もずの独り言・ヤフー版Part2

半蔵&もず、機種変更しても独り言です。

いずみ江戸日記・江戸ネタ

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いつも里菜サンにはすいーとぽてともらってばっかだからな。
今日は唐芋(さつまいも)できんとん作ってやるよ。里菜サンの時代と違ってオレたちは砂糖を手に入れらんねえが、唐芋そのものの甘さでうめえきんとんが出来るんだ。



また里菜サン、箱いっぱいのすいーとぽてとだな。
で、今日はどこのハラキリトンチキの話すりゃあいいんだい?
横山山城守長知様?
ああ、こないだ安房守様(本多政重)の話したからな。

里菜サン、横山様もまともなお方だ。トンチキなんかじゃ無えぜ。
横山様は親父の長隆様ともども前田利長様にお仕えしてた。その頃利長様は利家様とは別に信長公から越前府中3万石を与えられててな。それで横山様父子は最初っから利長様の家臣ってえワケだ。
利家様が薨去されて利長様が前田の本家を継ぐと、横山様も本家の家老職に任ぜられた。ま、ここまでは良かったんだがな、里菜サン、大名家も「組織」だ。新顔に対していじめをやるヤツもいるのよ。
家老に奥村摂津守(奥村栄頼)ってえイヤなヤツがいてな。そいつが横山様をいじめるんだ。「おめえは利長様の代からの家老で、オレたちは利家様からお仕えしてるんだぞ」ってな。事あるごとに奥村のヤツァ横山様をいじめた。
あれァ確か慶長18年のこった。奥村のヤツァ利常様に「横山山城守は徳川と通じて前田を潰そうとしています」って讒言しやがった。利常様はこの口からデマカセ信じちまって同じく家老の篠原出羽守様(篠原一孝)に「横山一族を討ち取れ」ってお命じになられた。篠原様は横山様に「山城守どの、これは奥村が何か企んでの讒言に違いない。私が時間稼ぎしますから、山城守どのはご一族を連れてお逃げなされ」って言って横山様たちを京へ逃がした。逃がすと篠原様は隠居の利長様のもとへ包み隠さず御報告よ。利長様は「出羽守、それはおまえの言う通り讒言だ。山城守を討ってはならぬ。あとのことはワシと安房守(本多政重)で片付けるから、おまえは横山に手出しするな」ってお命じなすった。
篠原様は利常様に「大殿の御命令でござれば、横山どのの討手、引き受けかねまする」って横山様の討手を断った。そこに居た奥村のヤツが「篠原っ!殿の命が聞けぬのかっ!」って怒鳴ったんだがな、ここで里菜サン、安房守様の出番よ。安房守様ァな、奥村のヤツに「大殿あっての殿じゃ!奥村どの、慎まれいっ!」って一喝した。一喝された奥村のヤツァ何にも言えずにのこのこと引き下がった。ま、これが5万石の筆頭家老とネチネチいじめなんかする小者家老との違いだな。
翌年、大坂の陣が起きたとき、奥村のヤツァ安房守様と一緒に例のあの真田丸を攻めた。里菜サンも知っての通りこいつは散々な負けいくさでな。前田軍があわや全軍壊滅ってとこまでやられたんだ。と、ここでだ里菜サン。遠くから真田軍の横っ腹を襲う一軍が現れた。先頭の立派なヨロイカブトのお侍が「我こそが前田利長家臣、横山山城守長知!真田の者ども見参!」ってよく通る声で名乗りを挙げた。横山様が帰って来たのよ。
横山様が真田軍の横っ腹突いたおかげで前田軍は壊滅しねえで済んだが、そりゃあもう散々な負けいくさだった。
その日のうちに軍法会議になってな。利常様は「山城守、オレが悪かった。許せ。前田家への帰参許す」って横山様に頭ァお下げなすった。で、こっからだ里菜サン。横山様は奥村のヤツに怒り爆発させたのよ。「てめえみてえなトンチキのせいで、いったいどれだけの兵を犠牲にしたと思ってやがるんだ!」って怒鳴った。奥村のヤツァ「トンチキとは何だトンチキとは!オレは家老、おまえは帰り新参じゃねえか!」って怒鳴り返した。そしたら横山様は「こンだけたくさんの兵を死なせて家老もクソもあるか!このウスラトンカチ!」ってこれまたやり返す。で、奥村のヤツが「ウスラトンカチだ?てめえ、人を馬鹿扱いしやがって!」ってやり返すと横山様は「馬鹿に馬鹿って言って何が悪いんだこの馬鹿!」って怒鳴りつけて奥村のヤツを黙らせた。
この場では無茶な突撃を命じた奥村のヤツが悪いってことになってな。そのあとだ、里菜サン。篠原様が利常様の陣を訪れて前年の討手拒否の話をしたんだ。利常様は「横山に済まないことをした。元通り、家老として仕えてもらおう」って言った。篠原様もにっこり笑って「これで良かった」ってな。篠原様はそこで「奥村どのは、いかがなされまするか?」って聴いたんだ。そしたら利常様は「明日の朝、話す。今日はもう寝よう」って返事しなすった。
翌朝、諸将が居並ぶなか、利常様は「奥村摂津守、前年の讒言と昨日の真田丸攻撃の不手際により当家追放!」って申し渡した。奥村のヤツァそのあと京でひっそりと死んだ。

