もつれるチーズ

今夜の酒の肴は何にしようかと、朝から考えています。

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親孝行な少年

 「道徳」の授業は好きだった。あれにも教科書がありテストがあり成績が付いたはずなのだが、そのあたりはよくおぼえていない。その時間を使って井上先生がいろんな本を読み聞かせてくれたこと、それだけは記憶している。
 先生の読んでくれるのは圧倒的に怪異譚が多かったのだが、たまには「道徳」にふさわしい話もあっただろう。「孝行」「正義」「勇気」などという題目を、先生は好んでいたはずである。「礼儀」だって、必ずしもおろそかにはしていなかったようだけど。
 親孝行で評判の若者がいて、どれほど親孝行なのか様子を見にいくと、若者は外から帰ってくるといつも、老母に足を洗わせていた、なんていう話も、先生の読んでくれた本にあったような気がする。え? どこが親孝行やねん、とすかさず突っ込まれそうな話だが、先生は「ま、人生いろいろ、親子もいろいろやからな」とでも答えたのだろうか。ちなみにぼくは、それぐらいの親孝行なら出来なくもないと思ったものである。
 死者が枕元に座ったという怪異譚ですら、先祖への礼につながりそうだった。してみればたいていの本は、不道徳ですらも「道徳」なのだろう。
 読み終って感想を聞かれることのないのが、何よりも好ましかった。それでもぼくたちは口々に短い感想を、わあわあと言うことはあったのだが。
 「なかなかええ話やったな」
 そんなふうに先生は呟いて、同意を求めるでもなかった。

 「国語」の二時間つづきの一時間を割いて、本を読んでくれることもあった。
 「二時間もつづくと、退屈やろ」と先生は言うのだが、先生がまず退屈していたのではなかったのかと、あとになって思うことはあった。何はともあれ生徒たちは「やったあ」ぐらいの声は上げたものである。
 高学年になるにつれ、先生が本を読んでくれる時間はすこし減り、代って図書館を借り切る時間が増えた。めいめいがその時間好きな本を読むのである。「道徳」でも「国語」でもない時間が、突如そうなることがあった。
 「先生、飲みすぎて、しんどいんやろ」と、分析する生徒もいた。

 地図を手帳に書き写していた。夢中になっていて、机の向う側から井上先生が覗き込んでいるのに気づかなかった。
 「うまいもんやな」
 野太い声がしてとっさに手で覆ったが、別にこそこそとそんなことをやっていたわけではなかった。すぐに手をどけた。
 「それ、どこや?」
 「広島」
 「なんで、広島なんや」
 「広島の人が、来てはったから」
 そんなふうにしてぼくの手帳には、見知らぬ街の地図が増えていた。
 「広島に、親戚おったか?」
 「よう分らんけど、お母さんの友達みたい。そこの子供がこっちの大学受けに来はったのや」
 「そうか」
 「大学行くぐらいやから、きっと金持なんやろな」

 ある日、学校から帰ると、休みをとっていたはずの母の姿はなくて、明るい窓際に広島の親子が仲良さそうに並んで座っていた。ふたりはバナナを食っていた。六畳の部屋も板の間もすっかり片付いていて、アパートのよその家に紛れ込んだみたいだった。上ろうか板の間に鞄を置いて出ていこうか。土間に立ったまま迷っていると、「おかえり」とおばさんは言った。
 「食べなさい」と、おいしそうなバナナを一本ちぎって差し出してくれたことまでは、記憶している。

あこがれの先生

 四年生になれば学級編成がある。このときぼくは思いつめていた。新しく担任になるのは井上先生でなければいけない。それ以外の先生に当れば、三年間拗ねたままで過すことになり、そうなればぼくの人生は狂う、と。確率は六分の一、淡い期待などというのではなく、有罪か無罪かの最高裁の判決を待つほどの気持ちだった。
 他の先生のことはまったく知らない。井上先生のこともよく知っていたわけではない。それなのに思いつめ重い心で発表を待っていたのである。
 井上先生の評判は、あまり芳しくなかった。怒りっぽいというのである。暴力も振うらしい。酔っ払っている姿もたびたび目撃されていた。酔っ払うといっそう凶暴になるという噂もあった。はっきり井上先生じゃいやだと口にする子もいたぐらいだが、そのあたりのことはあまり気にしていなかった。怖いもの見たさということでもなかった。ぴんと来なかったのである。
 母と出掛けた帰りに、ねんねこで幼児を負ぶっていた井上先生に出会ったことがある。母が何度も頭を下げると、先生も何度も頭を下げた。背中の幼児は先生が頭を下げるのが嬉しいらしく、しきりに笑い声を上げていた。その後も夕暮れ時に幼児を抱いている姿をぼくはたびたび見た。口を聞いたことはなく、気づけば近づかないように走って逃げていたのだ。それがいつの間にか強い憧れを抱くようになっていたのである。思えば子供の頃からぼくは変った趣味を持ち合せていたようだ。
 あの先生がいい、あの先生じゃいやだと、口にする子が多い中で、ぼくは思いを胸にしまったままだった。見事六分の一をぶち当てたときにも、小躍りするでもなかった。誰にも知られずに、胸を撫でおろしていただけである。
 新しいクラスになって間もないうちに、先生の爆弾は落ちた。誰かが二階の窓から鉛筆の削りカスを捨てたのだ。「拾ってこい」と、先生は怒鳴った。削りカスを拾うのは容易なことじゃないと思うのだが、そのあとどう収拾がついたのかは記憶にない。叱られたのが誰だったのかも忘れた。ぼくではなかったような気がするのだが‥‥。

