉将軍の頃に弾圧を受けて日蓮宗から天台宗に改宗させられてしまったため、日啓はこれとは別に日蓮宗の感応寺を再興しようとしたのだ。
家斉将軍は江戸雑司ヶ谷に約93,000平方メートルの敷地を日啓のために用意した。やがて感応寺が竣工し、このお寺を舞台に不祥事が発生する。

大奥の女中たちが感応寺にお参りに行くようになった。
「お参り」とは口実で、実際は感応寺の僧侶とのチョメチョメを楽しむためだった。
やがてこれが江戸っ子の噂となり、首席老中・水野忠邦の知れるところになった。



「噂が事実かどうか、確かめろ」
忠邦は阿部正弘に命じた。
正弘が調査した結果「噂は事実」とわかると忠邦は「寺社奉行のおまえが始末しろ」と言った。
正弘は家斉将軍の名前に傷が付かないように日啓とその身内だけを処分した。
見事な後始末だった。

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