大坂落城後、幕府は徳川の大坂城建てるってんでその普請(工事)を前田家にやらせた。こンときだ、里菜サン。同じ現場で普請を担当したのが横山様と安房守様だったんだ。
横山様も最初は安房守様を「徳川のスパイ野郎」って眼で見てたんだがな、毎日毎日顔合わせて一緒に仕事するうちに「こいつは信用出来る。信じていいヤツだ」って打ち解けていった。大坂城が出来あがる頃にゃあすっかり親友同士よ。横山様も前田家の中で苦労の連続だったし、安房守様も前田家に来るまでが苦労の連続だった。苦労人同士、ウマが合ったんじゃねえのかな。

その親友に家光公から手紙が届く。「14万石やるから、江戸に戻って来い」ってな。
横山様は最初「安房どのにも立場があろう。淋しいことじゃが、仕方あるまい」って思った。でもな里菜サン、篠原様が横山様に「実は山城守どの、奥村の一件のとき討手を出させなかったのは筆頭家老でござる」って教えたんだ。それ聴いた横山様は「安房どのを江戸に行かせちゃなんねえ」ってな。
横山様は「安房どの、江戸に行くな!これは家老としてじゃ無え、親友としての頼みだ!」って安房守様を引き止めた。眼ェいっぱい涙ためて「行くな!」って安房守様に言ったんだ。安房守様も「わかった。親友を残して江戸へは行けねえよ」って加賀に残ることにした。
正保3年1月21日、横山山城守長知様は親友に先立ってこの世を去った。享年79。
太閤と利家様もそうだったが、いつの時代にも親友の間柄ってえのはあるモンだ。心が無きゃあ親友はつくれねえ。その心の大切さは、利長様が教えたんじゃねえのかな。「気持ちは伝わる」ってな。



唐芋のきんとんも酒によく合うんだぜ。
里菜サン、また。

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おっ!
左平次のヤツ、い〜いいわし買って来たじゃねえか。ま、さすがは魚辰だな。
こんなでっぷり太ったいわしは梅干しと煮付けるに限らあな。刺身より煮付けだ。
じゃ、こいつを肴に金沢の地酒をいただくか。
こんだけたくさんいわしがあるんだ。里菜サンにも分けてやるか。