 ぼくたちのクラスは三年間、しょっちゅう遠足に行っていた。学校から行くのを合せると、夏休みも含めてほぼ毎月のように出掛けていた。
 はじめての遠足で、何人かの女の子は先生にまとわりついていたが、ぼくは控えめにすこし遅れて歩いていた。山道を歩いていて見晴らしのいい場所に出ると、先生は彼方の山を指して、「あの山、キンツリ山、と言うのや」と大きな声で言った。体の前で両手を使って三角形を作ると、徐々に持ち上げながら逆さにし、彼方の山に合せた。「キンツリいうのは、運動するときに履くサポーターのことや」
 「そんならパンツ山でもええやんか」と誰かが言えば、「パンツより、締っとる。あの山、きゅっと締っとるやろ」と応じていた。
 憧れの先生はぼくを振り返って、こんなことを言うのだった。
 「サポーター知ってるやろ? ちんちんぶらぶらせんように履くやつや」
 「知らん」
 ぼくはとても内気な少年だった。

憂い顔の少年

 校内清掃の時間というのがあって、そのときぼくたち六年二組の持ち場は、土手と校舎に囲まれたテニスコートだった。生徒にテニスは無縁だったが、木の茂った土手は恰好の遊び場だった。
 小石や落ち葉を拾うのにリヤカーなんて必要だったのだろうか。誰かがうまいことを言って、用務員さんから借りてきたのかもしれない。それはたちまち遊びの道具になった。初めはひとりふたりを乗せてそのあたりをぐるぐる回っていたのだが、そのうち乗せたまま土手にぶつけると、それが気に入ったらしい。乗り手が交代して、繰返し土手にぶつけていた。
 男子生徒の半数ほどがそうやって遊んでいるのを、ぼくは離れたところで見ていた。ぼくは大人しく、記憶が正しければ絵に描いたような優等生だった。学級委員でもあった。もうひとりの学級委員のM君と相談して、やめさせようということになったのは、当然のなりゆきだった。
 悪ガキたちは学級委員の注意をまともに聞こうとはしなかった。「あと一回だけ」と言うので一回待っても、やめようとはしない。ぼくとM君は実力行使におよんだ。リヤカーに上り、乗っていた子をおろした。そこでぼくたちもすぐに飛び降りればお役目終了なのだが、ちょっとした間があった。リヤカーの上は気分がよかったのである。
 乗り手が交代したところで、リヤカーが動き出した。「あかん」「やめろ」と、口々に言ったものの、リヤカーはどんどん速くなる。つい「突撃!」などと言いながら手を振り上げてしまったそのとき、
 「こらっ」
 担任の井上先生の登場だった。リヤカーは土手に突入した。

 ぼくとM君は職員室に立たされた。
 井上先生が、なんでそんなことをしたのかと問い詰めるのなら、言い訳したかもしれない。たいていの場合、言い訳をする機会はなかった。
 「あれれ、学級委員がふたりとも立たされていますな。何やらかしたんですか?」と、一組の先生が聞けば、
 「こいつら、代表して立っとるんですわ」と、井上先生はこともなげに言った。
 そうか、代表して立っているのかと、すこしだけ納得したものである。
 
