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「ここ、よろしいですか」と、女の声はぼくの方に向いているようだった。
「どーぞ」と、あまり愛想のよくない声を出して、顔を上げた。
「あ、先週も同席しましたね」
「うれしい。憶えていてくれたんですね」
「今日も、待合せですか?」
それに対して答えがなかったのは、従業員が食券を取りにきたせいかもしれない。
生ビールの小、電気ブラン一杯、ラビオリ、以上が女の注文である。このあいだもそうだった。
従業員が行ってしまっても、女は黙って、目をそらしていた。知らん顔をするのはぼくも得意である。
飲み物が運ばれてきて、生ビールにちょっと口をつけてから、女は言った。
「今日は、来ないかもしれない」
べつに興味はないのだ。ぼくは小さく頷いた。
「あの人、亭主なのよ」
「そう言ってましたね。別れた亭主と日曜日にデートだって」
「あら、そんなこと言ったの? 酔ってたのね。って、いつも来ると酔うんだけど」
別れた亭主と日曜日にこうやってデートをするのもしゃれているでしょうと、女は言い、土曜の夜じゃないんですかとぼくが言うと、土曜の夜はお互い楽しみがあるから、と男は笑って言ったのだった。
「まだ別れたわけじゃないの。というか別れるつもりはべつにないの、わたしは。ご飯作ったり、洗濯してアイロン掛けたり、もともと彼の世話をあんまりやるつもりはなかったのよね。彼もそれでいいって、文句を言わなかった。そうすると一緒にいるのはなんだろうと思って、ちょっとべつに暮してみようかってことになったの。わたしが言い出したのね。倦怠期だとか、そんなふうには思わなかったけど」
「あら。グラタン、おいしそうね。わたしも頼もう」
女は従業員を呼び、グラタンと電気ブランを三杯注文した。
運ばれてきた電気ブランのうち二杯を、女はぼくの方に寄越した。予期していたことだったが、ぼくは怪訝な表情を作った。
「あ、ごめんなさい。余計なことして。もうしないから」
「いや。いただきます」
「つまんない話聞かせちゃったから、お詫びのしるし。男の人は飲んでも、そういう話はしないのよね」
「そうですか? 結構するんじゃないですか?」
「そうなの? あなたも?」
「しますよ。でも、女性に向ってはしないかな」
「あら、どうして? おかしいわ。男の人って、そういうものなの?」
「そんなことはないでしょう。ぼくはそうだと、言っただけ」
女はしばらくして、「女ってつまんない」とぽつりと言った。何を指してそういったのか分らなかったが、ぼくは黙っていた。
「一緒に暮している意味ってあるのかしら。わたしがそういうと、彼は、そっか? なんてとぼけた声を出していたけど、反対はしなかった。べつに部屋代節約のために一緒にいるんじゃないものね? そう言うと、ふーん、なんて間の抜けた声を出して‥‥」
すこし酔いが回ってきたらしい。
「あら、どうしたのかしら」
声はしっかりしているのに、女はぼろぼろ涙をこぼしていた。
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