ああ里菜サン、昨日の話の続きだったな。
慶長16年だ。安房守様(本多政重)は阿虎さんと江戸へ向かった。実の親父の佐渡守様(本多正信)に「上杉をよろしく頼む」ってやりに行くためにな。
江戸への同中、安房守様一行は武蔵岩槻(いまのさいたま市)で足止めされた。足止めしたのは佐渡守様だ。佐渡守様は岩槻でものすげえ久しぶりの父子対面を果たしたんだ。
佐渡守様は安房守様夫婦に「これから黙って加賀へ行け。弾正大弼様(上杉景勝)にはワシから申しておく」って言って江戸には入れずにそのまま金沢へ行かせた。そンとき、佐渡守様は安房守様に「加賀どの(前田利長)にはこの手紙を見せればいい」って手紙一通渡した。手紙は佐渡守様が書いたんじゃ無え。書いたのは藤堂和泉守様(藤堂高虎)だ。あくまで和泉守様を通してのことだっていうふうにしたかったのよ里菜サン。
安房守様は米沢で世話ンなった山城守様(直江兼続)の顔が頭に浮かんですぐに返事出来なかった。でもな里菜サン、隣にいた阿虎さんが「あなた、加賀行っちゃいなよ。あたしも一緒に行くから。ね?」って無理矢理加賀行き決めちまった。ま、こういう時にゃ野郎よりおなごのほうがスパッと決められるってこった。面白えモンだな里菜サン。
年が明けて慶長17年。
加賀に着いた安房守様一行は利長様に和泉守様の手紙渡してな。「もういっぺん前田家で雇ってくんねえかい」って頼んだ。安房守様は関ヶ原のあと一度前田家に仕えたが、宇喜多秀家様のことがあって前田家を離れた経緯があるからな。
里菜サン、ここで和泉守様の手紙が効いてくるのよ。藤堂和泉守高虎って言やあ「外様ながらも譜代に准ずる」って権現様が大っぴらに口にするくらい権現様からも幕府からも信用厚いお方だ。そんなお方の手紙持って来たのを追い返しちゃあ江戸と加賀が上手くいかなくなる。手紙は里菜サンのお察し通り、和泉守様が利長様宛てに書いた「紹介状」だ。こいつを見ちまった以上利長様もイヤとは言えねえ。
安房守様が加賀に着いたとき、利長様は隠居してて、加賀藩前田家はまだ若い利常様が藩主だった。利常様は前回同様安房守様に3万石与えたが、利常様も利常様の取り巻き連中も安房守様を良くは思わねえ。ハッキリと言っちまえば里菜サン、利常様も取り巻き連中も安房守様を「徳川のスパイ野郎」って眼で見てたのよ。実際、そうだった。始めはな。
でもよ里菜サン、そんな「スパイ野郎」にも利長様は他の家臣と分け隔て無く接した。何かあれば酒も振る舞うし、何かにつけちゃ「金沢で不便は無いか」って気づかって声かける。里菜サン、利長様はどの家臣にも「気持ちは伝わる」って思いで接したんだ。だからこそ加賀は利家公亡きあとも一枚岩だったんだぜ。「気持ちは伝わる」。安房守様も始めは加賀藩の情報をあれこれ江戸にタレ流してたんだがな、だんだんと洩れても困ンねえ情報だけ流すようになったんだ。
慶長18年のこった。幕府は加賀藩に謀反の言い掛かりつけてな。越中一国(いまの富山県)を没収するって言って来た。こンときゃあ誰もが安房守様を疑った。「あのスパイ野郎が一枚噛んでやがるんだろう」って。安房守様は加賀に来たばかりの頃の安房守様じゃ無えぜ。安房守様は「利長公のために」って江戸行って「加賀に謀反の意思無し」ってハッキリ伝えて越中一国を守り抜いた。これで加賀の連中の大半が安房守様を信じるようになったのよ。またこンときに利長様が2万石加増した。大名の家臣に5万石だぜ里菜サン。ここまで来ると安房守様も「絶対に前田家を守り抜く」ってえ気持ちにならァな。
慶長19年の5月20日のこった。利長様が亡くなられた。52歳だった。亡くなる少し前のことだ、里菜サン。利長様は病床に安房守様を呼んでな。こンとき利長様は「利常を頼む」とは言わずに「備前様のこと、済まなかった」って小さく頭ァ下げた。おつむの回転が早ええ安房守様はすぐに気づいた。「こうやって頭下げりゃあオレがわだかまり無く利常様に仕えられるだろう」って。利長様は慶長8年の宇喜多秀家様江戸引き渡しのことを詫びたんだ。10年も前の話だが、安房守様がいっぺん加賀を離れる理由になった件だからな。
病床を出たあと、安房守様は「利長様、あんたって人は…」って涙が止まらなかった。利長様は最期まで「気持ちは伝わる」を貫いたんだぜ。