 優等生のぼくには叱られた記憶というのはあまりない。あとひとつだけ思い出せるのだが、これがリヤカーの件とじつによく似ているのだ。
 修学旅行で伊勢に一泊したとき、消灯のあと枕投げが始まったのだ。ぼくはこれには断じて参加していない。あれのどこが面白いのか。だいいちぼくは枕がないと眠れない。それを投げるわけにはいかないだろう。
 すぐやむと思った枕投げは、いつまでもつづいた。たまにどすんとぼくの腹の上にも落ちてくる。やめろやめろといくら言っても、誰も耳を貸してくれない。腹に据えかねてついに起き上り、暗闇の中で飛んできた枕を見事にキャッチした。「このやろ」枕を振りかざしたそのとき、パッと灯りが点いた。
 「こらっ」
 出番を待っていたかのような井上先生の登場である。
 腕をつかまれ、廊下に引きずり出された。
 「立ってろ」
 先生が言うのはそれだけである。
 次に先生が来て、「もういい、寝ろ」と言うまで二十分ぐらい、ぼくは伊勢の旅館の廊下に立たされていたのである。部屋に戻ると、皆寝ないで待っていた。「ごめんな」「ごめんな」と口々に言うのに、何も言えず頷いていた。涙が出そうだった。
 アルバムを開くと、修学旅行二日目の集合写真で、ぼくは井上先生の前に立っていた。ぼくの肩に手を載せた先生はいかにも上機嫌で、対するぼくは憂いを含んだ顔である。

蜂印香竄葡萄酒

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 夏に神谷バーの売店で電気ブランを買ったとき、一応聞いたのだ。
 「蜂印香竄葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)って、ある?」
 若い女の子が狭い売店にふたりもいて、振付けのように同時に首をかしげた。ピンクレディみたいだと、こちらが連想するものは当然古い。
 ひとりが無難なことを言った。「今あるのは、こちらに並んでいるものだけですが」
 もうひとりもしっかり頷いた。それ以上聞くのは野暮である。そのときは電気ブランだけ買って帰った。

 べつに捜し求めるほどの酒ではない。神谷バーで何回か飲み、一度か二度買って帰った。甘ったるいだけの、ようするに蜂ブドー酒である。まあそれに薬草が入っているらしいが、酒を飲んで健康になりたいとは、とくに望んではいない。ただラベルが気に入っていた。出来ればもう一度ぐらい目にしたいものだと、それぐらいの思いだった。
 ラベルの両端に、世界の国名が、漢字で書いてあった。亜米利加、英吉利、仏蘭西、伊太利、独逸、‥‥あとはなんだったろう、希臘、葡萄牙、印度、西班牙なんていうのもあったはずだ。国旗はあったような、なかったような‥‥。

 雷門の並びの酒屋に蜂印香竄葡萄酒を見つけたのは、つい最近のことである。とうとう見つけた、というほどのことではなかった。「ほら見ろ、あるじゃないか」と胸のうちで呟いたのは、神谷バーのピンクレディに向って言ったのかもしれない。その日は荷物になるのを嫌い、買わなかった。そのていどのことだ。
 今日ついに買ったのだが、昔見たのとラベルが違っていた。すっきりしたデザインである。ローヤルゼリー、ドクダミ、蓬、花梨から始まって、体によさそうなエキスが25種羅列してあり、「医食同源」なんて言葉が、表のラベルのみならず、裏のラベルにまでしつこく書いてある。
 垢抜けているというほどのことでもないのだが、時代錯誤の匂いは消えていた。

 そうですか、そんなに体にいい飲み物になったのですか。

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新しいテレビ

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 テレビを買い換えた。吉永小百合がコマーシャルに出ているやつである。それだけで信用できると思いたいぐらいのものだ。一番小さいのを選んだのだが、部屋に置いてみると、結構でかい。そこだけ見てると、ブルジョアになったような気がするぐらいだ。
 路上生活から転々として、やっとアパートに落着いたとき、別になくてもよかったのだが、形だけでもと思い、リサイクルショップでテレビを買った。いまさら言ってもしょうがないことだけど、安い買物ではなかったようだ。三年持たなかった。あの三倍ほどの金を出せば、こんな贅沢なのが買えるのだから。
 室内アンテナだというと、あまりよく映らないかもしれないですよ、ということだった。なんとか見られればそれでいいよ、そう言っていたのだが、くっきりと映っている。
 「あ、このアンテナで、デジタルが入りますね」と、取り付けに来たあんちゃんは言った。
 「え?」
 「ああ。これはいいですよ」
 「はあ。きれいだね」
 デジタルがどうのと言われてもぴんと来ない、アナクロ人間である。アナログからデジタルに変るときも何もしなくてよいと言われて、ただただ儲かったような気がするだけである。

 今夜の夕食は、五時前にスタートした。何はともあれ、テレビを点ける。「水戸黄門」をやっている。
 「清太郎」
 「おとっつぁん」
 いきなりのそんな場面に、いきさつも分らずとりあえず涙ぐんでしまった。酒もまだ飲んでいないというのに。何はともあれ、新しいテレビは感動的である。

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