もつれるチーズ

今夜の酒の肴は何にしようかと、朝から考えています。

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

待合せの不安

 先日、目黒の駅前で待合せをした。
 約束すること自体気が重いのだが、待合せとなると、これはもう苦痛である。
 待合せ場所には必ず早く着いてしまう。相手も早く来てすぐ会えれば問題はないのだが、ちょっと時間が経つと、古い付合いであっても、顔を忘れてしまったのではないかと不安になってくるのだ。絵心がないせいか、相手の顔を思い描けない。すっかり禿げていたり、頬に傷でもあったりすればいいのだが、そういった特徴がないと、頭の中の人相書きは頼りなげな輪郭だけである。その輪郭すら、時間の経過とともに薄れていく。人待ち顔の人やちょっと立ち止った人を、似ても似つかぬ人まで含めて、この人じゃなかったよなと、すべて点検してしまう。
 そして約束の時間になっても会えないときは、死んじゃったのかなと、心配してしまう。

 今から家を出ると電話がかかってきたのだから、すっぽかされることはないだろうし、その時点での生存は確認できたわけだ。それでも不安は残った。
 「アルタ、みたいな名前だよ」
 「アルタって新宿だろ? 新宿がいいの?」
 「新宿じゃなく、目黒。アルタじゃないの、アルタみたいな名前なの」
 アトレだとはあとで分るのだが、こんなやりとりをしたせいで、間違って新宿に行かないだろうかと、余計な心配をしなければならない。そのうえ、相手は老眼で近眼で乱視でもある。キスをするぐらい近づかないと人の顔は判別できないそうだ。そっちで見つけてくれるようにということである。

 早めに出たのだが、バスが駅前を通過してしまった。降車ボタンを押さなかったのが悪いのだが、通過するとは意外だった。次の停留所で降り、歩いて戻りながら気が気ではないものの、もう足早になることもなかった。携帯電話どころか、時計も持っていないのだ。じたばたしても始まらない。
 駅前に着くと、待合せの相手は遠くから手を振っていた。あまり早くからそんなことをされても困る。横断歩道も渡らなければならない。ちょっと手を上げて、あとは信号が変るまで、知らん顔をしていた。
 「よく分ったね」と言うと、
 「すぐ分った。背中丸めているし、だらしない歩き方してるから」
 早く判別出来て、その人は嬉しそうだった。

役に立たない足

 毎朝乗る京葉線の各駅停車はほどほどの混み具合なのだが、途中で快速に待合せしたあとは座れることもある。対する快速のほうはぎゅう詰めである。たまにどんなものかとぎゅう詰めを味わってみることもあるが、夜勤を終えての帰りで急いでいるわけではなく、ほとんどの場合そのまま各駅停車に乗っていく。ごく当り前の選択だろう。
 その日はうまく目の前の人が降りていき、しかも端っこの座席。こんなことでも幸運な一日を予感させてくれる。まあぼくの場合、一日は終りに近づいているのだけれど。
 終点まであと少しというところで、荷物をいっぱい持ったおばさんが乗り込んできた。しばらくきょろきょろしていたが、すいてはいても座席は埋っている。あきらめたようで、彼女はぼくの前に立った。もちろん席を譲る気はなかった。
 彼女はまず両手に提げていた荷物を床に広げ始めた。風呂敷包み。鞄。紙袋と布の手提げは安定が悪そうだった。その中から、鞄をまず網棚に上げた。結構腕は太そうだった。
 次に風呂敷包みも網棚に上げようとしたのだが、そうすると紙袋と布の手提げがパタパタと倒れる。彼女は持ち上げた風呂敷包みを床に降ろし、倒れた荷物をまた立て始めた。手順のまずさが気になるのだが、まあ関係のないこと、と思っていた。
 紙袋に手を入れ、中のこまごましたものを均したのか、それはなんとか立った。問題は布の手提げである。厚みがなく、どうしても単独では無理だった。紙袋に持たせかけると、どちらも倒れた。紙袋をもう一度立てる、そして思案の末、彼女は布の手提げを、ぼくの右足に持たせかけたのだった。

 もう他人の手順を云々している場合ではない。こちらの応対が評価される番である。とりあえず我慢した。風呂敷包みを網棚に上げるまでのことだ。ところが彼女は風呂敷包みを上げてしまうと、つり革につかまり、しばし物思いにふけるようだった。
 全神経が、手提げと右足の接点に集中する。なんだか痒くなってくる。たまらず足をずらした。手提げはぱったりと床に伏せ、彼女は黙って取り上げた。ほどなくして八丁堀に到着である。
 ここで電車はがらがらになる。彼女は少し離れた座席を、紙袋と布の手提げを置いて確保した。そのあと二往復して、網棚の鞄を降ろし、風呂敷包みを降ろし、せっせと運んだ。ゆったりと四人分ほどの座席を確保出来て、彼女は満足そうだった。終点東京までの1、2分は、彼女にとってもぼくにとっても、平和な時間だった。