利長様が亡くなられてすぐあと、大坂の陣が起きた。
豊臣家がきれいさっぱり滅んで、ありゃあ確か年号が寛永になった頃だな。
江戸から金沢に手紙が2通届いたんだ。1通は幕府から加賀藩宛て、もう1通は家光公から安房守様宛てよ。その、家光公から安房守様宛ての手紙をえれえ気にしたお方がいてな。
横山山城守長知様。利長様子飼いの加賀藩家老よ。
横山様と安房守様は大坂落城からの親友でな。横山様は家光公の手紙の中身を知ってたんだ。「14万石与えるから、幕府に戻って来い」ってな。
横山様は「安房どの、徳川に戻るのか」って安房守様を睨み付けた。これは家老同士のことじゃ無え、親友同士のことだ。実際、安房守様は迷ってた。里菜サン、年号が寛永になってもなお、前田家には安房守様を「このスパイ野郎」って口汚く罵るヤツがいてな。横山様もそれをよく知ってた。でもよ里菜サン、横山様は親友を徳川に帰したくねえんだ。
「水臭えじゃねえか!安房どのをスパイ野郎って言うヤツがいるなら、その喧嘩ァオレが請け合うぜ。だからずっと加賀にいてオレと一緒に働こうぜ」ってな。安房守様を睨む横山様の眼にゃあ涙がいっぱいだった。
「見損なうなよ」そう言って安房守様は家光公の手紙を火鉢にくべた。安房守様は眼の前の親友の顔と利長様の「備前様のこと、済まなかった」って頭ァ下げた姿が重なったのよ。
安房守様も眼にいっぱい涙ためながら「オレァ加賀に残るぜ横山どの。だからそこにあるもう1通の手紙のこと話せよ」ってな。加賀に残るとハッキリ言い切った安房守様に横山様は「これだ安房どの。加賀から四国全土に国替えを打診して来やがった」ってその手紙渡した。
里菜サン、幕府はな、前田家を加賀・能登・越中から四国全土に淡路島付けて国替えにしようとしたんだ。そんな話、前田家としちゃあお断りだ。だがな、まともにお断りだってやっちまうといくさになっちまう。
安房守様は横山様に「山城守どの、こんなこと思いつくの幕府ン中じゃあの化け物だけだ」って言った。化け物ってえのは御大老(土井利勝)のこった。安房守様は横山様に「あんな化け物の相手出来るのはオレしかいねえよ。だからオレが江戸に行く。山城守どの、留守頼むぜ」って言って江戸に乗り込んだ。
ま、あとは安房守様の独壇場だ。喧嘩にさえなんなかったぜ。安房守様は御大老に「冬の金沢で120万石相手にシビレる籠城戦になってもいいんだな?大炊頭サンよォ」って啖呵切った。ビビった御大老は国替えの話を引っ込めた。
「山城守どの、スッキリしたぜ」江戸城を出た安房守様にゃあ横山様と利長様のことで胸がいっぱいだった。気持ちは伝わるんだ、里菜サン。

「気持ちは伝わる」
利長様と横山長知様。
安房守様は加賀で良き主君に出会って良き親友を得た。
正保4年6月3日。
本多安房守政重様、死去。享年68。
前年の1月に横山様が亡くなられてるから、本当にあとを追うように亡くなられた。



そのすいーとぽてとはいわしのあとの「でざーと」だ。
里菜サン、また。

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金沢からうめえ地酒が届いたって水戸のジイサン、この一升瓶を弥七のヤツに持たせてよこした。
こりゃもう、魚で合わせるしか無えな。
おい左平次、おめえちょっくら魚辰行ってな、さばでもあじでもいわしでも構わねえから、青いのちょっと買って来い。



里菜サン、今日はその「すいーとぽてと」は食えねえな。
何せ今ァ左平次に魚辰行かせてるとこだからな。
金沢の地酒に青魚の刺身。
ま、せっかく「すいーとぽてと」持って来てもらったんだ。今日は食わねえが里菜サンの聴きてえハラキリトンチキの話はしてやるぜ。

本多安房守(本多政重)様?
こんな奇遇もあるんだなあ。
里菜サン、安房守様は加賀(加賀藩前田家)の筆頭家老だ。オレの目の前の酒も金沢の酒。面白れえや。
でもよ里菜サン、あのお方はトンチキなんかじゃねえぜ?
安房守様はな、あの本多佐渡守正信様の次男坊だ。安房守様の兄貴は例のあの本多上野介(本多正純)様よ。
安房守様は天正8年に生まれた。で、次男坊だから家を継がねえってことで倉橋長右衛門ってえ人の養子になった。だから最初の名前は倉橋長五郎だ。
この長五郎あんちゃんがやっちまうんだ、里菜サン。ありゃあ確か慶長2年だから長五郎あんちゃんが18歳のときだ。徳川家の同僚に岡部荘八ってのがいたんだが、こいつと喧嘩になって斬っちまったんだ。岡部のヤツァ即死、当然遺族から倉橋・本多両家に苦情が来る。徳川家に居らんなくなった長五郎あんちゃんはどういうワケか大谷刑部(大谷吉継)様ンとこに転がり込んだ。こンときはまだ権現様と刑部様は仲良しだったからな。でもまあ里菜サン、仲良しってえことは刑部様のお気持ちひとつで身柄を江戸に引き渡されるってこった。
ま、喧嘩の理由が何かはわかんねえんだがな、江戸に引き渡されたんじゃタダじゃ済まねえってことくらいは長五郎あんちゃんにもわかる。で、長五郎あんちゃんは刑部様に間に入ってもらって備前中納言様(宇喜多秀家)の家臣になった。長五郎あんちゃんはこのとき改名して正木左兵衛ってえ名前になった。宇喜多家じゃ長五郎あんちゃんに2万石与えた。喧嘩で相手殺しちまってどうしようもねえヤツに2万石だ。備前中納言様から見て長五郎あんちゃんには見どころがあったんだろう。
そのあとちょっとしてから関ヶ原だ。里菜サンも知っての通り、関ヶ原は権現様の勝ちいくさだ。負けた備前中納言様はトンズラしちまうし、左兵衛サンは近江堅田(いまの滋賀県堅田)に逃げて当分じっとしてた。その堅田でじっとしてた左兵衛サンを左衛門大夫様(福島正則)が「おめえは、見どころがある」って言って家臣にしたんだ。左衛門大夫様はひとつでも見どころがあればすぐに家臣にした。左衛門大夫様の家臣の中にゃあ足が不自由、耳が不自由、言葉が不自由な家臣もいたが、何かひとつでも見どころがあれば家臣にした。そんなところが左衛門大夫様の良さなんだろう。
でもよ里菜サン。そんなお人でも欠点があった。その、アレだ里菜サン。左衛門大夫様は酒癖悪くってな。左兵衛サンは「こんな酒癖悪い殿さまはゴメンだ」って福島家を逃げ出した。
またまた浪人になったところにだ里菜サン、どこで聞き出したのかは知らねえが加賀の豪姫様が「正木左兵衛が生きている」って突き止めた。そりゃ、豪姫様から見りゃあ左兵衛サンは愛する夫・備前中納言様の大事な家臣だからな。で、豪姫様は前田の利長様に頼むんだ。「正木左兵衛を加賀で召し抱えてくれろ」って。利長様は豪姫様の願いを聞いて左兵衛サンを3万石で召し抱えた。普通ならこれで3万石の陪臣(大名の家臣)で収まっておしまいなんだがな。そうはなんなかった。
慶長8年のこった。
利長様は匿ってた備前中納言様の身柄を江戸に渡した。左兵衛サンはそれが許せなくてな。「元の主君を江戸に売るようなヤツの下には居たくねえな」って3万石放っぽり投げて浪人になっちまった。24歳の左兵衛サンにゃあ真っ直ぐな気持ちが強かったってこったな。
またまた浪人になったが、里菜サン、左兵衛サンを召し抱えてえってお方がまた現れるんだ。直江山城守(直江兼続)様だ。山城守様はてめえの娘の於松様と左兵衛サンを縁組させた。これが慶長9年のことで、左兵衛サンは25歳で初めてカカアを娶ったんだ。こンとき、左兵衛サンも直江家の婿養子になって名前を直江勝吉様に改めた。でもよ里菜サン、於松様は次の年に病気で死んじまう。これで直江家とは縁が切れるところなんだがな、山城守様は養女を迎えてもういっぺん勝吉様と縁組した。この養女が阿虎様で、勝吉様と阿虎様はずっとおしどり夫婦だった。
山城守様が左兵衛サン改め勝吉様との縁にこだわるのには理由があった。
里菜サン、山城守様は上杉の家老だ。上杉は関ヶ原じゃ石田に付いちまったからな。江戸に幕府が出来てからは冷や飯食いよ。その冷や飯食いから何とか脱却するにゃあ徳川と「ぱいぷ」が欲しかった。勝吉様は佐渡守様の次男坊だ。上杉と徳川の「ぱいぷ」になるだろうってな。
山城守様は阿虎様と縁組させたあと、勝吉様に「姓を本多に戻したらどうだ」と勧めた。18歳で倉橋家を飛び出して今や30歳だ。慶長14年、直江勝吉様は本多政重様と名前を改めた。これが本多安房守政重様の「でびゅー」だ。
慶長16年。32歳の安房守様は米沢を後にして江戸へ向かった。上杉と徳川の「ぱいぷ」としての役割りを果たすためにな。
で、この先だ。この先の人生で安房守様と加賀藩前田家がつながるんだが、こいつはまた明日の話だ。