競りかける女

 定刻きっかりにタイムカードを押し、会社をあとにする。京葉線の駅への10分ほどの道程は、途中まで寂しく、地下道をくぐったあたりから賑やかになる。ぼくと同じように夜勤明けという人もいないとはかぎらないが、おそらくは団地から流れ出てきた出勤する人たちである。
 会釈すらしないもののもうほとんどが顔馴染みとなった中で、ひとりとくに印象的な女性がいた。彼女はぼくの姿を前方に見つけると、猛然と走ってくるのである。駆け寄って腕を絡ませ、「おはよう」‥‥というのではない。ぼくを追い越し、前に回りこむと、そこで走るのをやめるのだ。歩きにくそうな靴をはいていて、歩みはのろい。はっきりいって、邪魔。蹴飛ばしたい思いを抑えつつ、彼女をよけて追い越す。差が開き始める。するとまた彼女は走り出し、ぼくを追い越し、わざわざ前に回りこんでは、走るのをやめてしまう。
 一時期こういったことがつづいた。
 いったい彼女は心のうちで、この素敵なおじさんとどんな会話をしていたのだろう。
 (おはようございます。もうすこし胸を張っていたほうが、いいと思うけど)
 (いつも元気だね。こっちは夜勤明けだからな)
 あるいは――。
 (目障りなのよ。前を歩かないで)
 (もっとまともな靴をはいたらどうだ)

 まあ、電車に間に合うかどうかの目安にしていたのだろう。もしくはそれが嵩じて、どちらが先に改札を抜けるか、勝負を楽しんでいたのかもしれない。もしそうなら、ぼくはほとんど負けなかった。

相客(4)関八州

 山谷の古く煤けた店。コの字型カウンターがあり、テーブル席をはさんで小上りがあるのだが、一人でそこに座れば、話し相手はいなかった。黒い猫が膝の上にいる。どちらかといえば猫は嫌いなのだが、猫のほうではそこを自分の場所と心得ているようだ。
 遅くなってから古い鞄を提げた男がひとりで入ってくる。まだ大丈夫ですかと静かに聞き、少しぐらいならと店員が答えれば、ほっとしたように入口近いテーブル席に着く。そこはぼくの座っているところから遠く、座ってしまえば頭に帽子を載せジャケットを着た後姿が見えるだけだ。背は低くころっと太った爺さんだった。

 爺さんが振り向いてちらちらとぼくを見始めた。目が合うと、首を竦めて元の姿勢に戻る。子供っぽい仕草にも見えた。ところが立ち上って、右手を低く構え、ぼくに向って仁義を切ろうとしたのだ。
 「爺ちゃん、こんなところで仁義なんか切らないでよ。大人しいお客さんばかりなんだから」と、ここの息子である店員が止めると、爺さんは座り、椅子はもうすっかりこっちを向いていた。
 「こんな爺ちゃんだけど、働かせてくれよ」
 「爺ちゃん、この人は、親方さんじゃないんだよ」
 「じゃあ、なんだよ」
 「そうだな、何にしようか」と、店員はぼくの顔をうかがう。
 「銀行員」
 とりあえずはそれでうやむやになった。

 爺さんは便所に行くのにぼくのそばを通り、ずっとテキヤをやっていたのだと言った。出てくると今度は、家出してきたのだと言った。
 「心配してるんじゃないのか?」
 「心配なんかしてないよ」
 「初めてじゃないんだろ」
 「うん。‥‥仕事やらしてくんねえかな」
 「おれに言ってもなあ‥‥」
 いったん席に戻った爺さんは、銚子とグラスを持って、またやってきた。ぼくの前に腰をおろしてから、「一緒に飲んでもいいか? もう来ちゃったけど」と言った。苦笑して眺めていた店員が、爺さんの鞄を持ってきた。賑やかになって、黒い猫はのっそりと離れていった。

 息子の嫁と折り合いが悪いという。息子の顔はずっと見てないという。
 「嫁に殺されて、どっかに埋ってんだよ」
 「ほんとに会ってないのか? 会ったのに忘れてんじゃないの?」と聞けば、「そうかな」と笑う。
 「刺青してんだぞ」と言うので、「見せてみろよ」と言うと、「うん」と答えたもののちょっと考えてから、「この次」と言う。
 二年前に婆さんが73歳で死んだと言うから、「爺ちゃんは今いくつなんだ?」と 聞くと、「え? 年なんて聞くのか」と、なんだか照れている。帽子を浮かし、「こんなもんだ」と言った。見事な禿げ頭だった。
 そのうち爺さんはテキヤをしていた頃の話を始めた。どこそこではどの親分に世話になったと、いくつも地名が出てきた。話は関八州に及ぶようだった。一応の相槌を打ちながらも、ぼくは別のことを想像していた。説得して爺さんを連れて帰ると、その家は何年も前からの空き家‥‥。