銘酒にすいーとぽてとも合うかも知れねえな。
里菜サン、また。

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里菜サンは、よっぽどその「すいーとぽてと」が好きなんだな。
こないだ水戸のジイサンが葡萄酒(ワイン)くれたからそれと合わせてみたんだが、そしたらウマかったな。まだ葡萄酒残ってっから、今日の「すいーとぽてと」はありがたく頂戴するぜ里菜サン。
ん?
長屋の前にいるあの子は誰って?
あの子は絵美里っていってな、そこの角んとこに小せえ味噌屋があったろ?その味噌屋のお嬢ちゃんだ。働き者でいい子なんだぜ。
父親と二人っきりでやってるんだが品揃えが良くてな。南は福岡から北は仙台まで幅広く味噌が置いてある。いい店なんだ。
おい絵美里、おめえちょっと店ェ戻ってな、白味噌持って来てくんねえか?
里菜サンに白味噌のごぼう汁作ってやりてえんだ。
お代はあとで左平次に持たせて行かせるからよ。



さ、今日はどこのハラキリお大名の話をすりゃあいいんで、里菜サン?
何?
大野丸だ!?
今日は人じゃなくて船の話かい、里菜サン?
ありゃあな、能登守様(土井利忠)と大野藩の連中の夢と希望をぎっしり載せた船だった。里菜サンが思うようなトンチキ船じゃねえぜ。
大野丸はな、安政4年に大野藩が発注した洋式帆船でな、次の年の6月に完成した。費用は1万両(5億円)だ。4万石の小っちぇえ大野藩がよくまあ奮発したモンよ。
大野丸を建造したにはちゃんと理由がある。里菜サン、大野藩は、いや、能登守様ァな、北蝦夷(樺太)を開拓して藩の商売を拡大しようと思ったのよ。
能登守様が越前大野4万石を相続しなすったのが8歳のときだ。こンとき、大野藩は財政難で虫の息だった。大野藩は以後24年間、虫の息でフラフラだった。
ありゃあ天保13年だな。4月27日のこった。32歳の能登守様は「更始の令」ってえ財政再建宣言をしてな。そンときだ、里菜サン。能登守様は二人の改革担当者を登用した。内山良休様と内山隆佐様ご兄弟だ。内山サンご兄弟は火の玉のお働きで大野藩財政を黒字にしたのよ。で、黒字になると次は黒字を大きくしてえってな。
里菜サン、内山サンご兄弟はな、財政再建のために大野屋ってえ店を始めた。店そのものは藩営なんだがな、店の実際の切り盛りは内山サンご兄弟に任された。その「1号店」を大坂に出した。「1号店」にゃあ大野藩の特産品がズラッと並んだ。大野藩の主力商品は煙草だ。こいつが飛ぶように売れた。煙草の他のモンも良く売れた。
大坂で当たったモンだから、大野屋は越前国内・岐阜・名古屋、さらにその先箱館(いまの函館)まで店を出した。
大野屋はどこも繁盛した。里菜サン、これで何かしようってえときの元手が出来たってえワケだ。
もっと商売を拡げてえ。
ま、そこは里菜サン、4万石のお大名もオレたち庶民も変わらねえ。そこに、ありゃあ確か安政元年だな。内山サンご兄弟が能登守様に北蝦夷開拓建白書とかいうのを出した。大野屋は箱館に店出してたからな。蝦夷(北海道)のこたァ逐一情報が入ってたのよ。
オレたちの時代、北蝦夷はニッポン人とおろしや人(ロシア人)が雑居してた。ニッポン人もいるなら商売になる。商売になるし北蝦夷は幕府が「警備してくれるんなら、彼の地その藩の斬り取り勝手」ってえ言うんだから、箱館で商売やってる大野藩としちゃあ指ィくわえてボケーッと見てることもねえだろうってな。
で、里菜サン。大野藩は幕府に北蝦夷開拓を申し出た。それでさっきの1万両の船だ。こいつが大野丸ってえ名前で北蝦夷と越前大野を往復した。
大野丸の初就航が安政6年3月21日。敦賀湾を出港した大野丸は3月29日には箱館到着だ。さすが、洋式帆船は違うぜ。
大野丸にゃあ北蝦夷で売りさばく商品の他、武装した藩兵も乗せた。ま、北蝦夷開拓がもともとの目的だからな。
でもまあ里菜サン、北蝦夷は大野とは比べモンになんねえくらい自然環境が厳しくってな。冬の寒さも雪の量も大野とは比べモンになんねえ。さすがに能登守様も「こいつァちょっと、ダメそうだな」ってことで幕府に「やっぱ北蝦夷開拓やめます」って申し出たんだがな、こンだァ幕府が「それはなんねえ」って言い出した。幕府は大野藩に「江戸でのお役目全部免除するから、北蝦夷開拓続けろ」ってな。
里菜サンの時代で言う「安全保障」ってヤツだ。エゲレスやメリケンだけじゃねえ。おろしやだって幕府から見りゃあ脅威だった。
ま、江戸での掛かり(出費)がゼロになるんだ。それなら続けるかってことで大野丸の北蝦夷−大野往復の航海は続けられた。ま、何せ斬り取り勝手だしな。そして何より能登守様も内山サンご兄弟も商売が面白れえんだよ。
ところがだ里菜サン、その大野丸は根室沖で座礁・沈没しちまうんだ。これが元治元年の8月24日のこった。
初めの就航から5年。5年で大野丸は海の藻屑になっちまった。
斬り取り勝手の北蝦夷で、商売拡げながら斬り取り勝手。大野丸は能登守様や大野藩の夢と希望を運びながら北蝦夷と越前大野を往復してたんだがな。
ま、これで大野藩の北蝦夷開拓も進まなくなった。能登守様は御一新のあとの明治元年3月、北蝦夷の大野藩開拓領を新政府に返上しておしまいにした。能登守様ご自身もこの年の12月3日に亡くなられた。享年58。
「更始の令」から始まって大野丸が沈没するまで、大野藩は上から下までみんなが財政再建とその先の豊かさ目指してまっしぐらに突き進んだ。これといった「抵抗勢力」が出なかったのは能登守様のお人柄と能力よ。
大野丸は海の藻屑になっちまったが、人は前向きに目標持って生きるモンだ。能登守様はオレたちにそういうふうに教えてくれたんじゃねえのかな。オレァそう思うぜ里菜サン。



白味噌のごぼう汁にかんぴょう巻き。
すいーとぽてともいいが、たまにゃあしょっぱいヤツもな。
里菜サン、また。

奈穂子様/板倉勝静 ケータイ投稿記事

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コケコッコーをごぼうとしょうゆでじっくり煮るんだ。
こいつがいいつまみになるし、いいおかずになるのよ。