 他の客がいなくなっても、「まだいいよ。おつまみは出来ないけど」と店員は言った。店員がこの爺さんに好感を持っているようなのが嬉しかった。それでも爺さんは「帰る」と言いだした。早い時間から飲んでいるぼくの払いまでしてくれた。こんなにあると、分厚い財布を見せた。「見せるんじゃないよ、たかるやつがいるんだから」と、払わせておきながら言うと、「分ってる、そんなこと」と爺さんは言った。
 古い鞄を提げて帰り支度が出来ると、「一緒に帰ろう」と、今度はかわいく言った。

 爺さんの泊ってるドヤはぼくが乗るバス停の前にあった。
 「明日も来るのか?」と、爺さんは聞く。
 「そう毎日は来られないよ」
 「いつ来るか、分らないのか」と、握手をしながら怒ったように言った。
 「ちょくちょく来てるから、覗いてみなよ」
 「うん」
 ちょくちょく、なんて言わずに、あさってとか次の金曜日とか言えばよかったかもしれない。爺さんはドヤに入っていった。
 受付での手続きは長引いていた。いつまでも爺さんは靴を履いたままでいる。従業員相手に話し込んでいるのかと思ったのが、どうも様子が違う。背中を向けた爺さんは何かしきりに言い訳している。従業員はうんざりした顔で、たまに投げやりに口を開いている。爺さんはいっそう背を丸めて、それが苦情ならば聞き流そうとしているように見えた。
 バスが来たが、ぼくは乗らなかった。煙草に火を点け、出てくるのなら早く出てこいと思っていた。
 
 煙草の空袋を投げ捨てたとき、やっと中の空気が動いた。爺さんが靴を脱ぎ始め、ぼくはがっかりすると同時にほっとした。
 脱いだ靴を取り上げるのに爺さんは一度ぼくの方を向いたが、気付かない様子だった。頭の中からとうにぼくは消えていたのだろう。
 バスはもう来なかった。

相客(3)待合せ

 「ここ、よろしいですか」と、女の声はぼくの方に向いているようだった。
 「どーぞ」と、あまり愛想のよくない声を出して、顔を上げた。
 「あ、先週も同席しましたね」
 「うれしい。憶えていてくれたんですね」
 「今日も、待合せですか?」
 それに対して答えがなかったのは、従業員が食券を取りにきたせいかもしれない。
 生ビールの小、電気ブラン一杯、ラビオリ、以上が女の注文である。このあいだもそうだった。
 従業員が行ってしまっても、女は黙って、目をそらしていた。知らん顔をするのはぼくも得意である。
 飲み物が運ばれてきて、生ビールにちょっと口をつけてから、女は言った。
 「今日は、来ないかもしれない」
 べつに興味はないのだ。ぼくは小さく頷いた。
 「あの人、亭主なのよ」
 「そう言ってましたね。別れた亭主と日曜日にデートだって」
 「あら、そんなこと言ったの? 酔ってたのね。って、いつも来ると酔うんだけど」
 別れた亭主と日曜日にこうやってデートをするのもしゃれているでしょうと、女は言い、土曜の夜じゃないんですかとぼくが言うと、土曜の夜はお互い楽しみがあるから、と男は笑って言ったのだった。

 「まだ別れたわけじゃないの。というか別れるつもりはべつにないの、わたしは。ご飯作ったり、洗濯してアイロン掛けたり、もともと彼の世話をあんまりやるつもりはなかったのよね。彼もそれでいいって、文句を言わなかった。そうすると一緒にいるのはなんだろうと思って、ちょっとべつに暮してみようかってことになったの。わたしが言い出したのね。倦怠期だとか、そんなふうには思わなかったけど」

 「あら。グラタン、おいしそうね。わたしも頼もう」
 女は従業員を呼び、グラタンと電気ブランを三杯注文した。
 運ばれてきた電気ブランのうち二杯を、女はぼくの方に寄越した。予期していたことだったが、ぼくは怪訝な表情を作った。
 「あ、ごめんなさい。余計なことして。もうしないから」
 「いや。いただきます」
 「つまんない話聞かせちゃったから、お詫びのしるし。男の人は飲んでも、そういう話はしないのよね」
 「そうですか? 結構するんじゃないですか?」
 「そうなの? あなたも?」
 「しますよ。でも、女性に向ってはしないかな」
 「あら、どうして? おかしいわ。男の人って、そういうものなの?」
 「そんなことはないでしょう。ぼくはそうだと、言っただけ」
 女はしばらくして、「女ってつまんない」とぽつりと言った。何を指してそういったのか分らなかったが、ぼくは黙っていた。

 「一緒に暮している意味ってあるのかしら。わたしがそういうと、彼は、そっか? なんてとぼけた声を出していたけど、反対はしなかった。べつに部屋代節約のために一緒にいるんじゃないものね? そう言うと、ふーん、なんて間の抜けた声を出して‥‥」
 すこし酔いが回ってきたらしい。
 「あら、どうしたのかしら」
 声はしっかりしているのに、女はぼろぼろ涙をこぼしていた。


[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事