板倉周防守(勝静)様?
奈穂子サン、あのお方はトンチキじゃねえぜ。
確かに新政府から処分は受けたが、ありゃあもっと平和な時代に生まれてりゃあ間違い無く名君ですぜ奈穂子サン。
周防守様はもとは桑名藩の部屋住みでな、名前も松平万之進様って名乗ってた。
ああそうだ。
奈穂子サンのお気づきの通りだ。
周防守様のからだにゃあ徳川の血が流れてる。
いいかい奈穂子サン、吉宗公の次男坊が田安の宗武様。その宗武様の息子が白河翁(松平定信)。白河翁の息子が桑名の定永様で、その定永様の息子が周防守様だ。ま、早ええ話が周防守様は吉宗公の玄孫ってことでさァ。
その吉宗公の玄孫が備中松山5万石の板倉家に婿養子に入って備中松山藩を相続なさった。備中松山藩主・板倉周防守勝静様の「でびゅー」だ。
周防守様は藩主になると財政の建て直しに手ェ付けた。何せ5万石の小せえ御譜代だ。貧乏に借金がのしかかって青息吐息よ。で、周防守様は山田方谷ってえ偉い学者を備中松山に招いたんだ。この方谷先生の教えに沿ってやったら備中松山藩の財政は建て直って軍隊まで最新式に出来た。方谷先生も大したモンだが、方谷先生を起用した周防守様も人を見る眼があったってことでさァ。
藩は方谷先生がいるから安心ってえことで、周防守様は幕政に専念したんだ。周防守様は優秀なお方でな、奏者番兼帯寺社奉行に任ぜられた。あの阿部伊勢守(阿部正弘)様も奏者番兼帯寺社奉行のときに結果を出して首席老中(総理大臣)だ。でもよ奈穂子サン、周防守様は掃部頭様(井伊直弼)とソリが合わなかった。安政の大獄ンときにな、周防守様は厳しい処分に反対し続けた。そしたら奈穂子サン、あの赤牛、「てめえはクビだ」って周防守様を罷免しちまった。
罷免されて少しして掃部頭様が首もがれると、周防守様は奏者番兼帯寺社奉行に復職しなすった。幕府は反井伊の連中で握られてるから、周防守様はそのまま老中職まで出世しなすった。さらに慶喜公が将軍になると首席老中になったんだから、大したモンだぜ。
ま、平和な世の中ならこれでめでたしめでたしなんだがな、奈穂子サンも知っての通り、もう幕府はどうにもならねえところまで追い詰められてた。周防守様としては幕府は店仕舞にするとしても徳川ってえ家は守んなきゃなんねえ。そンで奈穂子サン、周防守様は土佐の後藤象二郎と一緒になって大政奉還しなすった。
大政奉還までは良かったんだがな、向こうには例のあの戦争屋(西郷隆盛)がいた。あの戦争屋はあの手この手で戦争に持ち込んだ。これが鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争だ。
奈穂子サン、周防守様はどうしてもあの戦争屋が許せなかった。穏やかに、徳川の家を残しつつ新しい世の中にって思ってやった大政奉還を、あの戦争屋がぶち壊しにしちまった。周防守様は江戸無血開城のあと新政府軍にとっ捕まって宇都宮に幽閉されたんだがな、幕府の歩兵奉行だった大鳥圭介サンに助け出されて旧幕府軍の参謀になった。奈穂子サン、こいつァあの戦争屋に対する憎しみ以外の何物でも無えぜ。
周防守様は宇都宮・会津・仙台と転戦して五稜郭まで行った。だがな奈穂子サン、五稜郭に方谷先生の使いの者がやって来てな、「これ以上抵抗されると藩が取り潰されてしまいます。投降して下さい」って言いやがった。確かに備中松山藩は周防守様が宇都宮に幽閉されたあと、藩に残った連中が新政府軍と交渉して存続が認められた。こうしたいきさつがあるから方谷先生としては周防守様に投降を呼びかけたってワケだ。
藩の家臣たちや方谷先生の顔を思い浮かべてな、周防守様は東京で新政府軍に自首しなすった。これが明治2年5月26日のこった。新政府はこれといった裁判もしねえで8月15日に周防守様を安中で終身禁固刑にするって処分した。
その後、明治5年になって周防守様は赦免された。ついでに言うと、あの大鳥圭介サンも同じ年に赦免だ。
明治9年、赦免された周防守様は上野東照宮の祀官に任ぜられてな。そのあとは旧領や山陽地方の発展のために八十六銀行(いまの中国銀行)設立のために奔走しなすった。
明治22年4月6日、周防守様は亡くなられた。
享年66。
慶喜公が亡くなられるのはこのずっとあとの話でさァ。
奈穂子サン、勝の旦那(勝 海舟)は周防守様について「生まれて来る時代が悪かった。もし、泰平の時代だったら白河翁を超える名君だったに違えねえ」って話てる。勝の旦那は周防守様のおかげで軍艦奉行になれたからな。



コケコッコーとごぼうの煮物にゃ生卵も合うんだぜ。
奈穂子サン、また。

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